第五章 悪人になった日
ライガは、夢の中でいつも同じ音を聞く。
木の扉を叩く音だ。
最初は小さい。
とん、とん、と、遠慮がちに鳴る。
それがやがて、激しくなる。
叩くというより、殴る音になる。扉の板が軋み、蝶番が悲鳴を上げる。外にいる者は早く開けろと怒鳴っている。中にいる者は息を殺している。
夢の中のライガは、まだ子どもだった。
背は低く、膝には擦り傷があり、手には盗んだ干し肉を握っていた。隣にはノアがいる。ライガより少し背が高く、いつも困ったように笑う少年だった。
扉の外から声がする。
「開けなさい。勇者様がお見えだ」
ノアはライガを見た。
「大丈夫だよ」
そう言った。
その言葉だけが、夢の中でいつも妙にはっきり聞こえる。
大丈夫。
ノアはよくそう言った。
雨で屋根が抜けても、畑を猪に荒らされても、ライガが喧嘩で鼻血を出して帰ってきても、同じように笑って言った。
大丈夫だよ。
何が大丈夫なのか、ライガには分からなかった。だがノアが言うと、本当に少しだけ大丈夫な気がした。
夢では、その言葉のあとに扉が開く。
白い光が差し込む。
そして、ノアが連れて行かれる。
そこまで来ると、ライガは必ず目を覚ました。
その朝もそうだった。
アルメリアへ向かう道中、二人は廃屋で夜を明かした。元は牧童の小屋だったのだろう。壁の半分は崩れ、屋根には大きな穴が空いていた。夜露を完全には防げなかったが、野ざらしよりはましだった。
ライガは壁にもたれて眠っていた。
剣は膝の上に置いていた。癖だった。眠るときも、手の届く場所に刃がないと落ち着かない。
目を開けると、空はまだ薄暗かった。
小屋の穴から、夜明け前の青い光が差し込んでいる。近くで、小さな火がくすぶっていた。セラが起きている。彼女は火のそばで膝を抱え、老人から受け取った金属板の写しを見ていた。
「寝ていないのか」
ライガが言うと、セラは顔を上げた。
「少しは眠りました」
「嘘が下手だな」
「神殿では、嘘をつかないように教えられました」
「その割には、リリィを庇ったときに嘘をついたんだろ」
セラは驚いたように目を瞬いた。
「話しましたか」
「寝言でな」
「え」
「嘘だ」
セラは少しだけ頬を膨らませた。
そんな表情をするのか、とライガは思った。神殿で死ぬ準備をさせられていた少女は、この数日で少しずつ顔を取り戻している。怒り、戸惑い、笑い、恐れる。そのどれもが、聖女候補という白い布の下に隠されていたものだった。
「悪趣味です」
「悪人だからな」
ライガは立ち上がり、肩を回した。昨夜の神官兵との戦いで、左腕に浅い傷を負っている。深くはないが、動かすと痛んだ。
セラがすぐに気づいた。
「傷を見せてください」
「いらん」
「化膿します」
「しない」
「なぜ分かるんですか」
「気合いだ」
「気合いで傷は治りません」
「勇者は善人を殺せば強くなるんだ。傷くらい気合いで治ってもいいだろ」
「それは理屈になっていません」
セラは立ち上がり、薬草袋を手にした。
ライガは面倒そうにため息をついたが、抵抗はしなかった。セラはそれを、ほんの少しだけ信頼されたように感じた。たぶん本人はそんなつもりではない。だが、少なくとも以前なら、傷を見せることさえしなかっただろう。
彼女は傷口を洗い、薬草を潰したものを当てた。
ライガは眉ひとつ動かさない。
「痛くないんですか」
「痛い」
「では、痛い顔をしてください」
「何のために」
「こちらが不安になります」
「治療する側が患者に気を遣わせるな」
「患者が強情だからです」
セラがそう言うと、ライガはかすかに笑った。
それは本当に一瞬だった。火の明かりが揺れなければ、見逃していたかもしれない。
セラは布を巻きながら言った。
「ライガさんは、ときどき普通に笑うんですね」
「悪人でも笑う」
「そうでした」
「悪人に夢を見すぎだ」
「夢を見ているつもりはありません」
「なら、なぜついてくる」
セラの手が止まった。
問いは唐突だった。
だが、いつか聞かれるとは思っていた。
「リリィを助けるためです」
「それだけか」
「神殿の真実を知るためです」
「それだけか」
セラは包帯の端を結んだ。
少し強く結びすぎたのか、ライガの眉がわずかに動いた。
「ライガさんが、どうして善人を殺さないのか知りたいからです」
ライガはセラを見た。
火の赤い光が、彼の片側の顔だけを照らしていた。
「知ってどうする」
「分かりません」
「またそれか」
「でも、知りたいと思いました」
「人の過去を覗く趣味は悪い」
「神殿では、聖女候補の過去も徳値もすべて記録されます」
「最悪の場所だな」
「はい」
セラは少しだけ微笑んだ。
「だから、誰かを記録するなら、その人が話してくれることだけを聞きたいです」
ライガは黙った。
外では、夜明けの鳥が鳴いた。
灰の谷には鳥がいなかったが、この辺りまで来ると森の気配が戻っている。空は少しずつ白み、遠くにアルメリアへ続く街道が見えた。そこへ行けば、神殿都市に近づく。リリィも、神具も、すべてがある。
ライガは火に小枝を投げ入れた。
「ノアというガキがいた」
セラは顔を上げた。
ライガは火を見ていた。
「俺と同じ村で育った。血は繋がってない。親戚でもない。だが、よく一緒にいた」
「友人ですか」
「向こうはそう思ってたかもしれない」
「ライガさんは」
「俺は、うるさい奴だと思ってた」
そう言いながら、ライガの声はどこか遠かった。
セラは黙って聞いた。
小屋の中に、火のはぜる音だけが響いた。
「小さい村だった。山の麓で、畑も少ない。冬になれば、食うものに困る。神殿の結界からも外れていたから、魔物も出た。大人たちはいつも疲れていた。子どもは早く役に立てと言われた」
ライガは自分の手を見た。
「俺は役に立たなかった」
少年時代のライガは、村で評判が悪かった。
よく物を盗んだ。
といっても、金持ちから大金を奪ったわけではない。村に金持ちなどいなかった。盗むのは干し肉、熟しすぎた果物、干してある服、時には鶏の卵。盗みが見つかれば殴られた。謝れと言われても謝らなかった。余計に殴られた。
喧嘩もした。
相手が年上でも、大人でも、腹が立てば飛びかかった。勝てるわけがない。地面に叩きつけられ、鼻血を出し、泥だらけになって帰る。そうするとノアが水を持ってきた。
「またやったの」
ノアはいつも困ったように言った。
「うるさい」
「手、見せて」
「触るな」
「血が出てる」
「出てない」
「出てるよ」
ノアは勝手にライガの手を取り、布を巻いた。巻き方は下手だった。強すぎたり、弱すぎたりした。それでもノアは真剣だった。
「君は、どうしてすぐ怒るの」
「腹が立つからだ」
「それは分かるけど、殴ったら痛いよ」
「殴られても痛い」
「じゃあ、殴らない方がいい」
「向こうが先に言った」
「何を」
「悪人って」
ノアは少し考えてから、言った。
「君は悪人じゃないよ」
ライガはその言葉が嫌いだった。
悪人じゃない。
ノアは簡単にそう言った。まるで、擦り傷に薬草を当てるように。だがライガには、それが気休めに聞こえた。村の誰もが自分をろくでなしだと思っている。盗みをする。喧嘩をする。大人の言うことを聞かない。神殿の祈りの時間には居眠りをする。
悪人でないはずがない。
だがノアは、頑固に同じことを言った。
「君は悪人じゃない」
「盗んだぞ」
「お腹が空いてたんでしょ」
「殴ったぞ」
「先に嫌なことを言われたんでしょ」
「祈らなかった」
「眠かったんでしょ」
「お前は馬鹿か」
「よく言われる」
ノアは笑った。
その笑い方も嫌いだった。
何も分かっていないようで、全部分かっているようでもあった。
「ノアは」
セラが静かに言った。
「善い子だったんですね」
「善い、なんて言葉じゃ足りない」
ライガは即座に言った。
その反応の速さに、セラは少し驚いた。
ライガ自身も気づいたのか、視線を逸らした。
「誰にでも優しかった。腹が減ってるのに、自分のパンを分ける。自分も寒いのに、毛布を渡す。大人に怒鳴られても、相手が疲れてるんだと言う。魔物に襲われた旅人が村へ来たとき、皆が怖がって近寄らないのに、あいつだけ水を持っていった」
「怖くなかったのでしょうか」
「怖かっただろうな。手が震えてた」
「それでも行ったんですか」
「ああ」
ライガは目を細めた。
「だから、馬鹿だった」
そう言う声には、怒りに似たものがあった。
だがそれはノアに向けられた怒りではない。そんなふうにしかノアを思い出せない自分への怒りかもしれないと、セラは思った。
ライガの村にも、徳値を測る記録石はあった。
ただし、神殿都市のものとは違い、古く、精度も低かった。祭りの日に神官がやってきて、子どもたちの徳値を測る。高い数値が出れば、親は喜んだ。神に愛された子だと、周囲も褒めた。
ノアの徳値は、いつも高かった。
ライガの徳値は、いつも低かった。
ある年など、記録石がほとんど反応しなかった。神官は困ったように笑い、村人たちは失笑した。
「まあ、あの子だからね」
「祈りもろくにしないし」
「将来は盗賊か傭兵だろう」
ライガは平気な顔をしていた。
いや、平気な顔を作っていた。
その日の帰り道、ノアがりんごを一つ差し出してきた。
「食べる?」
「いらない」
「本当は食べたいでしょ」
「いらない」
「じゃあ、ここに置いていくね」
ノアは道端の石の上にりんごを置いて去った。
ライガはしばらくそれを睨んでいた。
誰も見ていないことを確認してから、食べた。
その夜、腹が痛くなった。未熟なりんごだった。
ノアは次の日、薬草を持ってきた。
「だから半分にすればよかったのに」
「お前が置いていったんだろ」
「食べたのは君だよ」
「うるさい」
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
冬が来て、春が来て、畑を耕し、また喧嘩をして、ノアが手当てをする。ライガは悪態をつき、ノアは困ったように笑う。村は貧しく、灰色で、腹の立つことばかりだったが、それでも終わらないと思っていた。
勇者が来るまでは。
その日、村には朝から妙な緊張があった。
山道を、白い旗を掲げた一団が下ってきた。先頭にいたのは勇者だった。名前はもう覚えていない、とライガは言った。あるいは、覚えたくないのかもしれなかった。
勇者は若かった。
笑顔が整っていた。
村長は膝をつき、神官は祈り、村人たちは歓声を上げた。勇者が来たのだ。これで村は守られる。最近、山の向こうで魔物が増えているという噂があった。勇者はそれを退けるために来たのだと、誰もが思った。
だが、勇者が求めたのは供物だった。
「魔物の群れが北へ集まっています」
勇者は言った。
「このままでは、周辺の村々が襲われるでしょう。私は力を得なければなりません」
村人たちは黙った。
善人を殺せば勇者が強くなることは、皆知っていた。だが、それはもっと大きな町や神殿都市で行われるものだと思っていた。自分たちのような小さな村に、その番が回ってくるとは考えていなかった。
勇者は徳値の測定を求めた。
村の古い記録石が持ち出された。
村人たちは一列に並ばされた。
ライガは列の最後の方にいた。逃げようと思えば逃げられたかもしれない。だが、なぜか逃げなかった。勇者が自分を選ぶはずがないと分かっていたからだ。徳値が低い。神官も村人も、そう知っている。
事実、記録石はライガにほとんど反応しなかった。
勇者は彼を見て、何とも言えない顔をした。
「君は、もっと善く生きなさい」
そう言った。
ライガは唾を吐きかけようとして、村長に殴られた。
列の前の方で、ノアの番が来た。
記録石が強く光った。
村人たちが息を呑んだ。
神官が数値を読み上げる。
「徳値、千百四十」
高すぎる数値だった。
勇者の目が変わった。
村人たちの目も変わった。
ノアは最初、何が起きたのか分かっていないようだった。記録石を見つめ、それからライガを見た。少し困ったような、いつもの顔だった。
ライガは胸の奥が冷えるのを感じた。
すぐに分かった。
ノアが選ばれる。
この村で一番善いから。
誰にでも優しかったから。
パンを分けたから。
怪我人を助けたから。
ライガにまで「悪人じゃない」と言い続けたから。
その全部が、死ぬ理由になる。
「待てよ」
ライガは列を飛び出した。
村長が止めようとしたが、振り払った。
「俺にしろ」
勇者が振り返った。
「何を」
「俺を殺せ。こいつじゃなくて、俺を殺せ」
村人たちがざわめいた。
ノアが青ざめる。
「ライガ、だめだよ」
「黙ってろ」
ライガは勇者を睨んだ。
「俺だって村の人間だ。殺すなら俺を殺せ」
勇者は困ったように眉を寄せた。
「君の徳値では、力にならない」
「関係ねえだろ」
「関係あります。これは処刑ではありません。尊い献身です。徳ある魂だからこそ、勇者の力となる」
「なら俺が今から善いことをする」
ライガはノアの前に立った。
「こいつを助ける。どうだ。善いことだろ」
誰も笑わなかった。
勇者も笑わなかった。
ただ、ひどく哀れむような目でライガを見た。
「君の気持ちは尊い。ですが、徳とはその場の行動だけで測るものではありません」
「ふざけるな」
「下がりなさい」
「嫌だ」
ライガは足元の石を拾い、勇者へ投げた。
石は勇者の鎧に当たり、乾いた音を立てて落ちた。
次の瞬間、勇者の従者に腹を蹴られた。
息が止まった。
地面に倒れたライガの視界に、ノアの顔が映る。
「ライガ!」
ノアが駆け寄ろうとしたが、神官に止められた。
勇者は静かに言った。
「その子は悪くありません。混乱しているだけです」
混乱。
その言葉が、ライガには妙に腹立たしかった。
自分は混乱などしていない。
はっきり分かっている。
ノアが殺されようとしている。
善いから。
優しいから。
世界のためという言葉で。
ライガは立ち上がろうとした。だが従者に押さえつけられた。腕をねじられ、顔を土に押しつけられる。土の匂いがした。血の味もした。
ノアは膝をつかされた。
勇者は祈りの言葉を唱えた。
村人たちは泣いていた。
だが誰も止めなかった。
ライガは喉が裂けるほど叫んだ。
「やめろ」
誰も聞かなかった。
ノアは泣いていなかった。
ただ、ライガを見ていた。
そして、微笑んだ。
いつもの、困ったような笑みだった。
「君は悪人じゃないよ」
それが、ノアの最後の言葉だった。
勇者の剣が、ノアの胸を貫いた。
ライガはその瞬間の音を、今も覚えている。
布を裂く音。
息が抜ける音。
村人たちが泣きながら拍手する音。
勇者の体を光が包む音。
音のはずがないものまで、すべて音として残っている。
ノアの体が倒れた。
勇者のレベルが上がった。
魔物の群れは、その後たしかに退けられたらしい。
村は救われた。
記録にはそう残った。
ライガは三日間、誰とも話さなかった。
ノアの墓は村の丘に作られた。村人たちは花を供え、涙を流し、彼の献身を称えた。神官は「彼の魂は勇者様の剣に宿り、今も世界を守っている」と語った。
ライガはその言葉を聞いて、初めて人を殴り殺しかけた。
止められた。
また、悪人と呼ばれた。
それでいいと思った。
ノアが善人だったから殺されたのなら、自分は悪人でいようと思った。
善人と認められれば、誰かの都合で殺される。
英雄と呼ばれれば、誰かを犠牲にする側になる。
なら、悪人でいい。
神に嫌われ、村に疎まれ、記録石が反応しない人間でいい。
ノアの墓の前で、ライガはそう決めた。
その夜、村の物置から剣を盗んだ。
古い剣だった。刃こぼれしており、柄の革も腐りかけていた。だが、人を殺すには十分だった。
最初に殺した勇者は、ノアを殺した男ではなかった。
彼を追いかけたが、間に合わなかった。勇者は別の町へ行き、また別の善人を殺して力を得た。ライガが追いついたときには、すでに戦場で死んでいた。
だから、別の勇者を殺した。
山道で、供物を探していた勇者だった。
その勇者は老人を連れていた。徳値の高い薬師だった。ライガは勇者の従者を背後から殴り倒し、薬師を逃がした。
勇者は驚いた。
「何者だ」
ライガは答えなかった。
戦いはひどいものだった。
ライガは弱かった。剣の振り方も知らない。勇者は強かった。祝福を受け、経験値を蓄え、聖剣を持っていた。
まともに戦えば勝てなかった。
だからまともに戦わなかった。
砂を投げた。
足を噛んだ。
落とし穴に誘導した。
岩で頭を殴った。
剣で刺したのは、勇者が倒れてからだった。
胸を刺す手は震えていた。
人を殺すのは、初めてだった。
勇者は血を吐きながら言った。
「私を殺しても、経験値は入らないぞ」
ライガはそのとき、初めて笑った。
「都合がいい」
彼は言った。
「これなら、俺は最後まで強くなれないままだ」
勇者は意味が分からないという顔で死んだ。
実際、その通りだった。
勇者を殺しても、ライガのレベルは上がらなかった。徳値の低い者を殺しても、何も得られない。悪人を殺しても、勇者を殺しても、経験値は入らない。
だが、ライガにはそれがよかった。
強くなるために人を殺すのではない。
強くなる仕組みを止めるために、人を殺す。
それなら、自分は勇者とは違うところに立てる。
少なくとも、ノアを殺した剣とは違う理由で剣を振れる。
その日から、ライガは勇者を狩り始めた。
村には戻らなかった。
戻れば、ノアの墓を見ることになる。自分を悪人じゃないと言った少年の墓を見ることになる。その前で、自分は何と名乗ればいいのか分からなかった。
だから、名乗りを決めた。
悪人。
それでよかった。
悪人なら、善人を殺さなくていい。
悪人なら、英雄にならなくていい。
悪人なら、誰かが自分のために死ぬこともない。
火が小さくなっていた。
セラはしばらく何も言えなかった。
ライガの過去は、想像していたより静かで、残酷だった。大きな復讐劇ではない。世界を変える使命に目覚めた物語でもない。たった一人の少年が、たった一人の友人を救えなかった。それだけだった。
だが、その「それだけ」が、ライガのすべてを形作っていた。
「ノアさんは」
セラは慎重に言った。
「本当に、あなたを悪人ではないと思っていたのですね」
ライガは答えなかった。
「その言葉は、あなたにとって救いだったのではないですか」
「呪いだ」
即答だった。
「どうして」
「悪人じゃないと言われたから、俺はあいつの代わりに死ねなかったことを思い出す」
ライガは火を見つめていた。
「俺が本当に悪人なら、あいつを殴ってでも逃がした。村に火をつけてでも、勇者の馬を殺してでも、何でもした。だが俺は、あいつが殺されるのを見ていた」
「押さえつけられていたのでしょう」
「関係ない」
「子どもだったんですよ」
「関係ない」
声が低くなった。
セラはそれ以上、すぐには言えなかった。
ライガは自分を責めている。
誰よりも長く、誰よりも深く。
だから悪人と名乗る。
罪を背負うためではなく、許されないために。
「ライガさん」
「何だ」
「ノアさんが今のあなたを見たら、やはり悪人ではないと言うと思います」
ライガの目がセラへ向いた。
冷たい目だった。
「知ったように言うな」
「はい。知りません」
セラは怯まなかった。
「私はノアさんを知りません。あなたの話でしか知りません。でも、その話の中のノアさんなら、きっとそう言います」
「だから何だ」
「あなたがどれだけ否定しても、あなたをそう呼ぶ人がいたことは消えません」
ライガは黙った。
セラは胸元の袋を握った。灰の谷で老人が言った言葉を思い出す。
見たものを、見なかったことにしない。
聞いたことを、聞かなかったことにしない。
マルタを徳源番号にしない。
ミリアを美談にも悪鬼にも押し込めない。
ならば、ノアの言葉も消してはいけない。
「私は、あなたを英雄とは呼びません」
セラは言った。
「あなたが嫌がるからです」
「分かってるなら呼ぶな」
「はい。でも、悪人とだけ呼ぶのも違うと思います」
「他に何がある」
セラは少し考えた。
神殿なら、すぐに言葉を与えただろう。救済者。異端者。罪人。聖者。英雄。悪鬼。どれも人を整理するための名前だった。
けれどライガをそういう言葉に閉じ込めるのは、違う気がした。
「まだ、分かりません」
セラは正直に言った。
「でも、分かるまで見ます」
「勝手にしろ」
ライガは立ち上がった。
空はすでに明るくなっていた。街道の先には、遠く霞む平野が見える。そのさらに向こうに、神殿都市アルメリアがある。リリィがいるかもしれない場所。神具が眠る場所。善人を殺す仕組みの中心。
セラは荷物をまとめた。
出発する直前、彼女は振り返った。
廃屋の隅に、小さな白い花が咲いていた。神殿の庭に咲いていた花に似ている。弱そうで、けれど風に散らない花。
セラはそれを摘まなかった。
そこに咲いているものを、自分の祈りのために奪う必要はないと思った。
街道へ出ると、朝の光が二人を照らした。
しばらく無言で歩いた。
やがてセラが言った。
「ライガさん」
「今度は何だ」
「ノアさんの名前も、私が覚えていていいですか」
ライガは足を止めなかった。
ただ、ほんの少しだけ歩調が乱れた。
「好きにしろ」
「はい」
「だが、記録するな」
「なぜですか」
「神殿の記録みたいになる」
セラは頷いた。
「では、まずは覚えておきます」
「忘れてもいい」
「忘れません」
ライガは舌打ちした。
「聖女候補ってのは、頑固なのか」
「神殿では、従順だと褒められていました」
「見る目がないな」
「私もそう思います」
ライガはまた、ほんの少しだけ笑った。
その横顔を見て、セラは思った。
ノアという少年は、たぶんこの笑い方を知っていたのだろう。
悪態の奥にある、ほんのわずかな柔らかさを。
村の誰も気づかなかったものを、ノアだけは見ていたのだろう。
だから、彼は最後に言ったのだ。
君は悪人じゃないよ、と。
ライガはそれを呪いだと言った。
けれどセラには、その言葉がまだ死んでいないように思えた。
ノアは死んだ。
勇者の力になったと記録された。
村は救われたと記録された。
だが、ライガの中でノアの言葉は消えていない。
消えないから、痛む。
痛むから、ライガは善人を殺さない。
それなら、その痛みは呪いであると同時に、最後の祈りなのかもしれなかった。
街道の先で、荷馬車が横転していた。
車輪が壊れ、積み荷が道に散らばっている。商人らしき男が困り果てた顔で車輪を見ていた。近くには、幼い娘が座り込んで泣いている。
ライガは足を止めた。
セラは彼を見た。
「助けますか」
「通り道の邪魔だ」
ライガはそう言って、荷馬車へ向かった。
商人は最初、警戒した。黒い外套、傷だらけの剣、荒んだ目つき。どう見ても親切な旅人には見えない。
「金はないぞ」
商人が言った。
「いらん」
「なら何を」
「車が邪魔だと言った」
ライガは壊れた車輪を確認し、積み荷を降ろすよう指示した。セラも手伝った。娘はまだ泣いていたので、セラは水を飲ませ、膝の擦り傷を洗った。
ライガは力任せではなく、手際よく車体を持ち上げた。木材を噛ませ、車輪を外し、応急処置をする。慣れている動きだった。
「できるんですね」
セラが言うと、ライガは顔をしかめた。
「昔、荷車を盗んで壊した」
「それで覚えたんですか」
「弁償させられた」
「悪人にも歴史がありますね」
「うるさい」
しばらくして、荷馬車はどうにか動くようになった。
商人は何度も頭を下げた。
「助かった。あんた、見かけによらず」
「言うな」
「いや、いい人だな」
その瞬間、ライガの顔が露骨に歪んだ。
セラは思わず口元を押さえた。
商人は何かまずいことを言ったのかと慌てたが、ライガは背を向けた。
「行くぞ」
「はい」
二人が歩き出すと、背後から娘の声がした。
「ありがとう!」
ライガは振り返らなかった。
ただ、片手を軽く上げた。
セラはその背中を見ていた。
悪人。
ライガはそう名乗る。
たぶん、これからも名乗り続ける。
それを無理に否定しても、彼は受け入れないだろう。
けれど、セラは心の中でノアの名前を繰り返した。
ノア。
ライガを悪人ではないと言った少年。
善人だったから殺された少年。
その名を忘れないことが、ライガの傷を勝手に救うことにはならない。救えるなどと思うのは傲慢だ。
それでも、覚えていたかった。
誰かが善かったから殺された世界で、その善さがただの燃料にされないように。
街道の先に、遠く白い塔が見えてきた。
アルメリアの外郭塔だった。
神殿都市はまだ遠い。
だが、確かに近づいている。
ライガはその塔を見据え、低く言った。
「ノアを殺した仕組みが、あそこにある」
セラは頷いた。
「リリィを殺そうとしている仕組みも」
「ああ」
「マルタさんを殺した仕組みも」
「ああ」
「ミリア様を壊した仕組みも」
ライガは何も言わなかった。
だが、その沈黙は否定ではなかった。
セラは白い塔を見つめた。
美しい塔だった。朝日を浴び、神の指のように空へ伸びている。遠くから見れば、救いの象徴に見える。巡礼者なら涙を流して祈るかもしれない。
けれど、セラはもう知っている。
美しい言葉ほど、人を殺すときに便利に使われる。
美しい塔の下には、きっと多くの名が埋まっている。
彼女は胸元の袋を握った。
老人から託された記録。
ノアの名。
マルタの名。
ミリアの名。
そして、まだ生きているリリィの名。
そのすべてを、美談にしないために。
セラは歩き出した。
死ぬためではなく、誰かを供物にしないために。
隣を歩く男は、悪人を名乗っている。
それでも、彼が善人を殺さないことを、セラはもう知っていた。




