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善人を殺すとレベルが上がる世界で、僕は勇者だけを殺す  作者: 二条理|アコンプリス


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7/10

第七章 経験値を喰う勇者

 神殿へ戻る道は、思っていたより短かった。

 アルメリアの中央通りを抜けると、白い石段が現れる。その先に中央神殿があった。遠くから見たときには、空へ伸びる塔の一つにすぎなかった。だが近づくにつれ、その巨大さが分かってくる。見上げるほど高い柱。柱の表面に刻まれた祈りの文。壁面に浮き彫りにされた勇者と聖女。正面扉の上には、神の眼を模した金の紋章が掲げられている。

 セラはその前で足を止めた。

 ここは、何度も夢に見た場所だった。

 聖女候補として十分な徳を積み、いずれこの都市へ移され、儀式の日を迎える。神殿の者たちは、そう語っていた。アルメリアの中央神殿で死ぬことは、聖女候補にとって最高の名誉だと教えられた。

 昔のセラなら、この扉を前にして震えながらも膝をついたかもしれない。

 だが今、彼女の膝は折れなかった。

 怖くないわけではない。

 むしろ、怖かった。

 白い神殿は美しい。美しいからこそ、怖い。ここではきっと、人の死さえ美しく飾られる。叫び声は祈りに変えられ、涙は献身と呼ばれ、逃げたいという願いは未熟さとして諭される。

 セラは胸元に隠した短剣の感触を確かめた。

 ライガがくれたものだ。

 人を刺すためではない。縄を切るため。布を裂くため。選択肢を増やすため。

 その言葉を思い出すと、少しだけ呼吸が楽になった。

「何者です」

 神殿の門衛が声をかけてきた。

 白い外套の下に鎖帷子を着た男だった。手には槍を持ち、視線は鋭い。すでに逃亡聖女候補の手配は回っている。少しでも挙動を誤れば、その場で拘束されるだろう。

 セラはフードを下ろした。

 門衛の顔が変わった。

「セラ様……」

 驚き。

 安堵。

 そして、獲物が戻ってきたことへの緊張。

 その三つが、彼の表情に浮かんだ。

 セラは静かに言った。

「神の導きにより、戻りました。神官長にお伝えください」

 声は震えなかった。

 門衛は一瞬迷い、すぐに片膝をついた。

「お待ちください。すぐに」

「リリィはどこですか」

 門衛の動きが止まった。

「リリィ・ファナです。聖女候補として献身祭に選ばれているはずです」

「その件は、上位神官より説明が」

「私は、神官長に会うまでこの場を動きません」

 セラは自分でも驚くほど落ち着いていた。

 神殿で学んだ作法は、役に立った。相手の目を見ること。必要以上に声を荒げないこと。自分が神殿にとって価値のある存在だと理解したうえで話すこと。かつては死へ向かうための教育だったものが、今は生き延びるための武器になっている。

 門衛は別の兵に目配せした。

 やがて、正面扉が開いた。

 中から現れたのは、年配の神官だった。

 見覚えがあった。アルメリア中央神殿の儀典長、オルダン。セラが幼い頃に一度だけ地方神殿へ視察に来たことがある。柔らかな物腰と、感情の読めない目を持つ男だった。

「セラ様」

 オルダンは深く頭を下げた。

「ご無事で何よりでございます。神官長より、あなた様を丁重にお迎えするよう申しつかっております」

「リリィはどこですか」

「まずはお体を休められては」

「リリィはどこですか」

 同じ問いを繰り返す。

 オルダンは顔を上げ、わずかに微笑んだ。

「リリィ様は、安全な場所におられます」

「献身者名簿に名前がありました」

「それは、あなた様がご不在だったための一時的な措置です」

「一時的?」

「ええ。あなた様がお戻りになった以上、神殿は最善の形で儀式を執り行うことができます」

 最善の形。

 その言葉が、セラの胸を冷たくした。

 つまり、リリィではなく自分を使うという意味だ。

 オルダンは穏やかに続けた。

「市民の間にも不安が広がっております。聖女候補が神のもとへ戻られたことは、アルメリア全体にとって大きな祝福となりましょう」

「私が戻れば、リリィは殺されませんか」

「殺されるなどと」

 オルダンは悲しげに眉を寄せた。

「捧げられる、でございます」

「言い換えは不要です」

 オルダンの微笑が、ほんの少しだけ硬くなった。

「旅の疲れが出ておられるようですね。どうぞ中へ」

 セラは神殿の奥を見た。

 白い床。

 磨かれた柱。

 香の匂い。

 懐かしいはずのものが、すべて罠のように見えた。

 それでも、進むしかなかった。

「リリィに会わせてください」

「手配いたしましょう」

 オルダンは答えた。

 だが、その言葉が約束ではなく、時間稼ぎであることをセラはもう理解していた。

 神殿に入ると、すぐに両側へ神官兵がついた。護衛という名の監視だった。オルダンは丁寧に歩調を合わせ、長い回廊を進んでいく。壁には歴代の献身者の名を記した金板が並んでいた。

 セラはその名を見ながら歩いた。

 どれも美しい文字だった。

 美しい文字で、死者が整列させられている。

「こちらでお待ちください」

 案内されたのは、小さな客室だった。窓は高い位置にあり、外は見えにくい。扉の外には神官兵が立った。室内には寝台、机、水差し、果物。逃亡者を迎えるにしては、あまりにも丁寧だった。

 セラは部屋に入ると、まず扉と窓を確認した。

 扉は外から鍵をかけられる構造だ。窓は細く、人が通れる大きさではない。壁に隠し扉はなさそうだった。床の敷物の下も確認したいが、すぐに行えば怪しまれる。

 彼女は椅子に座った。

 心臓が速い。

 ここから先は、一つ間違えれば終わる。

 ライガは近くにいると言った。だが、神殿の中へは簡単に入れない。今、自分を守れるのは自分だけだ。

 セラは深く息を吸った。

 そのとき、扉の向こうで足音が止まった。

「セラ姉さま?」

 小さな声。

 セラは椅子を蹴るように立ち上がった。

「リリィ!」

 扉が開いた。

 白い献身衣を着たリリィが、神官に伴われて入ってきた。

 顔は青白い。だが、怪我はしていない。セラは駆け寄り、リリィを抱きしめた。小さな体は震えていた。香の匂いと、少しだけ汗の匂いがした。

 生きている。

 それだけで、胸の奥が崩れそうになった。

「ごめんね、リリィ」

 セラは囁いた。

「私のせいで」

「違うよ」

 リリィは首を横に振った。

「セラ姉さまが逃げたって聞いて、私、嬉しかった」

 セラは息を呑んだ。

「嬉しかった?」

「うん。だって、セラ姉さまも怖かったんだって分かったから」

 その言葉は、セラの胸に深く刺さった。

 リリィは、セラを完全な聖女だと思っていたのかもしれない。怖くても笑える人。死ぬことを本当に尊いと思える人。けれどセラが逃げたことで、彼女もまた恐れていたのだと知った。

 それはリリィにとって、失望ではなく救いだったのだ。

「リリィは」

 セラは彼女の肩を掴んだ。

「死にたい?」

 リリィの目が揺れた。

 答えはすぐには返ってこなかった。

 神官が横から口を挟もうとする。

「リリィ様は、献身の意味を十分に」

「あなたには聞いていません」

 セラは低く言った。

 自分の声ではないようだった。

 神官は口を閉ざした。

 リリィは袖を握りしめた。献身祭の台車の上で見たのと同じ仕草だった。

「怖い」

 彼女は小さく言った。

「でも、怖いって言ったら、悪い子になると思った」

「ならない」

 セラは即座に言った。

「怖いと言っていい。死にたくないと言っていい。リリィは悪い子じゃない」

 リリィの目に涙が溜まった。

「本当?」

「本当」

「でも、私が死ななかったら、誰かが死ぬって」

「その言葉で、私たちはずっと縛られてきた」

 セラはリリィの手を握った。

「でも、それを決めたのは私たちじゃない。殺す側が作った選択肢なの。私たちが選ばされているだけ」

 リリィはよく分からないという顔をした。

 無理もなかった。十歳の子どもが理解するには、あまりにも大きすぎる。セラ自身も、まだ完全に分かっているわけではない。

 それでも、伝えなければならなかった。

「私はリリィを死なせない」

「セラ姉さまは?」

「私も死なない」

 言い切った瞬間、セラの胸に不思議な感覚が生まれた。

 自分に言い聞かせるためではない。

 リリィに安心させるためだけでもない。

 初めて、本当にそうしたいと思った。

 リリィも、自分も、死なない。

 誰かの代わりに誰かが死ぬのではなく、殺す仕組みそのものを止める。

 神官が咳払いをした。

「感動的な再会ではございますが、そろそろ」

「リリィをどこへ連れて行くのですか」

「リリィ様は儀式準備室へ。あなた様は神官長との面会がございます」

「一緒にいさせてください」

「それは許可されておりません」

「なぜですか」

「儀式の規定でございます」

 便利な言葉だった。

 規定。

 神殿は、いつもそうだ。誰が決めたのか分からない規定があり、人はそれに従わされる。疑問を持てば、未熟だとされる。

 リリィはセラの服を掴んだ。

「セラ姉さま」

 セラは抱きしめ返した。

「大丈夫。必ず迎えに行く」

「本当?」

「本当」

 神官がリリィを引き離した。

 リリィは泣きそうな顔をしたが、声を上げなかった。叫んではいけないと教え込まれているのだ。セラはその顔を見て、怒りが体の奥で静かに燃えるのを感じた。

 扉が閉まる。

 鍵の音。

 セラはその場に立ち尽くした。

 短剣はまだ胸元にある。

 だが、今ここで使っても意味がない。

 リリィの居場所を突き止める必要がある。神具の場所も。献身祭の儀式手順も。

 セラは机に向かった。

 客室には筆記具が置かれている。神官長との面会まで、考えを整理するためのものだろう。あるいは、反省文を書かせるつもりかもしれない。

 彼女は紙を一枚取り、祈りの文を書くふりをしながら、老人から聞いた神具設計断片の要点を思い出した。

 神具の中枢へ入れるのは、徳値の高い者か、勇者の祝福を受けた者。

 徳流を逆転させれば、蓄積された経験値を解放できる可能性がある。

 だが、神具の位置は分からない。

 アルメリア中央神殿の地下にあることだけは確かだ。

 地下へ行くには、儀式当日の導線を使うしかないかもしれない。

 そのとき、また扉が開いた。

 オルダンが入ってきた。

「お待たせいたしました。神官長がお会いになります」

 セラは立ち上がった。

「リリィは」

「安全です」

「その言葉を信用する理由がありません」

「では、信用していただける方に会わせましょう」

 オルダンの微笑に、嫌な予感がした。

 回廊を進み、階段を上がる。

 神官長の部屋は中央塔の中腹にあった。大きな扉の前で、オルダンは一礼して下がった。セラは一人で中へ入った。

 部屋は広く、窓からアルメリアの街が見渡せた。

 神官長は、机の前に立っていた。

 セラの育った地方神殿の神官長ではない。アルメリア中央神殿を統べる大司教ヴァルドに次ぐ高位神官、ラギス。痩せた男で、白髪を後ろへ撫でつけ、指にはいくつもの聖印指輪をはめていた。

 彼はセラを見ると、穏やかに微笑んだ。

「よく戻りました、セラ」

 その声に、セラの体が反射的に強張った。

 叱責ではない。

 優しさ。

 それがかえって怖かった。

「あなたは迷っていただけです。神は迷える子を責めません」

「私は迷って戻ったのではありません」

「では、なぜ戻ったのです」

「リリィを死なせないためです」

 ラギスは悲しげに目を伏せた。

「また死という言葉を使うのですね。外で悪しき者に何を吹き込まれたのですか」

「見たものを言っているだけです」

「見たものは、見方によって姿を変えます」

「マルタさんは殺されました」

「彼女は捧げられたのです」

「ミリア様は死にました」

「彼女は神に背いた結果、祝福を失いました」

「ノアは」

 セラはそこで一瞬言葉を詰まらせた。

 ラギスの目がわずかに動く。

「ノア?」

 セラは続けなかった。

 ライガから聞いた名を、神殿の前に簡単に置きたくなかった。

 ラギスは椅子へ座るよう促した。

「セラ。あなたは優しい子です。だからこそ、苦しんでいるのでしょう。リリィを守りたい。その気持ちは尊い。ですが、世界は一人の感情だけでは守れません」

「世界とは、誰の世界ですか」

 ラギスの手が止まった。

「どういう意味です」

「神殿が守っている世界ですか。貴族が長く生きる世界ですか。アルメリアの水路が綺麗な世界ですか。それとも、リリィが死ななくていい世界ですか」

 室内の空気が冷えた。

 ラギスの微笑は消えていない。

 だが、その目は笑っていなかった。

「灰の谷へ行ったのですね」

 セラは答えなかった。

「誰から聞いたのです。あの老記録官ですか」

「答える必要はありません」

「そうですか」

 ラギスはゆっくり立ち上がった。

「やはり、早めに儀式を行うべきでした。聖女候補は外の汚れに触れると、不要な疑念を覚える」

「疑念を持つことは、悪ですか」

「疑念そのものは悪ではありません。ですが、疑念に溺れれば多くの命が危うくなる」

「また、多くの命ですか」

「事実です」

 ラギスは窓の外を示した。

「見なさい。アルメリアは美しいでしょう。飢えた者はいない。病人は癒やされる。孤児は保護される。あなたも神殿に救われた一人です」

 セラは街を見下ろした。

 確かに美しい。

 それは嘘ではない。

「この都市の暮らしは、献身者たちによって支えられています。彼らの徳が結界を保ち、聖水を生み、勇者を育てる。もし献身が止まれば、どうなるか分かりますか」

「神殿が困ります」

「民が死にます」

 ラギスの声が低くなった。

「外の村々は魔物に襲われる。疫病は広がる。神殿の治療院は閉じる。水路は汚れ、飢えが戻る。あなたの綺麗な理想は、現実の前では脆い」

 セラは唇を結んだ。

 それは、完全な嘘ではない。

 神殿の仕組みを壊せば、混乱が起きる。結界が弱まり、魔物が流れ込む。救われてきた命もある。

 だからこそ難しい。

 だからこそ、神殿は百年以上この制度を続けてこられた。

「セラ」

 ラギスは声を柔らかくした。

「リリィを救いたいのなら、あなたが献身者となればいいのです。あなたの徳値なら、十分すぎる力となる。リリィは解放される。神殿はあなたを称え、あなたの名を永遠に残しましょう」

 その提案は、予想していたものだった。

 それでも、実際に聞くと胸が冷えた。

 自分が死ねば、リリィは助かる。

 昔のセラなら、そこに縋っただろう。

 でも今は違う。

「私が死んだあと、次は誰が選ばれますか」

 セラは訊いた。

 ラギスは答えなかった。

「リリィは助かるかもしれません。でも、別の誰かが選ばれる。来年も、再来年も、その次も。私の名は美しく残り、また誰かが笑って死ぬように教えられる」

「それが世界を守るということです」

「違います」

 セラは初めて、はっきりと言った。

「それは、世界を変えないために人を殺しているだけです」

 ラギスの目が細くなった。

 そのとき、部屋の奥の扉が開いた。

 重い足音がした。

 現れた男を見て、セラは息を呑んだ。

 大柄な男だった。

 年は三十前後。短く刈った赤茶色の髪。首は太く、肩幅は扉を塞ぐほどある。銀の鎧を着ているが、レオンやミリアのものとは違って、あちこちに傷と血の跡が残っていた。手には巨大な斧剣を持っている。刃は分厚く、聖具というより処刑具に見えた。

 男はセラを見るなり、口角を上げた。

「こいつか」

 声は低く、濁っていた。

「徳値二千超えの聖女候補ってのは」

 セラは一歩下がった。

 ラギスが言った。

「勇者グラムです」

 勇者。

 ミリアが口にした名。

 供物を人ではなく経験値と呼ぶ男。

 グラムはセラの前まで来ると、遠慮なく彼女を上から下まで眺めた。

 その視線に、セラは吐き気を覚えた。

 人を見る目ではない。

 肉屋が肉を見る目。

 商人が商品の値踏みをする目。

 あるいは、飢えた獣が餌を見る目だった。

「いいな」

 グラムは言った。

「こいつ一人で、村百個分はある」

 セラの背筋が凍った。

 ラギスは咎めなかった。

「グラム。言葉を慎みなさい」

「へいへい。尊い献身者様だったな」

 グラムは肩をすくめた。

「でも結局は同じだろ。殺せば俺が強くなる。強くなれば魔物を斬れる。分かりやすくていい」

「あなたは」

 セラの声は震えた。

 怒りのせいだった。

「供物となる人たちの名前を覚えていますか」

 グラムは一瞬きょとんとした顔をした。

 そして笑った。

「名前?」

「はい」

「肉に名前がいるか?」

 部屋の空気が止まった。

 セラは目の前が赤くなるのを感じた。

 ミリアの剣の柄に刻まれた無数の名が浮かぶ。

 彼女は間違っていた。

 殺した者の名を覚えても、殺した事実は消えない。

 けれど、少なくとも彼女は人を人として見ていた。

 この男は違う。

 最初から、人を燃料としか見ていない。

「大司教から聞いてるぜ」

 グラムは斧剣を肩に担いだ。

「お前が戻ったら、俺が儀式を担当する。運がいい。最近、伸び悩んでたんだ。そこへ二千超えの上物だ。こいつは一気に跳ねる」

 セラはラギスを見た。

「これが、神殿の勇者ですか」

「グラムは粗野ですが、実績があります」

「人を餌と呼ぶ者を、あなたたちは勇者と呼ぶのですか」

「彼は魔物を多く討伐しています」

「善人を多く殺したからでしょう」

 ラギスは答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。

 グラムは退屈そうに首を鳴らした。

「説教はいい。で、いつ殺す? 献身祭まで待つのか。俺は今でもいいぜ」

「儀式には形式が必要です」

 ラギスは冷静だった。

「民衆の前で執り行う。逃亡した聖女候補が神のもとへ帰り、自ら献身を選ぶ。その形が重要です」

「形ねえ」

 グラムはセラに顔を近づけた。

「ちゃんと笑えよ。市民はそういうのが好きだからな。怖がって泣くと、後味が悪いって文句が出る」

 セラは彼を睨んだ。

 怖かった。

 この男は怖い。

 だが、それ以上に許せなかった。

「私は笑いません」

「あ?」

「殺されるために笑うことは、もうしません」

 グラムの目が細くなった。

 次の瞬間、彼の手が伸びた。

 セラの首を掴む。

 体が持ち上がり、息が詰まった。

「威勢がいいな。餌のくせに」

 ラギスが静かに言った。

「傷をつけてはいけません」

「分かってるよ」

 グラムは手を離した。

 セラは床に崩れ落ち、咳き込んだ。喉が焼けるように痛い。

「儀式まで、その顔を保っておけ」

 グラムは笑った。

「俺が美味く食ってやる」

 セラは床に手をつきながら、必死に呼吸を整えた。

 恐怖で体が震えていた。

 だが、心の奥で何かが固まっていた。

 この男にリリィを殺させるわけにはいかない。

 自分も殺されない。

 マルタも、ノアも、ミリアも、この男のような者を勇者と呼ぶ世界の中で殺されたのだ。

 セラは顔を上げた。

「グラム」

 男が振り返る。

「あなたに、私の名前を覚えさせます」

 グラムは笑った。

「覚える必要があるほど長く残るといいな」

 ラギスが神官兵を呼んだ。

「セラ様を儀式準備室へ。逃亡の恐れがあります。丁重に、しかし厳重に」

 兵たちがセラを立たせる。

 部屋を出る直前、ラギスの声が背後から届いた。

「セラ。あなたはまだ若い。世界を支える痛みを知らない。ですが、儀式の日には理解するでしょう。あなたの命が、どれほど多くの者を救うか」

 セラは振り返らなかった。

 ただ、一言だけ答えた。

「私は、誰かを殺す理由にはなりません」

 扉が閉じた。

 回廊へ出ると、神官兵たちは無言で歩いた。

 セラは両側を見ながら進んだ。地下へ続く階段。礼拝堂への通路。神官たちの詰所。儀式具を運ぶ扉。すべてを頭に入れる。

 泣いている暇はなかった。

 怖がる暇も、少ししかない。

 ライガは近くにいる。

 彼は必ず来る。

 だが、助けに来てもらうだけでは駄目だ。

 セラは自分で、内側から扉を開けなければならない。

 案内された儀式準備室は、かつて彼女が育った地方神殿の聖女候補室に似ていた。

 白い寝台。

 祈りの台。

 香炉。

 そして、窓のない壁。

 扉が閉まり、外から鍵がかけられた。

 セラはしばらく立っていた。

 やがて、胸元から短剣を取り出した。

 小さな刃。

 頼りない光。

 けれどそれは、神殿が与えたものではない。

 ライガが、選択肢を増やすために渡してくれたものだ。

 セラは寝台の下、壁際、床板、香炉、祈り台を調べ始めた。逃げ道はすぐには見つからない。だが、祈り台の裏に細い隙間があった。そこには古い排気口がつながっている。人が通るには狭い。しかし、小さな紙片なら通せる。

 セラは机に置かれていた祈祷用の紙を一枚取り、短く書いた。

 リリィ生存。儀式三日後。グラム担当。地下導線あり。私は準備室。

 ライガに届く保証はない。

 だが、外へ出せるものは出すしかない。

 彼女は紙を細く折り、排気口の隙間へ押し込んだ。風が内側から外へ流れている。紙はゆっくりと吸い込まれ、闇の奥へ消えた。

 セラは祈り台の前に座った。

 神には祈らなかった。

 祈る相手がいるとすれば、今は生きている者たちだった。

 リリィ。

 ライガ。

 名も知られず石碑に刻まれた人たち。

 そして、自分自身。

 死なない。

 リリィも死なせない。

 誰かの代わりに死ぬことを、美しいとは言わせない。

 セラは短剣を握りしめた。

 その夜、アルメリアの街には祝祭の灯がともった。

 人々は三日後の献身祭を祝う準備を始めた。通りには花が飾られ、広場には舞台が組まれ、神殿の鐘はいつもより明るく響いた。

 その鐘の音を、ライガは神殿外壁の影で聞いていた。

 彼の手には、小さな紙片があった。

 排水溝の格子に引っかかっていたものだ。偶然ではない。セラがやりそうなことを考えて探した。そういう自分に、少し腹が立った。

 紙には短い文字が並んでいた。

 リリィ生存。儀式三日後。グラム担当。地下導線あり。私は準備室。

 ライガは紙を握り潰した。

「上出来だ」

 そう呟いた。

 彼の背後で、白い神殿が夜空に浮かんでいる。

 美しい建物だった。

 美しいものほど、壊すときは骨が折れる。

 ライガは腰の剣を確かめた。

 グラム。

 供物を餌と呼ぶ勇者。

 殺す理由としては、十分すぎた。

 だが、ただ殺すだけでは足りない。

 セラは内側へ入った。

 なら、自分は外側から道を開ける。

 英雄になるためではない。

 誰かに称えられるためでもない。

 善人を殺さない。

 そのために、勇者を殺す。

 ライガは夜の路地へ消えた。

 神殿都市アルメリアの祝祭は、三日後に最も美しくなる。

 その日、この都市は初めて、自分たちが何に花を撒いてきたのかを知ることになる。



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