第七章 経験値を喰う勇者
神殿へ戻る道は、思っていたより短かった。
アルメリアの中央通りを抜けると、白い石段が現れる。その先に中央神殿があった。遠くから見たときには、空へ伸びる塔の一つにすぎなかった。だが近づくにつれ、その巨大さが分かってくる。見上げるほど高い柱。柱の表面に刻まれた祈りの文。壁面に浮き彫りにされた勇者と聖女。正面扉の上には、神の眼を模した金の紋章が掲げられている。
セラはその前で足を止めた。
ここは、何度も夢に見た場所だった。
聖女候補として十分な徳を積み、いずれこの都市へ移され、儀式の日を迎える。神殿の者たちは、そう語っていた。アルメリアの中央神殿で死ぬことは、聖女候補にとって最高の名誉だと教えられた。
昔のセラなら、この扉を前にして震えながらも膝をついたかもしれない。
だが今、彼女の膝は折れなかった。
怖くないわけではない。
むしろ、怖かった。
白い神殿は美しい。美しいからこそ、怖い。ここではきっと、人の死さえ美しく飾られる。叫び声は祈りに変えられ、涙は献身と呼ばれ、逃げたいという願いは未熟さとして諭される。
セラは胸元に隠した短剣の感触を確かめた。
ライガがくれたものだ。
人を刺すためではない。縄を切るため。布を裂くため。選択肢を増やすため。
その言葉を思い出すと、少しだけ呼吸が楽になった。
「何者です」
神殿の門衛が声をかけてきた。
白い外套の下に鎖帷子を着た男だった。手には槍を持ち、視線は鋭い。すでに逃亡聖女候補の手配は回っている。少しでも挙動を誤れば、その場で拘束されるだろう。
セラはフードを下ろした。
門衛の顔が変わった。
「セラ様……」
驚き。
安堵。
そして、獲物が戻ってきたことへの緊張。
その三つが、彼の表情に浮かんだ。
セラは静かに言った。
「神の導きにより、戻りました。神官長にお伝えください」
声は震えなかった。
門衛は一瞬迷い、すぐに片膝をついた。
「お待ちください。すぐに」
「リリィはどこですか」
門衛の動きが止まった。
「リリィ・ファナです。聖女候補として献身祭に選ばれているはずです」
「その件は、上位神官より説明が」
「私は、神官長に会うまでこの場を動きません」
セラは自分でも驚くほど落ち着いていた。
神殿で学んだ作法は、役に立った。相手の目を見ること。必要以上に声を荒げないこと。自分が神殿にとって価値のある存在だと理解したうえで話すこと。かつては死へ向かうための教育だったものが、今は生き延びるための武器になっている。
門衛は別の兵に目配せした。
やがて、正面扉が開いた。
中から現れたのは、年配の神官だった。
見覚えがあった。アルメリア中央神殿の儀典長、オルダン。セラが幼い頃に一度だけ地方神殿へ視察に来たことがある。柔らかな物腰と、感情の読めない目を持つ男だった。
「セラ様」
オルダンは深く頭を下げた。
「ご無事で何よりでございます。神官長より、あなた様を丁重にお迎えするよう申しつかっております」
「リリィはどこですか」
「まずはお体を休められては」
「リリィはどこですか」
同じ問いを繰り返す。
オルダンは顔を上げ、わずかに微笑んだ。
「リリィ様は、安全な場所におられます」
「献身者名簿に名前がありました」
「それは、あなた様がご不在だったための一時的な措置です」
「一時的?」
「ええ。あなた様がお戻りになった以上、神殿は最善の形で儀式を執り行うことができます」
最善の形。
その言葉が、セラの胸を冷たくした。
つまり、リリィではなく自分を使うという意味だ。
オルダンは穏やかに続けた。
「市民の間にも不安が広がっております。聖女候補が神のもとへ戻られたことは、アルメリア全体にとって大きな祝福となりましょう」
「私が戻れば、リリィは殺されませんか」
「殺されるなどと」
オルダンは悲しげに眉を寄せた。
「捧げられる、でございます」
「言い換えは不要です」
オルダンの微笑が、ほんの少しだけ硬くなった。
「旅の疲れが出ておられるようですね。どうぞ中へ」
セラは神殿の奥を見た。
白い床。
磨かれた柱。
香の匂い。
懐かしいはずのものが、すべて罠のように見えた。
それでも、進むしかなかった。
「リリィに会わせてください」
「手配いたしましょう」
オルダンは答えた。
だが、その言葉が約束ではなく、時間稼ぎであることをセラはもう理解していた。
神殿に入ると、すぐに両側へ神官兵がついた。護衛という名の監視だった。オルダンは丁寧に歩調を合わせ、長い回廊を進んでいく。壁には歴代の献身者の名を記した金板が並んでいた。
セラはその名を見ながら歩いた。
どれも美しい文字だった。
美しい文字で、死者が整列させられている。
「こちらでお待ちください」
案内されたのは、小さな客室だった。窓は高い位置にあり、外は見えにくい。扉の外には神官兵が立った。室内には寝台、机、水差し、果物。逃亡者を迎えるにしては、あまりにも丁寧だった。
セラは部屋に入ると、まず扉と窓を確認した。
扉は外から鍵をかけられる構造だ。窓は細く、人が通れる大きさではない。壁に隠し扉はなさそうだった。床の敷物の下も確認したいが、すぐに行えば怪しまれる。
彼女は椅子に座った。
心臓が速い。
ここから先は、一つ間違えれば終わる。
ライガは近くにいると言った。だが、神殿の中へは簡単に入れない。今、自分を守れるのは自分だけだ。
セラは深く息を吸った。
そのとき、扉の向こうで足音が止まった。
「セラ姉さま?」
小さな声。
セラは椅子を蹴るように立ち上がった。
「リリィ!」
扉が開いた。
白い献身衣を着たリリィが、神官に伴われて入ってきた。
顔は青白い。だが、怪我はしていない。セラは駆け寄り、リリィを抱きしめた。小さな体は震えていた。香の匂いと、少しだけ汗の匂いがした。
生きている。
それだけで、胸の奥が崩れそうになった。
「ごめんね、リリィ」
セラは囁いた。
「私のせいで」
「違うよ」
リリィは首を横に振った。
「セラ姉さまが逃げたって聞いて、私、嬉しかった」
セラは息を呑んだ。
「嬉しかった?」
「うん。だって、セラ姉さまも怖かったんだって分かったから」
その言葉は、セラの胸に深く刺さった。
リリィは、セラを完全な聖女だと思っていたのかもしれない。怖くても笑える人。死ぬことを本当に尊いと思える人。けれどセラが逃げたことで、彼女もまた恐れていたのだと知った。
それはリリィにとって、失望ではなく救いだったのだ。
「リリィは」
セラは彼女の肩を掴んだ。
「死にたい?」
リリィの目が揺れた。
答えはすぐには返ってこなかった。
神官が横から口を挟もうとする。
「リリィ様は、献身の意味を十分に」
「あなたには聞いていません」
セラは低く言った。
自分の声ではないようだった。
神官は口を閉ざした。
リリィは袖を握りしめた。献身祭の台車の上で見たのと同じ仕草だった。
「怖い」
彼女は小さく言った。
「でも、怖いって言ったら、悪い子になると思った」
「ならない」
セラは即座に言った。
「怖いと言っていい。死にたくないと言っていい。リリィは悪い子じゃない」
リリィの目に涙が溜まった。
「本当?」
「本当」
「でも、私が死ななかったら、誰かが死ぬって」
「その言葉で、私たちはずっと縛られてきた」
セラはリリィの手を握った。
「でも、それを決めたのは私たちじゃない。殺す側が作った選択肢なの。私たちが選ばされているだけ」
リリィはよく分からないという顔をした。
無理もなかった。十歳の子どもが理解するには、あまりにも大きすぎる。セラ自身も、まだ完全に分かっているわけではない。
それでも、伝えなければならなかった。
「私はリリィを死なせない」
「セラ姉さまは?」
「私も死なない」
言い切った瞬間、セラの胸に不思議な感覚が生まれた。
自分に言い聞かせるためではない。
リリィに安心させるためだけでもない。
初めて、本当にそうしたいと思った。
リリィも、自分も、死なない。
誰かの代わりに誰かが死ぬのではなく、殺す仕組みそのものを止める。
神官が咳払いをした。
「感動的な再会ではございますが、そろそろ」
「リリィをどこへ連れて行くのですか」
「リリィ様は儀式準備室へ。あなた様は神官長との面会がございます」
「一緒にいさせてください」
「それは許可されておりません」
「なぜですか」
「儀式の規定でございます」
便利な言葉だった。
規定。
神殿は、いつもそうだ。誰が決めたのか分からない規定があり、人はそれに従わされる。疑問を持てば、未熟だとされる。
リリィはセラの服を掴んだ。
「セラ姉さま」
セラは抱きしめ返した。
「大丈夫。必ず迎えに行く」
「本当?」
「本当」
神官がリリィを引き離した。
リリィは泣きそうな顔をしたが、声を上げなかった。叫んではいけないと教え込まれているのだ。セラはその顔を見て、怒りが体の奥で静かに燃えるのを感じた。
扉が閉まる。
鍵の音。
セラはその場に立ち尽くした。
短剣はまだ胸元にある。
だが、今ここで使っても意味がない。
リリィの居場所を突き止める必要がある。神具の場所も。献身祭の儀式手順も。
セラは机に向かった。
客室には筆記具が置かれている。神官長との面会まで、考えを整理するためのものだろう。あるいは、反省文を書かせるつもりかもしれない。
彼女は紙を一枚取り、祈りの文を書くふりをしながら、老人から聞いた神具設計断片の要点を思い出した。
神具の中枢へ入れるのは、徳値の高い者か、勇者の祝福を受けた者。
徳流を逆転させれば、蓄積された経験値を解放できる可能性がある。
だが、神具の位置は分からない。
アルメリア中央神殿の地下にあることだけは確かだ。
地下へ行くには、儀式当日の導線を使うしかないかもしれない。
そのとき、また扉が開いた。
オルダンが入ってきた。
「お待たせいたしました。神官長がお会いになります」
セラは立ち上がった。
「リリィは」
「安全です」
「その言葉を信用する理由がありません」
「では、信用していただける方に会わせましょう」
オルダンの微笑に、嫌な予感がした。
回廊を進み、階段を上がる。
神官長の部屋は中央塔の中腹にあった。大きな扉の前で、オルダンは一礼して下がった。セラは一人で中へ入った。
部屋は広く、窓からアルメリアの街が見渡せた。
神官長は、机の前に立っていた。
セラの育った地方神殿の神官長ではない。アルメリア中央神殿を統べる大司教ヴァルドに次ぐ高位神官、ラギス。痩せた男で、白髪を後ろへ撫でつけ、指にはいくつもの聖印指輪をはめていた。
彼はセラを見ると、穏やかに微笑んだ。
「よく戻りました、セラ」
その声に、セラの体が反射的に強張った。
叱責ではない。
優しさ。
それがかえって怖かった。
「あなたは迷っていただけです。神は迷える子を責めません」
「私は迷って戻ったのではありません」
「では、なぜ戻ったのです」
「リリィを死なせないためです」
ラギスは悲しげに目を伏せた。
「また死という言葉を使うのですね。外で悪しき者に何を吹き込まれたのですか」
「見たものを言っているだけです」
「見たものは、見方によって姿を変えます」
「マルタさんは殺されました」
「彼女は捧げられたのです」
「ミリア様は死にました」
「彼女は神に背いた結果、祝福を失いました」
「ノアは」
セラはそこで一瞬言葉を詰まらせた。
ラギスの目がわずかに動く。
「ノア?」
セラは続けなかった。
ライガから聞いた名を、神殿の前に簡単に置きたくなかった。
ラギスは椅子へ座るよう促した。
「セラ。あなたは優しい子です。だからこそ、苦しんでいるのでしょう。リリィを守りたい。その気持ちは尊い。ですが、世界は一人の感情だけでは守れません」
「世界とは、誰の世界ですか」
ラギスの手が止まった。
「どういう意味です」
「神殿が守っている世界ですか。貴族が長く生きる世界ですか。アルメリアの水路が綺麗な世界ですか。それとも、リリィが死ななくていい世界ですか」
室内の空気が冷えた。
ラギスの微笑は消えていない。
だが、その目は笑っていなかった。
「灰の谷へ行ったのですね」
セラは答えなかった。
「誰から聞いたのです。あの老記録官ですか」
「答える必要はありません」
「そうですか」
ラギスはゆっくり立ち上がった。
「やはり、早めに儀式を行うべきでした。聖女候補は外の汚れに触れると、不要な疑念を覚える」
「疑念を持つことは、悪ですか」
「疑念そのものは悪ではありません。ですが、疑念に溺れれば多くの命が危うくなる」
「また、多くの命ですか」
「事実です」
ラギスは窓の外を示した。
「見なさい。アルメリアは美しいでしょう。飢えた者はいない。病人は癒やされる。孤児は保護される。あなたも神殿に救われた一人です」
セラは街を見下ろした。
確かに美しい。
それは嘘ではない。
「この都市の暮らしは、献身者たちによって支えられています。彼らの徳が結界を保ち、聖水を生み、勇者を育てる。もし献身が止まれば、どうなるか分かりますか」
「神殿が困ります」
「民が死にます」
ラギスの声が低くなった。
「外の村々は魔物に襲われる。疫病は広がる。神殿の治療院は閉じる。水路は汚れ、飢えが戻る。あなたの綺麗な理想は、現実の前では脆い」
セラは唇を結んだ。
それは、完全な嘘ではない。
神殿の仕組みを壊せば、混乱が起きる。結界が弱まり、魔物が流れ込む。救われてきた命もある。
だからこそ難しい。
だからこそ、神殿は百年以上この制度を続けてこられた。
「セラ」
ラギスは声を柔らかくした。
「リリィを救いたいのなら、あなたが献身者となればいいのです。あなたの徳値なら、十分すぎる力となる。リリィは解放される。神殿はあなたを称え、あなたの名を永遠に残しましょう」
その提案は、予想していたものだった。
それでも、実際に聞くと胸が冷えた。
自分が死ねば、リリィは助かる。
昔のセラなら、そこに縋っただろう。
でも今は違う。
「私が死んだあと、次は誰が選ばれますか」
セラは訊いた。
ラギスは答えなかった。
「リリィは助かるかもしれません。でも、別の誰かが選ばれる。来年も、再来年も、その次も。私の名は美しく残り、また誰かが笑って死ぬように教えられる」
「それが世界を守るということです」
「違います」
セラは初めて、はっきりと言った。
「それは、世界を変えないために人を殺しているだけです」
ラギスの目が細くなった。
そのとき、部屋の奥の扉が開いた。
重い足音がした。
現れた男を見て、セラは息を呑んだ。
大柄な男だった。
年は三十前後。短く刈った赤茶色の髪。首は太く、肩幅は扉を塞ぐほどある。銀の鎧を着ているが、レオンやミリアのものとは違って、あちこちに傷と血の跡が残っていた。手には巨大な斧剣を持っている。刃は分厚く、聖具というより処刑具に見えた。
男はセラを見るなり、口角を上げた。
「こいつか」
声は低く、濁っていた。
「徳値二千超えの聖女候補ってのは」
セラは一歩下がった。
ラギスが言った。
「勇者グラムです」
勇者。
ミリアが口にした名。
供物を人ではなく経験値と呼ぶ男。
グラムはセラの前まで来ると、遠慮なく彼女を上から下まで眺めた。
その視線に、セラは吐き気を覚えた。
人を見る目ではない。
肉屋が肉を見る目。
商人が商品の値踏みをする目。
あるいは、飢えた獣が餌を見る目だった。
「いいな」
グラムは言った。
「こいつ一人で、村百個分はある」
セラの背筋が凍った。
ラギスは咎めなかった。
「グラム。言葉を慎みなさい」
「へいへい。尊い献身者様だったな」
グラムは肩をすくめた。
「でも結局は同じだろ。殺せば俺が強くなる。強くなれば魔物を斬れる。分かりやすくていい」
「あなたは」
セラの声は震えた。
怒りのせいだった。
「供物となる人たちの名前を覚えていますか」
グラムは一瞬きょとんとした顔をした。
そして笑った。
「名前?」
「はい」
「肉に名前がいるか?」
部屋の空気が止まった。
セラは目の前が赤くなるのを感じた。
ミリアの剣の柄に刻まれた無数の名が浮かぶ。
彼女は間違っていた。
殺した者の名を覚えても、殺した事実は消えない。
けれど、少なくとも彼女は人を人として見ていた。
この男は違う。
最初から、人を燃料としか見ていない。
「大司教から聞いてるぜ」
グラムは斧剣を肩に担いだ。
「お前が戻ったら、俺が儀式を担当する。運がいい。最近、伸び悩んでたんだ。そこへ二千超えの上物だ。こいつは一気に跳ねる」
セラはラギスを見た。
「これが、神殿の勇者ですか」
「グラムは粗野ですが、実績があります」
「人を餌と呼ぶ者を、あなたたちは勇者と呼ぶのですか」
「彼は魔物を多く討伐しています」
「善人を多く殺したからでしょう」
ラギスは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
グラムは退屈そうに首を鳴らした。
「説教はいい。で、いつ殺す? 献身祭まで待つのか。俺は今でもいいぜ」
「儀式には形式が必要です」
ラギスは冷静だった。
「民衆の前で執り行う。逃亡した聖女候補が神のもとへ帰り、自ら献身を選ぶ。その形が重要です」
「形ねえ」
グラムはセラに顔を近づけた。
「ちゃんと笑えよ。市民はそういうのが好きだからな。怖がって泣くと、後味が悪いって文句が出る」
セラは彼を睨んだ。
怖かった。
この男は怖い。
だが、それ以上に許せなかった。
「私は笑いません」
「あ?」
「殺されるために笑うことは、もうしません」
グラムの目が細くなった。
次の瞬間、彼の手が伸びた。
セラの首を掴む。
体が持ち上がり、息が詰まった。
「威勢がいいな。餌のくせに」
ラギスが静かに言った。
「傷をつけてはいけません」
「分かってるよ」
グラムは手を離した。
セラは床に崩れ落ち、咳き込んだ。喉が焼けるように痛い。
「儀式まで、その顔を保っておけ」
グラムは笑った。
「俺が美味く食ってやる」
セラは床に手をつきながら、必死に呼吸を整えた。
恐怖で体が震えていた。
だが、心の奥で何かが固まっていた。
この男にリリィを殺させるわけにはいかない。
自分も殺されない。
マルタも、ノアも、ミリアも、この男のような者を勇者と呼ぶ世界の中で殺されたのだ。
セラは顔を上げた。
「グラム」
男が振り返る。
「あなたに、私の名前を覚えさせます」
グラムは笑った。
「覚える必要があるほど長く残るといいな」
ラギスが神官兵を呼んだ。
「セラ様を儀式準備室へ。逃亡の恐れがあります。丁重に、しかし厳重に」
兵たちがセラを立たせる。
部屋を出る直前、ラギスの声が背後から届いた。
「セラ。あなたはまだ若い。世界を支える痛みを知らない。ですが、儀式の日には理解するでしょう。あなたの命が、どれほど多くの者を救うか」
セラは振り返らなかった。
ただ、一言だけ答えた。
「私は、誰かを殺す理由にはなりません」
扉が閉じた。
回廊へ出ると、神官兵たちは無言で歩いた。
セラは両側を見ながら進んだ。地下へ続く階段。礼拝堂への通路。神官たちの詰所。儀式具を運ぶ扉。すべてを頭に入れる。
泣いている暇はなかった。
怖がる暇も、少ししかない。
ライガは近くにいる。
彼は必ず来る。
だが、助けに来てもらうだけでは駄目だ。
セラは自分で、内側から扉を開けなければならない。
案内された儀式準備室は、かつて彼女が育った地方神殿の聖女候補室に似ていた。
白い寝台。
祈りの台。
香炉。
そして、窓のない壁。
扉が閉まり、外から鍵がかけられた。
セラはしばらく立っていた。
やがて、胸元から短剣を取り出した。
小さな刃。
頼りない光。
けれどそれは、神殿が与えたものではない。
ライガが、選択肢を増やすために渡してくれたものだ。
セラは寝台の下、壁際、床板、香炉、祈り台を調べ始めた。逃げ道はすぐには見つからない。だが、祈り台の裏に細い隙間があった。そこには古い排気口がつながっている。人が通るには狭い。しかし、小さな紙片なら通せる。
セラは机に置かれていた祈祷用の紙を一枚取り、短く書いた。
リリィ生存。儀式三日後。グラム担当。地下導線あり。私は準備室。
ライガに届く保証はない。
だが、外へ出せるものは出すしかない。
彼女は紙を細く折り、排気口の隙間へ押し込んだ。風が内側から外へ流れている。紙はゆっくりと吸い込まれ、闇の奥へ消えた。
セラは祈り台の前に座った。
神には祈らなかった。
祈る相手がいるとすれば、今は生きている者たちだった。
リリィ。
ライガ。
名も知られず石碑に刻まれた人たち。
そして、自分自身。
死なない。
リリィも死なせない。
誰かの代わりに死ぬことを、美しいとは言わせない。
セラは短剣を握りしめた。
その夜、アルメリアの街には祝祭の灯がともった。
人々は三日後の献身祭を祝う準備を始めた。通りには花が飾られ、広場には舞台が組まれ、神殿の鐘はいつもより明るく響いた。
その鐘の音を、ライガは神殿外壁の影で聞いていた。
彼の手には、小さな紙片があった。
排水溝の格子に引っかかっていたものだ。偶然ではない。セラがやりそうなことを考えて探した。そういう自分に、少し腹が立った。
紙には短い文字が並んでいた。
リリィ生存。儀式三日後。グラム担当。地下導線あり。私は準備室。
ライガは紙を握り潰した。
「上出来だ」
そう呟いた。
彼の背後で、白い神殿が夜空に浮かんでいる。
美しい建物だった。
美しいものほど、壊すときは骨が折れる。
ライガは腰の剣を確かめた。
グラム。
供物を餌と呼ぶ勇者。
殺す理由としては、十分すぎた。
だが、ただ殺すだけでは足りない。
セラは内側へ入った。
なら、自分は外側から道を開ける。
英雄になるためではない。
誰かに称えられるためでもない。
善人を殺さない。
そのために、勇者を殺す。
ライガは夜の路地へ消えた。
神殿都市アルメリアの祝祭は、三日後に最も美しくなる。
その日、この都市は初めて、自分たちが何に花を撒いてきたのかを知ることになる。




