第六章 供物都市アルメリア
アルメリアは、遠くから見るほど美しかった。
白い外郭壁が平野の中央に円を描き、その内側に尖塔がいくつも立っている。塔の先端には金色の飾りが掲げられ、朝日を受けて眩しく光っていた。城壁の周囲には麦畑が広がり、用水路には澄んだ水が流れている。街道を行き交う荷馬車は多く、巡礼者らしき白衣の人々も絶えなかった。
セラは足を止めた。
神殿都市アルメリア。
彼女が神殿で何度も聞いた名だった。神の恩寵が最も濃く注がれる都市。勇者制度を管理し、聖女候補を育て、国境結界の中枢を担う聖なる場所。祈りと慈悲と秩序の都。
子どもの頃、修道女が話してくれた。
アルメリアには飢えた人がいない。病める者は癒やされ、孤児は保護され、老人は最期まで看取られる。道は清潔で、夜でも灯が消えず、神殿の鐘が朝昼晩と人々の心を整える。善く生きる者が報われる場所なのだと。
実際、目の前の都市はそう見えた。
少なくとも、外側からは。
「きれいですね」
セラは思わず言った。
隣に立つライガは、城壁を見上げたまま鼻を鳴らした。
「腐った肉も、香草で包めばしばらくは臭わない」
「……もう少し言い方はありませんか」
「ない」
ライガは街道脇に立つ石碑へ目を向けた。
そこにはこう刻まれていた。
――徳ある者の献身により、アルメリアは今日も守られる。
文字の下には、無数の名前が彫られている。小さな字で、びっしりと。遠目には装飾模様のように見えるほどだった。
セラは近づき、指先でその文字をなぞった。
マルタの名はなかった。
ノアの名も、ミリアが殺したという医師の名もない。おそらく、都市に関わる供物だけがここに刻まれているのだろう。それでも名は多かった。百や二百ではない。石碑は道の両側に立ち、それぞれに同じような名前が刻まれている。
献身者名碑。
神殿ではそう呼ばれていた。
セラはかつて、その名碑を尊いものだと思っていた。死者の名を残すことは、救いだと教えられていたからだ。
だが今は違った。
名前は残っている。
けれど、その人たちが何を食べ、誰を愛し、何を恐れ、どんな声で笑ったのかは残っていない。ここにあるのは「捧げられた者」という意味だけだった。
名を刻むことが、必ずしも人を残すことにはならない。
そのことを、セラは灰の谷で知った。
「行くぞ」
ライガが歩き出した。
「はい」
セラは石碑から手を離した。
城門の前には長い列ができていた。商人、巡礼者、病人を乗せた荷車、神殿へ奉仕に来た若者たち。門番は白い外套の上に革鎧を着ており、胸には神殿の紋章がある。
ライガは外套のフードを深くかぶっていた。顔の傷と剣を隠すためだ。セラも白い神殿服の上に灰色の旅 cloak を羽織っている。だが、彼女の服は隠しきれていなかった。袖口から覗く白布と刺繍は、見る者が見れば聖女候補のものだと分かる。
「もっと汚せばよかったな」
ライガが低く言った。
「十分汚れています」
「神殿育ちの十分は当てにならん」
「ではどうすれば」
「泥でも被るか」
「真面目に言ってますか」
「半分」
セラはため息をついた。
旅の間に、自分がため息をつく回数が増えたことに気づいた。神殿では、ため息は慎むべきものだった。不満や疲労をあからさまに見せることは、聖女候補らしくないとされた。今は、そうした決まりの一つ一つが、遠い場所の出来事のように思える。
列が進んだ。
門番は旅人たちに身分と目的を尋ねている。病人を乗せた荷車には、神官が近づいて祝福を施した。商人には通行税を求めた。巡礼者には祈りの札を買わせていた。
やがて、ライガとセラの番になった。
「目的は」
門番が訊いた。
「巡礼」
ライガが答えた。
セラは横目で彼を見た。あまりにも似合わない答えだった。
門番も同じことを思ったのか、目を細めた。
「巡礼?」
「見えないか」
「見えないな」
「神は心を見るんだろ」
門番は不快そうに眉を寄せた。
「名は」
「ライ」
即席の偽名だった。
「女の方は」
「妹だ」
セラは咳き込みそうになった。
門番が彼女を見る。
「妹にしては似ていない」
「母親が違う」
「神殿服を着ているな」
「昔、奉仕に出されていた。今は病み上がりだ」
門番はセラの顔を見た。
セラはうつむいた。病み上がりに見せる必要はなかった。実際、疲労は顔に出ていた。灰の谷からここまでの道のりで、まともな宿に泊まれた日は少ない。頬は少しこけ、唇も乾いている。
門番はしばらく彼女を見ていたが、やがて記録帳へ目を落とした。
「最近、逃亡中の聖女候補がいる。年頃が近い」
セラの心臓が跳ねた。
ライガは表情を変えない。
「へえ」
「見なかったか」
「見てたら連れてくる。報奨金は出るのか」
門番は鼻で笑った。
「出る」
「なら探してみるか」
「お前のような者に見つけられる前に、神殿兵が見つける」
「それは残念だ」
門番は通行札を差し出した。
「三日以内に巡礼登録を済ませろ。滞在が長引くなら神殿区で許可を取れ」
ライガは札を受け取った。
「ありがたいね」
「神の都では、言葉に気をつけろ」
「努力する」
門をくぐった瞬間、セラは息を止めた。
都市の内側は、外から見た以上に美しかった。
道は白い石で舗装され、両側には整った建物が並んでいる。窓には花が飾られ、軒先には色鮮やかな布が垂れていた。水路には透き通った水が流れ、子どもたちが橋の上から小魚を眺めている。広場では楽師が笛を吹き、パン屋の前には香ばしい匂いが漂っていた。
セラは思わず足を緩めた。
ここには飢えがない。
少なくとも見える場所には。
路地の角では、神殿の修道女が老人に薬湯を配っていた。別の場所では、白衣の若者たちが孤児と思われる子どもに読み書きを教えている。巡礼者用の宿には「貧しき者、三日まで無料」と掲げられていた。
セラが神殿で教えられたアルメリアは、嘘ではなかった。
それが、かえって恐ろしかった。
「本当に、豊かな街です」
セラが呟くと、ライガは水路を見た。
「水がきれいすぎる」
「悪いことですか」
「外の村じゃ井戸が濁っても放置される。ここでは水路まで磨かれている。どこかから余分に奪ってる証拠だ」
セラは答えられなかった。
通りを進むと、中央広場に出た。そこには巨大な噴水があり、中央には剣を掲げる勇者像が立っている。像の足元には、祈る聖女の姿。勇者の背後には、無数の人々が浮き彫りにされていた。
供物たち。
彼らは笑っていた。
自らの命を捧げることを喜んでいるように。
噴水の周囲では、市民たちが花を供えていた。親子連れが多い。母親が子どもに像を指差して言う。
「あの方々のおかげで、私たちは今日も安心して暮らせるのよ」
「ぼくも大きくなったら、徳を積む」
「ええ。でも選ばれるほど善くなるのは、とても名誉なことだからね」
子どもは誇らしげに頷いた。
セラはその場に立ち尽くした。
幼い子に、死ぬことを名誉だと教えている。
かつて自分も、同じように教えられた。
ライガは勇者像を見上げていた。目には嫌悪があった。
「よくできてるな」
「像がですか」
「死んだ奴らを笑わせてるところが」
セラは像の足元を見た。
確かに、供物として浮き彫りにされた人々は皆、穏やかに微笑んでいた。苦痛も恐怖もない。迷いもない。彼らは自分の死に完全に納得していたかのように彫られている。
だが、本当にそうだったのだろうか。
マルタも、像になれば笑顔にされるのだろうか。
ミリアも、勇者として美しく刻まれるのだろうか。
ノアも、勇者の力となった少年として、微笑む顔に変えられるのだろうか。
セラは胸元の袋を握った。
「リリィを探しましょう」
「ああ」
ライガは広場の向こうを見た。
「まずは神殿区の場所だ」
「知っています。中央塔の北側に、聖女候補の居住棟があるはずです」
「詳しいな」
「神殿で地図を見せられました。いつか移されるかもしれないと言われていたので」
「死に場所の下見か」
セラは一瞬黙った。
以前なら、その言い方に傷ついたかもしれない。
だが今は、ただ頷いた。
「そうですね。そういうことだったのだと思います」
ライガは少しだけ目を伏せた。
「悪い」
セラは驚いた。
「謝るんですか」
「今のは言い過ぎた」
「ライガさんでも、言い過ぎたと思うことがあるんですね」
「うるさい」
セラは小さく笑った。
緊張していた胸が、少し緩んだ。
だがその直後、広場の鐘が鳴った。
低く、長い音だった。
人々が一斉に足を止める。
セラはその音を知っていた。
神殿都市で鳴らされる特別な鐘。朝夕の祈りでも、死者の弔鐘でもない。都市全体に祝祭の開始を告げる鐘。
「献身祭」
セラは呟いた。
広場の空気が変わった。
人々は顔を輝かせ、通りのあちこちから花籠が運ばれてくる。店先には白い布が掛けられ、子どもたちは歌を口ずさみ始めた。窓からは女たちが身を乗り出し、通りに花びらを撒く準備をしている。
ライガが低い声で訊いた。
「何だ、それは」
「徳値の高い者が選ばれ、勇者へ力を捧げる祭りです」
「祭り」
彼の声が冷えた。
「人を殺すのに、祭りか」
セラは答えられなかった。
アルメリアでは年に何度か献身祭が行われる。選ばれた者は白い衣を着せられ、街を巡る。市民は花を撒き、感謝の歌を歌う。最後に中央神殿で儀式が行われ、勇者がその魂を受け取る。
神殿では、最も美しい儀式だと教えられていた。
だがマルタの死を見たあとでは、その美しさがただの覆いに思えた。
広場の一角に、大きな掲示板が設置された。神官たちが紙を貼り出す。人々が集まっていく。
ライガとセラも群衆に紛れて近づいた。
紙には、献身祭の予定と、選ばれた献身者の名が記されていた。
セラは文字を追った。
その途中で、息が止まった。
リリィ・ファナ。
十歳。
聖女候補。
徳値、千二百六十。
献身者として選定。
セラの視界が揺れた。
分かっていたはずだった。神殿がリリィを安全にしておく理由などない。セラを連れ戻せなければ、代わりを使う。むしろ、自分を誘き出すためにリリィを表に出すことも考えられた。
それでも、実際に名前を見ると、体の芯が冷えた。
「リリィ」
セラの声はほとんど音にならなかった。
ライガは掲示を見た。
「今日か」
献身祭は三日後だった。
だが、巡行は今日から始まる。献身者は市民の前に姿を見せ、祈りを受け、感謝の言葉を浴びる。逃げられないように、神殿兵に囲まれながら。
「助けに行きます」
セラは言った。
ライガは彼女の腕を掴んだ。
「今は動くな」
「でも」
「ここで騒げば即捕まる。リリィも遠ざけられる」
「では、どうすれば」
「見る」
「見るだけですか」
「そうだ」
セラはライガを睨んだ。
自分でも、そんな目を向けたことに驚いた。
「リリィが殺されようとしているのに」
「だから見るんだ」
ライガの声は低かった。
「誰が守ってる。どこを通る。どこで人が減る。逃がせる場所はどこか。助けたいなら、まず見る」
セラは歯を食いしばった。
正しいことは分かっている。
だが、感情が追いつかない。
リリィは十歳だ。まだ死ぬ意味など分かるはずがない。分かっているふりをしているだけだ。神殿で教えられた言葉を、そのまま口にしているだけだ。
セラ自身が、そうだったように。
鐘が再び鳴った。
通りの奥から、白い行列が現れた。
先頭には神官たち。香炉を振り、祈りの歌を唱えている。その後ろには、花を撒く少女たち。さらに白い布で飾られた小さな台車が続いた。
台車の上に、リリィがいた。
セラは息を呑んだ。
リリィは白い献身衣を着せられていた。髪はきれいに結われ、頭には小さな花冠が載せられている。顔色は悪い。だが唇には笑みを浮かべていた。
笑わされている。
セラにはすぐに分かった。
リリィは怖いとき、右手で左袖を握る癖がある。今もそうしていた。袖の端を、小さな指でぎゅっと握りしめている。笑っているのに、指だけが震えていた。
市民たちは歓声を上げた。
「リリィ様!」
「尊い献身に感謝を!」
「神に愛された子だ!」
花びらが舞う。
白、赤、黄色。
リリィの膝に、肩に、髪に、花が積もっていく。
彼女は教えられた通りに手を振った。
セラの目に涙が浮かんだ。
リリィはかつて、夜に眠れなくなるとセラの寝台へ潜り込んできた。怖い夢を見たと言って、毛布の端を握った。セラが「大丈夫」と言うと、安心して眠った。
今、その子が都市中の前で、死を称えられている。
誰も助けようとしない。
むしろ皆が喜んでいる。
ライガは周囲を観察していた。
「神殿兵が八人。台車の左右に四人ずつ。前後に神官。屋根の上にも弓兵がいる」
「見えるんですか」
「殺気が下手だ」
「どうしますか」
「今は無理だ」
その言葉に、セラの胸が締めつけられた。
「無理、ですか」
「ここで突っ込めば、リリィを盾にされる」
「では、どこで」
ライガは行列の先を見た。
白い通りは神殿区へ続いている。途中に小さな橋がある。水路を渡る橋だ。橋の両側には建物が迫っており、人の流れが一瞬だけ細くなる。
「橋だな」
「そこで助けるのですか」
「助けるならな」
セラは頷いた。
だが、ライガは続けた。
「ただし、助けたあとが問題だ」
「逃げ道ですか」
「ああ。都市の中で聖女候補を抱えて逃げる。門は閉じられる。神殿兵が来る。勇者もいるかもしれない」
「それでも」
「それでも、だろ。分かってる」
ライガは舌打ちした。
「本当に面倒なことになった」
セラは彼の横顔を見た。
「助けてくれるのですか」
「通り道の邪魔だ」
「リリィは荷馬車ではありません」
「似たようなもんだ。動かないと困る」
セラは泣きそうになりながら、少しだけ笑った。
ライガなりの言い方だと、もう分かっていた。
行列はゆっくりと進んでいく。
人々は歌を歌い始めた。
――徳ある魂よ、剣となれ。
――清き命よ、盾となれ。
――一人の死は、万の朝を守る。
セラはその歌を知っていた。
神殿で何度も歌った。
かつては美しい歌だと思っていた。声を揃えると、礼拝堂の高い天井に反響し、胸が澄むような気がした。
今は、吐き気がした。
一人の死は、万の朝を守る。
その「一人」に名前があることを、歌は隠している。
リリィ。
マルタ。
ノア。
ミリアが殺した医師。
名を消し、一人と数え、尊いと言い換える。
そうすれば、人は拍手できる。
「セラ」
ライガが低く呼んだ。
「はい」
「顔を隠せ。泣くな。お前が見つかれば終わりだ」
セラは慌ててフードを深くかぶった。
そのときだった。
台車の上のリリィが、こちらを見た。
一瞬だった。
群衆の隙間から、リリィの目がセラを捉えた。
セラの体が固まった。
気づかれた。
リリィの唇が小さく動いた。
声は聞こえない。
けれど、セラには分かった。
セラ姉さま。
その直後、リリィは笑顔を崩さず、ほんの少し首を横に振った。
来ないで。
そう言っているように見えた。
セラの胸が裂けそうになった。
リリィは自分が助けられることを望んでいないのかもしれない。
いや、違う。
セラを巻き込みたくないのだ。
十歳の少女が、死ぬための台車の上で、セラの身を案じている。
それが、この世界の狂気だった。
セラは一歩踏み出しそうになった。
ライガが腕を掴む。
「今じゃない」
「でも」
「今じゃない」
強い声だった。
セラはその場に踏みとどまった。
爪が掌に食い込むほど拳を握った。
行列は橋へ向かって進んでいく。
ライガは周囲を見回した。
「橋の手前で動く。お前はリリィを引っ張り出せ」
「はい」
「できるな」
「やります」
「違う。できるかと聞いてる」
セラはライガを見た。
彼の目は冷静だった。希望を与える目ではない。できないことをできると言わせる目でもない。本当に可能かどうかを見ている。
だからセラも、正直に答えた。
「怖いです」
「だろうな」
「でも、できます」
「ならいい」
ライガは剣の位置を直した。
「俺が兵を止める。お前はリリィを連れて水路沿いに走れ。三つ目の路地に入る。そこに洗濯場があるはずだ」
「どうして分かるんですか」
「さっきから水の流れを見てた。洗濯場の排水が混じってる」
「すごいですね」
「褒めるな。気持ち悪い」
セラは頷いた。
緊張で喉が乾いた。
リリィの台車が橋に近づく。
そのとき、群衆の奥から別の鐘が鳴った。
高く、鋭い音。
広場の鐘とは違う。
神殿兵たちが一斉に動きを変えた。
ライガの表情が険しくなる。
「気づかれたか」
「え?」
行列の前方で、神官が何かを叫んだ。
台車を囲む兵が増える。
屋根の上にいた弓兵たちが、弓を構えた。
狙いは群衆ではない。
セラたちのいる方向だった。
「下がれ!」
ライガがセラを押した。
矢が飛んだ。
直前までセラが立っていた場所に、矢が突き刺さる。
群衆が悲鳴を上げた。
「逃亡聖女候補セラを確認!」
神官の声が響いた。
「勇者殺しライガも同行! 市民は道を開けなさい!」
混乱が一気に広がった。
人々は逃げ出そうとする。だが狭い通りに詰まり、互いに押し合った。花籠が倒れ、花びらが石畳に散る。子どもが泣き、老人が転ぶ。
ライガはセラの腕を掴んで路地へ引き込んだ。
「しくじった」
「私のせいです。リリィが」
「違う。最初から罠だ」
ライガは走りながら言った。
「お前がここへ来ることを読んで、リリィを見せ餌にした」
「では、リリィは」
「まだ殺されない。餌は生きてる方が使える」
その言葉は残酷だったが、セラには救いでもあった。
まだ生きている。
なら、助けられる。
路地の先に神殿兵が回り込んできた。槍を構えている。
ライガはセラを後ろへ押し、自分は前へ出た。
「目を閉じるな」
「はい」
「走る場所を見ろ。俺を見るな」
セラは頷いた。
ライガが突っ込む。
槍兵の一人が突きを放つ。ライガは体を沈め、槍の柄を剣で叩き折った。返す刃で膝裏を打つ。兵が倒れる。もう一人の槍を奪い、壁に押しつける。殺してはいない。だがしばらく動けないだろう。
セラはその横を走り抜けた。
路地を抜けると、水路沿いに出た。
洗濯場があった。
ライガの言った通りだった。
女たちが洗濯桶を抱えたまま固まっている。突然現れた二人と、追ってくる神殿兵に驚いて声も出ないようだった。
「そこの布を借りるぞ」
ライガは洗濯場の白布を一枚引きはがし、セラに投げた。
「これを被れ。白い服を隠せ」
「はい」
セラは布を肩に巻いた。
そのとき、背後から声がした。
「待ってください」
振り返ると、洗濯場にいた若い女が小さな袋を差し出していた。
「こちらの路地を抜けると、古い薬草市に出ます。今日は休みだから、人が少ない」
セラは驚いた。
「なぜ」
女は一瞬迷い、目を伏せた。
「私の姉も、去年の献身祭で選ばれました」
彼女はそれだけ言った。
ライガは袋を受け取った。中には干した果物と小さな水筒が入っていた。
「名は」
ライガが訊いた。
女は少し驚いた顔をした。
「姉ですか」
「ああ」
「エリナ。エリナ・トールです」
セラはその名を胸に刻んだ。
「忘れません」
女は泣きそうな顔で笑った。
「忘れないでください。石碑には、献身者番号しか残りませんでした」
その言葉で、セラは理解した。
アルメリアの人々すべてが、制度を信じきっているわけではない。
感謝の歌を歌い、花を撒きながら、それでも胸の奥で何かがおかしいと感じている者がいる。だが口に出せない。口に出せば、神殿の恩恵を否定することになる。自分たちの暮らしが誰かの死で成り立っていると認めなければならない。
その沈黙の下に、怒りが埋まっている。
「行くぞ」
ライガが言った。
二人は女が示した路地へ入った。
背後で神殿兵の声が近づいている。
薬草市は本当に無人に近かった。木箱と布屋根だけが並び、風に乾いた薬草の匂いが漂っている。ライガは迷わず奥へ進み、崩れかけた倉庫に入った。
中は暗い。
セラは息を整えようとしたが、胸が苦しかった。
「リリィを置いてきてしまいました」
「生きてる」
「でも」
「助けるには準備がいる」
ライガは倉庫の隙間から外を見た。
「神殿はお前を欲しがってる。リリィは餌。なら逆に使える」
「私を?」
「お前の徳値は高い。リリィよりずっとな」
セラはその意味をすぐに理解した。
神殿はリリィを献身者として出した。
だが本命はセラだ。
逃げた聖女候補が戻れば、神殿は必ずそちらを使いたがる。より大きな徳値を持つ供物。さらに、逃亡者を再び神の秩序へ戻したという象徴にもなる。
「私が囮になります」
セラは言った。
ライガは振り返った。
その目が鋭くなる。
「今、何と言った」
「私が出頭すれば、神殿はリリィを下げるはずです」
「お前を殺すためにな」
「すぐには殺しません。逃亡の経緯を調べ、神殿の威信を回復するために、儀式を大きくするでしょう」
「ずいぶん神殿に詳しいな」
「育てられましたから」
「冗談を言ってる場合か」
「冗談ではありません」
セラはまっすぐにライガを見た。
「リリィだけを助けても、また別の誰かが選ばれます。私が逃げ続ける限り、神殿は代わりを立てる。なら、私が自分から選ばれに行きます」
「死にに行くのか」
「違います」
セラは震える手を握った。
「死なないために、選ばれに行きます」
ライガの顔が険しくなった。
「意味が分からん」
「私が神殿の中へ入れば、神具に近づけるかもしれません。リリィの居場所も分かる。儀式の準備も知れる。外から襲うより、中から崩す方が」
「お前は戦えない」
「戦えません」
「逃げるのも下手だ」
「はい」
「嘘も下手だ」
「分かっています」
「なら無理だ」
ライガの声には、怒りがあった。
それはセラに向けられているようで、違うようにも思えた。かつてノアを助けられなかった彼は、また誰かが自分から供物の側へ歩いていくのを見たくないのだ。
セラはそれを分かっていた。
だからこそ、目を逸らさなかった。
「ライガさん」
「何だ」
「私は、死にたいわけではありません」
「知ってる」
「だから、戻ります」
「矛盾してる」
「はい。でも、逃げ続ければリリィが死にます。私が隠れている間に、別の誰かも死ぬかもしれません。私はそれを見ないで済む場所にいるだけになります」
「お前一人で全部背負うな」
セラは息を呑んだ。
ライガの声は、思ったより強かった。
「それが神殿のやり方だ。一人に背負わせる。お前は善いから、お前は徳が高いから、お前なら耐えられるから。そう言って押しつける。お前まで同じことをするな」
セラは唇を噛んだ。
その言葉は、痛かった。
自分はまた、神殿に教えられた形で考えていたのかもしれない。自分が犠牲になればいい。自分が危険を引き受ければいい。そうすれば誰かが助かる。そんな発想そのものが、神殿の作った道なのだ。
だが、それでも。
「一人で背負うつもりはありません」
セラは言った。
「あなたに、助けに来てほしいんです」
ライガは黙った。
倉庫の外で、神殿兵たちの足音が遠ざかっていく。まだこの場所は見つかっていない。
「私が中へ入ります。リリィの居場所を探します。神具の情報も集めます。そして、儀式の日まで生き延びます」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「捕まれば拷問されるかもしれない」
「はい」
「洗脳し直されるかもしれない」
「はい」
「殺されるかもしれない」
「はい」
「それでも行くのか」
セラは小さく息を吸った。
怖い。
怖くてたまらない。
神殿に戻れば、自分はまた聖女候補にされる。死を美しく飾る言葉を浴びせられ、逃げたことを罪として責められ、リリィの前で模範を示せと言われるかもしれない。
それでも、彼女はもう以前のセラではなかった。
マルタを見た。
ミリアを見た。
灰の谷を見た。
ライガの過去を聞いた。
そしてリリィの袖を握る小さな指を見た。
あの子を、死なせたくない。
「行きます」
セラは言った。
ライガは長い沈黙のあと、低く悪態をついた。
「本当に、最悪だ」
「すみません」
「謝るな。余計に腹が立つ」
「では、謝りません」
「素直なのか頑固なのか、はっきりしろ」
「両方です」
セラがそう言うと、ライガは頭を掻いた。
諦めたような仕草だった。
「分かった」
セラは目を見開いた。
「いいのですか」
「よくない」
「では」
「止めても行くだろ」
「はい」
「なら、勝手に死なれるよりはましだ」
ライガは倉庫の床にしゃがみ込み、木片で簡単な地図を描き始めた。
「神殿に戻るなら、戻り方がいる。捕まるんじゃない。出頭するんだ。お前が主導権を持っているように見せる」
「主導権」
「そうだ。お前は逃げた聖女候補じゃない。神の導きで戻った、と言え」
「嘘をつくのですね」
「神殿が好きそうな嘘だ」
セラは少し考えた。
「言えます」
「泣くなよ」
「泣きません」
「震えるな」
「努力します」
「努力じゃ足りない」
「では、震えながらでも立ちます」
ライガは彼女を見た。
少しだけ、目の奥が和らいだ気がした。
「それならいい」
外からまた鐘の音が聞こえた。
献身祭の歌が、遠くで続いている。
リリィは今、どこかの神殿施設へ連れて行かれているはずだ。怖くて、でも笑うように言われているだろう。セラ姉さまは来ないで、と首を振った小さな顔が、瞼に焼きついている。
セラは立ち上がった。
「行きます」
ライガも立ち上がる。
「俺は近くにいる」
「はい」
「死にそうになったら逃げろ」
「はい」
「リリィを見つけても、無理に助けようとするな」
「……はい」
「間があったぞ」
「努力します」
「努力じゃ足りないと言った」
セラは少しだけ笑った。
「では、なるべく」
「余計に信用できん」
ライガは外套の内側から、小さな短剣を取り出した。柄に布を巻いただけの簡素なものだった。
「持っていけ」
セラは戸惑った。
「私は、人を刺せません」
「人を刺すためじゃない。縄を切る。布を裂く。鍵の隙間に差す。使い道はいくらでもある」
「でも」
「持ってるだけで、少しは選択肢が増える」
選択肢。
その言葉が、セラの胸に残った。
神殿はいつも、選択肢を奪ってきた。死ぬか、誰かを死なせるか。従うか、悪人になるか。善人でいるか、見捨てられるか。
短剣一本で世界は変わらない。
けれど、選べるものが一つ増える。
それだけで、少し息ができる気がした。
セラは短剣を受け取った。
「ありがとうございます」
「刺すなよ」
「刺せと言ったり、刺すなと言ったり」
「刺せと言ってない」
「そうでした」
倉庫を出ると、空は夕暮れに近づいていた。
白い都市が、赤く染まっている。
美しい街だった。
その美しさの底で、何人もの命が燃やされてきた。
セラは通りへ向かった。
自ら神殿へ戻るために。
死ぬためではない。
死なないために。
リリィを救うために。
そして、誰かを供物にする世界の中心へ、初めて自分の足で入るために。
背後で、ライガが言った。
「セラ」
彼女は振り返った。
「何ですか」
「戻ってこい」
たったそれだけだった。
命令でも、励ましでも、祈りでもない。
けれどセラには、それが何より強い言葉に思えた。
「はい」
彼女は頷いた。
「戻ります」
そして、白い神殿都市の中心へ向かって歩き出した。




