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善人を殺すとレベルが上がる世界で、僕は勇者だけを殺す  作者: 二条理|アコンプリス


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第三章 優しすぎる勇者

 勇者ミリアは、剣を抜いても泣いていた。

 その涙は、弱さから来るものではなかった。剣先は少しも揺れていない。構えは静かで、呼吸は浅くない。足の置き方、肩の抜き方、視線の配り方。そのどれもが、彼女が訓練だけでなく実戦を知る人間であることを示していた。

 だからこそ、セラは恐ろしかった。

 泣いているなら、止まってほしかった。

 苦しいなら、剣を下ろしてほしかった。

 けれどミリアは泣きながら、人を殺せる人だった。

 町の門前には、いつの間にか人垣ができていた。善行町リーベルの住民たちは、一定の距離を保ったまま二人の勇者殺しと勇者を見ている。誰も近づかない。だが誰も完全には立ち去らない。

 彼らは見届けようとしていた。

 今日の出来事が、自分たちの善行記録にどう影響するかを考えながら。

 神殿直属の勇者ミリアが聖女候補を連れ戻すなら、それを助けることは善行になる。だが、相手が勇者殺しライガなら、不用意に近づいて怪我をするかもしれない。勇者に協力しなかったと記録されるのは怖い。しかし命を落としては意味がない。

 住民たちの目には、そうした計算が透けていた。

 セラはそれを見て、胸の奥が冷えていくのを感じた。

 神殿で教えられた善とは、もっと温かいものだったはずだ。困った人がいれば手を差し伸べる。苦しむ者がいれば寄り添う。恐れる者がいれば、一緒に祈る。そういう行いが善なのだと、ずっと信じてきた。

 だがこの町では、善は人々を見守るだけにした。

 間違えないために。

 損をしないために。

 自分の徳値を下げないために。

「セラ様」

 ミリアが口を開いた。

 声は穏やかだった。まるで礼拝堂で迷子の子どもに語りかけるような声だった。

「今なら、まだ大丈夫です。神殿へ戻りましょう。あなたが突然いなくなったことで、神官長も、リリィも、皆が心配しています」

 リリィの名を聞いた瞬間、セラの心が揺れた。

 小さな手。食堂の隅でパンを隠していた姿。夜、眠れないと言ってセラの寝台に潜り込んできた温度。リリィは泣き虫で、少し嘘つきで、でも誰かが転ぶと一番に駆け寄る子だった。

「リリィは、本当に無事なのですか」

「ええ。あなたが戻るなら、あの子が儀式に選ばれることはありません」

「私が戻るなら」

 セラはその言葉を繰り返した。

 ミリアの顔がわずかに曇る。

「言い方が悪かったですね。神殿は、あなたを必要としています」

「神殿が必要としているのは、私ですか。それとも、私の徳値ですか」

 自分でも驚くほど、静かな声だった。

 ミリアは答えられなかった。

 セラは自分の胸に手を当てた。心臓が速く打っている。怖い。足も震えている。けれど言葉だけは、止まらなかった。

「私はずっと、世界のために死ぬのだと教えられてきました。怖くても、笑って祈るのが聖女だと。でも、マルタさんを見ました。あの方は、最後まで泣きませんでした。でもヨナさんは泣いていました。村の人たちも泣いていました。あれは本当に、尊い死だったのでしょうか」

 ミリアの目が揺れた。

 彼女はマルタを知らない。だが、その名を聞いたときの表情で、セラには分かった。

 ミリアは死者の名を聞き流せない人なのだ。

「マルタ・リーン様」

 ミリアは小さく呟いた。

「孤児を育て、病人を看取り、旅人に寝床を与えた方だと聞いています」

「知っていたのですか」

「勇者レオンからの記録報告を受けました。レベル上昇に伴う徳源名簿に、名がありました」

「徳源」

 セラは思わず息を呑んだ。

 その言葉を、神殿ではよく聞いていた。勇者の力となる徳の源。名誉ある記録。祭壇に残されるべき尊い名。

 だが今、その言葉はあまりにも冷たく聞こえた。

 マルタは人だった。

 ヨナの髪を撫で、パンの焼き方を教えた人だった。

 それが「徳源」と呼ばれた途端、命ではなく資源のように響く。

「ミリア様は、殺した方々の名前をすべて覚えていると聞きました」

「はい」

「それは、なぜですか」

 ミリアは剣を下ろさなかった。

 涙も拭わなかった。

「忘れてはいけないからです」

「覚えていれば、殺してもいいのですか」

 町の空気が変わった。

 住民たちは息を殺した。セラ自身も、その問いが自分の口から出たことに驚いていた。神殿にいたころなら、決して言えなかった言葉だった。

 ミリアは痛みに耐えるように目を伏せた。

「いいとは思っていません」

「では、どうして」

「私が強くならなければ、もっと多くの人が死にます」

 その答えは、セラが何度も聞いてきたものだった。

 だがミリアの口から聞くと、少し違っていた。神官たちが口にするとき、それは美しい教義だった。勇者レオンが口にするとき、それは自分の行為を正当化する言葉だった。

 ミリアの言葉には、傷があった。

 彼女は自分の答えで自分を切っている。

 そのことが、セラをさらに苦しめた。

 ライガが低く笑った。

「便利な言葉をまだ使うのか」

 ミリアの視線が彼へ向く。

「あなたには、分からないでしょう」

「分かるさ。人殺しの言い訳くらい、山ほど聞いた」

「私は言い訳をしているのではありません」

「してる」

 ライガは剣先をわずかに下げた。

「百人を救うために一人を殺す。千人を救うために百人を殺す。世界を救うために善人を殺す。言い方を変えても同じだ。お前は殺した相手を数に変えてる」

 ミリアの手が、初めてわずかに震えた。

「私は、数になど」

「してるだろ。もっと多くの人が死ぬって言った。なら、お前が殺した奴らは何だ。多くの人に入ってないのか」

 ミリアは唇を噛んだ。

 セラはその横顔を見ていられなかった。

 ライガの言葉は残酷だった。けれど、間違っているとは思えなかった。

 ミリアは悪人ではない。むしろ、神殿の誰よりも善良な人かもしれない。だから死者の名を覚える。だから泣く。だから苦しむ。

 だが、それでも彼女は殺す。

 苦しんでいることが、罪を消すわけではない。

「あなたは」

 ミリアが静かに言った。

「誰かを守るために、何かを犠牲にしたことがないのですか」

 ライガは答えなかった。

 その沈黙が、セラには気になった。

 ライガは反射的に言い返す男だと思っていた。善人という言葉も、神も、勇者も、ためらわずに切り捨てる。だが今、彼は一瞬だけ黙った。

 その一瞬で、ミリアは踏み込んだ。

 剣が走った。

 速い。

 レオンの剣は光で圧するものだった。強さを見せつけ、相手を怯ませる剣。だがミリアの剣は違った。迷いがあるようで、軌道に無駄がない。殺すことを嫌いながら、殺すための技だけは研ぎ澄まされている。

 ライガは後ろへ跳んだ。

 ミリアの切っ先が外套の胸元を裂く。

 住民たちから悲鳴が上がった。

 セラは動けなかった。

 目の前で、剣と剣がぶつかる。火花が散る。金属音が耳の奥を叩く。神殿での訓練用の木剣とは違う。これは本物の殺し合いだ。少しでもずれれば、血が出る。骨が断たれる。命が終わる。

 ライガはミリアの剣を受け流した。正面から受けない。体を斜めにずらし、刃の腹で滑らせる。だがミリアはすぐに追撃する。横薙ぎ。突き。上段からの斬り下ろし。

 美しい剣だった。

 だから、怖かった。

「下がっていなさい」

 ミリアがセラへ言った。

 戦いの最中なのに、彼女はセラを気遣っていた。

 その直後、ライガがミリアの懐へ入った。レオンのときと同じだ。勇者は力が強い。ならば近づく。剣の長さを殺す。

 だが、ミリアはそれを読んでいた。

 彼女は剣を手放した。

 セラは目を見開いた。

 ミリアは空いた手でライガの腕を取り、体を回転させた。投げ技だった。ライガの体が宙を舞い、石畳に叩きつけられる。鈍い音がした。

「っ……」

 ライガが息を詰まらせる。

 ミリアは落ちた剣を足で跳ね上げ、再び手に収めた。流れるような動きだった。

「勇者を甘く見ないでください」

「見てねえよ」

 ライガは口元の血を拭いながら立ち上がった。

「泣きながらそこまでやるから、面倒だって言ってる」

「降伏してください」

「断る」

「あなたを殺したくありません」

「俺はお前を殺したい」

 ミリアの顔が痛みに歪んだ。

「そうですか」

 再び剣がぶつかった。

 町の門前は、もはや広場ではなく戦場だった。住民たちはさらに距離を取り、神官たちは記録石を握りしめている。誰も止めない。誰も止められない。

 セラは胸元で手を握った。

 彼女は自分が何を望んでいるのか分からなかった。ライガに勝ってほしい。だがミリアに死んでほしくない。神殿に戻りたくない。けれどリリィを危険に晒したくない。死にたくない。けれど、自分のせいで誰かが死ぬのも嫌だった。

 そのすべてが矛盾していた。

 神殿なら、矛盾を祈りで消してくれた。神のため、世界のため、尊い役目。その言葉で、考えなくていいようにしてくれた。

 だが今、セラは考えなければならなかった。

 自分の命をどうするのか。

 他人の命をどう見ているのか。

 そのとき、町の奥から悲鳴が聞こえた。

 最初は一人だった。

 続いて、複数の叫び声。

 門前にいた住民たちが振り返る。

「魔物だ!」

 誰かが叫んだ。

 町の中央から黒い煙が上がっていた。悲鳴は増えていく。鐘が乱打され、鳥たちが一斉に飛び立った。

 ミリアの剣が止まった。

 ライガも振り返る。

 町の通りの向こうから、人々が走ってくる。女が子どもを抱え、老人が杖を捨てて逃げている。その背後に、黒い獣のような影がいくつも見えた。

 魔狼。

 山間部に出る下級魔物だ。だが普通の狼より大きく、牙には毒がある。結界の弱い地域では家畜や子どもが襲われる。

「なぜ町の中に」

 神官が青ざめた。

「外壁の結界は」

「今朝、勇者レオンが死んだ影響で揺らいだのでは」

 その言葉に、住民たちの視線がライガへ集まった。

 怒りと恐怖。

 お前のせいだ、と言葉にせずとも分かる目だった。

 ライガはそれを見ても表情を変えなかった。

 ミリアは剣を下ろした。

「ライガ。勝負は後です」

「命令するな」

「町の人々を守ります」

「勝手にしろ」

 ミリアは走り出した。

 迷いはなかった。

 さっきまでセラを連れ戻そうとしていた勇者は、今、町を救うために背を向けた。彼女が偽善者なら、ここでセラを優先したはずだ。だがミリアは違った。彼女は本気で人を救う。救うために殺しもする。

 その矛盾が、セラには恐ろしかった。

 そして、悲しかった。

「お前はここにいろ」

 ライガが言った。

「ライガさんは」

「魔狼を斬る」

「ミリア様を助けるのですか」

「町のガキが食われるのを見たくないだけだ」

 彼は走り出した。

 セラは一瞬迷い、それから後を追った。

「来るなと言っただろ」

「怪我人の手当てならできます」

「足手まといだ」

「それでも行きます」

「死にたくないんじゃなかったのか」

「死にたくないから、できることをします」

 ライガは振り返らなかった。

 だが、少しだけ口元が動いたように見えた。

 町の中央は混乱していた。

 魔狼は五体いた。黒い毛皮に、赤い目。口元から泡混じりの唾液を垂らし、石畳を爪で削りながら人々へ飛びかかっている。倒れた荷車の下で子どもが泣いていた。近くには腕を噛まれた男が倒れ、血が流れている。

 ミリアはすでに二体を斬っていた。

 その剣は、人を殺すときとは違って見えた。迷いがない。速く、正確で、美しい。魔狼の動きを読み、喉を断ち、足を払い、襲われた住民の前に立つ。

「下がってください!」

 彼女は叫んだ。

 町人たちは言われるままに逃げる。

 先ほどまで彼女を遠巻きに見ていた者たちが、今はその背中に救いを求めている。勇者だ。やはり勇者は必要だ。そんな声が、混乱の中に混じって聞こえた。

 セラは胸が痛んだ。

 ミリアは本当に人を救っている。

 この姿だけを見れば、彼女は間違いなく勇者だった。

 だが、その力は誰かの死で得たものだ。

 マルタのような人々の命で。

「セラ!」

 ライガの声で、我に返った。

 荷車の下で泣いていた子どもに、魔狼が迫っていた。セラは反射的に走った。考えるより先に体が動いた。荷車の隙間へ手を伸ばし、子どもの腕を掴む。

「大丈夫、こっちへ」

 子どもは泣きじゃくっている。足が木枠に挟まっていた。セラは必死に引いたが、抜けない。

 魔狼が跳んだ。

 黒い影が覆いかぶさる。

 死ぬ。

 そう思った瞬間、ライガの剣が横から入った。魔狼の首が半ばまで裂け、獣はセラの目の前に落ちた。血の臭いが鼻を刺す。セラは悲鳴を上げそうになったが、堪えた。

「早くしろ」

 ライガは短く言った。

 彼はすぐに次の魔狼へ向かった。

 セラは荷車を押した。重い。動かない。そこへ誰かが駆け寄ってきた。食堂で見た店主だった。さらに、善行報告で虚偽を疑われていた若い男も来た。

「押すぞ」

 男が言った。

 店主も頷いた。

 先ほどまで町から切り離されかけていた男が、今は子どもを助けるために荷車を押している。誰も記録していない。神官も見ていない。善行点がつくかどうか分からない。

 それでも、彼は押した。

「せーの!」

 荷車がわずかに浮いた。

 セラは子どもの足を引き抜いた。子どもは泣きながら彼女に抱きついた。セラはその体を抱え、建物の陰へ運んだ。

「怪我は」

「足を少し擦っただけだ」

 若い男が見た。

 セラは布を裂いて足に巻いた。

「ありがとうございます」

 子どもが泣きながら言った。

 若い男は困ったように笑った。

「礼はいい。早く母さんのところへ行け」

 その瞬間、セラは分かった。

 善行記録がなくても、人は誰かを助ける。

 記録されなくても、点にならなくても、名前を呼ばれなくても。

 たぶん、それが本来の善なのだ。

 だが、その本来の善を、この世界は殺して力に変えている。

 広場の奥で、最後の魔狼がミリアへ飛びかかった。

 ミリアは避けずに受けた。左腕を噛ませ、右手の剣で魔狼の胸を突き刺す。獣の牙が鎧の隙間に食い込み、血が流れた。それでもミリアは顔を歪めるだけで、剣を引かなかった。

 魔狼が倒れる。

 町に静けさが戻った。

 息を切らす音。泣き声。遠くで鳴り続ける鐘。

 ミリアは血のついた剣を下ろした。

 住民たちは彼女を見ていた。

 誰かが拍手した。

 その音に、セラの体が強張った。

 朝、マルタが殺された広場でも、拍手があった。

 だが今の拍手は少し違った。救われた安堵から来るものだった。目の前の死を称えるためではなく、生き残ったことへの感謝だった。

 それでも、セラは素直に受け取れなかった。

 勇者という存在が持つ二つの顔を見てしまったからだ。

 人を救う顔。

 人を殺す顔。

 そしてその二つは、同じ剣の両面だった。

「手当てを」

 セラはミリアに駆け寄った。

 ミリアは驚いたように彼女を見た。

「セラ様」

「腕を見せてください」

「大丈夫です」

「大丈夫ではありません」

 セラは強い口調で言った。

 自分でも驚いた。神殿では、勇者に命令するなど考えられなかった。

 ミリアは少しだけ微笑み、剣を収めた。

「では、お願いします」

 噛まれた腕の傷は深かった。毒があるかもしれない。セラは布袋から薬草を出し、傷口を洗い、血を止めた。ミリアは痛みに耐えていたが、声を漏らさなかった。

「慣れているのですね」

 ミリアが言った。

「神殿で習いました」

「聖女候補は、誰かを癒やすための術も学びますから」

「はい」

 セラは手を止めずに言った。

「でも、私は自分が死ぬために学んでいたのだと思っていました」

 ミリアは黙った。

「誰かを助けられるのなら、生きて学んだ意味があります」

 セラの声は小さかった。

 けれど、ミリアには届いた。

 彼女の目にまた涙が浮かんだ。

「あなたは、戻らないのですね」

「はい」

「リリィが危険になるとしても」

 セラの手が止まった。

 胸が痛んだ。

 リリィの顔が浮かぶ。

 だが、今度は逃げなかった。

「リリィも助けます」

「どうやって」

「分かりません」

 ミリアは少しだけ目を見開いた。

 セラは続けた。

「でも、ライガさんが言いました。できるかどうかは、やってから考えると」

 少し離れた場所で、ライガが嫌そうな顔をした。

「人の馬鹿な言葉を引用するな」

 セラは初めて、小さく笑った。

 ミリアはその笑顔を見て、目を伏せた。

「眩しいですね」

「え?」

「私も昔は、そう言えたのかもしれません」

 ミリアは空を見上げた。

 夕暮れが町の屋根を赤く染めている。さっきまで善行を競っていた町は、今は怪我人の手当てと壊れた荷車の片付けに追われていた。記録官はまだ混乱しており、誰の行動が善行として記録されるのか、誰にも分からない。

 それでも、人々は動いていた。

 その姿を見て、ミリアは悲しそうに微笑んだ。

「私が初めて供物を殺したのは、十四歳のときでした」

 セラは息を呑んだ。

 ライガも黙った。

「相手は、港町の医師でした。疫病の流行時、三十人以上を救った人です。徳値が高かった。私は、その方の魂を受けて、初めて魔物の群れを退けました」

 ミリアの声は、淡々としていた。

 淡々としているからこそ、痛かった。

「その町は救われました。けれど、医師がいなくなったことで、翌冬に多くの病人が死にました。神殿はそれを記録しませんでした。勇者の勝利だけが記録されました」

 セラは何も言えなかった。

「それでも私は、次の供物を受け入れました。私が拒めば、別の勇者が行うだけです。私なら、せめて名前を覚えていられる。墓を建てられる。遺族に謝ることができる。そう思いました」

「それは」

 セラは言いかけて、止まった。

 優しいと思った。

 同時に、間違っているとも思った。

 その二つが、どちらも本当だった。

 ライガが口を開いた。

「名前を覚える勇者と、覚えない勇者。殺される側からすれば、大差ねえ」

 ミリアは頷いた。

「分かっています」

「分かってるならやめろ」

「やめれば、私の代わりにグラムのような勇者が来ます」

 その名を聞いて、神官たちの一人が顔を伏せた。

 ミリアは続けた。

「彼は供物を、人ではなく経験値と呼びます。私が降りれば、彼のような者が儀式を担う。だから私は、降りられなかった」

「また言い訳だ」

「そうですね」

 ミリアは静かに認めた。

「それでも、私はその言い訳に縋らなければ、自分の剣を握れませんでした」

 セラはミリアを見た。

 目の前の勇者は、壊れかけている。

 いや、もうずっと前から壊れていたのかもしれない。壊れているのに、壊れていないふりをして剣を振り続けてきた。誰かを救うために。誰かを殺すために。

「ミリア様」

 セラは言った。

「一緒に逃げませんか」

 ミリアは目を見開いた。

 ライガも眉を上げた。

「あなたは何を」

「神殿に戻らず、供物も殺さず、別の方法を探すんです。結界を守る方法も、魔物と戦う方法も、きっと」

「セラ様」

 ミリアの声は優しかった。

 優しいからこそ、その先を聞きたくなかった。

「私は逃げられません」

「どうして」

「勇者は神殿の祝福を体内に受けています。神殿の命に背けば、その祝福は呪いに変わります」

 セラは言葉を失った。

 ミリアは右手の手袋を外した。

 手首に、金色の紋章が浮かんでいた。勇者の証。神殿で何度も見た、美しい聖印。

 だが、その縁は黒ずんでいた。

「レオンを殺したあなたにも、関係がある話です」

 ミリアはライガを見た。

「勇者が神殿の定めから外れると、聖印は体を焼きます。最初は痛みだけ。次に力が失われ、最後には心臓が止まる」

「便利な首輪だな」

「ええ」

 ミリアは苦笑した。

「勇者もまた、制度の一部です」

 そのとき、彼女の手首の紋章が強く光った。

 ミリアの顔が歪む。

「ミリア様!」

 セラが叫んだ。

 ミリアは膝をついた。手首の聖印から黒い筋が伸び、腕を這い上がっていく。焼けた肉の匂いがした。

 神官が慌てて駆け寄る。

「勇者ミリア、神殿命令に従いなさい! 聖女候補を拘束し、帰還を」

「黙りなさい」

 ミリアは苦痛の中で言った。

 その声に、神官は動きを止めた。

 ミリアは剣を杖代わりにして立ち上がろうとした。だが足に力が入らない。セラが支えた。

「だめです、動かないで」

「セラ様」

「今、治療を」

「聞いてください」

 ミリアの声は弱くなっていた。

 ライガが近づいた。

「何が起きてる」

「私が、命令に背いたからです」

「まだ背いてないだろ」

「セラ様を連れ戻す意思を、失いました」

 セラは息を呑んだ。

「ミリア様」

「あなたは戻らなくていい」

 ミリアは微笑んだ。

 痛みに歪んだ、けれど少しだけ晴れやかな笑みだった。

「その代わり、リリィを助けてください」

「はい。必ず」

「神殿には、隠された記録があります。勇者制度の始まり、魔王軍との戦争、供物の本当の使い道。私はすべてを知っているわけではありません。でも、一つだけ確かなことがあります」

 彼女はライガを見た。

「魔王は、もういない」

 その言葉に、ライガの表情が変わった。

 ほんのわずかだった。

 だがセラには分かった。これまでどんな言葉にも揺れなかった男が、その一言で確かに揺らいだ。

「どういう意味だ」

 ライガの声は低かった。

 ミリアは苦しげに息を吸った。

「旧戦場跡へ行ってください。北の灰の谷。そこに、神殿から追放された記録官がいます。彼なら、知っています」

「魔王がいないなら、勇者は何と戦ってる」

「残った魔物です。そして」

 ミリアは目を閉じた。

「神殿が守りたい秩序と」

 黒い筋が首元まで伸びていた。

 セラは必死に治癒の祈りを唱えた。薬草を押し当て、布で縛る。だが神殿の呪いは傷ではなかった。手当てのしようがない。

「お願いです。死なないでください」

 セラの声は震えていた。

 ミリアはゆっくりと目を開けた。

「不思議ですね」

「何がですか」

「今まで、多くの方に同じことを言われました。死なないでくれと。私はいつも、謝ることしかできなかった」

 彼女の指が、セラの手に触れた。

「言われる側は、こんなに苦しいのですね」

 セラは泣いていた。

 ミリアが死ぬことを望んでいなかった。

 けれど、彼女が生きていればまた誰かを殺すかもしれない。その可能性も分かっていた。分かっていても、死んでほしくなかった。

 人の命は、こんなにも矛盾している。

 誰かにとって危険で、誰かにとって必要で、誰かにとって許せなくて、誰かにとって失いたくない。

 それをひとつの数値に変えることなど、本当はできないのだ。

「ライガ」

 ミリアが呼んだ。

「何だ」

「あなたは、私を殺しますか」

 ライガは黙った。

 神官が息を呑む。町人たちも、固唾を呑んで見守っている。

 ライガは剣に手をかけなかった。

「今のお前は勇者じゃない」

「そうですか」

 ミリアは少しだけ笑った。

「それは、よかった」

 彼女の聖印が砕けた。

 光の破片が宙に散り、すぐに消えた。

 ミリアの体から力が抜ける。

 セラは支えきれず、彼女と一緒に地面へ膝をついた。

「ミリア様!」

 返事はなかった。

 ただ、彼女の頬にはまだ涙の跡が残っていた。

 町は静まり返っていた。

 誰も拍手しなかった。

 誰も、何を称えればいいのか分からなかった。

 神官たちは顔を伏せていた。勇者が神殿に背き、死んだ。その事実をどう記録すればいいのか分からないのだろう。

 ライガはミリアの前に膝をついた。

 彼は彼女の剣を取り、柄に刻まれた名前を見た。

「殺した奴らの名を、本当に刻んでやがる」

 剣の柄には、小さな文字がびっしりと刻まれていた。マルタの名はなかった。だが、それ以前に供物となった人々の名が、数えきれないほど並んでいる。

 セラはその文字を見て、涙が止まらなかった。

 ミリアは本当に覚えていた。

 それでも、許されない。

 その二つが同時に存在していた。

 ライガは剣を地面に置いた。

「セラ」

 初めて、彼は彼女の名を普通に呼んだ。

 セラは顔を上げた。

「北の灰の谷へ行く」

「はい」

「戻りたいなら今だ」

 セラはミリアの亡骸を見た。

 リリィの顔を思い浮かべた。

 神殿の白い廊下。祈りの声。死を美しく飾る言葉。聖女という名前の棺。

 彼女は首を横に振った。

「行きます」

「危ないぞ」

「分かっています」

「分かってねえ顔だ」

「それでも行きます」

 ライガはしばらく彼女を見ていた。

 やがて、短く言った。

「勝手にしろ」

 セラは頷いた。

 町の鐘が再び鳴った。

 今度は夕刻の鐘ではなかった。死者を告げる鐘だった。

 その音の中で、セラはミリアの手をそっと胸の上に置いた。

 祈りの言葉は浮かんだ。

 けれど、唱えなかった。

 神のために彼女を送る気にはなれなかった。

 代わりに、セラは小さく言った。

「あなたの名前は、私が覚えます」

 ミリアが覚えてきた名の重さを、すべて引き受けることはできない。

 それでも、忘れないことから始めるしかなかった。

 ライガはすでに町の出口へ歩き出していた。

 黒い外套は傷だらけで、肩には新しい血が滲んでいる。その背中は相変わらず、英雄には見えなかった。

 けれどセラは、その背中を追った。

 死ぬためではなく、生きて問い続けるために。

 北の空には、灰色の雲がかかっていた。魔王がもういないという言葉が、重く胸に残っている。

 もし魔王がいないのなら。

 もし世界を救うためという理由が、すでに壊れているのなら。

 神殿は、いったい何のために善人を殺し続けているのか。

 セラはその答えを知らなければならなかった。

 知らなければ、リリィを救えない。

 知らなければ、マルタの死も、ミリアの涙も、すべて美しい言葉に塗り潰されてしまう。

 ライガが振り返らずに言った。

「泣くなら歩きながら泣け。追手は待ってくれない」

 セラは袖で涙を拭った。

「はい」

「返事だけはいいな」

「神殿で褒められていました」

「役に立たねえ褒め方だ」

 ほんの少しだけ、セラは笑った。

 笑えることが、罪のように思えた。

 けれど、生きるとはたぶん、そういうことなのだ。

 誰かが死んだあとでも、息をして、歩いて、時には笑ってしまう。そのことに傷つきながら、それでも進む。

 セラはミリアの名を胸に刻み、ライガの後を追った。山の向こうには灰の谷がある。そこに、魔王のいない戦争の真実が眠っている。

 もう戻れない。

 そう思った。

 けれど不思議と、その言葉は絶望ではなかった。



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