第21話 漣の底
言葉は、いつも正確とは限りません。
「冷たい」と口にした瞬間から、漣はたぶん、別の何かを探していました。
秋の図書室で交わされるのは、答えではなく、確かめるための会話です。
翌々日、漣が来た。
引き戸が枠の端まで開ききった。
足音が入ってきた。
一つ奥のテーブルへ向かった。
椅子を引いた。
シャープペンシルを出した。
「よ」と漣は言った。
「来たの」と志乃は言った。
陽葵は今日来ていなかった。
志乃だけが窓際にいた。
漣はノートを開かなかった。
シャープペンシルをテーブルの上に置いた。
窓の外を見た。
松林の方向だった。
志乃は百十一ページを読んでいた。
しばらく、何もなかった。
「青凪祭」と漣は言った。
「なに?」
「見てた?」と漣は言った。「第二実習室のこと、後で聞いた」
「いたよ」と志乃は言った。
漣は何も言わなかった。
「陽葵から聞いたの?」と志乃は言った。
「うん」と漣は言った。「なんか、志乃が来てたって」
志乃はページを一行読んだ。
「それで?」と志乃は言った。
「それで、って言われると」と漣は言った。「別にそれだけなんだけど」
頭をかきつつ、シャープペンシルを手に取った。
テーブルを一回叩いた。
また置いた。
「俺さ」と漣は言った。
「なに?」
「体育館裏で、冷たいって言ったじゃん」
「言ったね」と志乃は言った。
「あれ、間違いだったかもしれない」
志乃はページを読んだ。
「間違いとはどういうこと?」
「冷たいんじゃなくて」と漣は言った。「なんか、別の言葉があった気がする」
「別の言葉?」
「うまく言えないけど」と漣は言った。「冷たいって言ったとき、違うなって思いながら言ってた」
志乃は百十一ページを読み終えた。百十二ページをめくった。
「冷たい、で合っているかもしれない」と志乃は言った。
「え?」
「温度が低いという意味なら」と志乃は言った。「合っている」
「そういう意味じゃない」と漣は言った。「違うんだ。責めてたわけじゃなかった」
「知っている」と志乃は言った。
漣は少しの間、黙った。
「……知ってたの」
「声の温度で分かった」と志乃は言った。「責める声ではなかった」
漣がシャープペンシルを手に取った。テーブルを叩かなかった。
持ったまま、窓の外を見た。
「じゃあ何の言葉だったんだろうな」と漣は言った。独り言のように言った。
「見ていた言葉だと思う」と志乃は言った。
「見てた?」
「確認していた。そういう人なのかという確認を、声に出していた」
漣は何も言わなかった。
しばらく、松林の方向を見ていた。
葉の茶色と黄みが、低い光の中で混ざっていた。
揺れていなかった。
「そういう人、って」と漣は言った。「どういう人」
「漣が確認したかったことよ。」と志乃は言った。「私には答えられない」
漣はシャープペンシルをノートの上に置いた。
ノートを開いた。
何かを書いた。
短かった。
また窓の外を見た。
「……俺さ」と漣は言った。「ここ来るの、好きだわ」
「来ればいいのよ」と志乃は言った。
「そう、来てる」と漣は言った。
それだけだった。
漣はノートに書いた。
今度は長く書いた。
シャープペンシルが紙の上で滑り、止まらなかった。
志乃は百十二ページを読んだ。
右手の指が、ページを押さえていた。
紙の繊維が逃げる程度の力だった。
窓の外の光が、また少し傾いた。
松林の上の光が、茶色と黄みを均等に照らしていた。
揺れなかった。静止していた。
そこに、あった。
志乃は誰かを変えようとはしません。
ただ、来る者を拒まず、そこに座ることを許している。
その静けさの中で、陽葵も漣も、自分の言葉を少しずつ見つけていくのだと思います。




