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善人を殺すとレベルが上がる世界で、僕は勇者だけを殺す  作者: 二条理|アコンプリス


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4/10

第四章 魔王のいない戦争

 灰の谷へ向かう道には、鳥がいなかった。

 森を抜け、丘陵地帯へ入ったあたりから、空の色が変わった。雲が厚くなったわけではない。雨が近いわけでもない。ただ、世界そのものから色が少しずつ抜け落ちていくようだった。草は灰をかぶったように白く、道端の石は乾いた骨のように鈍く光っている。風が吹くと、土の表面から細かな粉が舞い上がった。

 セラは布で口元を覆いながら歩いた。

 神殿の地図では、この一帯は「旧魔王戦線跡」と記されていた。百年前、人間と魔王軍が最後に激突した場所。多くの勇者と聖女が命を捧げ、結界の礎が築かれた聖地だと教えられている。神殿では年に一度、この地に向かって祈りを捧げた。

 勇者たちの犠牲を忘れてはならない。

 聖女たちの献身を忘れてはならない。

 魔王軍の恐怖を忘れてはならない。

 そう繰り返されてきた。

 だが実際に足を踏み入れた灰の谷は、セラが想像していた戦場とは違っていた。

 砕けた鎧はない。

 折れた魔族の槍もない。

 巨大な魔獣の骨もない。

 あるのは、古い焼け跡と、崩れた家の跡と、埋まりきらずに地表へ覗いた白い骨だった。

 ライガはその骨の前で足を止めた。

 しゃがみ込み、土を払う。

 骨は細かった。大人のものではない。

「子どもですね」

 セラは声を落とした。

「たぶんな」

 ライガは短く答えた。

 彼は指先で骨の周囲を軽く掘った。すぐに、別の骨が出てきた。肋骨。小さな手。さらに少し離れた場所には、頭蓋骨が半分ほど土に埋もれていた。

 セラは思わず目を背けた。

「ここは、魔王軍との戦場だったはずです」

「神殿の記録ではな」

「でも、これは」

「村だ」

 ライガは立ち上がった。

「戦場じゃない。焼かれた村の跡だ」

 セラは周囲を見回した。

 言われてみれば、地面には道の痕跡があった。石を並べた井戸の跡。崩れた竈。炭化した柱。家々は円を描くように並んでいたらしい。中央には広場だったと思われる空間があり、その奥に石造りの小さな祠が残っている。

 魔王軍の拠点ではない。

 人が暮らしていた場所だ。

 パンを焼き、井戸水を汲み、子どもが走り、老人が椅子に座っていた場所だ。

「なぜ、こんなところが聖地に」

「聖地ってのは便利だ」

 ライガは灰色の土を靴先で払った。

「死体が多い場所でも、名前を変えれば祈る場所になる」

 セラは答えられなかった。

 ミリアが残した「魔王はもういない」という言葉は、ずっと胸に引っかかっていた。もし魔王がいないのなら、勇者制度は何のために続いているのか。善人を殺してまで得た力は、誰と戦うために使われているのか。

 その答えを求めて灰の谷へ来た。

 だが、最初に見つけたのは答えではなく、隠された死者たちだった。

 ライガは谷の奥へ歩き出した。

「急ぐぞ」

「はい」

「足元を見るな」

「なぜですか」

「見れば進めなくなる」

 セラは唇を結んだ。

 足元を見ないようにすることは、思っていたより難しかった。灰に覆われた地面には、ところどころ白いものが覗いている。それが石なのか骨なのか、判断できない。踏むたびに、何かを壊している気がした。

 谷を進むにつれ、風が強くなった。

 灰の粒が頬に当たる。喉が乾く。空気には古い焦げ臭さが混じっていた。百年経っても消えない匂いなのか、それともセラの想像が匂いを作り出しているのか、分からなかった。

 やがて、谷の奥に塔が見えてきた。

 塔といっても、神殿の尖塔のような美しいものではない。石を積んだだけの粗末な建物で、上部は崩れ、壁には蔦が絡んでいる。入口には扉がなかった。ただ黒い穴のように、口を開けている。

「ここか」

 ライガは腰の剣に手を置いた。

 セラも緊張した。

「ミリア様は、元神殿記録官がいると言っていました」

「生きてればな」

「ここに一人で住んでいるのでしょうか」

「まともじゃないことは確かだ」

 ライガは塔へ近づいた。

 そのとき、中から声がした。

「勇者か」

 老人の声だった。

 乾いていて、細い。けれど、耳の奥に残る声だった。

 ライガは足を止めた。

「違う」

「では神官か」

「違う」

「では死者か」

「まだだ」

 塔の中で、かすかな笑い声がした。

「なら入れ。ここへ来る者は、勇者か神官か死者だけだと思っていた。まだ生きている別のものなら、少しは珍しい」

 ライガはセラを振り返った。

「後ろにいろ」

「はい」

 二人は塔の中へ入った。

 内部は薄暗かった。窓は高い位置に一つだけあり、そこから差し込む光が空中の灰を白く浮かび上がらせている。壁一面に棚が作られ、古い紙束や木簡、割れた記録石が乱雑に積まれていた。床にも書類が散らばり、歩く場所を探すのが難しい。

 奥に老人が座っていた。

 痩せていた。骨と皮だけのような体に、古い神官服をまとっている。服は色褪せ、袖口は破れていた。髪は白く、髭は胸元まで伸びている。だが、目だけは異様に鋭かった。

 老人はセラを見た。

「聖女候補か」

 セラは息を呑んだ。

「どうして」

「神殿の白は、何年経っても忌々しい」

 老人は鼻で笑った。

「それに、その目だ。死ぬことを教え込まれた子どもは、皆同じ目をしている」

 セラは何も言えなかった。

 ライガが前に出た。

「ミリアに聞いて来た」

「ミリア」

 老人の表情がわずかに変わった。

「泣き虫の勇者か。まだ生きていたのか」

「死んだ」

 老人は目を閉じた。

 長い沈黙が落ちた。

 彼は祈らなかった。胸に手を当てることもしなかった。ただ、目を閉じて、少しだけ顎を引いた。それが彼なりの弔いだったのかもしれない。

「そうか」

 老人は言った。

「あの子は最後まで、名前を覚えていたか」

「ああ」

「馬鹿な子だ」

 その言葉は冷たく聞こえた。だが声の奥には、痛みがあった。

 セラは一歩前へ出た。

「あなたは、ミリア様を知っているのですか」

「記録官だったころにな。勇者候補の徳源処理記録を担当していた。あの子は初めて供物を殺した夜、私の部屋へ来て、名前を教えてくれと言った」

「名前を」

「そうだ。神殿の正式記録では、供物は徳源番号で管理される。だがあの子は、番号ではなく名を覚えたいと言った。私は教えた。教えたことを、ずっと後悔している」

「なぜですか」

「覚えれば救われると、あの子に思わせた」

 老人はセラを見た。

「名前を覚えることは、忘れるよりましだ。だが、殺すことを止めるわけではない」

 セラは唇を噛んだ。

 ミリアの剣の柄に刻まれた無数の名が、目の前に浮かんだ。あれは彼女なりの償いだった。だが同時に、彼女を殺し続けさせる鎖でもあったのかもしれない。

 ライガが言った。

「魔王はもういないと聞いた」

 老人の目が、ゆっくりとライガへ移る。

「誰から」

「ミリアからだ」

「死に際の言葉なら、重いな」

「本当か」

 老人はすぐには答えなかった。

 彼は椅子から立ち上がった。痩せた体は頼りなく見えたが、動きは思ったよりしっかりしていた。棚の奥から革紐で束ねられた古い記録を取り出す。

「魔王はいた」

 老人は言った。

「神殿が作った嘘ではない。百三十二年前、北方から魔族の王が現れ、人間の国々を滅ぼしかけた。村は焼かれ、町は落ち、王都まであと三日の距離に迫った」

 彼は記録を机の上に広げた。

 そこには、古い戦況図が描かれていた。北から南へ伸びる黒い矢印。消された砦。焼かれた町。防衛線は何度も後退している。

「人間は負けていた。完全にな。そこで神殿は、神託を受けた」

「善意を力に変える祝福ですか」

 セラが言うと、老人は皮肉げに笑った。

「そう教わったか」

「違うのですか」

「半分は正しい。徳ある魂が力になる仕組みは、本当に生まれた。最初の勇者は、自分自身の徳を燃やして魔王を討った。最初の聖女は、自分の命を使って結界を張った」

 老人は指先で戦況図の端を叩いた。

「問題は、そのあとだ」

「魔王は倒されたのですね」

「ああ。百二十七年前にな」

 セラは息を止めた。

 神殿では、魔王は今も存在し、北の闇の奥で力を蓄えていると教えられていた。勇者たちは魔王軍との戦いに備え、力を得続けなければならない。聖女候補たちはそのために育てられる。すべては、再来する魔王を退けるため。

 だが老人の言葉が本当なら、魔王は百年以上前に死んでいる。

「では、神殿は」

「戦争が終わっても、仕組みは残った」

 老人は古い記録石を机に置いた。

 石はひび割れていたが、中央に薄い光が残っている。

「戦争中、徳を力に変える制度は必要だった。少なくとも、当時の人々はそう信じた。だが魔王が死んだあと、神殿は気づいた。善意を燃料にする装置は、戦争以外にも使えると」

 ライガの目が細くなった。

「何に使った」

「結界維持。貴族の延命。神殿都市の繁栄。勇者階級の強化。疫病除けの聖水生成。土地の浄化。いくらでもある」

 老人は笑った。

 それは笑いというより、喉からこぼれる乾いた音だった。

「人は、一度便利な犠牲を覚えると、なかなか手放せない」

 セラはめまいを覚えた。

 神殿の白い廊下が、記憶の中で揺れる。祈りの言葉。聖女たちの名。尊い犠牲。世界のため。勇者の力。リリィの小さな手。

 そのすべてが、違う形で見えてくる。

「では、私は」

 セラの声は震えた。

「私は、世界を救うために死ぬのではなかったのですか」

 老人はセラを見た。

 その目に、同情はあった。

 しかし、慰めはなかった。

「世界という言葉の範囲を、誰が決めるかだ」

「どういう意味ですか」

「神殿は神殿の世界を守っている。王侯貴族は王侯貴族の世界を守っている。勇者は勇者制度を守っている。民は、守られていると思わされている。君の命は、その全部を支えるために使われる」

 セラは机に手をついた。

 立っていられなかった。

 リリィが自分の代わりに選ばれそうになったとき、セラは恐怖と怒りで神殿を逃げ出した。だが、それでもどこかで信じていた。神殿は間違っていない。ただ、やり方が残酷なだけだ。勇者は必要で、聖女も必要で、自分の死には意味があるのだと。

 その最後の支えが、いま折れた。

「嘘だったのですね」

「全部が嘘ではない」

 老人は言った。

「そこが厄介だ。魔物は今もいる。結界が弱まれば、辺境の村は襲われる。勇者の力で救われた町も実際にある。神殿の聖水で疫病が止まった例もある」

「では」

「だからといって、善人を殺し続けていい理由にはならない」

 老人の声が低くなった。

「嘘は、ほんの少しの真実を混ぜたときが一番強い」

 ライガは無言で記録を見ていた。

 彼の表情から感情を読むのは難しかった。ただ、右手が剣の柄に触れている。怒っている。セラにはそう思えた。

「神殿を潰す」

 ライガは言った。

 老人は驚かなかった。

「そう言うと思った」

「止めるのか」

「止めても聞かない顔だ」

「なら黙っていろ」

「だが、教える義務はある」

 老人は別の記録を取り出した。

 それは現在の結界網を示す地図だった。神殿都市アルメリアを中心に、いくつもの線が周辺地域へ伸びている。

「今の結界は、神殿地下の神具によって維持されている。善人の魂を燃料にしてな」

「壊せばいい」

「壊せば、結界は消える」

「それがどうした」

「北の森に残った魔物が流れ込む。谷沿いの村は三日で半分消えるだろう。山間部の町も危ない。ここへ来る途中、君たちはリーベルに寄ったはずだ」

 セラは頷いた。

「はい」

「あの町も結界内だ。神具が止まれば、魔狼程度では済まない」

 ライガは老人を睨んだ。

「脅しか」

「事実だ」

 老人は静かに言った。

「神殿は悪だ。だが、悪でありながら世界を支えている。だから誰も簡単には壊せない」

 塔の中に、灰混じりの風が吹き込んだ。

 書類の端が揺れる。

 セラは両手を握りしめた。

 神殿を潰せば、多くの人が死ぬかもしれない。

 神殿を残せば、善人が殺され続ける。

 それはミリアが言っていた問いと同じだった。

 ひとりを殺して、多くを救うのか。

 多くを危険に晒して、ひとりを救うのか。

 セラはその問いに、答えを出せなかった。神殿にいたころなら、迷わず前者を選ぶよう教えられた。徳ある者の犠牲は尊い。多くの命が救われるなら、その死は意味を持つ。

 けれど、マルタを見た。

 ヨナの泣き声を聞いた。

 ミリアの涙を見た。

 自分自身も、死にたくないと言った。

 ならば、もう簡単には頷けない。

「別の方法はないのですか」

 セラは老人に尋ねた。

 老人はじっと彼女を見た。

「その問いを、神殿にいた君が口にするのか」

「はい」

「以前なら、何と答えた」

「犠牲は必要です、と」

「今は」

 セラは少し黙った。

「必要だと言われる犠牲は、いつも弱い人のところへ来る気がします」

 老人の目がわずかに細くなった。

 ライガも彼女を見た。

 セラは続けた。

「マルタさんは優しかったから選ばれました。リリィは幼いのに、私の代わりになろうとしました。ミリア様は罪を背負える人だったから、ずっと背負わされていました。神殿の言う犠牲は、いつも断れない人を探しているように思えます」

 言い終えたあと、セラは自分の胸が激しく上下していることに気づいた。

 それは怒りだった。

 彼女は初めて、はっきりと怒っていた。

 老人は小さく頷いた。

「いい目になった」

「え」

「死ぬ準備をしている目ではない。疑っている目だ」

 老人は棚の奥へ向かった。

 積まれた記録をどかし、床板の一部を外す。そこには、黒い金属の筒が隠されていた。老人はそれを取り出し、机に置いた。

「これは、神具の設計断片だ」

 ライガが近づいた。

「持ち出したのか」

「盗んだ。記録官を追放される前にな」

「なぜ今まで使わなかった」

「使える者がいなかった」

 老人は筒を開け、中から薄い金属板を取り出した。板には複雑な文様と文字が刻まれている。セラにはほとんど読めなかったが、徳流、結界核、逆流という単語だけは目に入った。

「神具は、善人の魂を燃やして力に変える。だが、燃料の流れを逆転させれば、蓄積された経験値を解放できる可能性がある」

「解放するとどうなる」

「勇者たちが得た力は失われる。結界も一時的に消える。だが、魂を燃やし続ける仕組みは止まる」

「一時的に消える結界を、どうするんですか」

 セラが尋ねると、老人は首を振った。

「そこまでは分からない」

「分からない?」

「完璧な答えなどない。神殿は完璧な答えを装って、人を殺してきた。私はそれを嫌っている」

 老人は金属板をセラへ差し出した。

「ただし、神具を止めるには中枢へ行く必要がある。そこへ入れるのは、徳値の高い者か、勇者の祝福を受けた者だけだ」

 セラは金属板を受け取れなかった。

 その意味は、分かった。

 自分なら入れる。

 自分の徳値なら、神具は扉を開く。

 ライガが老人の手を払いのけた。

「渡す相手を間違えてる」

「では君が行くか」

「行く」

「中枢は徳の低い者を拒む。君はどう見ても、神に愛された顔ではない」

「顔で決めるな」

「冗談ではない。記録石を持ってこなくても分かる。君は徳値が低い。低すぎるかもしれない」

 ライガは鼻で笑った。

「褒め言葉だな」

「だが、神具には入れない」

 老人はセラを見た。

「彼女なら入れる」

「言うな」

 ライガの声が鋭くなった。

 老人はひるまなかった。

「事実だ」

「その事実を使って、この女をまた供物にする気か」

「私は選択肢を示している」

「神殿と同じ言い方だ」

 二人の間に、殺気に近いものが走った。

 セラは慌てて口を挟んだ。

「やめてください」

 ライガは黙った。

 老人も口を閉じた。

「私は、まだ何も選んでいません」

 セラは言った。

 その言葉を口にして、彼女は自分でも驚いた。

 神殿では、選ぶことなどなかった。与えられた役目を受け入れるだけだった。死を選んだのではない。選ばされたのだ。

 だが今、自分は選べる場所に立っている。

 それは怖かった。

 だが、怖いからといって誰かに決めさせるわけにはいかなかった。

「神具を止める方法を知りたいです。でも、私が死ぬことだけが方法なら、私はまだ頷けません」

 老人は静かに頷いた。

「それでいい」

「いいのですか」

「すぐに頷く聖女候補なら、ここへ来た意味がない」

 セラは金属板を受け取った。

 ずしりと重かった。金属の重さだけではない。ここに記されているものは、神殿の嘘であり、ミリアの死であり、リリィを救うためのわずかな糸でもある。

 ライガは不機嫌そうに彼女を見ていた。

「持つな」

「必要です」

「それを持てば狙われる」

「持たなくても狙われています」

「口が回るようになったな」

「ライガさんの影響です」

「最悪だ」

 老人が少し笑った。

 それは初めて見る、人間らしい笑みだった。

「君たちは神殿都市アルメリアへ行くべきだ」

「中央神殿か」

「そうだ。そこに神具がある。リリィという子も、おそらくそこへ移される」

 セラの顔が強張った。

「なぜですか」

「聖女候補が逃げた。神殿は代替の供物を安全な場所へ移す。君を誘き出す餌にもなる」

 セラは金属板を強く握った。

 リリィ。

 やはり危険は消えていなかった。

 ミリアは保証すると言った。だが彼女は死んだ。神殿がその約束を守る理由はない。

「行きます」

 セラは言った。

 ライガは老人を見た。

「罠だな」

「当然だ」

「堂々と言うな」

「神殿は君たちを待つ。勇者殺しと逃亡聖女候補。彼らにとって、君たちは制度を揺るがす象徴だ。殺すか、利用するか、どちらかだろう」

「いいだろう」

 ライガは剣の柄を軽く叩いた。

「分かりやすい」

「分かりやすい罠ほど危険だ」

「分かりにくい説教よりましだ」

 老人は肩をすくめた。

 セラは塔の窓から外を見た。

 灰の谷には、夕方の光が差し始めていた。灰色の大地が赤く染まっている。その色は、血に似ていた。

 ここで多くの人が死んだ。

 そして、その死は魔王との戦いという物語に作り替えられた。

 セラはふと、マルタのことを思い出した。

 あの人の死も、神殿の記録では「徳源」として残るのだろう。勇者レオンのレベル上昇に貢献した尊い犠牲。村人の涙も、ヨナの叫びも、パンの焼き方を教えた声も、そこには記されない。

 記録とは、何を残すのか。

 そして何を消すのか。

 老人が元記録官であることの意味が、少し分かった気がした。

「あなたは、なぜここに残っているのですか」

 セラは尋ねた。

 老人は棚に視線を向けた。

「消されたものを、少しでも残すためだ」

「神殿に戻って告発しようとは」

「した」

「どうなりましたか」

「追放された。仲間は死んだ。告発文は焚書。私は狂人ということになった」

 老人は淡々と言った。

「神殿は、殺すよりも先に意味を奪う。人を殺せば殉教者になる。だが、狂人にすれば言葉は死ぬ」

 セラは背筋が冷たくなった。

 神殿の恐ろしさは、剣や呪いだけではない。誰かの言葉を、なかったことにできる。死者の名を番号に変え、虐殺の跡を聖地に変え、供物を献身に変える。

 言葉を支配する者は、死の意味まで変えてしまう。

「なら、私たちはどうすれば」

「見たものを、見なかったことにしない」

 老人は言った。

「聞いたことを、聞かなかったことにしない。マルタという名を、徳源番号にしない。ミリアという勇者を、美談にも悪鬼にも押し込めない。記録とは本来、そのためにある」

 セラは頷いた。

 胸の奥に、ひとつの決意が生まれていた。

 自分は聖女にはならない。

 死ぬために祈る少女ではいられない。

 では何になるのかは、まだ分からない。

 ただ、誰かの死が都合のいい言葉に変えられていくのを、黙って見ていたくはなかった。

 塔の外で、石が転がる音がした。

 ライガが即座に剣を抜いた。

 老人も表情を変えた。

「早いな」

「追手か」

「おそらく」

 塔の入口から、風と一緒に声が入ってきた。

「勇者殺しライガ、ならびに逃亡聖女候補セラ。神殿の名において同行を命じる」

 複数の足音。

 鎧の擦れる音。

 神官兵だ。

 セラは金属板を胸元に抱えた。

 ライガが彼女の前に立つ。

「裏口は」

 老人に訊く。

「ある」

「案内しろ」

「年寄りを急がせるな」

「追手に言え」

 老人は棚の奥の壁を押した。石壁の一部が軋みながら動き、細い通路が現れる。

 セラは驚いた。

「こんなものが」

「記録官は逃げ道を作る。真実はいつも、燃やされる前に逃げなければならない」

 老人は皮肉げに言った。

 外から神官兵の声が近づく。

「抵抗すれば、異端として処分する」

 ライガは入口を一瞥した。

「先に行け」

「ライガさんは」

「時間を稼ぐ」

「一緒に」

「足手まといだ」

 またその言葉だった。

 だが今度は、セラも黙って頷くことができなかった。

「死なないでください」

 ライガは嫌そうな顔をした。

「お前までそれを言うのか」

「言います」

「俺は勇者じゃない」

「知っています」

「善人でもない」

「それも知っています」

「なら心配するな」

「悪人でも、死んでほしくない人はいます」

 ライガは一瞬だけ黙った。

 入口の方で、扉のない開口部に影が差した。神官兵が踏み込んでくる。

 ライガは剣を構えた。

「さっさと行け」

 セラは老人に促され、隠し通路へ入った。

 最後に振り返ると、ライガの背中が見えた。黒い外套。古びた剣。傷だらけの肩。

 神官兵の聖槍が光る。

 ライガが低く笑った。

「神殿の犬にしては、吠え方が上品だな」

 怒号と金属音が重なった。

 隠し通路の石壁が、それを遮っていく。

 セラは走った。

 老人が前を行く。通路は狭く、湿っていた。壁には古い文字が刻まれている。いつ、誰が作ったのか分からない逃げ道。真実を持ち出すための道。

「彼は死にませんか」

 セラは息を切らしながら訊いた。

「死ぬときは死ぬ」

 老人は容赦なく答えた。

「でも」

「だが、ああいう男は死に場所を選ぶ。ここではないだろう」

 慰めには聞こえなかった。

 だが、なぜか少しだけ安心した。

 通路の先に光が見えた。

 外へ出ると、塔の裏手の崖下だった。谷の斜面に沿って細い道が続いている。遠くには灰の谷の出口が見えた。

 老人はそこで立ち止まった。

「私はここまでだ」

「一緒に来ないのですか」

「この記録を捨てては行けない。私はここで、消された名を守る」

「でも、神官兵が」

「神殿は私を殺さない。狂人は生かしておいた方が都合がいい」

 老人は笑った。

「それに、年寄りの逃避行は物語が鈍る」

 セラには、その冗談に笑う余裕はなかった。

 老人は彼女に小さな袋を渡した。

「中に写しが入っている。神具設計断片、魔王討伐記録、徳源転用命令書の一部だ。アルメリアで使え」

「ありがとうございます」

「礼はいい。私は多くを見逃してきた」

 老人はセラの目を見た。

「君は、見逃すな」

 セラは袋を受け取った。

 その重さは、命のようだった。

 崖上から爆ぜるような音がした。

 石が崩れ、灰が舞う。セラは振り返った。塔の壁の一部が砕け、黒い影が飛び出してくる。

 ライガだった。

 彼は崖の斜面を転がるように落ち、途中で剣を地面に突き立てて勢いを殺した。外套はさらに裂け、腕から血が流れている。

「遅い」

 ライガは言った。

 セラは思わず声を上げた。

「生きているじゃないですか」

「見れば分かる」

「心配しました」

「するなと言った」

「できません」

「面倒だな」

 ライガは老人を見た。

「追手は少し減らした」

「殺したのか」

「動けなくしただけだ」

 老人は意外そうに眉を上げた。

「珍しい」

「聖槍を持ってる奴は高く売れる装備を着てた。殺すと回収が面倒だ」

「照れ隠しが下手だな」

「黙れ」

 セラはそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

 この男はやはり、善人ではないと言う。

 だが、殺さずに済む相手を殺さない。

 それを何と呼べばいいのか、まだ分からない。

 ライガは谷の出口へ向かった。

「行くぞ。神官兵が増える前に抜ける」

「どこへ」

 セラが訊くと、彼は振り返らずに答えた。

「アルメリア」

 神殿都市。

 供物の制度の中心。

 リリィが連れて行かれるかもしれない場所。

 そして、善人の魂を燃やす神具が眠る場所。

 セラは胸元の袋を握った。

 灰の谷を抜ける風が、彼女の白い服を揺らした。神殿の服だった。死ぬために着せられた服だった。けれど今は、その服で真実を運んでいる。

 谷の出口へ向かいながら、セラは一度だけ振り返った。

 旧戦場と呼ばれた村の跡。

 魔王との戦いという名前で覆われた虐殺の跡。

 そこに眠る人々の名を、彼女は知らない。

 知らないままではいけないと思った。

 いつか、調べなければならない。

 いつか、記さなければならない。

 徳源ではなく、供物でもなく、聖なる犠牲でもなく。

 ひとりの人間として。

 ライガが前を歩いている。

 老人が塔の影から見送っている。

 空には鳥がいない。

 それでも、セラは初めて、自分がどこへ向かっているのかを少しだけ理解した。

 彼女は死に場所を探しているのではない。

 死ななくていい理由を、探しに行くのだ。



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