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水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
第5章 嵐の文化祭

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第19話 祭りの底

 青凪祭の喧騒は、夕方になっても校舎に残っていた。

 けれど、騒がしさの中心から離れた松林の道には、もう静かな風だけが流れている。

 今日の終わりに残ったのは、いくつかの紙コップと、短い「ありがとう」だった。

 第二実習室を出たのは、四時を少し過ぎた頃だった。


 廊下に出ると、音が戻ってきた。


 体育館の方向から音楽が聞こえた。

 昇降口の方向から笑い声が来た。

 どこかの教室でマイクが鳴った。

 朝と同じ種類の音だった。

 音の量も、朝とほとんど変わらなかった。


 変わったのは光だった。


 廊下の窓から差す光が、朝より低くなっていた。

 床の上の光の帯が、昼より斜めになっていた。

 壁まで届いていた。


 志乃は歩いた。


 廊下を歩きながら、すれ違う人間の数を数えた。

 数えるつもりはなかった。

 でも、数えていた。十二人目で、やめた。


 階段を降りた。


 一階の廊下に、青凪祭の装飾があった。

 折り紙で作った鎖が天井から下がっていた。

 画用紙に書いたポスターが壁に貼られていた。

 端が少し剥がれていた。


 廊下を抜けると、中庭に出た。


 中庭には何人かの生徒がいた。

 十人か、二十人か。

 グループごとに固まっていた。

 笑い声があった。

 何かを食べていた。

 スマートフォンを向け合っていた。


 志乃は中庭の端を歩いた。


 固まりの外側を通った。


 固まりの中から、一度だけ声がかかった。

 志乃のクラスの誰かだった。

 顔は見なかった。「来ないの?」というお誘いの声だった。


「帰る」と志乃は言った。

「もったいない」と声は言った。


 志乃は歩いた。


 中庭を抜けた。

 校舎の角を曲がると、昇降口があった。

 靴を履き替えた。

 靴箱の上に、誰かが忘れたパンフレットが一枚あった。

 青凪祭のプログラムだった。

 折り目がついていた。


 拾わなかった。


 外に出た。


 潮の混じった風が来た。

 目を細めなかった。


 校門に向かって歩いた。

 校門の手前で、一度だけ振り返った。

 校舎の窓に、光が当たっていた。

 三階の窓が橙に光っていた。

 第二実習室のある方向だった。


 なかを見ることはできなかった。


 志乃は前を向いた。


 校門を出た。松林の細道に入った。


 松の幹の間に、今日の最後の光が縞になって落ちていた。

 光の縞は細かった。

 木の葉が風に揺れるたびに、縞が揺れた。

 揺れてから戻った。


 志乃は歩いた。


 光の縞の上も、影の部分も、同じ速度で歩いた。


 途中で、足音が後ろから来た。

 速い足音だった。

 そして追いつくと、志乃の二歩後ろで止まった。


「志乃」と陽葵は言った。


 志乃は止まらなかった。


「ありがとう」と陽葵は言った。


 歩きながら聞いた。


「また、言ってる」と志乃は言った。

「言いたいから言うの」

「それなら......」

「それなら、何」

「なら、いい」


 陽葵の足音が、志乃の速度に合わせた。

 二歩後ろから、一歩後ろになった。

 並ぶ手前で止まった。

 その距離を保って、歩いた。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 松林の奥で、鳥が一度だけ鳴いた。

 続かなかった。


「......今日、どうだった」と陽葵は言った。

「紙コップが三つあった」と志乃は言った。


 陽葵が何か言いかけた。

 言わなかった。


 かわりに、短く笑った。

 声の出ない笑い方だった。

 息だけが、松林の空気に混じった。


 松林が終わった。


 道が二つに分かれていた。

 海沿いの道と、住宅地の方向に続く道だった。


「こっちだから」と陽葵は言った。海沿いの方を指した。


 志乃はうなずかなかった。


「じゃあ」と志乃は言った。


「うん」と陽葵は言った。「またね」


「また」


 道が分かれた。


 志乃は住宅地の方向に歩いた。

 後ろを振り返らなかった。

 海沿いの道から、風が来た。

 潮の匂いだった。

 横から来た風だったから、目を細めなかった。


 歩き続けた。


 光の最後の残滓が、遠くの屋根の上に残っていた。

 志乃はそれを一度だけ見た。見てから、前を向いた。


 家路を歩いた。

 並ばないまま、少し後ろを歩く。

 その距離は、遠いようで、前よりずっと近かった。

 十一月の終わりの光が、二人の帰り道を静かに分けていた。

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