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水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
第5章 嵐の文化祭

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第18話 もう、いいよね

 感情は、いつも言葉より先に温度を失う。

 青凪祭の喧騒の裏側で、張り詰めた空気と冷めた紙コップだけが、長い時間を語っていた。

 そして志乃は、その中心で、いつものように静かに座っている。

 声は戻った。戻ってから、前より大きくなった。


 高い声が、机を指で叩いた。

 一回ではなかった。

 三回、続けて叩いた。

 低い声が、それに重なった。

 途切れ途切れの声——陽葵の声——が、二つの間に割って入ろうとした。

 言葉の形になる前に、高い声が引き取った。


 志乃は文庫本を膝の上に置いたまま、室内を見ていた。


 六人の輪郭を見ていた。

 顔は見なかった。

 肩の高さと、

 手の位置と、

 椅子の座り方を見ていた。


 高い声の人間は、椅子の前半分にしか座っていなかった。

 低い声の人間は、両腕をテーブルに乗せていた。

 陽葵は、背もたれに触れていなかった。


 机の上に、紙コップが三つあった。


 湯気は出ていなかった。

 すっかり冷めていた。

 室内の空気と真逆に。

 

 どれだけ前から置かれていたか、志乃には判断できなかった。

 ただ、湯気がなかった。


「それは去年の話でしょ」と高い声が言った。

「去年と今年で何が変わったの」と低い声が言った。

「変わってるから言ってる」

「どこが」

「だから——」

「だからって何が」


 陽葵が口を開いた。「ちょっと」と言いかけた。


「ちょっと待って」と高い声が言った。陽葵に言ったのではなかった。


 低い声の主に言っていた。


 陽葵の口が閉じた。


 志乃は紙コップを見ていた。


 三つ。

 並び方は均等ではなかった。

 一つは机の端に近かった。

 一つは中央にあった。

 一つは、最初から誰のものでもないような位置にあった。


 高い声の主がまた机を叩いた。

 今度は一回だった。


 低い声の生徒が立ち上がった。

 椅子が後ろに引かれた。

 床との間で摩擦の音がした。


 全員が、立ち上がった人間を見た。


 志乃も見た。


 立ち上がった人間は、何も言わなかった。

 言いかけて、やめた。

 やめてから、また椅子に座った。

 椅子が前に戻る音がした。


 それから誰も言わなかった。


 言葉の代わりに、呼吸があった。

 六人分の呼吸が、室内に重なっていた。

 均等ではなかった。


 陽葵の手が、机の端で動いていた。

 押す。

 引く。

 押す。

 木目の上の、小さな往復だった。


 志乃は立ち上がった。


 椅子を引いた。


 床と椅子の脚の間で、音がした。

 最初の椅子より、長く、低い音だった。


 全員が志乃を、見た。


 視線を一斉に浴びながら、志乃は六人の配置の外側から、机に向かって歩いた。

 中央の紙コップの前で止まった。

 紙コップを一つ、持ち上げた。

 底の温度が、手のひらに移った。


 冷たかった。


 志乃は紙コップを机に戻した。


 全員が見ていた。


「……もう、いいよね」と志乃は言った。「冷めるから」


 誰も言わなかった。


 志乃は中央の紙コップから、右の紙コップに視線を動かした。

 それから左の紙コップに動かした。

 三つとも、湯気が出ていなかった。


 高い声の生徒の肩が、一センチ下がった。


 低い声の生徒の腕が、机から離れた。


 陽葵の手が、木目の上で止まった。


 誰かが、短く息を吐いた。

 どの六人かは、志乃には判断できなかった。


「飲むなら今だ」と志乃は言った。「飲まないなら、捨てた方がいい」


 それだけだった。


 志乃は机から離れた。

 元の椅子に戻った。

 椅子を引いて、ふたたび座り直した。

 文庫本を膝の上に置いた。


 開いた。


 百四ページだった。


 室内は静かだった。

 静かになってから、少し経って、誰かが紙コップを手に取る音がした。

 一つ。

 それから二つ目。

 三つ目は、

 しばらく間があってから動いた。


 飲む音がした。


 志乃は百四ページを読んだ。


 一行目から読んで、意味が通った。

 「飲むなら今だ。飲まないなら、捨てた方がいい」

 志乃の言葉は、答えではなく区切りだった。

 止まり続けていた時間が、そこで少しだけ動き出す。

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