表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
第6章 不純物の沈殿

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/27

第20話 翌日の光

青凪祭の喧騒のあとに残ったのは、劇的な変化ではなく、静かな温度でした。

誰かを救ったという物語ではなく、ただ「そこにいた」ことが、少しずつ形になっていく話です。

秋の終わりの図書室で、三人は今日も、それぞれの速度でページをめくります。

 青凪祭の翌日、図書室は静かだった。


 当然だった。

 祭りの翌日は静かになる。

 

 廊下を走る足音がなかった。

 マイクのハウリングがなかった。

 段ボールを引きずる音がなかった。

 昨日あったものが、今日はなかった。


 ただそれだけのことだった。


 志乃は百五ページにいた。


 窓の外の松林は、今日も静止していた。

 昨日の風が嘘のように、葉が動かなかった。

 光だけが、低い角度で松林の上を流れていた。


 ページをめくった。


 百六。


 廊下から声がした。

 一つだった。

 何かを言っていた。

 言葉の内容は届かなかった。

 遠ざかった。


 志乃は読んだ。


 昨日のことを考えた。


 考えた、というより、昨日のことが視野に入った。

 紙コップが三つあった。

 冷たかった。

 それを持ち上げたとき、底の温度が手のひらに移った。

 冷たかった。

 それだけだった。


「もう、いいよね」と言った。


 言った理由は、紙コップが冷めていたからだった。それだけだった。


 志乃はページを読んだ。


 百六ページの文字が、視野に入った。

 意味に変換された。

 一行、

 また一行。


 昨日の室内の温度を思い出した。

い出した、というより、温度の記憶が視野の端にあった。

 高い声が九十度を超えていた。

 低い声が七十度だった。

 紙コップを持ち上げたとき、室内の温度が一度、静止した。


 それが、昨日だった。


 それだけが、昨日だった。


 志乃は百七ページをめくった。


 ドアが開いた。


 途中で止まる開き方だった。

 かかとの足音が入ってきた。

 志乃のテーブルに向かってきた。

 椅子を引いた。


 陽葵は座った。


 鞄を肩から下ろした。

 テーブルの上に置いた。

 本は出さなかった。


 志乃は読んでいた。


「……志乃」と陽葵は言った。

「来たね」と志乃は言った。

「来ました」と陽葵は言った。


 声は低かった。

 笑いはなかった。

 低いまま、静かに、そこにあった。


 志乃はページを読んだ。


「昨日」と陽葵は言った。

「なに?」

「ありがとうございました」

「別に」と志乃は言った。


 陽葵はそれには、何も返さなかった。


 志乃はページを一行読んだ。


「紙コップが冷めていた」と志乃は言った。「それだけよ」


 陽葵が、短く息を吐いた。笑いの手前の、息だけの音だった。


「……そうですね」と陽葵は言った。「冷めてましたね」


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 陽葵の手が、テーブルの上に出てきた。

 鞄の横に置いた。

 木目の上に、ただ置いた。

 何もしなかった。


 志乃は百七ページを読んだ。


 百八ページをめくった。


 窓の外の光が、また少し傾いた。

 松林の上の光が、葉の茶色と黄みを混ぜていた。

 動いていなかった。

 光だけが流れていた。


「委員会、終わりました」と陽葵は言った。

「そう」と志乃は言った。

「終わったら来ればいいって言ってたから」

「そう、来ればいい」と志乃は言った。「今、来ている」

「来てます」と陽葵はそう言って笑った。


 それだけだった。


 陽葵は鞄から本を取り出した。

 端を揃えて置いた。

 栞を挟んだ方を開いた。

 読み始めた。


 最初は遅いリズムだった。


 少しずつ、速くなっていった。


 志乃は百八ページを読んだ。

 右手の指がページを押さえた。紙の繊維が逃げる程度の力だった。


 昨日の室内の温度が、また視野の端に浮かんだ。


 浮かんでから、沈んだ。


 水の底に、静かに落ちていくように。

 形を保ったまま、落ちた。

 インクの海の底へ。

 志乃はそれを見送った。


 見送ってから、百九ページをめくった。

志乃は最後まで、大きく変わりません。

けれど変わらないまま、誰かの隣に座ることを選び始めています。

冷めた紙コップも、止まった指先も、静かな図書室も——

その全部が、彼女たちなりの「関わる」という形だったのだと思いま

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ