第四章 魔王のいない戦争
灰の谷へ向かう道には、鳥がいなかった。
森を抜け、丘陵地帯へ入ったあたりから、空の色が変わった。雲が厚くなったわけではない。雨が近いわけでもない。ただ、世界そのものから色が少しずつ抜け落ちていくようだった。草は灰をかぶったように白く、道端の石は乾いた骨のように鈍く光っている。風が吹くと、土の表面から細かな粉が舞い上がった。
セラは布で口元を覆いながら歩いた。
神殿の地図では、この一帯は「旧魔王戦線跡」と記されていた。百年前、人間と魔王軍が最後に激突した場所。多くの勇者と聖女が命を捧げ、結界の礎が築かれた聖地だと教えられている。神殿では年に一度、この地に向かって祈りを捧げた。
勇者たちの犠牲を忘れてはならない。
聖女たちの献身を忘れてはならない。
魔王軍の恐怖を忘れてはならない。
そう繰り返されてきた。
だが実際に足を踏み入れた灰の谷は、セラが想像していた戦場とは違っていた。
砕けた鎧はない。
折れた魔族の槍もない。
巨大な魔獣の骨もない。
あるのは、古い焼け跡と、崩れた家の跡と、埋まりきらずに地表へ覗いた白い骨だった。
ライガはその骨の前で足を止めた。
しゃがみ込み、土を払う。
骨は細かった。大人のものではない。
「子どもですね」
セラは声を落とした。
「たぶんな」
ライガは短く答えた。
彼は指先で骨の周囲を軽く掘った。すぐに、別の骨が出てきた。肋骨。小さな手。さらに少し離れた場所には、頭蓋骨が半分ほど土に埋もれていた。
セラは思わず目を背けた。
「ここは、魔王軍との戦場だったはずです」
「神殿の記録ではな」
「でも、これは」
「村だ」
ライガは立ち上がった。
「戦場じゃない。焼かれた村の跡だ」
セラは周囲を見回した。
言われてみれば、地面には道の痕跡があった。石を並べた井戸の跡。崩れた竈。炭化した柱。家々は円を描くように並んでいたらしい。中央には広場だったと思われる空間があり、その奥に石造りの小さな祠が残っている。
魔王軍の拠点ではない。
人が暮らしていた場所だ。
パンを焼き、井戸水を汲み、子どもが走り、老人が椅子に座っていた場所だ。
「なぜ、こんなところが聖地に」
「聖地ってのは便利だ」
ライガは灰色の土を靴先で払った。
「死体が多い場所でも、名前を変えれば祈る場所になる」
セラは答えられなかった。
ミリアが残した「魔王はもういない」という言葉は、ずっと胸に引っかかっていた。もし魔王がいないのなら、勇者制度は何のために続いているのか。善人を殺してまで得た力は、誰と戦うために使われているのか。
その答えを求めて灰の谷へ来た。
だが、最初に見つけたのは答えではなく、隠された死者たちだった。
ライガは谷の奥へ歩き出した。
「急ぐぞ」
「はい」
「足元を見るな」
「なぜですか」
「見れば進めなくなる」
セラは唇を結んだ。
足元を見ないようにすることは、思っていたより難しかった。灰に覆われた地面には、ところどころ白いものが覗いている。それが石なのか骨なのか、判断できない。踏むたびに、何かを壊している気がした。
谷を進むにつれ、風が強くなった。
灰の粒が頬に当たる。喉が乾く。空気には古い焦げ臭さが混じっていた。百年経っても消えない匂いなのか、それともセラの想像が匂いを作り出しているのか、分からなかった。
やがて、谷の奥に塔が見えてきた。
塔といっても、神殿の尖塔のような美しいものではない。石を積んだだけの粗末な建物で、上部は崩れ、壁には蔦が絡んでいる。入口には扉がなかった。ただ黒い穴のように、口を開けている。
「ここか」
ライガは腰の剣に手を置いた。
セラも緊張した。
「ミリア様は、元神殿記録官がいると言っていました」
「生きてればな」
「ここに一人で住んでいるのでしょうか」
「まともじゃないことは確かだ」
ライガは塔へ近づいた。
そのとき、中から声がした。
「勇者か」
老人の声だった。
乾いていて、細い。けれど、耳の奥に残る声だった。
ライガは足を止めた。
「違う」
「では神官か」
「違う」
「では死者か」
「まだだ」
塔の中で、かすかな笑い声がした。
「なら入れ。ここへ来る者は、勇者か神官か死者だけだと思っていた。まだ生きている別のものなら、少しは珍しい」
ライガはセラを振り返った。
「後ろにいろ」
「はい」
二人は塔の中へ入った。
内部は薄暗かった。窓は高い位置に一つだけあり、そこから差し込む光が空中の灰を白く浮かび上がらせている。壁一面に棚が作られ、古い紙束や木簡、割れた記録石が乱雑に積まれていた。床にも書類が散らばり、歩く場所を探すのが難しい。
奥に老人が座っていた。
痩せていた。骨と皮だけのような体に、古い神官服をまとっている。服は色褪せ、袖口は破れていた。髪は白く、髭は胸元まで伸びている。だが、目だけは異様に鋭かった。
老人はセラを見た。
「聖女候補か」
セラは息を呑んだ。
「どうして」
「神殿の白は、何年経っても忌々しい」
老人は鼻で笑った。
「それに、その目だ。死ぬことを教え込まれた子どもは、皆同じ目をしている」
セラは何も言えなかった。
ライガが前に出た。
「ミリアに聞いて来た」
「ミリア」
老人の表情がわずかに変わった。
「泣き虫の勇者か。まだ生きていたのか」
「死んだ」
老人は目を閉じた。
長い沈黙が落ちた。
彼は祈らなかった。胸に手を当てることもしなかった。ただ、目を閉じて、少しだけ顎を引いた。それが彼なりの弔いだったのかもしれない。
「そうか」
老人は言った。
「あの子は最後まで、名前を覚えていたか」
「ああ」
「馬鹿な子だ」
その言葉は冷たく聞こえた。だが声の奥には、痛みがあった。
セラは一歩前へ出た。
「あなたは、ミリア様を知っているのですか」
「記録官だったころにな。勇者候補の徳源処理記録を担当していた。あの子は初めて供物を殺した夜、私の部屋へ来て、名前を教えてくれと言った」
「名前を」
「そうだ。神殿の正式記録では、供物は徳源番号で管理される。だがあの子は、番号ではなく名を覚えたいと言った。私は教えた。教えたことを、ずっと後悔している」
「なぜですか」
「覚えれば救われると、あの子に思わせた」
老人はセラを見た。
「名前を覚えることは、忘れるよりましだ。だが、殺すことを止めるわけではない」
セラは唇を噛んだ。
ミリアの剣の柄に刻まれた無数の名が、目の前に浮かんだ。あれは彼女なりの償いだった。だが同時に、彼女を殺し続けさせる鎖でもあったのかもしれない。
ライガが言った。
「魔王はもういないと聞いた」
老人の目が、ゆっくりとライガへ移る。
「誰から」
「ミリアからだ」
「死に際の言葉なら、重いな」
「本当か」
老人はすぐには答えなかった。
彼は椅子から立ち上がった。痩せた体は頼りなく見えたが、動きは思ったよりしっかりしていた。棚の奥から革紐で束ねられた古い記録を取り出す。
「魔王はいた」
老人は言った。
「神殿が作った嘘ではない。百三十二年前、北方から魔族の王が現れ、人間の国々を滅ぼしかけた。村は焼かれ、町は落ち、王都まであと三日の距離に迫った」
彼は記録を机の上に広げた。
そこには、古い戦況図が描かれていた。北から南へ伸びる黒い矢印。消された砦。焼かれた町。防衛線は何度も後退している。
「人間は負けていた。完全にな。そこで神殿は、神託を受けた」
「善意を力に変える祝福ですか」
セラが言うと、老人は皮肉げに笑った。
「そう教わったか」
「違うのですか」
「半分は正しい。徳ある魂が力になる仕組みは、本当に生まれた。最初の勇者は、自分自身の徳を燃やして魔王を討った。最初の聖女は、自分の命を使って結界を張った」
老人は指先で戦況図の端を叩いた。
「問題は、そのあとだ」
「魔王は倒されたのですね」
「ああ。百二十七年前にな」
セラは息を止めた。
神殿では、魔王は今も存在し、北の闇の奥で力を蓄えていると教えられていた。勇者たちは魔王軍との戦いに備え、力を得続けなければならない。聖女候補たちはそのために育てられる。すべては、再来する魔王を退けるため。
だが老人の言葉が本当なら、魔王は百年以上前に死んでいる。
「では、神殿は」
「戦争が終わっても、仕組みは残った」
老人は古い記録石を机に置いた。
石はひび割れていたが、中央に薄い光が残っている。
「戦争中、徳を力に変える制度は必要だった。少なくとも、当時の人々はそう信じた。だが魔王が死んだあと、神殿は気づいた。善意を燃料にする装置は、戦争以外にも使えると」
ライガの目が細くなった。
「何に使った」
「結界維持。貴族の延命。神殿都市の繁栄。勇者階級の強化。疫病除けの聖水生成。土地の浄化。いくらでもある」
老人は笑った。
それは笑いというより、喉からこぼれる乾いた音だった。
「人は、一度便利な犠牲を覚えると、なかなか手放せない」
セラはめまいを覚えた。
神殿の白い廊下が、記憶の中で揺れる。祈りの言葉。聖女たちの名。尊い犠牲。世界のため。勇者の力。リリィの小さな手。
そのすべてが、違う形で見えてくる。
「では、私は」
セラの声は震えた。
「私は、世界を救うために死ぬのではなかったのですか」
老人はセラを見た。
その目に、同情はあった。
しかし、慰めはなかった。
「世界という言葉の範囲を、誰が決めるかだ」
「どういう意味ですか」
「神殿は神殿の世界を守っている。王侯貴族は王侯貴族の世界を守っている。勇者は勇者制度を守っている。民は、守られていると思わされている。君の命は、その全部を支えるために使われる」
セラは机に手をついた。
立っていられなかった。
リリィが自分の代わりに選ばれそうになったとき、セラは恐怖と怒りで神殿を逃げ出した。だが、それでもどこかで信じていた。神殿は間違っていない。ただ、やり方が残酷なだけだ。勇者は必要で、聖女も必要で、自分の死には意味があるのだと。
その最後の支えが、いま折れた。
「嘘だったのですね」
「全部が嘘ではない」
老人は言った。
「そこが厄介だ。魔物は今もいる。結界が弱まれば、辺境の村は襲われる。勇者の力で救われた町も実際にある。神殿の聖水で疫病が止まった例もある」
「では」
「だからといって、善人を殺し続けていい理由にはならない」
老人の声が低くなった。
「嘘は、ほんの少しの真実を混ぜたときが一番強い」
ライガは無言で記録を見ていた。
彼の表情から感情を読むのは難しかった。ただ、右手が剣の柄に触れている。怒っている。セラにはそう思えた。
「神殿を潰す」
ライガは言った。
老人は驚かなかった。
「そう言うと思った」
「止めるのか」
「止めても聞かない顔だ」
「なら黙っていろ」
「だが、教える義務はある」
老人は別の記録を取り出した。
それは現在の結界網を示す地図だった。神殿都市アルメリアを中心に、いくつもの線が周辺地域へ伸びている。
「今の結界は、神殿地下の神具によって維持されている。善人の魂を燃料にしてな」
「壊せばいい」
「壊せば、結界は消える」
「それがどうした」
「北の森に残った魔物が流れ込む。谷沿いの村は三日で半分消えるだろう。山間部の町も危ない。ここへ来る途中、君たちはリーベルに寄ったはずだ」
セラは頷いた。
「はい」
「あの町も結界内だ。神具が止まれば、魔狼程度では済まない」
ライガは老人を睨んだ。
「脅しか」
「事実だ」
老人は静かに言った。
「神殿は悪だ。だが、悪でありながら世界を支えている。だから誰も簡単には壊せない」
塔の中に、灰混じりの風が吹き込んだ。
書類の端が揺れる。
セラは両手を握りしめた。
神殿を潰せば、多くの人が死ぬかもしれない。
神殿を残せば、善人が殺され続ける。
それはミリアが言っていた問いと同じだった。
ひとりを殺して、多くを救うのか。
多くを危険に晒して、ひとりを救うのか。
セラはその問いに、答えを出せなかった。神殿にいたころなら、迷わず前者を選ぶよう教えられた。徳ある者の犠牲は尊い。多くの命が救われるなら、その死は意味を持つ。
けれど、マルタを見た。
ヨナの泣き声を聞いた。
ミリアの涙を見た。
自分自身も、死にたくないと言った。
ならば、もう簡単には頷けない。
「別の方法はないのですか」
セラは老人に尋ねた。
老人はじっと彼女を見た。
「その問いを、神殿にいた君が口にするのか」
「はい」
「以前なら、何と答えた」
「犠牲は必要です、と」
「今は」
セラは少し黙った。
「必要だと言われる犠牲は、いつも弱い人のところへ来る気がします」
老人の目がわずかに細くなった。
ライガも彼女を見た。
セラは続けた。
「マルタさんは優しかったから選ばれました。リリィは幼いのに、私の代わりになろうとしました。ミリア様は罪を背負える人だったから、ずっと背負わされていました。神殿の言う犠牲は、いつも断れない人を探しているように思えます」
言い終えたあと、セラは自分の胸が激しく上下していることに気づいた。
それは怒りだった。
彼女は初めて、はっきりと怒っていた。
老人は小さく頷いた。
「いい目になった」
「え」
「死ぬ準備をしている目ではない。疑っている目だ」
老人は棚の奥へ向かった。
積まれた記録をどかし、床板の一部を外す。そこには、黒い金属の筒が隠されていた。老人はそれを取り出し、机に置いた。
「これは、神具の設計断片だ」
ライガが近づいた。
「持ち出したのか」
「盗んだ。記録官を追放される前にな」
「なぜ今まで使わなかった」
「使える者がいなかった」
老人は筒を開け、中から薄い金属板を取り出した。板には複雑な文様と文字が刻まれている。セラにはほとんど読めなかったが、徳流、結界核、逆流という単語だけは目に入った。
「神具は、善人の魂を燃やして力に変える。だが、燃料の流れを逆転させれば、蓄積された経験値を解放できる可能性がある」
「解放するとどうなる」
「勇者たちが得た力は失われる。結界も一時的に消える。だが、魂を燃やし続ける仕組みは止まる」
「一時的に消える結界を、どうするんですか」
セラが尋ねると、老人は首を振った。
「そこまでは分からない」
「分からない?」
「完璧な答えなどない。神殿は完璧な答えを装って、人を殺してきた。私はそれを嫌っている」
老人は金属板をセラへ差し出した。
「ただし、神具を止めるには中枢へ行く必要がある。そこへ入れるのは、徳値の高い者か、勇者の祝福を受けた者だけだ」
セラは金属板を受け取れなかった。
その意味は、分かった。
自分なら入れる。
自分の徳値なら、神具は扉を開く。
ライガが老人の手を払いのけた。
「渡す相手を間違えてる」
「では君が行くか」
「行く」
「中枢は徳の低い者を拒む。君はどう見ても、神に愛された顔ではない」
「顔で決めるな」
「冗談ではない。記録石を持ってこなくても分かる。君は徳値が低い。低すぎるかもしれない」
ライガは鼻で笑った。
「褒め言葉だな」
「だが、神具には入れない」
老人はセラを見た。
「彼女なら入れる」
「言うな」
ライガの声が鋭くなった。
老人はひるまなかった。
「事実だ」
「その事実を使って、この女をまた供物にする気か」
「私は選択肢を示している」
「神殿と同じ言い方だ」
二人の間に、殺気に近いものが走った。
セラは慌てて口を挟んだ。
「やめてください」
ライガは黙った。
老人も口を閉じた。
「私は、まだ何も選んでいません」
セラは言った。
その言葉を口にして、彼女は自分でも驚いた。
神殿では、選ぶことなどなかった。与えられた役目を受け入れるだけだった。死を選んだのではない。選ばされたのだ。
だが今、自分は選べる場所に立っている。
それは怖かった。
だが、怖いからといって誰かに決めさせるわけにはいかなかった。
「神具を止める方法を知りたいです。でも、私が死ぬことだけが方法なら、私はまだ頷けません」
老人は静かに頷いた。
「それでいい」
「いいのですか」
「すぐに頷く聖女候補なら、ここへ来た意味がない」
セラは金属板を受け取った。
ずしりと重かった。金属の重さだけではない。ここに記されているものは、神殿の嘘であり、ミリアの死であり、リリィを救うためのわずかな糸でもある。
ライガは不機嫌そうに彼女を見ていた。
「持つな」
「必要です」
「それを持てば狙われる」
「持たなくても狙われています」
「口が回るようになったな」
「ライガさんの影響です」
「最悪だ」
老人が少し笑った。
それは初めて見る、人間らしい笑みだった。
「君たちは神殿都市アルメリアへ行くべきだ」
「中央神殿か」
「そうだ。そこに神具がある。リリィという子も、おそらくそこへ移される」
セラの顔が強張った。
「なぜですか」
「聖女候補が逃げた。神殿は代替の供物を安全な場所へ移す。君を誘き出す餌にもなる」
セラは金属板を強く握った。
リリィ。
やはり危険は消えていなかった。
ミリアは保証すると言った。だが彼女は死んだ。神殿がその約束を守る理由はない。
「行きます」
セラは言った。
ライガは老人を見た。
「罠だな」
「当然だ」
「堂々と言うな」
「神殿は君たちを待つ。勇者殺しと逃亡聖女候補。彼らにとって、君たちは制度を揺るがす象徴だ。殺すか、利用するか、どちらかだろう」
「いいだろう」
ライガは剣の柄を軽く叩いた。
「分かりやすい」
「分かりやすい罠ほど危険だ」
「分かりにくい説教よりましだ」
老人は肩をすくめた。
セラは塔の窓から外を見た。
灰の谷には、夕方の光が差し始めていた。灰色の大地が赤く染まっている。その色は、血に似ていた。
ここで多くの人が死んだ。
そして、その死は魔王との戦いという物語に作り替えられた。
セラはふと、マルタのことを思い出した。
あの人の死も、神殿の記録では「徳源」として残るのだろう。勇者レオンのレベル上昇に貢献した尊い犠牲。村人の涙も、ヨナの叫びも、パンの焼き方を教えた声も、そこには記されない。
記録とは、何を残すのか。
そして何を消すのか。
老人が元記録官であることの意味が、少し分かった気がした。
「あなたは、なぜここに残っているのですか」
セラは尋ねた。
老人は棚に視線を向けた。
「消されたものを、少しでも残すためだ」
「神殿に戻って告発しようとは」
「した」
「どうなりましたか」
「追放された。仲間は死んだ。告発文は焚書。私は狂人ということになった」
老人は淡々と言った。
「神殿は、殺すよりも先に意味を奪う。人を殺せば殉教者になる。だが、狂人にすれば言葉は死ぬ」
セラは背筋が冷たくなった。
神殿の恐ろしさは、剣や呪いだけではない。誰かの言葉を、なかったことにできる。死者の名を番号に変え、虐殺の跡を聖地に変え、供物を献身に変える。
言葉を支配する者は、死の意味まで変えてしまう。
「なら、私たちはどうすれば」
「見たものを、見なかったことにしない」
老人は言った。
「聞いたことを、聞かなかったことにしない。マルタという名を、徳源番号にしない。ミリアという勇者を、美談にも悪鬼にも押し込めない。記録とは本来、そのためにある」
セラは頷いた。
胸の奥に、ひとつの決意が生まれていた。
自分は聖女にはならない。
死ぬために祈る少女ではいられない。
では何になるのかは、まだ分からない。
ただ、誰かの死が都合のいい言葉に変えられていくのを、黙って見ていたくはなかった。
塔の外で、石が転がる音がした。
ライガが即座に剣を抜いた。
老人も表情を変えた。
「早いな」
「追手か」
「おそらく」
塔の入口から、風と一緒に声が入ってきた。
「勇者殺しライガ、ならびに逃亡聖女候補セラ。神殿の名において同行を命じる」
複数の足音。
鎧の擦れる音。
神官兵だ。
セラは金属板を胸元に抱えた。
ライガが彼女の前に立つ。
「裏口は」
老人に訊く。
「ある」
「案内しろ」
「年寄りを急がせるな」
「追手に言え」
老人は棚の奥の壁を押した。石壁の一部が軋みながら動き、細い通路が現れる。
セラは驚いた。
「こんなものが」
「記録官は逃げ道を作る。真実はいつも、燃やされる前に逃げなければならない」
老人は皮肉げに言った。
外から神官兵の声が近づく。
「抵抗すれば、異端として処分する」
ライガは入口を一瞥した。
「先に行け」
「ライガさんは」
「時間を稼ぐ」
「一緒に」
「足手まといだ」
またその言葉だった。
だが今度は、セラも黙って頷くことができなかった。
「死なないでください」
ライガは嫌そうな顔をした。
「お前までそれを言うのか」
「言います」
「俺は勇者じゃない」
「知っています」
「善人でもない」
「それも知っています」
「なら心配するな」
「悪人でも、死んでほしくない人はいます」
ライガは一瞬だけ黙った。
入口の方で、扉のない開口部に影が差した。神官兵が踏み込んでくる。
ライガは剣を構えた。
「さっさと行け」
セラは老人に促され、隠し通路へ入った。
最後に振り返ると、ライガの背中が見えた。黒い外套。古びた剣。傷だらけの肩。
神官兵の聖槍が光る。
ライガが低く笑った。
「神殿の犬にしては、吠え方が上品だな」
怒号と金属音が重なった。
隠し通路の石壁が、それを遮っていく。
セラは走った。
老人が前を行く。通路は狭く、湿っていた。壁には古い文字が刻まれている。いつ、誰が作ったのか分からない逃げ道。真実を持ち出すための道。
「彼は死にませんか」
セラは息を切らしながら訊いた。
「死ぬときは死ぬ」
老人は容赦なく答えた。
「でも」
「だが、ああいう男は死に場所を選ぶ。ここではないだろう」
慰めには聞こえなかった。
だが、なぜか少しだけ安心した。
通路の先に光が見えた。
外へ出ると、塔の裏手の崖下だった。谷の斜面に沿って細い道が続いている。遠くには灰の谷の出口が見えた。
老人はそこで立ち止まった。
「私はここまでだ」
「一緒に来ないのですか」
「この記録を捨てては行けない。私はここで、消された名を守る」
「でも、神官兵が」
「神殿は私を殺さない。狂人は生かしておいた方が都合がいい」
老人は笑った。
「それに、年寄りの逃避行は物語が鈍る」
セラには、その冗談に笑う余裕はなかった。
老人は彼女に小さな袋を渡した。
「中に写しが入っている。神具設計断片、魔王討伐記録、徳源転用命令書の一部だ。アルメリアで使え」
「ありがとうございます」
「礼はいい。私は多くを見逃してきた」
老人はセラの目を見た。
「君は、見逃すな」
セラは袋を受け取った。
その重さは、命のようだった。
崖上から爆ぜるような音がした。
石が崩れ、灰が舞う。セラは振り返った。塔の壁の一部が砕け、黒い影が飛び出してくる。
ライガだった。
彼は崖の斜面を転がるように落ち、途中で剣を地面に突き立てて勢いを殺した。外套はさらに裂け、腕から血が流れている。
「遅い」
ライガは言った。
セラは思わず声を上げた。
「生きているじゃないですか」
「見れば分かる」
「心配しました」
「するなと言った」
「できません」
「面倒だな」
ライガは老人を見た。
「追手は少し減らした」
「殺したのか」
「動けなくしただけだ」
老人は意外そうに眉を上げた。
「珍しい」
「聖槍を持ってる奴は高く売れる装備を着てた。殺すと回収が面倒だ」
「照れ隠しが下手だな」
「黙れ」
セラはそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
この男はやはり、善人ではないと言う。
だが、殺さずに済む相手を殺さない。
それを何と呼べばいいのか、まだ分からない。
ライガは谷の出口へ向かった。
「行くぞ。神官兵が増える前に抜ける」
「どこへ」
セラが訊くと、彼は振り返らずに答えた。
「アルメリア」
神殿都市。
供物の制度の中心。
リリィが連れて行かれるかもしれない場所。
そして、善人の魂を燃やす神具が眠る場所。
セラは胸元の袋を握った。
灰の谷を抜ける風が、彼女の白い服を揺らした。神殿の服だった。死ぬために着せられた服だった。けれど今は、その服で真実を運んでいる。
谷の出口へ向かいながら、セラは一度だけ振り返った。
旧戦場と呼ばれた村の跡。
魔王との戦いという名前で覆われた虐殺の跡。
そこに眠る人々の名を、彼女は知らない。
知らないままではいけないと思った。
いつか、調べなければならない。
いつか、記さなければならない。
徳源ではなく、供物でもなく、聖なる犠牲でもなく。
ひとりの人間として。
ライガが前を歩いている。
老人が塔の影から見送っている。
空には鳥がいない。
それでも、セラは初めて、自分がどこへ向かっているのかを少しだけ理解した。
彼女は死に場所を探しているのではない。
死ななくていい理由を、探しに行くのだ。




