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善人を殺すとレベルが上がる世界で、僕は勇者だけを殺す  作者: 二条理|アコンプリス


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第二章 聖女候補セラ

 セラが初めて「あなたは死ぬために生まれたのです」と言われたのは、七歳の春だった。

 神殿の庭には白い花が咲いていた。名前は知らない。花弁は薄く、指で触れるとすぐに破れそうだった。けれど風に揺れても散らなかった。セラはその花が好きだった。弱そうなのに、なかなか折れないところが、自分の知っている誰かに似ているような気がしたからだ。

 その日、彼女は神官長に連れられて、白い石造りの礼拝堂へ入った。床は磨かれ、天井は高く、壁には歴代の聖女たちの名が刻まれていた。聖女。そう呼ばれた少女たちは皆、勇者に力を与え、世界を救ったのだと教えられていた。

 神官長は、セラの手に小さな記録石を握らせた。

 冷たかった。

 石は最初、何の反応も示さなかった。だがセラが両手で包むと、内側から光が滲み出した。青白い光だった。神官長の顔色が変わった。周囲にいた神官たちも、息を呑んだ。

「徳値、千六百八十二」

 誰かが震える声で告げた。

 セラには意味が分からなかった。ただ、大人たちが自分を見つめる目が変わったことだけは分かった。

 それまで、セラは神殿に保護された孤児のひとりだった。両親の記憶は薄い。母の手の温かさと、父の服からした雨の匂いだけが、断片のように残っている。村が疫病で焼かれ、生き残った子どもたちは神殿へ預けられた。セラもその一人だった。

 神殿では、子どもたちに読み書きが教えられた。祈りの言葉、薬草の名前、怪我人の手当て、神の教え。そこに不満はなかった。温かい食事があり、寝床があり、冬には毛布が与えられた。泣けば抱きしめてくれる修道女もいた。

 だが、その日からセラは別の部屋で眠ることになった。

 食事も変わった。訓練も変わった。汚れ仕事は免除され、代わりに祈りの時間が増えた。神官たちは彼女を見るたびに頭を下げ、修道女たちは「大切な身ですから」と言って、階段を駆け下りることさえ禁じた。

 理由を尋ねると、神官長は微笑んだ。

「あなたは、いつか世界を救う方だからです」

 世界。

 その言葉は、幼いセラには大きすぎた。

「どうやって救うのですか」

 セラが尋ねると、神官長は少しだけ目を細めた。叱る顔ではなかった。慈しむ顔でもなかった。今思えば、あれは困った顔だったのかもしれない。

「あなたの徳を、勇者様へ捧げるのです」

「徳を?」

「ええ。徳ある魂は、勇者様の力となります。勇者様はその力で魔を退け、多くの人々を救います」

「私は何をすればいいのですか」

 神官長はセラの肩に手を置いた。

 その手は重かった。

「その日が来たら、怖がらず、微笑んで祈るのです」

 意味はまだ分からなかった。

 けれど、セラは頷いた。

 大人がそう言うなら、それが正しいのだと思った。

 それから九年、セラは死ぬ準備をしながら生きてきた。

 朝起きると祈り、食事の前に祈り、誰かに感謝されるたびに「私の徳が世界のために使われますように」と唱えた。善い行いをしなさいと教えられた。人を憎んではいけない。怒ってはいけない。苦しくても笑いなさい。自分より幼い者を守りなさい。与えられた役目から逃げてはいけない。

 それができれば、セラは聖女に近づく。

 聖女に近づけば、死に近づく。

 その矛盾に気づいたのは、いつ頃だったのだろう。

 たぶん、リリィが神殿に来た日だ。

 リリィは十歳だった。小柄で、痩せていて、髪を二つに結んでいた。最初に会ったとき、彼女はパンを両手で隠していた。食堂の隅で、盗んだパンを見つからないように食べようとしていたのだ。

 修道女が叱ろうとしたとき、セラは反射的に前へ出た。

「私が渡しました」

 嘘だった。

 聖女候補は嘘をついてはいけない。そう教えられていた。だがリリィが泣きそうな顔をしていたので、セラは嘘をついた。

 あとで神官長に呼ばれた。叱られると思った。

 だが、神官長は穏やかに笑った。

「弱き者を庇うための嘘は、時に徳となります」

 その日、セラの徳値はわずかに上がった。

 怖いと思った。

 善いことをすれば、死に近づく。誰かを守れば、供物としての価値が増す。リリィを庇ったことで、セラは聖女に一歩近づいた。

 それなのに、リリィは「セラ姉さま」と呼んで懐いた。

 セラはその呼び方が好きだった。好きになるほど、怖くなった。

 自分が死んだあと、この子はどうなるのだろう。

 その問いが、セラの中に小さな棘として残った。

 神殿から逃げた夜、雨は降っていなかった。空には雲が薄くかかり、月はぼやけていた。聖女候補の寝室は神殿の北棟にある。窓の下には薬草園があり、その先に使用人用の門があった。

 セラは逃げるつもりではなかった。

 少なくとも、自分のために逃げるつもりはなかった。

 儀式の日が近づいていた。神官長は数日前から妙に忙しくなり、勇者レオンが地方巡行から戻りしだい、次の献身儀式が執り行われると告げられた。セラはついに来たのだと思った。

 怖かった。

 だが、恐怖は悪だと教えられていたわけではない。恐怖に負けて役目を捨てることが悪なのだ。だからセラは、怖いと思うことまでは自分に許した。眠る前、毛布の中で両手を握りしめて震えた。明日になれば、もっと落ち着いているはずだ。そう言い聞かせた。

 その夜、廊下でリリィの声を聞いた。

「私でもいいの?」

 細い声だった。

 扉の隙間から、燭台の明かりが漏れていた。セラは足を止めた。神官長と数名の神官が、控え室で話している。リリィもそこにいた。

「あなたは大変優れた徳をお持ちです」

 神官長の声がした。

「セラ様ほどではありませんが、勇者様に十分な力を与えることができます」

「セラ姉さまは?」

「セラ様には、より重要な儀式でお力をいただくことになるかもしれません」

「私が先に死ぬの?」

 セラは息を止めた。

 神官長は少し沈黙したあと、優しく言った。

「死ぬのではありません。捧げるのです」

 リリィは泣かなかった。

 それがセラには、何より怖かった。

「セラ姉さまの代わりになれるなら、私、がんばる」

 その声を聞いた瞬間、セラの中で何かが壊れた。

 自分が死ぬことは、まだ耐えられた。そう教えられてきたからだ。けれど、自分の代わりにリリィが死ぬことは、耐えられなかった。十歳の少女が、自分の死を褒められるための努力だと思っている。そのことが、どうしても許せなかった。

 セラは部屋に戻り、白い外套を羽織った。机の引き出しに入れていた乾いたパンと水筒を布袋に詰めた。靴紐を結ぶ手が震えていた。神殿の外へ出た経験はほとんどない。山道も知らない。宿の取り方も、金の使い方も曖昧だった。

 それでも、門を越えた。

 逃げれば、神殿は自分を探す。自分が見つかれば、リリィは助かる。だから逃げる必要があった。矛盾しているようだが、セラにはそれしか方法が思いつかなかった。

 逃げて、見つかって、連れ戻される。

 それが彼女にできる唯一の抵抗だった。

 だが今、彼女の前には勇者殺しがいた。

 黒い外套を着た男。村人に石を投げられても、顔色ひとつ変えなかった男。勇者を殺し、老婆の胸に花を置いた男。自分を悪人だと名乗りながら、「死にたいかどうか分からないやつが、死ぬな」と言った男。

 ライガは森の中を歩いていた。

 セラはその数歩後ろをついていった。

「ついてくるなと言った」

 ライガは振り返らずに言った。

「聞こえています」

「なら帰れ」

「帰れば殺されます」

「神殿に戻りたいんじゃなかったのか」

「戻らなければいけないと思っていました」

「今は」

 セラは答えに詰まった。

 木々の間から差し込む光は細く、足元の根は何度も彼女の靴先を引っかけた。森は思っていたより静かではなかった。葉擦れ、虫の羽音、遠くの獣の声。神殿の庭では聞いたことのない音ばかりだった。

「分かりません」

「またそれか」

「はい」

「便利な言葉だな」

「ライガさんも、できるかどうか知らないと言いました」

「あれは便利じゃない。無責任だ」

 セラは思わず足を止めた。

「自分で言うんですか」

「他人に言われる前に言った方が腹が立たない」

 ライガは淡々と言った。

 セラは少しだけ、笑いそうになった。神殿で笑うときは、いつも慎み深くするように教えられていた。口を開けて笑ってはいけない。声を立ててはいけない。聖女候補は人々の模範でなければならない。

 だから、喉の奥に生まれた笑いをどう扱えばいいのか分からなかった。

 ライガはそれに気づいたのか、横目で見た。

「笑うところか」

「分かりません」

「それも分からないのか」

「はい」

「重症だな」

 セラは少し黙ってから、尋ねた。

「ライガさんは、どうして勇者を殺しているのですか」

「さっき見ただろ」

「マルタさんのような人を殺させないためですか」

「それだけじゃない」

「では」

「勇者が嫌いだからだ」

 ひどく単純な答えだった。

 セラは戸惑った。大きな理念や、世界を変える使命のようなものを予想していた。だがライガは、子どもが嫌いな食べ物を告げるように言った。

「嫌いだから、殺すんですか」

「殺す理由としては十分だ」

「十分ではありません」

「神殿ではそう教えるだろうな」

「人を殺すには、正しい理由が必要です」

「正しい理由があれば殺していいのか」

 セラは言葉を失った。

 それは、彼女が神殿で一度も問われなかったことだった。

 勇者が人を殺すのは、正しい。世界のためだから。神の仕組みに従っているから。供物となる者も同意しているから。そう教えられてきた。

 だが、正しい理由があれば殺していいのか。

 その問いは、あまりに鋭く、セラの胸に刺さったまま抜けなかった。

 彼女の沈黙を、ライガは責めなかった。ただ歩き続けた。

 しばらくして森が開け、二人は小さな町に出た。

 町の入口には木の門があり、上部に看板が掲げられていた。

 善行町リーベル。

 名前の下には、小さな文字で標語が刻まれている。

 善き者は神に記録され、悪しき者は人に忘れられる。

 セラはその言葉を見上げた。

「立派な標語です」

「趣味が悪い」

 ライガは門をくぐった。

 町の中はよく整えられていた。道端にゴミはなく、家々の窓辺には花が飾られている。行き交う人々は皆、穏やかな顔で挨拶を交わしていた。子どもが転ぶと、近くにいた大人がすぐに駆け寄り、膝の土を払う。老婆が荷物を持っていれば、若者が当然のように肩代わりした。

 セラは安心した。

 ここは善い町だと思った。

 だが、ライガの表情は険しかった。

「何かおかしいのですか」

「全部だ」

「皆さん、親切です」

「親切に見られたいんだ」

 セラが首を傾げたとき、道の向こうで鐘が鳴った。

 町の中央にある小さな塔から、神官らしき男が出てきた。手には記録帳を持っている。周囲の人々が一斉に姿勢を正した。

「本日の善行報告を始めます」

 神官が告げた。

 町の人々は列を作り始めた。

 セラは驚いた。

「毎日、善行を報告するんですか」

「そういう町だ」

 ライガは道端の木陰に腰を下ろした。

「腹が減った。お前、金は」

「持っていません」

「だろうな」

「パンなら少し」

 セラが布袋を開こうとすると、ライガは止めた。

「今食うな。あれを見てからにしろ」

 町人たちは順番に神官の前へ進み、自分の善行を申告していった。

「今朝、隣家の井戸水を汲みました」

「昨日、孤児院へ銅貨を二枚寄付しました」

「足の悪い老人を教会まで送りました」

 神官はそれらを記録し、横に置かれた記録石へ手をかざす。石は小さく光った。申告が認められれば、町人は安堵の表情を浮かべて列を離れる。

 だが、すべてが認められるわけではなかった。

「その老人は、あなたの父親ですね」

 神官が言った。

「はい」

「親族への扶助は基本徳に含まれます。追加善行としては弱い」

「ですが、父は重くて」

「次回は他家の者への奉仕を心がけなさい」

 男の顔が青ざめた。

「では、今日の徳点は」

「保留です」

 周囲から、気の毒そうな視線が向けられる。

 だがその中には、明らかな優越も混じっていた。自分は保留ではない。自分は今日も善い人間として記録された。そういう安堵が、空気の底に沈んでいる。

 次に出てきたのは、若い女だった。

「昨日、病人に薬湯を届けました」

「誰に」

「隣の、エッダさんに」

「エッダは先週、あなたと口論していましたね」

「はい」

「和解の意思による善行ですか。評価できます」

 記録石が光った。

 女はほっとして頭を下げた。

 セラはその様子を見て、最初は感心した。人々が互いに助け合い、その行いがきちんと記録される。悪いことではないはずだった。

 だが、列の後ろで囁き声が聞こえた。

「昨日、エッダに薬湯を届けたの、わざと見える時間に行ったんだって」

「そりゃそうよ。夕方の鐘の前なら記録官が通るもの」

「抜け目ないわね」

「でも評価されたなら勝ちよ」

 セラは振り返った。

 囁いていた女たちは、すぐに口を閉じて微笑んだ。その微笑みがあまりに整っていたので、かえって怖かった。

 そのとき、道の端で小さな騒ぎが起きた。

 男の子が、荷車に積まれた林檎を一つ取ろうとしていた。五歳ほどだろうか。服は古く、痩せていた。林檎屋の主人が怒鳴ろうとした瞬間、近くにいた中年の女が駆け寄った。

「まあ、かわいそうに。お腹が空いているのね」

 女は大きな声で言った。

 周囲の視線が集まる。

 女は林檎を一つ買い、男の子に渡した。

「食べなさい。神はあなたを見捨てません」

 神官が近づき、記録帳に書き込んだ。

「孤児への施し。評価します」

 女は胸に手を当て、謙虚に頭を下げた。

 だが、男の子が林檎を抱えて去ろうとすると、女は小声で言った。

「明日からは塔の鐘が鳴ってから来なさい。その方が助けてもらえるわ」

 セラは耳を疑った。

 男の子は頷いた。慣れているようだった。

 ライガが立ち上がった。

「行くぞ」

「どこへ」

「飯」

 二人は町の外れにある食堂へ入った。

 店内は明るく、壁には善行番付が貼られていた。今月最も徳点を得た者の名前が、順位付きで並んでいる。首位の名の横には、銀色の花飾りが描かれていた。

 ライガは一番奥の席に座った。

 店主がやってきて、ライガを見るなり顔を強張らせた。

「旅の方ですか」

「そうだ」

「お連れの方は神殿の」

「似た服を着てるだけだ」

 ライガは硬い声で遮った。

 店主はそれ以上聞かなかった。だが目はセラの白い服を見ていた。

「食事を二つ」

「お代は」

 ライガは懐から小袋を出した。硬貨が数枚、机に転がる。

 店主はそれを見て、一瞬だけ眉をひそめた。

「少し足りませんね」

「水で薄めたスープに足りない値段か」

「当店は正規の価格で」

 ライガは店主の手首を掴んだ。

 音もなく、しかし強く。

「足りるな」

 店主の顔が引きつった。

「足ります」

「よかった」

 ライガは手を離した。

 セラは非難するように見た。

「脅したんですか」

「値切った」

「今のは値切りではありません」

「神殿では何て言うんだ」

「恐喝です」

「なら恐喝だ」

 あっさり認められて、セラはまた言葉に詰まった。

 食事が運ばれてきた。黒パンと豆のスープ。スープは薄く、具は少なかった。だがセラには温かい食事がありがたかった。神殿を出てから、まともに座って食べるのは初めてだった。

 ライガは黙って食べた。

 セラもスプーンを取った。だが、一口飲んだところで、外から怒鳴り声が聞こえた。

「嘘つき!」

 店内の客が一斉に窓の方を見た。

 広場で、若い男が神官に詰め寄られていた。先ほど父親を教会まで送ったと申告した男だった。

「あなたは昨日、老人の荷物を持つふりをして、途中で他人に任せたそうですね」

 神官が言った。

「違います。父が、もういいと言ったから」

「最後まで付き添っていないなら、善行としては不完全です」

「でも」

「虚偽申告の疑いがあります」

 その言葉に、町人たちの表情が変わった。

 善行をしないことより、善行を偽ることの方が重い罪とされるらしい。男は弁解しようとしたが、周囲から冷たい声が飛んだ。

「嘘をついたのか」

「神を欺いた」

「保留どころじゃない」

「悪人記録だ」

 男の顔から血の気が引いた。

 神官が記録石を男に向ける。石は青ではなく、鈍い灰色に光った。

「徳値、減少を確認」

 町人たちは一歩下がった。

 まるで病がうつるかのように。

 男は膝をついた。

「違う。私はただ、父がもういいと言ったから」

 誰も聞かなかった。

 セラは立ち上がりかけた。

 ライガが言った。

「座れ」

「でも」

「何をする」

「誤解なら、話を」

「お前が説明すれば、あいつは助かるのか」

「分かりません」

「なら座れ」

 セラは座れなかった。

 男の顔を見ていると、胸が苦しくなった。善いことをしたかったのかもしれない。善いことをしたように見られたかっただけかもしれない。どちらにしても、彼は今、町から切り離されようとしている。

「なぜ、誰も聞かないのですか」

「聞けば自分の徳点が下がるからだ」

「どうして」

「悪人を庇えば、悪人寄りになる」

 ライガはスープを飲んだ。

「ここでは、誰かを助けるにも相手を選ぶ。評価される弱者は助ける。評価されない弱者は見捨てる。善行に見えることだけが善行になる」

 セラは窓の外を見た。

 男は連れて行かれるところだった。父親らしき老人が家の戸口から出てきて、何かを言おうとしていた。だが家族が必死に止めている。老人が証言すれば、息子は助かるかもしれない。しかし、その証言が町の空気に逆らうものなら、老人の家族全員が白い目で見られる。

 老人は口を開けたまま、何も言えなかった。

 セラは、手の中のスプーンを握りしめた。

 自分は何を見ているのだろう。

 神殿で教えられた善とは、もっと美しいものだった。人を助けること。自分より弱い者を守ること。痛みに寄り添うこと。けれどこの町では、善は帳簿になり、点数になり、順位になっていた。

 善いことをすれば褒められる。

 褒められるために善いことをする。

 善いことをしない者は悪人になる。

 悪人になれば、誰も助けない。

「ライガさん」

「何だ」

「この町の人たちは、悪い人たちなのでしょうか」

「知らん」

「またですか」

「俺は裁判官じゃない」

 ライガはパンをちぎった。

「ただ、善人でいないと生きられない町で、善人が本当に善人かどうかなんて分かるか」

 セラは返事ができなかった。

 その言葉は、神殿にも向けられているように思えた。

 聖女候補として育てられた自分は、本当に善い人間なのだろうか。善くあれと言われたから善く振る舞い、死ぬことが尊いと言われたから死のうとしていた。では、それは自分の意思だったのか。

 食堂の扉が開いた。

 入ってきたのは二人の神官だった。リーベルの神官ではない。白い外套に金の縁取り。胸元には中央神殿の紋章がある。

 セラの体が強張った。

 ライガも気づいた。

「追手か」

 小声で訊く。

「おそらく」

「おそらくじゃ困る」

「神殿直属の者です」

「じゃあ追手だ」

 神官たちは店内を見回した。セラはとっさに顔を伏せたが、白い服は目立ちすぎた。

 一人の神官と目が合った。

 その瞬間、相手の表情が変わった。

「セラ様」

 店内が静まり返った。

 町人たちの視線が一斉にセラへ向く。

 セラ様。

 その呼び方が、彼女をただの旅人ではなく、神殿の特別な存在に戻した。

 神官たちは近づいてきた。

「ご無事で何よりです。神官長が大変心配しております」

 その声は丁寧だった。

 だが目は笑っていなかった。

「戻ります」

 セラは反射的にそう言いかけた。

 言わなければならないと思った。

 戻れば、リリィは助かる。戻れば、騒ぎは収まる。戻れば、すべてが元に戻る。

 だが、ライガが言った。

「飯の途中だ」

 神官の目がライガへ向いた。

「あなたは」

「通りすがりだ」

「その方から離れなさい。セラ様は神殿の大切な」

「物か」

 ライガの声が低くなった。

 神官は眉をひそめた。

「何です」

「大切な物みたいに言うな」

「聖女候補は神より託された尊い身です」

「本人のもんだろ」

 店内の空気が張り詰めた。

 神官はライガの腰の剣を見た。次に、外套の裂け目、乾きかけた血、荒い手つきを見た。そして何かに気づいたように、目を見開いた。

「まさか、あなたが」

 ライガは椅子を引いた。

 音が大きく響いた。

「走れるか」

 セラに訊く。

「はい」

「嘘つけ。さっきから足を引きずってる」

「走れます」

「じゃあ走れ」

 ライガは机を蹴り上げた。

 豆のスープが宙に舞い、神官たちの衣にかかった。悲鳴が上がる。店主が叫んだ。ライガはセラの手首を掴み、裏口へ向かって走った。

「待ちなさい!」

 神官の声が追ってくる。

 裏口を抜けると、狭い路地だった。洗濯物が頭上にはためき、足元には水桶が置かれている。ライガは迷いなく進んだ。セラは必死でついていく。靴底が石畳を叩き、息がすぐに上がった。

「こっちですか」

「知らん」

「知らないんですか」

「追われてるときは、追手が嫌がりそうな方へ行く」

 ライガは積まれた木箱を倒した。

 背後で神官たちが足を止める音がした。

 二人は路地を抜け、町の裏手に出た。そこには小さな祠があり、祠の前で老婆が祈っていた。老婆は突然現れた二人を見て目を丸くしたが、ライガが「邪魔した」と言うと、黙って道を開けた。

 町の出口は近かった。

 だが、門の前にはすでに人が集まっていた。町の自警団らしき男たちが棒を持って立っている。その中央に、先ほどの神官とは別の人物がいた。

 銀の鎧。

 細身の剣。

 肩まで伸びた淡い金の髪。

 女性だった。

 セラはその顔を知っていた。

「ミリア様」

 彼女の声が震えた。

 勇者ミリア。

 中央神殿直属の勇者のひとり。供物となった者の名をすべて記憶していると噂される、優しすぎる勇者。

 ミリアはセラを見て、ほっとしたように微笑んだ。

「よかった。無事だったのですね」

 その声には、本物の安堵があった。

 セラはそれが分かってしまった。だから苦しくなった。ミリアは自分を捕まえに来た敵だ。だが、彼女の心配は本物だった。

 ミリアの視線がライガへ移る。

 彼女の表情が硬くなった。

「あなたがライガですね」

「有名で困る」

「勇者レオンを殺しましたか」

「ああ」

「マルタ・リーン様を」

「助けられなかった」

 ミリアの目がわずかに揺れた。

 レオンを殺したかではなく、マルタを助けられなかったと答えた。その意味を、彼女は理解したようだった。

「セラ様をこちらへ」

「嫌だ」

「彼女は神殿に戻るべき方です」

「本人が決める」

 ミリアはセラを見た。

「セラ様」

 その声は優しかった。

「リリィは無事です。あなたが戻れば、誰も代わりに選ばれません」

 セラの胸が大きく揺れた。

 リリィは無事。

 その言葉だけで、膝から力が抜けそうになった。

「本当ですか」

「本当です。私が保証します」

 ミリアは一歩進んだ。

「だから戻りましょう。あなたがいなくなって、皆が心配しています」

 皆。

 神官長。修道女たち。リリィ。他の聖女候補。彼らの顔が浮かぶ。セラが戻れば、きっと泣いて迎えてくれる。叱られるかもしれない。だが、それで済む。儀式は予定通り行われる。自分が死ねば、誰も代わりに死なない。

 簡単なことだった。

 最初から、それが正しい道だった。

 セラはライガの手から、自分の手首をそっと外そうとした。

 ライガは止めなかった。

 それが意外だった。

 彼は何も言わず、ただセラを見ていた。

「戻るのか」

 声は平坦だった。

「私が戻れば、リリィは」

「お前は死ぬ」

「はい」

「死にたいのか」

 同じ問いだった。

 森で聞かれた問い。

 答えは、まだ出ていなかった。

 セラはミリアを見た。

 ミリアは悲しそうな顔をしていた。彼女はセラが死ぬことを悲しむだろう。きっと泣くだろう。供物の名前を覚えてくれるだろう。墓を作ってくれるかもしれない。そういう人だ。

 だが、それでも殺すのだ。

 泣きながら、殺すのだ。

「ミリア様」

 セラは言った。

「はい」

「私は、死にたくないと言ったら、悪い人間になりますか」

 ミリアの顔が歪んだ。

 答えはすぐには返ってこなかった。

 その沈黙だけで、セラは十分だった。

 ミリアは優しい。だから嘘をつけない。死にたくないと願うことを悪だとは言いたくない。だが、聖女候補が死を拒めば、制度は揺らぐ。勇者は力を得られず、神殿は困る。世界のためという言葉も、形を失う。

 ミリアは唇を噛んだ。

「悪い人間ではありません」

 彼女はようやく言った。

「けれど、誰かが苦しむことになります」

 セラは頷いた。

「そうですね」

「だから」

「でも、私が死んでも、誰かは苦しみます」

 ミリアは何も言えなかった。

「リリィも、神殿の皆も、きっと泣きます。私も怖いです。マルタさんも、怖かったと思います」

 セラの声は震えていた。

 それでも、言葉は止まらなかった。

「怖いのに、笑わなければいけないのは、正しいことなのでしょうか」

 町の人々は黙っていた。

 誰も、少女の問いに答えられなかった。

 ライガが小さく息を吐いた。

「決まったか」

 セラは目を閉じた。

 神殿で教えられた祈りの言葉が浮かぶ。

 徳ある者よ、恐れるな。

 汝の魂は剣となり、盾となり、世界を守る。

 その言葉を、彼女は何百回も唱えてきた。

 だが今、別の言葉が胸に残っていた。

 死にたいかどうか分からないやつが、死ぬな。

 乱暴で、正しくなくて、祈りにもならない言葉。

 けれど、セラは初めて、自分の命が自分のもののように感じた。

「私は」

 彼女は目を開けた。

「まだ、死にたくありません」

 ミリアの目に涙が浮かんだ。

 それは怒りではなかった。

 おそらく、羨望に近かった。

「そうですか」

 ミリアは剣を抜いた。

「なら、私はあなたを連れ戻さなければなりません」

 ライガも剣を抜いた。

 黒い刃が、夕方の光を受けて鈍く光る。

「泣きながら人を殺す勇者か」

 彼は言った。

「面倒なのが来たな」

 ミリアは涙を拭わなかった。

「私は、殺した方々の名前をすべて覚えています」

「覚えれば許されるのか」

「許されるとは思っていません」

「ならやめろ」

「やめれば、もっと多くの人が死にます」

 ライガは肩をすくめた。

「便利な地獄だな」

 ミリアは剣を構えた。

 その構えは美しかった。無駄がなく、まっすぐで、迷いがあるのに崩れていない。レオンとは違う。彼女は自分の罪を知っている。そのうえで剣を取っている。

 だからこそ、セラには恐ろしかった。

 正義を信じきった勇者より、自分の罪を知りながら進む勇者の方が、ずっと止めにくい。

 町の鐘が鳴った。

 夕刻を告げる鐘だった。

 人々は家に帰り、今日の善行を帳簿に記す時刻。善い一日だったと祈る時刻。

 その鐘の音の下で、悪人を名乗る男と、泣きながら人を殺す勇者が向かい合った。

 セラはその間に立ち尽くしていた。

 逃げたいと思った。

 けれど、逃げなかった。

 死にたくないと、今言ったばかりだったからだ。

 生きたいと言った人間が、最初にしなければならないことは、たぶん逃げることではない。

 自分の足で立つことだ。

 セラは震える手を胸元で握りしめた。

 そして初めて、神のためではなく、自分のために祈った。



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