第17話 熱の解剖
十一月。青凪祭当日。
校舎は音で満ち、誰もが何かに追われていた。
その騒がしさの中で、志乃は初めて、自分から図書室の外へ呼び出される。
十一月の青凪祭は、朝から音が多かった。
廊下を走る足音。
マイクのハウリング。
体育館の方向から、低い周波数の音楽が壁を通り抜けてきた。
昇降口では誰かが段ボールを引きずっていた。
声が重なっていた。
笑い声と怒声と指示の声が、区別なく廊下に溶けていた。
志乃は階段の踊り場にいた。
窓の外に海が見えた。
今日の海は光を乱反射していた。
波がなかった。
光だけが動いていた。
廊下の音が一つ増えた。
走ってくる足音が、踊り場の前で止まった。
「志乃」と陽葵は言った。息が上がっていた。「ちょうどよかった」
志乃は窓の外を見ていた。
「第二実習室、来てもらえる? 今すぐ」
「理由は?」
「説明が長くなる」
志乃は海を見た。
波がないまま、光だけが動いていた。
「五分待って」と志乃は言った。
「五分も——」
「五分待って」
指が白くなるほど握った。
陽葵は待った。
踊り場の端に立って、手すりを握った。
廊下の音は続いていた。
どこかで段ボールが倒れた音がした。
複数の声が上がった。
五分、志乃は窓の外を見ていた。
波はなかった。
「行こう」と志乃は言った。
* * *
第二実習室は三階の端にあった。
ドアの前から、声が聞こえた。
複数だった。
一つは高く、
一つは低く、
一つは途切れ途切れだった。
途切れ途切れの声が、陽葵のものに近かった。
陽葵がドアノブに手をかけた。
一秒、躊躇った。
志乃はドアの向こうの声を聞いた。
言葉の中身は聞かなかった。
温度だけを聞いた。
高い声は九十度を超えていた。
低い声は七十度だった。
途切れ途切れの声は、測れなかった。
陽葵がドアを開けた。
室内は六人だった。
長机を向かい合わせに並べた配置で、三人と三人に分かれていた。
壁に貼られた模造紙が数枚、端が剥がれかけていた。
ホワイトボードに、打ち消し線が引かれた文字が並んでいた。
全員が、ドアの方向に視線を向けた。
陽葵が入ってきたことを認識した。
そして陽葵の後ろに、志乃がいることを認識した。
一秒の沈黙があった。
「......誰?」と誰かが言った。
陽葵が答える前に、志乃は室内を見た。
長机の端に、使われていない椅子が一脚あった。
六人の配置から外れた位置にあった。
志乃はそこに歩いた。
椅子を引いた。
音がした。
床と椅子の脚の間で、ゴムが一度だけ鳴いた。
全員が、志乃を見た。
志乃は座った。
長机には近づかなかった。
六人の配置の外側で、ただ座った。
文庫本を膝の上に置いた。
でも、開かなかった。
「......誰なの?」と別の声が言った。
「関係ない人」と志乃は言った。
「じゃあなんで」
「陽葵が来てほしいと言ったから」
室内の温度が、一度だけ下がった。
上がってからまた下がる種類ではなかった。
このひと言で、ただ一度、全員が静止した。
それから、また声が戻った。
志乃は膝の上の文庫本を見ていた。
でも、開かなかった。
「陽葵が来てほしいと言ったから」
志乃にとって、それは十分すぎる理由だった。
静かなまま座るその存在が、張り詰めた空気を少しだけ変えていく。




