第三章 優しすぎる勇者
勇者ミリアは、剣を抜いても泣いていた。
その涙は、弱さから来るものではなかった。剣先は少しも揺れていない。構えは静かで、呼吸は浅くない。足の置き方、肩の抜き方、視線の配り方。そのどれもが、彼女が訓練だけでなく実戦を知る人間であることを示していた。
だからこそ、セラは恐ろしかった。
泣いているなら、止まってほしかった。
苦しいなら、剣を下ろしてほしかった。
けれどミリアは泣きながら、人を殺せる人だった。
町の門前には、いつの間にか人垣ができていた。善行町リーベルの住民たちは、一定の距離を保ったまま二人の勇者殺しと勇者を見ている。誰も近づかない。だが誰も完全には立ち去らない。
彼らは見届けようとしていた。
今日の出来事が、自分たちの善行記録にどう影響するかを考えながら。
神殿直属の勇者ミリアが聖女候補を連れ戻すなら、それを助けることは善行になる。だが、相手が勇者殺しライガなら、不用意に近づいて怪我をするかもしれない。勇者に協力しなかったと記録されるのは怖い。しかし命を落としては意味がない。
住民たちの目には、そうした計算が透けていた。
セラはそれを見て、胸の奥が冷えていくのを感じた。
神殿で教えられた善とは、もっと温かいものだったはずだ。困った人がいれば手を差し伸べる。苦しむ者がいれば寄り添う。恐れる者がいれば、一緒に祈る。そういう行いが善なのだと、ずっと信じてきた。
だがこの町では、善は人々を見守るだけにした。
間違えないために。
損をしないために。
自分の徳値を下げないために。
「セラ様」
ミリアが口を開いた。
声は穏やかだった。まるで礼拝堂で迷子の子どもに語りかけるような声だった。
「今なら、まだ大丈夫です。神殿へ戻りましょう。あなたが突然いなくなったことで、神官長も、リリィも、皆が心配しています」
リリィの名を聞いた瞬間、セラの心が揺れた。
小さな手。食堂の隅でパンを隠していた姿。夜、眠れないと言ってセラの寝台に潜り込んできた温度。リリィは泣き虫で、少し嘘つきで、でも誰かが転ぶと一番に駆け寄る子だった。
「リリィは、本当に無事なのですか」
「ええ。あなたが戻るなら、あの子が儀式に選ばれることはありません」
「私が戻るなら」
セラはその言葉を繰り返した。
ミリアの顔がわずかに曇る。
「言い方が悪かったですね。神殿は、あなたを必要としています」
「神殿が必要としているのは、私ですか。それとも、私の徳値ですか」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
ミリアは答えられなかった。
セラは自分の胸に手を当てた。心臓が速く打っている。怖い。足も震えている。けれど言葉だけは、止まらなかった。
「私はずっと、世界のために死ぬのだと教えられてきました。怖くても、笑って祈るのが聖女だと。でも、マルタさんを見ました。あの方は、最後まで泣きませんでした。でもヨナさんは泣いていました。村の人たちも泣いていました。あれは本当に、尊い死だったのでしょうか」
ミリアの目が揺れた。
彼女はマルタを知らない。だが、その名を聞いたときの表情で、セラには分かった。
ミリアは死者の名を聞き流せない人なのだ。
「マルタ・リーン様」
ミリアは小さく呟いた。
「孤児を育て、病人を看取り、旅人に寝床を与えた方だと聞いています」
「知っていたのですか」
「勇者レオンからの記録報告を受けました。レベル上昇に伴う徳源名簿に、名がありました」
「徳源」
セラは思わず息を呑んだ。
その言葉を、神殿ではよく聞いていた。勇者の力となる徳の源。名誉ある記録。祭壇に残されるべき尊い名。
だが今、その言葉はあまりにも冷たく聞こえた。
マルタは人だった。
ヨナの髪を撫で、パンの焼き方を教えた人だった。
それが「徳源」と呼ばれた途端、命ではなく資源のように響く。
「ミリア様は、殺した方々の名前をすべて覚えていると聞きました」
「はい」
「それは、なぜですか」
ミリアは剣を下ろさなかった。
涙も拭わなかった。
「忘れてはいけないからです」
「覚えていれば、殺してもいいのですか」
町の空気が変わった。
住民たちは息を殺した。セラ自身も、その問いが自分の口から出たことに驚いていた。神殿にいたころなら、決して言えなかった言葉だった。
ミリアは痛みに耐えるように目を伏せた。
「いいとは思っていません」
「では、どうして」
「私が強くならなければ、もっと多くの人が死にます」
その答えは、セラが何度も聞いてきたものだった。
だがミリアの口から聞くと、少し違っていた。神官たちが口にするとき、それは美しい教義だった。勇者レオンが口にするとき、それは自分の行為を正当化する言葉だった。
ミリアの言葉には、傷があった。
彼女は自分の答えで自分を切っている。
そのことが、セラをさらに苦しめた。
ライガが低く笑った。
「便利な言葉をまだ使うのか」
ミリアの視線が彼へ向く。
「あなたには、分からないでしょう」
「分かるさ。人殺しの言い訳くらい、山ほど聞いた」
「私は言い訳をしているのではありません」
「してる」
ライガは剣先をわずかに下げた。
「百人を救うために一人を殺す。千人を救うために百人を殺す。世界を救うために善人を殺す。言い方を変えても同じだ。お前は殺した相手を数に変えてる」
ミリアの手が、初めてわずかに震えた。
「私は、数になど」
「してるだろ。もっと多くの人が死ぬって言った。なら、お前が殺した奴らは何だ。多くの人に入ってないのか」
ミリアは唇を噛んだ。
セラはその横顔を見ていられなかった。
ライガの言葉は残酷だった。けれど、間違っているとは思えなかった。
ミリアは悪人ではない。むしろ、神殿の誰よりも善良な人かもしれない。だから死者の名を覚える。だから泣く。だから苦しむ。
だが、それでも彼女は殺す。
苦しんでいることが、罪を消すわけではない。
「あなたは」
ミリアが静かに言った。
「誰かを守るために、何かを犠牲にしたことがないのですか」
ライガは答えなかった。
その沈黙が、セラには気になった。
ライガは反射的に言い返す男だと思っていた。善人という言葉も、神も、勇者も、ためらわずに切り捨てる。だが今、彼は一瞬だけ黙った。
その一瞬で、ミリアは踏み込んだ。
剣が走った。
速い。
レオンの剣は光で圧するものだった。強さを見せつけ、相手を怯ませる剣。だがミリアの剣は違った。迷いがあるようで、軌道に無駄がない。殺すことを嫌いながら、殺すための技だけは研ぎ澄まされている。
ライガは後ろへ跳んだ。
ミリアの切っ先が外套の胸元を裂く。
住民たちから悲鳴が上がった。
セラは動けなかった。
目の前で、剣と剣がぶつかる。火花が散る。金属音が耳の奥を叩く。神殿での訓練用の木剣とは違う。これは本物の殺し合いだ。少しでもずれれば、血が出る。骨が断たれる。命が終わる。
ライガはミリアの剣を受け流した。正面から受けない。体を斜めにずらし、刃の腹で滑らせる。だがミリアはすぐに追撃する。横薙ぎ。突き。上段からの斬り下ろし。
美しい剣だった。
だから、怖かった。
「下がっていなさい」
ミリアがセラへ言った。
戦いの最中なのに、彼女はセラを気遣っていた。
その直後、ライガがミリアの懐へ入った。レオンのときと同じだ。勇者は力が強い。ならば近づく。剣の長さを殺す。
だが、ミリアはそれを読んでいた。
彼女は剣を手放した。
セラは目を見開いた。
ミリアは空いた手でライガの腕を取り、体を回転させた。投げ技だった。ライガの体が宙を舞い、石畳に叩きつけられる。鈍い音がした。
「っ……」
ライガが息を詰まらせる。
ミリアは落ちた剣を足で跳ね上げ、再び手に収めた。流れるような動きだった。
「勇者を甘く見ないでください」
「見てねえよ」
ライガは口元の血を拭いながら立ち上がった。
「泣きながらそこまでやるから、面倒だって言ってる」
「降伏してください」
「断る」
「あなたを殺したくありません」
「俺はお前を殺したい」
ミリアの顔が痛みに歪んだ。
「そうですか」
再び剣がぶつかった。
町の門前は、もはや広場ではなく戦場だった。住民たちはさらに距離を取り、神官たちは記録石を握りしめている。誰も止めない。誰も止められない。
セラは胸元で手を握った。
彼女は自分が何を望んでいるのか分からなかった。ライガに勝ってほしい。だがミリアに死んでほしくない。神殿に戻りたくない。けれどリリィを危険に晒したくない。死にたくない。けれど、自分のせいで誰かが死ぬのも嫌だった。
そのすべてが矛盾していた。
神殿なら、矛盾を祈りで消してくれた。神のため、世界のため、尊い役目。その言葉で、考えなくていいようにしてくれた。
だが今、セラは考えなければならなかった。
自分の命をどうするのか。
他人の命をどう見ているのか。
そのとき、町の奥から悲鳴が聞こえた。
最初は一人だった。
続いて、複数の叫び声。
門前にいた住民たちが振り返る。
「魔物だ!」
誰かが叫んだ。
町の中央から黒い煙が上がっていた。悲鳴は増えていく。鐘が乱打され、鳥たちが一斉に飛び立った。
ミリアの剣が止まった。
ライガも振り返る。
町の通りの向こうから、人々が走ってくる。女が子どもを抱え、老人が杖を捨てて逃げている。その背後に、黒い獣のような影がいくつも見えた。
魔狼。
山間部に出る下級魔物だ。だが普通の狼より大きく、牙には毒がある。結界の弱い地域では家畜や子どもが襲われる。
「なぜ町の中に」
神官が青ざめた。
「外壁の結界は」
「今朝、勇者レオンが死んだ影響で揺らいだのでは」
その言葉に、住民たちの視線がライガへ集まった。
怒りと恐怖。
お前のせいだ、と言葉にせずとも分かる目だった。
ライガはそれを見ても表情を変えなかった。
ミリアは剣を下ろした。
「ライガ。勝負は後です」
「命令するな」
「町の人々を守ります」
「勝手にしろ」
ミリアは走り出した。
迷いはなかった。
さっきまでセラを連れ戻そうとしていた勇者は、今、町を救うために背を向けた。彼女が偽善者なら、ここでセラを優先したはずだ。だがミリアは違った。彼女は本気で人を救う。救うために殺しもする。
その矛盾が、セラには恐ろしかった。
そして、悲しかった。
「お前はここにいろ」
ライガが言った。
「ライガさんは」
「魔狼を斬る」
「ミリア様を助けるのですか」
「町のガキが食われるのを見たくないだけだ」
彼は走り出した。
セラは一瞬迷い、それから後を追った。
「来るなと言っただろ」
「怪我人の手当てならできます」
「足手まといだ」
「それでも行きます」
「死にたくないんじゃなかったのか」
「死にたくないから、できることをします」
ライガは振り返らなかった。
だが、少しだけ口元が動いたように見えた。
町の中央は混乱していた。
魔狼は五体いた。黒い毛皮に、赤い目。口元から泡混じりの唾液を垂らし、石畳を爪で削りながら人々へ飛びかかっている。倒れた荷車の下で子どもが泣いていた。近くには腕を噛まれた男が倒れ、血が流れている。
ミリアはすでに二体を斬っていた。
その剣は、人を殺すときとは違って見えた。迷いがない。速く、正確で、美しい。魔狼の動きを読み、喉を断ち、足を払い、襲われた住民の前に立つ。
「下がってください!」
彼女は叫んだ。
町人たちは言われるままに逃げる。
先ほどまで彼女を遠巻きに見ていた者たちが、今はその背中に救いを求めている。勇者だ。やはり勇者は必要だ。そんな声が、混乱の中に混じって聞こえた。
セラは胸が痛んだ。
ミリアは本当に人を救っている。
この姿だけを見れば、彼女は間違いなく勇者だった。
だが、その力は誰かの死で得たものだ。
マルタのような人々の命で。
「セラ!」
ライガの声で、我に返った。
荷車の下で泣いていた子どもに、魔狼が迫っていた。セラは反射的に走った。考えるより先に体が動いた。荷車の隙間へ手を伸ばし、子どもの腕を掴む。
「大丈夫、こっちへ」
子どもは泣きじゃくっている。足が木枠に挟まっていた。セラは必死に引いたが、抜けない。
魔狼が跳んだ。
黒い影が覆いかぶさる。
死ぬ。
そう思った瞬間、ライガの剣が横から入った。魔狼の首が半ばまで裂け、獣はセラの目の前に落ちた。血の臭いが鼻を刺す。セラは悲鳴を上げそうになったが、堪えた。
「早くしろ」
ライガは短く言った。
彼はすぐに次の魔狼へ向かった。
セラは荷車を押した。重い。動かない。そこへ誰かが駆け寄ってきた。食堂で見た店主だった。さらに、善行報告で虚偽を疑われていた若い男も来た。
「押すぞ」
男が言った。
店主も頷いた。
先ほどまで町から切り離されかけていた男が、今は子どもを助けるために荷車を押している。誰も記録していない。神官も見ていない。善行点がつくかどうか分からない。
それでも、彼は押した。
「せーの!」
荷車がわずかに浮いた。
セラは子どもの足を引き抜いた。子どもは泣きながら彼女に抱きついた。セラはその体を抱え、建物の陰へ運んだ。
「怪我は」
「足を少し擦っただけだ」
若い男が見た。
セラは布を裂いて足に巻いた。
「ありがとうございます」
子どもが泣きながら言った。
若い男は困ったように笑った。
「礼はいい。早く母さんのところへ行け」
その瞬間、セラは分かった。
善行記録がなくても、人は誰かを助ける。
記録されなくても、点にならなくても、名前を呼ばれなくても。
たぶん、それが本来の善なのだ。
だが、その本来の善を、この世界は殺して力に変えている。
広場の奥で、最後の魔狼がミリアへ飛びかかった。
ミリアは避けずに受けた。左腕を噛ませ、右手の剣で魔狼の胸を突き刺す。獣の牙が鎧の隙間に食い込み、血が流れた。それでもミリアは顔を歪めるだけで、剣を引かなかった。
魔狼が倒れる。
町に静けさが戻った。
息を切らす音。泣き声。遠くで鳴り続ける鐘。
ミリアは血のついた剣を下ろした。
住民たちは彼女を見ていた。
誰かが拍手した。
その音に、セラの体が強張った。
朝、マルタが殺された広場でも、拍手があった。
だが今の拍手は少し違った。救われた安堵から来るものだった。目の前の死を称えるためではなく、生き残ったことへの感謝だった。
それでも、セラは素直に受け取れなかった。
勇者という存在が持つ二つの顔を見てしまったからだ。
人を救う顔。
人を殺す顔。
そしてその二つは、同じ剣の両面だった。
「手当てを」
セラはミリアに駆け寄った。
ミリアは驚いたように彼女を見た。
「セラ様」
「腕を見せてください」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
セラは強い口調で言った。
自分でも驚いた。神殿では、勇者に命令するなど考えられなかった。
ミリアは少しだけ微笑み、剣を収めた。
「では、お願いします」
噛まれた腕の傷は深かった。毒があるかもしれない。セラは布袋から薬草を出し、傷口を洗い、血を止めた。ミリアは痛みに耐えていたが、声を漏らさなかった。
「慣れているのですね」
ミリアが言った。
「神殿で習いました」
「聖女候補は、誰かを癒やすための術も学びますから」
「はい」
セラは手を止めずに言った。
「でも、私は自分が死ぬために学んでいたのだと思っていました」
ミリアは黙った。
「誰かを助けられるのなら、生きて学んだ意味があります」
セラの声は小さかった。
けれど、ミリアには届いた。
彼女の目にまた涙が浮かんだ。
「あなたは、戻らないのですね」
「はい」
「リリィが危険になるとしても」
セラの手が止まった。
胸が痛んだ。
リリィの顔が浮かぶ。
だが、今度は逃げなかった。
「リリィも助けます」
「どうやって」
「分かりません」
ミリアは少しだけ目を見開いた。
セラは続けた。
「でも、ライガさんが言いました。できるかどうかは、やってから考えると」
少し離れた場所で、ライガが嫌そうな顔をした。
「人の馬鹿な言葉を引用するな」
セラは初めて、小さく笑った。
ミリアはその笑顔を見て、目を伏せた。
「眩しいですね」
「え?」
「私も昔は、そう言えたのかもしれません」
ミリアは空を見上げた。
夕暮れが町の屋根を赤く染めている。さっきまで善行を競っていた町は、今は怪我人の手当てと壊れた荷車の片付けに追われていた。記録官はまだ混乱しており、誰の行動が善行として記録されるのか、誰にも分からない。
それでも、人々は動いていた。
その姿を見て、ミリアは悲しそうに微笑んだ。
「私が初めて供物を殺したのは、十四歳のときでした」
セラは息を呑んだ。
ライガも黙った。
「相手は、港町の医師でした。疫病の流行時、三十人以上を救った人です。徳値が高かった。私は、その方の魂を受けて、初めて魔物の群れを退けました」
ミリアの声は、淡々としていた。
淡々としているからこそ、痛かった。
「その町は救われました。けれど、医師がいなくなったことで、翌冬に多くの病人が死にました。神殿はそれを記録しませんでした。勇者の勝利だけが記録されました」
セラは何も言えなかった。
「それでも私は、次の供物を受け入れました。私が拒めば、別の勇者が行うだけです。私なら、せめて名前を覚えていられる。墓を建てられる。遺族に謝ることができる。そう思いました」
「それは」
セラは言いかけて、止まった。
優しいと思った。
同時に、間違っているとも思った。
その二つが、どちらも本当だった。
ライガが口を開いた。
「名前を覚える勇者と、覚えない勇者。殺される側からすれば、大差ねえ」
ミリアは頷いた。
「分かっています」
「分かってるならやめろ」
「やめれば、私の代わりにグラムのような勇者が来ます」
その名を聞いて、神官たちの一人が顔を伏せた。
ミリアは続けた。
「彼は供物を、人ではなく経験値と呼びます。私が降りれば、彼のような者が儀式を担う。だから私は、降りられなかった」
「また言い訳だ」
「そうですね」
ミリアは静かに認めた。
「それでも、私はその言い訳に縋らなければ、自分の剣を握れませんでした」
セラはミリアを見た。
目の前の勇者は、壊れかけている。
いや、もうずっと前から壊れていたのかもしれない。壊れているのに、壊れていないふりをして剣を振り続けてきた。誰かを救うために。誰かを殺すために。
「ミリア様」
セラは言った。
「一緒に逃げませんか」
ミリアは目を見開いた。
ライガも眉を上げた。
「あなたは何を」
「神殿に戻らず、供物も殺さず、別の方法を探すんです。結界を守る方法も、魔物と戦う方法も、きっと」
「セラ様」
ミリアの声は優しかった。
優しいからこそ、その先を聞きたくなかった。
「私は逃げられません」
「どうして」
「勇者は神殿の祝福を体内に受けています。神殿の命に背けば、その祝福は呪いに変わります」
セラは言葉を失った。
ミリアは右手の手袋を外した。
手首に、金色の紋章が浮かんでいた。勇者の証。神殿で何度も見た、美しい聖印。
だが、その縁は黒ずんでいた。
「レオンを殺したあなたにも、関係がある話です」
ミリアはライガを見た。
「勇者が神殿の定めから外れると、聖印は体を焼きます。最初は痛みだけ。次に力が失われ、最後には心臓が止まる」
「便利な首輪だな」
「ええ」
ミリアは苦笑した。
「勇者もまた、制度の一部です」
そのとき、彼女の手首の紋章が強く光った。
ミリアの顔が歪む。
「ミリア様!」
セラが叫んだ。
ミリアは膝をついた。手首の聖印から黒い筋が伸び、腕を這い上がっていく。焼けた肉の匂いがした。
神官が慌てて駆け寄る。
「勇者ミリア、神殿命令に従いなさい! 聖女候補を拘束し、帰還を」
「黙りなさい」
ミリアは苦痛の中で言った。
その声に、神官は動きを止めた。
ミリアは剣を杖代わりにして立ち上がろうとした。だが足に力が入らない。セラが支えた。
「だめです、動かないで」
「セラ様」
「今、治療を」
「聞いてください」
ミリアの声は弱くなっていた。
ライガが近づいた。
「何が起きてる」
「私が、命令に背いたからです」
「まだ背いてないだろ」
「セラ様を連れ戻す意思を、失いました」
セラは息を呑んだ。
「ミリア様」
「あなたは戻らなくていい」
ミリアは微笑んだ。
痛みに歪んだ、けれど少しだけ晴れやかな笑みだった。
「その代わり、リリィを助けてください」
「はい。必ず」
「神殿には、隠された記録があります。勇者制度の始まり、魔王軍との戦争、供物の本当の使い道。私はすべてを知っているわけではありません。でも、一つだけ確かなことがあります」
彼女はライガを見た。
「魔王は、もういない」
その言葉に、ライガの表情が変わった。
ほんのわずかだった。
だがセラには分かった。これまでどんな言葉にも揺れなかった男が、その一言で確かに揺らいだ。
「どういう意味だ」
ライガの声は低かった。
ミリアは苦しげに息を吸った。
「旧戦場跡へ行ってください。北の灰の谷。そこに、神殿から追放された記録官がいます。彼なら、知っています」
「魔王がいないなら、勇者は何と戦ってる」
「残った魔物です。そして」
ミリアは目を閉じた。
「神殿が守りたい秩序と」
黒い筋が首元まで伸びていた。
セラは必死に治癒の祈りを唱えた。薬草を押し当て、布で縛る。だが神殿の呪いは傷ではなかった。手当てのしようがない。
「お願いです。死なないでください」
セラの声は震えていた。
ミリアはゆっくりと目を開けた。
「不思議ですね」
「何がですか」
「今まで、多くの方に同じことを言われました。死なないでくれと。私はいつも、謝ることしかできなかった」
彼女の指が、セラの手に触れた。
「言われる側は、こんなに苦しいのですね」
セラは泣いていた。
ミリアが死ぬことを望んでいなかった。
けれど、彼女が生きていればまた誰かを殺すかもしれない。その可能性も分かっていた。分かっていても、死んでほしくなかった。
人の命は、こんなにも矛盾している。
誰かにとって危険で、誰かにとって必要で、誰かにとって許せなくて、誰かにとって失いたくない。
それをひとつの数値に変えることなど、本当はできないのだ。
「ライガ」
ミリアが呼んだ。
「何だ」
「あなたは、私を殺しますか」
ライガは黙った。
神官が息を呑む。町人たちも、固唾を呑んで見守っている。
ライガは剣に手をかけなかった。
「今のお前は勇者じゃない」
「そうですか」
ミリアは少しだけ笑った。
「それは、よかった」
彼女の聖印が砕けた。
光の破片が宙に散り、すぐに消えた。
ミリアの体から力が抜ける。
セラは支えきれず、彼女と一緒に地面へ膝をついた。
「ミリア様!」
返事はなかった。
ただ、彼女の頬にはまだ涙の跡が残っていた。
町は静まり返っていた。
誰も拍手しなかった。
誰も、何を称えればいいのか分からなかった。
神官たちは顔を伏せていた。勇者が神殿に背き、死んだ。その事実をどう記録すればいいのか分からないのだろう。
ライガはミリアの前に膝をついた。
彼は彼女の剣を取り、柄に刻まれた名前を見た。
「殺した奴らの名を、本当に刻んでやがる」
剣の柄には、小さな文字がびっしりと刻まれていた。マルタの名はなかった。だが、それ以前に供物となった人々の名が、数えきれないほど並んでいる。
セラはその文字を見て、涙が止まらなかった。
ミリアは本当に覚えていた。
それでも、許されない。
その二つが同時に存在していた。
ライガは剣を地面に置いた。
「セラ」
初めて、彼は彼女の名を普通に呼んだ。
セラは顔を上げた。
「北の灰の谷へ行く」
「はい」
「戻りたいなら今だ」
セラはミリアの亡骸を見た。
リリィの顔を思い浮かべた。
神殿の白い廊下。祈りの声。死を美しく飾る言葉。聖女という名前の棺。
彼女は首を横に振った。
「行きます」
「危ないぞ」
「分かっています」
「分かってねえ顔だ」
「それでも行きます」
ライガはしばらく彼女を見ていた。
やがて、短く言った。
「勝手にしろ」
セラは頷いた。
町の鐘が再び鳴った。
今度は夕刻の鐘ではなかった。死者を告げる鐘だった。
その音の中で、セラはミリアの手をそっと胸の上に置いた。
祈りの言葉は浮かんだ。
けれど、唱えなかった。
神のために彼女を送る気にはなれなかった。
代わりに、セラは小さく言った。
「あなたの名前は、私が覚えます」
ミリアが覚えてきた名の重さを、すべて引き受けることはできない。
それでも、忘れないことから始めるしかなかった。
ライガはすでに町の出口へ歩き出していた。
黒い外套は傷だらけで、肩には新しい血が滲んでいる。その背中は相変わらず、英雄には見えなかった。
けれどセラは、その背中を追った。
死ぬためではなく、生きて問い続けるために。
北の空には、灰色の雲がかかっていた。魔王がもういないという言葉が、重く胸に残っている。
もし魔王がいないのなら。
もし世界を救うためという理由が、すでに壊れているのなら。
神殿は、いったい何のために善人を殺し続けているのか。
セラはその答えを知らなければならなかった。
知らなければ、リリィを救えない。
知らなければ、マルタの死も、ミリアの涙も、すべて美しい言葉に塗り潰されてしまう。
ライガが振り返らずに言った。
「泣くなら歩きながら泣け。追手は待ってくれない」
セラは袖で涙を拭った。
「はい」
「返事だけはいいな」
「神殿で褒められていました」
「役に立たねえ褒め方だ」
ほんの少しだけ、セラは笑った。
笑えることが、罪のように思えた。
けれど、生きるとはたぶん、そういうことなのだ。
誰かが死んだあとでも、息をして、歩いて、時には笑ってしまう。そのことに傷つきながら、それでも進む。
セラはミリアの名を胸に刻み、ライガの後を追った。山の向こうには灰の谷がある。そこに、魔王のいない戦争の真実が眠っている。
もう戻れない。
そう思った。
けれど不思議と、その言葉は絶望ではなかった。




