第八章 神の炉
献身祭の朝、アルメリアには花の匂いが満ちていた。
夜明け前から、市民たちは通りに出ていた。窓辺には白布が垂らされ、石畳には水が撒かれ、神殿へ続く大通りには赤、白、黄色の花びらが敷き詰められている。パン屋は早くから窯に火を入れ、広場では楽師たちが調弦を始めていた。子どもたちは母親に手を引かれ、よそ行きの服を着て笑っている。
祭りだった。
どこから見ても、祝福の朝だった。
セラは神殿の控え室で、その音を聞いていた。
窓はない。外は見えない。けれど、壁越しに鐘の音が響き、人々のざわめきが波のように伝わってくる。ときおり、歌声も聞こえた。
――徳ある魂よ、剣となれ。
――清き命よ、盾となれ。
――一人の死は、万の朝を守る。
セラは寝台の端に座り、両手を膝の上で握っていた。
白い献身衣を着せられている。
昨日の夜、神官たちが部屋へ来て、儀式用の衣を置いていった。拒んでも無駄だった。暴れれば、拘束される。叫べば、取り乱した聖女候補として薬を飲まされる。そう判断し、セラは黙って袖を通した。
衣は軽かった。
まるで死ぬ者に重さなど必要ないと言わんばかりに。
胸元には金糸で神の眼が刺繍されている。腰には白い紐。髪は結われ、花冠も用意されていた。鏡に映った自分は、神殿が望む聖女候補そのものだった。
恐怖を隠し、微笑み、世界のために命を捧げる少女。
セラは鏡を見て、静かに思った。
この顔を、壊さなければならない。
扉の向こうで足音が止まった。
「セラ様」
オルダンの声だった。
「お支度はよろしいでしょうか」
セラは短剣の位置を確かめた。献身衣の内側、腰紐の裏に縫い込んである。昨日の夜、寝具の縫い糸を解き、短剣を隠すための布を作った。神官たちは身体検査をしたが、聖女候補の衣を乱すことには慎重だった。白い布と祈りの形式に守られた、小さな刃。
選択肢は、まだある。
「はい」
セラは答えた。
扉が開いた。
オルダンの後ろには、神官兵が四人。さらに二人の修道女が花冠を持っている。彼女たちはセラを見ると、安堵したように微笑んだ。
「お美しいです」
一人が言った。
「神に愛されたお姿です」
セラは何も言わなかった。
花冠が頭に載せられる。小さな白い花だった。神殿の庭に咲いていた花に似ている。弱そうで、けれど簡単には散らない花。
リリィのことを思い出した。
昨夜、セラはもう一度だけリリィに会うことを許された。神官の監視付きだったが、それでも顔を見ることはできた。リリィは別の控え室に移されていた。献身者ではなく、補助聖女候補として式に立ち会うことになったという。
神殿は、約束を守ったように見せた。
リリィは殺されない。
ただし、セラが儀式を受け入れるなら。
「セラ姉さま」
リリィは泣いていた。
「私のせいで」
「違う」
セラは彼女の手を握った。
「リリィは何も悪くない」
「でも」
「私は死なない」
監視の神官が眉を動かした。
セラはそのまま続けた。
「だから、リリィも死なないで」
リリィは意味が分からないという顔をした。無理もない。儀式は明日。セラは献身者として選ばれている。どう考えても逃げ場はない。
だが、リリィはうなずいた。
「待ってる」
その言葉だけで、セラはもう一度立てると思った。
オルダンが一礼した。
「参りましょう」
セラは控え室を出た。
回廊には、花びらが撒かれていた。白い石床に赤い花弁が落ちている。踏むたびに、柔らかな音がした。神官兵たちは両側を固め、修道女たちは祈りの歌を小さく唱えている。
大礼拝堂へ続く扉の前で、ラギス神官長が待っていた。
彼はセラの姿を見ると、満足げに頷いた。
「よいお顔です」
「そうでしょうか」
「迷いが消えたように見えます」
「はい」
セラは静かに答えた。
「消えました」
ラギスは微笑んだ。
彼は、その意味を取り違えた。
扉が開く。
眩しい光が差し込んだ。
大礼拝堂には、すでに多くの人々が集まっていた。神官、貴族、市民代表、勇者候補、献身者の遺族。そして神殿の外へ続く大階段の先には、さらに無数の市民がいる。礼拝堂の正面扉は開け放たれ、セラの姿が広場からも見えるようになっていた。
歓声が上がった。
「セラ様!」
「お戻りになられた!」
「尊き聖女候補に祝福を!」
花びらが舞う。
拍手が起きる。
セラは歩いた。
足が震えそうになるたび、ライガの言葉を思い出した。
泣くな。震えるな。いや、震えながらでも立て。
彼はどこにいるのだろう。
神殿の中か、外か、屋根の上か、地下への入口を探しているのか。
分からない。
だが、来る。
その確信だけがあった。
礼拝堂の中央には、白い祭壇があった。
その奥に、勇者グラムが立っていた。
大柄な体に銀の鎧。肩には斧剣。彼はセラを見ると、口元を歪めた。市民の前だからか、昨日ほど露骨な言葉は吐かなかった。だが目は同じだった。食材を見る目。経験値を見る目。
祭壇のさらに奥には、大司教ヴァルドがいた。
セラは初めて彼を間近で見た。
老人だった。
年齢は七十を超えているだろう。だが背筋は伸び、肌には年齢に不釣り合いな艶があった。白い法衣は足元まで垂れ、胸元には巨大な聖印が輝いている。顔には穏やかな皺が刻まれ、目は深い湖のように静かだった。
この男が、勇者制度の頂点にいる。
善人の魂を神具へ流し、アルメリアを支え、世界を支えるという名で人々を殺し続けてきた。
ヴァルドはセラを見て、ゆっくりと頷いた。
「よく戻りました、セラ」
声はよく通った。
礼拝堂の奥まで響くのに、耳に痛くない。聴く者を安心させる声だった。
「あなたの迷い、恐れ、苦しみ。そのすべてを、神はご存じです」
セラは無言で立っていた。
「人は死を恐れます。それは罪ではありません。ですが、恐れを越えて誰かのために自らを差し出すとき、人はただの人を超える。あなたは今日、その尊き境地へ至るのです」
拍手が起きた。
市民たちは涙を流している。
セラは彼らを見た。
悪人ばかりではない。
むしろ、多くは普通の人々だろう。家族を愛し、日々の暮らしを守り、神殿に感謝し、供物の死に涙する。涙しながら、その死に支えられた水を飲み、聖水を使い、結界の内側で眠る。
彼らもまた、制度の一部だった。
だが、彼らを斬れば終わるわけではない。
斬るべきものは、もっと深いところにある。
ヴァルドが両手を広げた。
「セラ。あなたは自らの意思で、世界のために献身することを誓いますか」
礼拝堂が静まり返った。
セラは祭壇の前に立った。
この問いに、「はい」と答えれば儀式は進む。
かつての自分なら、そう答えただろう。
いや、答えさせられていただろう。
セラは口を開いた。
「いいえ」
静かな声だった。
だが、礼拝堂全体に届いた。
空気が止まる。
ラギスが息を呑んだ。オルダンが顔色を変えた。グラムは眉を上げた。市民たちは、何を聞いたのか理解できないようにざわめいた。
ヴァルドだけは、すぐには表情を変えなかった。
「恐れが出ましたか」
「違います」
セラは前を見た。
「私は、世界のために死ぬことを誓いません」
ざわめきが大きくなる。
神官兵が動こうとしたが、ヴァルドが手で制した。
「では、何を誓うのです」
「私は、誰かを供物にしない世界を探します」
礼拝堂の外で、どよめきが広がった。
セラは続けた。
「マルタ・リーンは、死にたいとは言いませんでした。ノアという少年は、善かったから殺されました。勇者ミリアは、殺した者の名を覚え続け、最後には神殿の命に背いて死にました。リリィは十歳です。怖いと言うことすら許されず、笑う練習をさせられました」
ラギスが叫んだ。
「黙りなさい!」
セラは止まらなかった。
「献身という言葉で、人の死を飾らないでください。供物という言葉で、人の名前を消さないでください。私たちは、燃料ではありません」
市民たちのざわめきが、騒ぎへ変わっていく。
誰かが怒鳴った。
「神殿への侮辱だ!」
別の誰かが泣きながら言った。
「でも、あの子は……」
混乱が広がる。
グラムが斧剣を握った。
「茶番は終わりでいいか」
ヴァルドはゆっくりと息を吐いた。
「セラ」
その声は変わらず穏やかだった。
「あなたは知らなすぎる」
「知るために戻りました」
「いいでしょう」
ヴァルドは微笑んだ。
「ならば、見せましょう。この都市が何によって守られているのかを」
彼が祭壇に手を置いた。
白い石の表面に、金色の紋様が浮かび上がる。
礼拝堂全体が震えた。
セラの足元から、低い音が響いた。石床の下に巨大な歯車があるような音。空気が重くなり、胸が圧迫される。祭壇の奥の床がゆっくりと開いた。
地下へ続く階段が現れる。
市民たちから悲鳴が上がった。
通常、地下神域は公開されない。神官と勇者、そして儀式に関わる者だけが入れる場所だ。だがヴァルドは扉を開いた。おそらく、セラを黙らせるために。
見せることで、屈服させる。
これほどの仕組みに支えられているのだと理解させれば、彼女は言葉を失うと考えたのだろう。
「来なさい」
ヴァルドは言った。
「あなたの問いに、神の炉がお答えします」
セラは階段を見た。
胸元の短剣が冷たい。
地下へ行ける。
それは、望んでいたことだった。
だが同時に、罠でもある。
グラムが横に立った。
「逃げるなよ、上物」
セラは彼を見なかった。
階段を下りる。
ヴァルド、ラギス、グラム、神官兵たちが続く。礼拝堂の市民たちは入れない。だが床の開口部から、地下の光は上まで漏れていた。
階段は長かった。
降りるほど、空気が熱くなる。
香の匂いは消え、代わりに金属と焦げた何かの匂いが濃くなった。セラは喉の奥が痛くなるのを感じた。
やがて、巨大な空間へ出た。
そこに、神の炉があった。
言葉を失った。
地下神域は、都市の下に広がる空洞だった。天井は高く、いくつもの柱が闇へ伸びている。中央には巨大な炉が鎮座していた。炉と言っても、普通の火を燃やすものではない。白い石と黒い金属で作られた球状の装置。その周囲には幾重にも管が伸び、壁や床へ張り巡らされている。管の中を、青白い光が流れていた。
それは血管のようだった。
都市の地下に張り巡らされた、巨大な血管。
そして光の中に、声があった。
かすかな声。
祈りのようにも、呻きのようにも聞こえる。
セラは耳を塞ぎそうになった。
「これは」
「神の炉です」
ヴァルドは誇らしげに言った。
「徳ある魂を力へ変換し、結界を維持し、聖水を生み、勇者へ祝福を与える。アルメリアだけではありません。周辺の村々も、街道も、治療院も、すべてこの炉によって守られている」
セラは炉を見つめた。
美しくはなかった。
それは怪物だった。
ただし、都市の人々には見えない場所に隠された怪物。
グラムは退屈そうに炉を見ていた。
「何度見ても気持ち悪いな。だが、こいつのおかげで俺らは強くなる」
ヴァルドは彼を無視した。
「セラ。あなたは、供物を否定しました。では問います。この炉を止めればどうなるか」
壁の一部が光り、地図のようなものが浮かび上がった。
アルメリアを中心とした結界網。
そこから無数の線が周辺地域へ伸びている。
「炉が止まれば、結界は崩れる。北の森に残る魔物が流れ込む。山間の村は守りを失う。治療院の聖水も枯れる。疫病対策も止まる。飢えた者への配給も減る」
ヴァルドはセラを見た。
「あなたは、それでも供物を否定しますか」
セラは答えられなかった。
その沈黙を、ヴァルドは逃さなかった。
「あなたは優しい。だから苦しむ。リリィを救いたい。マルタを悼みたい。ミリアを忘れたくない。その感情は尊い。ですが、統治は感情ではできません」
彼は炉へ向き直った。
「善人は、ただ生きているだけでは世界を変えられないことがあります。だが燃料になれば、国を守れる」
「それは」
セラは声を絞り出した。
「尊敬ではありません」
ヴァルドが振り返る。
「何ですか」
「所有です」
地下神域が静まり返った。
炉の中の声だけが、かすかに響く。
「あなたたちは善人を尊いと言いながら、最も都合よく使っているだけです。死ねば力になるから。逆らわないから。誰かのためと言えば頷くから」
「その頷きによって、多くが救われる」
「頷かせているのです」
セラの声は震えていた。
だが、言葉は折れなかった。
「怖いと言わせない。死にたくないと言わせない。逃げれば誰かが代わりに死ぬと言う。そうやって、選択肢を奪っている」
ヴァルドの目が、初めて冷えた。
「では、あなたが選びなさい」
彼は手を上げた。
神官兵がリリィを連れてきた。
セラの心臓が止まりそうになった。
「リリィ!」
リリィは両手を縛られていた。口には布を噛まされている。目は涙で濡れていた。
セラは駆け寄ろうとしたが、グラムが前に出て斧剣で道を塞いだ。
「動くな」
グラムが笑った。
ヴァルドは淡々と告げた。
「炉を維持するためには、今日、徳ある魂が必要です。本来ならあなたが最善だった。ですが、あなたが拒むなら、代替はあります」
「やめてください」
「あなたが献身を受け入れれば、リリィは生きる」
ヴァルドは続けた。
「あなたが拒めば、リリィが炉へ入る」
セラの呼吸が乱れた。
これだ。
神殿の二択。
自分が死ぬか、誰かが死ぬか。
ずっと突きつけられてきたもの。
形を変えながら、いつも同じ場所へ戻る。
セラは短剣に手を伸ばそうとした。
だが、グラムの目がそれを捉えていた。
「おっと」
彼はセラの手首を掴んだ。
短剣が床に落ちる。
「隠し持ってたのか。聖女候補もやるねえ」
グラムは短剣を拾い、笑った。
「こんなので何をするつもりだった?」
セラは歯を食いしばった。
ヴァルドは残念そうに首を振った。
「外の悪人に染まりましたね」
そのときだった。
地下神域の上方で、爆発音がした。
石片が降り注ぐ。
神官兵たちが一斉に振り返った。
天井近くの保守通路から、黒い影が落ちてきた。
ライガだった。
着地と同時に、彼は最も近い神官兵の膝を蹴り砕き、槍を奪って別の兵へ投げた。槍は肩口に刺さり、兵は倒れる。殺してはいない。だが戦闘不能だった。
「悪い」
ライガはセラを見た。
「道に迷った」
セラの目に涙が浮かびそうになった。
「遅いです」
「神殿が無駄に広い」
グラムが笑った。
「お前が勇者殺しか」
「お前が餌の勇者か」
「あ?」
「善人を餌と呼んだんだろ」
ライガの声が低くなる。
「殺す理由としては十分だ」
グラムは斧剣を構えた。
「面白い。低レベルの悪人が俺を殺せると思うか」
「思わない」
ライガは剣を抜いた。
「だから殺し方を考えてきた」
グラムが地を蹴った。
速い。
巨体からは想像できない速度だった。斧剣が横薙ぎに走り、柱の一部を削り飛ばす。ライガは紙一重で避けた。避けた場所に、さらに追撃が来る。力も速さも、レオンやミリアとは違う。雑に見えて、単純に強い。
「ほら、どうした!」
グラムは笑った。
「勇者を殺すんだろ!」
ライガは答えない。
逃げるように見える動きで、炉の周囲を回る。
グラムはそれを追う。
セラはリリィの方へ走ろうとした。だがヴァルドが立ちはだかる。
「動いてはいけません」
「リリィを離してください」
「あなたが選べばいいのです」
「選びません」
「ならば、あの子が」
「違います」
セラはヴァルドを睨んだ。
「その選択肢を作ったのは、あなたです」
ヴァルドの表情がわずかに変わった。
ライガの声が響いた。
「どっちも選ばねえ」
グラムの斧剣を避けながら、彼は叫んだ。
「ひとりの善人か、大勢の命か。そんな二択を作ったやつを殺す」
ヴァルドは冷ややかに言った。
「私を殺しても炉は止まりません」
「知ってる」
「では、何を」
ライガは炉の外周にある黒い管へ目を向けた。
老人の設計断片。
セラの紙。
神殿の構造。
この数日、彼は外側から神殿を探っていた。水路、排気口、神官兵の巡回、聖水の搬出口。炉へ通じる通路は見つけられなかったが、炉から出ている管の一部は外へ伸びていた。だから爆薬を仕込んだ。小さなものを、いくつも。
壊すのではない。
流れを乱す。
セラが持っていた設計断片にあった言葉。
徳流の逆転。
炉は魂を吸い上げ、経験値へ変える。
ならば、その流れを一瞬でも逆へ向ける。
そのためには、中枢に剣を突き立てる必要がある。
だが中枢には徳値の高い者か、勇者の祝福を受けた者しか入れない。
ライガは徳値が低い。
だから、正面からは入れない。
だが勇者の血を浴びた剣なら、炉は誤認する可能性がある。
老人はそう言った。
可能性だ。
確信ではない。
賭けにしては、ひどく雑だった。
だがライガは、そういうものには慣れていた。
グラムが斧剣を振り下ろす。
ライガは避けなかった。
剣で受ける。
衝撃で膝が沈む。腕に激痛が走る。グラムは笑った。
「受けたな、馬鹿が!」
「そうだな」
ライガは血の混じった息を吐いた。
「馬鹿はお互いさまだ」
彼は左手で、グラムの鎧の隙間へ短い刃を突き立てた。
さきほど床に落ち、グラムが拾った短剣。
ライガは戦闘中にそれを奪っていた。
深くはない。
致命傷でもない。
だが血が出た。
勇者グラムの血が、ライガの剣に落ちる。
炉が反応した。
青白い光が一瞬、黒く揺らいだ。
ヴァルドの顔色が変わる。
「まさか」
ライガはグラムの腹を蹴り、距離を取った。
そして炉の中枢へ走った。
「止めろ!」
ヴァルドが叫んだ。
神官兵が動く。
だがセラがリリィへ向かって走った。グラムから奪い返した短剣を拾い、リリィの縄を切る。リリィは泣きながらセラにしがみついた。
「走って!」
「セラ姉さま!」
「走るの!」
セラはリリィを保守通路の方へ押した。
その間にも、ライガは炉の中枢へ向かう。
黒い金属の扉があった。
通常なら開かない。
だが、グラムの血を浴びた剣を近づけると、扉の紋様が歪んだ。
炉が勇者の祝福と誤認している。
ライガは笑った。
「馬鹿な神具だ」
扉が開く。
中から、熱と声が噴き出した。
無数の声。
祈り。
悲鳴。
感謝の言葉。
助けてという声。
死にたくないという声。
笑わなければならなかった者たちの、押し殺された声。
ライガは一瞬、足を止めた。
その中に、ノアの声を聞いた気がした。
大丈夫だよ。
彼は奥歯を噛んだ。
「うるせえ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
背後でグラムが立ち上がる。
「逃がすか!」
だがセラが叫んだ。
「ライガさん!」
ライガは振り返らない。
「リリィを連れて行け!」
「あなたは!」
「善人を死なせないために、悪人が一人燃えるだけだ」
彼は少しだけ笑った。
「いつもより、ずっとましだろ」
セラの顔が歪んだ。
「そんなことを言わないでください!」
ライガは中枢へ入った。
扉が閉まりかける。
セラはリリィを抱きしめながら、その隙間へ向かって叫んだ。
「戻ってこいって言ったのは、あなたです!」
扉が止まった。
ほんの一瞬。
ライガの背中が見えた。
彼は振り返らなかった。
ただ、短く言った。
「覚えてる」
扉が閉じた。
炉が唸りを上げる。
地下神域全体が震えた。
青白い光が黒く反転し始める。
ヴァルドが叫んだ。
「止めろ! 炉の逆流を止めろ!」
神官たちが制御台へ走る。
グラムが中枢扉へ突進する。
しかし扉は開かない。
炉の中で、何かが変わり始めていた。
セラはリリィを抱え、崩れ落ちる石片の中を走った。
背後で、神の炉が初めて悲鳴のような音を上げた。
それは、人々を守ってきた装置の音ではなかった。
百年以上、善人の魂を燃やし続けてきた怪物が、初めて痛みを覚えた音だった。




