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善人を殺すとレベルが上がる世界で、僕は勇者だけを殺す  作者: 二条理|アコンプリス


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第一章 善人を殺す勇者

 その村で一番善い人間は、朝食の前に殺されることになった。

 朝靄はまだ山裾に残っていた。麦畑の穂先には夜露が光り、村の中央にある広場では、焼きたてのパンの匂いと、家畜小屋から漂う湿った獣臭が混じっていた。普段なら、子どもたちが井戸のまわりを走り、女たちが洗濯桶を抱えて笑い、男たちが鍬を肩に畑へ向かう時刻だった。

 だがその朝、誰も畑へ行かなかった。

 村人たちは広場に集められていた。老いも若きも、病人も子どもも、まだ足元のおぼつかない幼子まで、ひとり残らずそこにいた。広場の中央には、白い布を掛けられた長机が置かれている。その上には、村人たちが夜通しかけて書いた善行記録が積まれていた。

 誰を助けたか。

 誰に施したか。

 どれほど嘘をつかなかったか。

 誰かを見捨てたことがあるか。

 それらは本来、神へ捧げる祈りのようなものだった。村人たちは生まれたときから、善くあれと教えられてきた。隣人にパンを分け、病人には薬草を届け、道で倒れた旅人を見つければ家へ運び、喧嘩をしても日暮れまでには謝る。それが人として正しいことだと信じていた。

 だが今朝、その正しさは別の形に変わっていた。

 勇者レオンは、長机の前に立っていた。

 銀色の鎧は朝の光を受け、眩しいほど輝いている。背は高く、金色の髪は首筋でゆるく結ばれ、整った顔には静かな微笑が浮かんでいた。その姿だけを見れば、絵本から抜け出してきた英雄にしか見えない。子どもたちは本来なら目を輝かせていたはずだった。大人たちも、胸に手を当てて神に感謝していただろう。

 勇者が村に来る。

 それは、村が救われるという意味だった。

 魔物に襲われた村。疫病に苦しむ町。飢饉に沈む地方。そこへ勇者がやってきて、剣を振るい、災厄を退ける。そういう物語は、誰もが知っていた。

 けれど、レオンが求めたのは食料ではなかった。

 宿でも、地図でも、荷馬でもなかった。

 彼は村に到着するなり、村長にこう言った。

「この村で、最も徳の高い方を選ばせていただきます」

 村長は最初、意味が分からなかったようだった。勇者をもてなすための準備をしていた女たちも、広場で薪を割っていた男たちも、同じように顔を見合わせた。

 レオンは穏やかに説明した。

 魔王軍との戦いは厳しさを増している。勇者が強くならなければ、国境の結界は破られ、魔物が流れ込み、数えきれない命が失われる。勇者に力を与えるのは、神が定めた尊い仕組みである。徳ある者の魂は、勇者の経験値となり、剣を鋭くし、肉体を強くし、魔を退ける力へ変わる。

 つまり、善い人間ほど、世界を救える。

 レオンは一度も声を荒げなかった。脅しもしなかった。彼の口調は、病人に薬を差し出す医者のように丁寧だった。だからこそ、村人たちは拒めなかった。

 拒む理由が、見つからなかった。

「まずは、皆様の善行記録を確認いたします」

 レオンは積まれた羊皮紙を一枚ずつ手に取った。隣には神官が立ち、記録石を持っている。石は掌ほどの大きさで、中央に青白い光を宿していた。善行記録を近づけると、光の強さが変わる。村人たちはそれを「徳値」と呼んでいた。

 徳値。

 神から与えられた、人の善さを測る数値。

 昔は、祝福の証だった。高い徳値を持つ者は神に愛された者とされ、祭りの日には前列で祈ることを許され、婚礼では皆から祝福された。

 だが、勇者制度が整ってから、意味は変わった。

 徳値が高い者は、勇者の糧に選ばれる。

 善人であるほど、死に近い。

 そのことを誰もが知っていた。それでも、村人たちは善くあろうとした。なぜなら善くなければ、共同体の中で生きていけなかったからだ。困っている者を助けなければ、悪人と呼ばれる。嘘をつけば、神に背いた者として遠ざけられる。老人を見捨てれば、食卓から椅子が消える。

 善くあることは、死に近づくことだった。

 善くないことは、生きながら村から追い出されることだった。

 どちらも地獄だった。

「マルタ・リーン」

 レオンが名前を呼んだ。

 広場の隅で、小さなざわめきが起きた。

 呼ばれたのは老婆だった。背は曲がり、髪は雪のように白く、両手には長年の畑仕事で刻まれた皺が深く走っている。マルタは村で一番古い家に住んでいた。夫は二十年前に病で死に、子どもはいなかった。だが彼女の家には、いつも誰かがいた。親を亡くした子。夫に暴力を振るわれた女。旅の途中で足を痛めた商人。冬に食べるものがなくなった家族。

 マルタは誰でも家に入れた。

 鍋に水を足し、パンを薄く切り、暖炉の前に座らせた。

 誰もが一度は、彼女に助けられていた。

 マルタはゆっくりと顔を上げた。驚きはなかった。あるのは、遠い場所から自分の名前を聞いた人間のような、静かな諦めだった。

「はい」

 彼女は返事をした。

 その声はよく通った。老いているのに、芯があった。

 レオンは手元の羊皮紙に目を落とした。

「孤児三名の養育。飢饉時の穀物提供。病人六名の看取り。旅人への宿の提供、記録にあるだけで四十二回。借金の肩代わりが七件。隣家の火災時、負傷を顧みず幼児を救助。十七年間、村の祭壇の清掃を無償で継続。怒りによる暴言、記録なし。虚偽申告、記録なし」

 読み上げる声は、よく整っていた。

 まるで功績を称えているようだった。

 神官が記録石を掲げる。青白い光が、朝靄を裂くように強くなった。村人たちの中から、誰かが息を呑む音がした。

「徳値、九百二十七」

 神官が告げた。

 ざわめきが広がった。

 それは村では異例の高さだった。大抵の人間は百から二百。祭壇を管理する村長でさえ三百に届かない。九百を超えるなど、村の歴史でも聞いたことがない。

 レオンは微笑んだ。

「素晴らしい。マルタ様、あなたは神に深く愛されています」

 マルタは黙っていた。

 村人たちの視線が、彼女に集まる。

 子どもが泣き出した。若い母親が慌てて口を塞ぐ。泣き声はすぐに押し殺された。だが涙までは止まらなかった。

「マルタばあちゃん」

 ひとりの少年が一歩前へ出た。八つか九つほどの子で、痩せていた。マルタの家で育った孤児のひとりだ。少年は村長に腕を掴まれ、引き戻された。

「やめなさい」

「でも」

「やめなさい」

 村長の声は震えていた。

 少年は唇を噛んだ。噛みしめすぎて、血が滲んだ。

 レオンはその様子を悲しげに見ていた。少なくとも、悲しげに見える顔をしていた。

「お気持ちは分かります」

 レオンは言った。

「大切な方を送り出す痛みは、誰にとっても耐え難いものです。ですが、マルタ様の尊い魂は、私の力となり、やがて数千、数万の命を救います。この死は無駄にはなりません」

 死。

 その言葉が広場に落ちた瞬間、誰もが目を伏せた。

 誰も驚かなかった。

 初めから知っていたからだ。勇者が徳値を測るということは、そういう意味だった。

 マルタは杖をつき、ゆっくりと前へ出た。歩くたび、古びた靴が土を擦る音がした。村人たちは道を開けた。誰も彼女に触れようとしなかった。触れれば、引き止めてしまう。引き止めれば、世界を見捨てることになる。そう教えられてきた。

 マルタは少年の前で足を止めた。

「泣かないでおくれ、ヨナ」

 彼女は言った。

「でも、ばあちゃん」

「パンを焼くときは、先に窯を温めるんだよ。粉を入れてから慌てても、うまく膨らまない」

「そんな話、今しないでよ」

「覚えておくんだよ。あんたは焦ると、すぐ塩を入れすぎるからね」

 少年は堪えきれず、マルタに抱きついた。

 村長が止めようとしたが、レオンが手で制した。

「よい別れを」

 彼は言った。

 その言葉は優しかった。

 優しいから、残酷だった。

 マルタは少年の頭を撫でた。指は細く、骨ばっていた。それでも、少年の髪に触れる動きは、長年そうしてきた者の手つきだった。

「ちゃんと食べるんだよ」

「嫌だ」

「嫌でも食べるんだよ。生きてる間は、お腹が空くんだから」

「ばあちゃんは」

 少年の言葉は、涙に溶けた。

 マルタは答えなかった。答えられなかったのではない。答えないことを選んだのだと思えた。

 やがて彼女は少年から体を離し、レオンの前に立った。

「勇者様」

「はい」

「私は、怖くないと言えば嘘になります」

「当然です」

「けれど、私の命が本当に誰かの役に立つのなら、それはありがたいことです」

 レオンは深く頭を下げた。

「あなたの献身を、世界は忘れません」

 嘘だ、と広場の外れで誰かが思った。

 声には出なかった。

 世界は忘れる。村の外に出れば、マルタの名を知る者などいない。勇者の力が増したという記録だけが神殿に残り、ひとりの老婆がどんな声で笑い、どんなパンを焼き、どんなふうに孤児の髪を撫でたかなど、誰も記録しない。

 それでも村人たちは、拍手の準備をしていた。

 拍手。

 そうするのが礼儀だった。供物となる者へ感謝を示すために。尊い犠牲を称えるために。涙を流してもよい。むしろ涙は推奨された。だが、最後は拍手しなければならない。そうしなければ、死者の献身を否定したことになる。

 レオンは腰の剣を抜いた。

 その刃は白く光っていた。魔物を斬るために鍛えられた聖剣。神殿で祝福を受け、勇者にのみ扱えるとされる武器。

 マルタは膝をついた。

 祈るように両手を組み、目を閉じる。

 広場の空気が止まった。

 鳥の声も、家畜の鳴き声も、すべて遠ざかったように思えた。

 レオンは剣先をマルタの胸に当てた。

「マルタ・リーン。あなたの徳と献身に、深く感謝いたします」

 彼は美しい声で告げた。

「あなたの魂は、勇者の力となり、世界を救うでしょう」

 剣が、マルタの胸を貫いた。

 音は小さかった。

 布を裂くような、湿った音だった。

 マルタの体が一度だけ震えた。口元がわずかに開いたが、声は出なかった。彼女の目は閉じられたままだった。苦しみを見せまいとしたのか、それとも最期まで祈っていたのかは分からない。

 血が白い前掛けを染めた。

 次の瞬間、レオンの体に光が走った。

 足元から肩へ、肩から剣へ、青白い紋様が駆け上がる。神官の記録石が激しく輝き、風もないのに広場の砂が舞った。村人たちは眩しさに目を細めた。

「勇者レオン、レベル四十二から四十三へ上昇」

 神官が告げた。

「筋力値、魔力値、聖剣適合率、すべて上昇。結界維持貢献値、増加を確認」

 レオンは剣を引き抜いた。

 マルタの体が、ゆっくりと横に倒れた。

 誰かが拍手した。

 最初は、ひとつだけだった。

 ぱちん、という乾いた音。

 すぐに別の手が重なった。さらに別の手も。やがて広場全体に、拍手が広がった。村人たちは泣いていた。顔を歪め、肩を震わせ、唇を噛みしめながら、それでも拍手をしていた。

 ヨナだけが拍手しなかった。

 少年は地面に座り込み、声もなく泣いていた。村長がその手を取って叩かせようとしたが、少年は腕を振り払った。

「なんで」

 少年の声はかすれていた。

「なんで拍手するんだよ」

 誰も答えなかった。

 答えれば、自分たちが何をしているのか分かってしまうからだった。

 レオンは剣を拭い、鞘に収めた。その所作は無駄がなく、礼拝を終えた神官のように厳かだった。

「皆様の痛みは、決して忘れません」

 彼は村人たちに向かって言った。

「この力で、私は必ず多くの命を救います」

 拍手がさらに大きくなった。

 泣きながら、村人たちは勇者を称えた。

 そのとき、広場の奥から低い声がした。

「くだらねえ」

 拍手が止まった。

 村人たちは一斉に声の方を見た。

 広場へ続く細い道に、ひとりの男が立っていた。

 黒い外套を羽織っている。旅人にしては荷物が少なく、傭兵にしては鎧を着ていない。年は二十代半ばほどに見えた。黒髪は適当に切られ、前髪が片目にかかっている。腰には古びた剣が一本。鞘は傷だらけで、装飾らしい装飾はない。

 男はゆっくりと広場へ入ってきた。

 誰も止められなかった。

 男の目は、マルタの死体を見ていた。次に、血のついた地面を見た。そして最後に、レオンを見た。

「その婆さんは、死にたいって言ったのか」

 広場が凍った。

 レオンは一瞬だけ目を細めた。だがすぐに穏やかな表情に戻る。

「あなたは?」

「質問に答えろ」

 男の声には、怒鳴り声のような大きさはなかった。むしろ静かだった。だが、その静けさの奥に、刃物のようなものが潜んでいた。

 レオンは男を見つめた。

「マルタ様は、世界のために命を捧げられました」

「死にたいって言ったのかと聞いてる」

「尊い使命を理解しておられました」

「言ってねえんだな」

 レオンの微笑が、ほんの少し硬くなった。

「あなたは、この村の方ではありませんね」

「だったら何だ」

「この村の方々は、マルタ様の献身を理解しておられます。外部の者が軽々しく口を出すべきことではありません」

 男は短く笑った。

「便利な言葉だな。献身、使命、世界のため。殺しやすい名前をよくそれだけ揃えたもんだ」

 村人たちの間に動揺が走った。

 神官が前に出た。

「無礼者。勇者様への侮辱は、神への侮辱だ」

「神は婆さんの胸に穴を開けろと言ったのか」

「神は勇者に力を与える仕組みをお作りになった」

「つまり神は、人を殺す言い訳にも使われるほど暇なんだな」

 神官の顔が赤くなった。

 レオンが手を上げて制した。

「やめなさい」

「ですが、勇者様」

「よいのです」

 レオンは一歩前に出た。聖剣の柄に手を置く。まだ抜いてはいない。

「あなたの怒りは理解できます。多くの人が、初めは同じように感じます。ですが、世界を救うには犠牲が必要です」

「犠牲にする側は、いつもそう言う」

「私もまた戦場で命を賭けています」

「なら自分の命だけ賭けろ。婆さんの命を混ぜるな」

 レオンの目から、温度が消えた。

 その変化はほんのわずかだったが、広場にいる者の何人かは気づいた。勇者の顔から、聖人の仮面が薄く剥がれた。

「あなたの名を聞きましょう」

 レオンは言った。

 男は肩をすくめた。

「ライガ」

 その名を聞いた瞬間、神官の顔色が変わった。

「まさか」

 神官は一歩後ずさった。

「勇者殺しのライガ……」

 ざわめきが広がった。

 勇者殺し。

 その言葉は、村人たちにとって魔物よりも恐ろしい響きを持っていた。勇者は世界を救う存在であり、その勇者を殺す者は世界の敵だと教えられてきた。子どもを寝かしつけるための怖い話にも、ライガの名は出てきた。善人の魂を憎み、勇者を妬み、闇に堕ちた悪人。

 その悪人が今、広場に立っている。

 レオンは静かに剣を抜いた。

「なるほど。あなたが」

「知ってるなら話が早い」

 ライガも剣を抜いた。

 その剣は、聖剣とはまるで違っていた。黒ずんだ鉄。刃には細かな欠けがあり、柄の革は擦り切れている。名工の作ではない。祝福も感じられない。ただ、人を斬るために使われ続けた剣だった。

 レオンの聖剣が白く光った。

「あなたは、自分が何をしているか分かっているのですか」

「分かってる」

「勇者を殺せば、それだけ多くの命が危険に晒される」

「善人を殺して強くなる奴が減る。それだけだ」

「悪人を殺しても経験値は入りません。私を殺しても、あなたは強くなれない」

 ライガは笑った。

「知ってるよ」

「ならばなぜ」

「得するために殺すと思ってるのか」

 その言葉に、レオンは初めて沈黙した。

 ライガが地面を蹴った。

 速かった。

 村人たちの目には、黒い影が前へ飛んだようにしか見えなかった。レオンはすぐに反応した。聖剣が斜めに走り、ライガの剣を受ける。金属音が広場に響いた。火花が散る。

 力ではレオンが上だった。

 聖剣に宿る力が、ライガの剣を押し返す。ライガの腕がわずかに沈んだ。レオンはその隙を逃さない。踏み込み、横薙ぎに剣を振るう。ライガは身を低くして避けた。切っ先が外套を裂き、黒い布が宙を舞う。

「レベル差は明白です」

 レオンは言った。

 その声には、まだ余裕があった。

「あなたは強くない」

「そうだな」

 ライガは短く答えた。

 次の瞬間、彼は土を蹴り上げた。

 砂がレオンの視界を塞ぐ。勇者は眉ひとつ動かさず、聖剣を振って砂を払った。だが、その一瞬でライガは懐に入っていた。聖剣は長い。懐に入られれば、扱いが難しい。

 ライガの膝が、レオンの腹に入った。

 鈍い音。

 レオンの体がわずかに折れる。だが鎧が衝撃を殺した。ライガはすぐに下がった。下がった場所に、聖剣が突き込まれる。もし一瞬遅れていれば、胸を貫かれていた。

「戦い慣れている」

 レオンは感心したように言った。

「勇者だけな」

 ライガは剣を構え直した。

「お前らは善人を殺すのがうまい。逃げない相手を、祈ってる相手を、泣いてる相手を斬るのがうまい。だが、自分を殺しにくる奴との喧嘩は下手だ」

 レオンの表情が変わった。

 今度は明確に、怒りが浮かんだ。

「私は世界のために戦っている」

「婆さんもそう言って殺したな」

「あなたに何が分かる」

「分かるさ」

 ライガの声が低くなった。

「殺される側は、いつも理由を聞かされる。世界のため。村のため。誰かのため。そう言われて、うなずかされる。うなずかなきゃ、善人じゃないって顔をされる」

 レオンは答えなかった。

 かわりに、聖剣を振った。

 白い光が弧を描く。ライガは受けず、避けた。正面から受ければ剣ごと折られると分かっている動きだった。レオンは追撃する。上段からの斬撃。横薙ぎ。突き。いずれも速く、重い。村人たちは悲鳴を上げながら後ずさった。

 ライガは防戦に見えた。

 だが、目は死んでいなかった。

 彼はレオンの足運びを見ていた。剣筋ではなく、踏み込みの癖を見ていた。勇者は強い。だが強さに慣れている者は、相手が下がることを前提に動く。相手が怖がることを信じている。聖剣の光を見れば、人は怯む。勇者の名を聞けば、膝を折る。そういう戦いを、レオンは長く続けてきた。

 だから、ライガは下がらなかった。

 三度目の突きが来た瞬間、彼は半歩だけ前へ出た。

 聖剣の切っ先が肩を掠める。血が飛んだ。だが致命傷ではない。ライガは左手でレオンの手首を掴み、体を捻った。聖剣の軌道がわずかに逸れる。そこへ、黒い剣の柄頭がレオンの顎を打った。

 勇者の頭が跳ね上がる。

 ライガは逃さない。

 足を払う。レオンの体勢が崩れる。鎧の重さが仇になった。倒れまいと踏ん張った足首に、ライガの剣が走る。鎧の隙間を狙った正確な一撃だった。

 レオンが膝をついた。

 村人たちが息を呑む。

 勇者が、膝をついた。

「馬鹿な」

 神官が呟いた。

 レオンはすぐに立とうとした。だがライガの剣が、彼の喉元に当てられていた。

 血が一筋、白い首を伝う。

「まだやるか」

 ライガが問うた。

 レオンは荒い息を吐いていた。美しい顔には砂がつき、顎から血が流れている。それでも彼は、最後まで勇者の顔を崩そうとしなかった。

「私を殺せば、あなたは世界の敵になる」

「とっくになってる」

「多くの人が死ぬ」

「今も死んだ」

「私には使命がある」

「婆さんにも人生があった」

 レオンの唇が震えた。

 それは恐怖ではなかった。怒りでもなかった。たぶん、理解できないものを前にした人間の戸惑いだった。

「なぜ、そこまで善人にこだわる」

「こだわってねえ」

 ライガは言った。

「俺は善人が好きなわけじゃない。善人って言葉も嫌いだ。あれは便利すぎる。褒めるのにも、縛るのにも、殺すのにも使える」

「なら、なぜ」

「俺は善人を殺さない」

 ライガの目が、ほんの一瞬だけマルタの死体に向いた。

「それだけだ」

 剣が動いた。

 レオンの喉が裂けた。

 勇者は声を出そうとしたが、血がそれを塞いだ。彼は両手で喉を押さえ、信じられないという顔でライガを見上げた。世界を救うはずの自分が、名もない山村の広場で、悪人に殺される。その事実を最後まで受け入れられないようだった。

 レオンの体が倒れた。

 聖剣の光が消えた。

 広場には、二つの死体があった。

 善人の老婆と、勇者。

 神官の記録石が震えた。青白い光が不安定に揺れ、やがて乾いた音を立てて割れた。

 誰も拍手しなかった。

 今度は、誰も。

 村人たちはライガを見ていた。恐怖と憎しみと、わずかな困惑が入り混じった目だった。マルタを殺した勇者を討った男。だが、その男は勇者殺しであり、世界の敵と呼ばれる悪人だった。

 何と呼べばいいのか、誰にも分からなかった。

 最初に声を出したのは、村長だった。

「お前は……何をしてくれたんだ」

 ライガは答えなかった。

「勇者様を殺したら、私たちはどうなる。魔物が来たら誰が守る。結界が弱まったら、誰が責任を取る」

 責任。

 その言葉に、ライガはわずかに眉を動かした。

「マルタを殺した責任は、誰が取るんだ」

 村長は黙った。

「それは……世界のためで」

「便利だな、世界ってのは」

 ライガは剣についた血を振り払った。

「人ひとり殺しても、責任を隠せる」

 村人の中から、誰かが石を投げた。

 石はライガの肩に当たった。鈍い音がした。彼は避けなかった。

「出ていけ」

 男が言った。

「勇者殺し」

 別の女が叫んだ。

「この村に災いを持ち込むな」

「悪人め」

「人殺し」

 言葉が増えていく。

 石も増えた。

 ひとつは頬を掠め、ひとつは額に当たった。血が流れた。ライガはそれでも動かなかった。反論もしなかった。怒りもしなかった。村人たちが投げる石を、ただ受けていた。

 ヨナだけが、何も言わなかった。

 少年はマルタの体のそばに座り、彼女の手を握っていた。その手はもう、何も握り返さない。

 ライガは村人たちに背を向け、広場の端へ歩いた。そこには、マルタの家の庭から持ってきたらしい小さな白い花が落ちていた。誰かが別れのために用意していたものだろう。

 彼はその花を拾い、マルタのそばへ戻った。

 村人たちが怯えて後ずさる。

 ライガは膝をつき、老婆の胸元に花を置いた。

「遅かった」

 それだけ言った。

 ヨナが顔を上げた。

 涙で濡れた目が、ライガを見つめる。

「なんで」

 少年は訊いた。

「なんで、もっと早く来なかったんだよ」

 ライガは答えなかった。

 答える資格がないと思ったのかもしれない。

 少年は拳を握りしめ、ライガの胸を叩いた。何度も、何度も。力は弱かった。だが、その一発ごとに、広場の空気が重くなった。

「助けてよ」

 ヨナは泣きながら言った。

「ばあちゃんを、助けてよ」

 ライガは動かなかった。

「ごめん」

 低い声で、そう言った。

 その言葉は、英雄の言葉ではなかった。

 悪人の言葉でもなかった。

 ただ、間に合わなかった人間の言葉だった。

 広場を出るとき、ライガは一度も振り返らなかった。村人たちは道を開けた。彼を恐れていた。憎んでいた。だが同時に、誰も彼を引き止めることができなかった。

 村の外れには、古い石橋があった。小川にかかった短い橋で、そこを越えると森へ入る。ライガは橋の手前で足を止めた。

「出てこい」

 彼は背後の茂みに向かって言った。

 返事はなかった。

「三十数えるほど前からいる。逃げるなら、もう少し音を消せ」

 茂みが揺れた。

 出てきたのは少女だった。

 白い服を着ている。神殿の見習いが身につける、簡素だが清潔な衣だった。年は十六か十七ほど。髪は淡い栗色で、背中の半ばまで伸びている。顔立ちは幼さを残していたが、目だけは不自然なほど静かだった。

 その静けさは、諦めに似ていた。

 少女はライガを見て、それから村の方を見た。

「あなたが、勇者殺しのライガですか」

「だったら」

「私はセラといいます」

「聞いてない」

 セラは少しだけ困ったように目を伏せた。だが、逃げようとはしなかった。

「神殿から来ました」

「追手か」

「違います」

 彼女は首を横に振った。

「逃げてきました」

 ライガは彼女を見た。

 白い服の袖口には土がついていた。靴も泥に汚れている。森を歩き慣れていない者の歩き方だった。頬には枝で擦ったような傷がある。何日もまともに眠っていないのか、目の下に薄い影が落ちていた。

「神殿の人間が俺に何の用だ」

 セラは一度、唇を結んだ。

 言葉を選んでいるのではない。言わなければならないことを、自分に言い聞かせているようだった。

「私は、聖女候補です」

 ライガの目が細くなった。

「徳値が高いのか」

「はい」

「どれくらいだ」

「最後に測ったときは、二千を超えていました」

 ライガは舌打ちした。

 マルタの倍以上。

 村ひとつを救っても余るほどの善性。勇者にとっては、喉から手が出るほど欲しい餌。

「それで逃げたのか」

「はい」

「死にたくなくて?」

 セラはすぐには答えなかった。

 小川の流れる音が、二人の間を通り抜ける。

「いいえ」

 彼女は言った。

「私は、死ぬ覚悟はできていました」

 ライガは黙っていた。

「でも、私がいなくなれば、別の子が選ばれます。リリィという、まだ十歳の子です。あの子は、私よりずっと幼い。だから私は戻らなければなりません」

「戻って殺されるためにか」

「はい」

 あまりにも迷いのない返事だった。

 ライガは、セラの顔を見た。そこに狂信はなかった。恐怖もあった。死にたくない気持ちも、おそらくある。だが、それらすべてを押し込めて、彼女は「戻る」と言っていた。

 そう教えられてきたのだ。

 自分の命より、誰かの命を優先しろ。

 それが善い人間だ。

 それが聖女だ。

 それが世界のためだ。

「馬鹿か、お前」

 ライガは言った。

 セラは少しだけ目を見開いた。

「え」

「戻ればお前が死ぬ。戻らなければ別のやつが死ぬ。なら、殺す側を止めればいい」

「そんなことは」

「できないって誰が決めた」

「神殿です」

「じゃあ神殿が間違ってる」

 セラは言葉を失った。

 おそらく彼女は、その可能性を考えたことがなかった。神殿は正しい。勇者は正しい。制度は正しい。自分が苦しいのは、自分の覚悟が足りないからだ。そういう形で世界を理解してきたのだろう。

 ライガは橋へ向かって歩き出した。

「ついてくるな」

「待ってください」

「待たない」

「私を神殿まで連れて行ってください」

「嫌だ」

「お願いします。私が戻らなければ、リリィが」

 ライガは振り返った。

 その目に、セラは息を呑んだ。

「お前は本当に、死にたいのか」

 問いは短かった。

 だが、セラの胸の奥にある何かを、正確に突いた。

 彼女は答えようとした。聖女候補としてなら、いくらでも答えられる。世界のためです。尊い役目です。神に選ばれた使命です。そう言えばよかった。

 けれど、声が出なかった。

 村の広場で、彼女は見ていた。

 マルタが膝をつくところを。

 勇者の剣が胸を貫くところを。

 光がレオンの体へ流れ込むところを。

 泣きながら拍手する村人たちを。

 そして、ひとりの少年が「なんで拍手するんだよ」と叫んだことを。

 セラは自分が壇上に立つ姿を想像した。神官が名を呼ぶ。大司教が祈りを捧げる。勇者が剣を抜く。人々は泣きながら拍手する。自分は微笑まなければならない。怖くないふりをしなければならない。死にたいわけではないのに、死にたいと同じ意味の言葉を言わなければならない。

 私は、喜んで命を捧げます。

 そう言わなければ、善い人間ではいられない。

 セラの喉が震えた。

「分かりません」

 彼女はやっと、それだけ言った。

 ライガはしばらく黙っていた。

 川面を渡る風が、二人の間を抜けた。森の奥で鳥が鳴いた。村の方からは、まだ人々のざわめきが聞こえている。勇者が死んだこと。マルタが死んだこと。その二つを、村人たちはどう整理すればいいのか分からずにいるのだろう。

「分からないなら」

 ライガは言った。

「死ぬな」

 セラは顔を上げた。

「え」

「死にたいかどうか分からないやつが、死ぬな」

 その言葉は乱暴だった。

 優しい慰めではなかった。

 けれど、セラが神殿で一度も聞いたことのない言葉だった。

 死ぬ覚悟を褒められたことはある。尊い使命だと言われたこともある。あなたの命は世界を救うと、何度も教えられた。

 だが、死ぬなと言われたのは初めてだった。

「でも」

 セラは言った。

「誰かが代わりに死にます」

「なら、そいつも死なせない」

「そんなこと、できるんですか」

「知らん」

「知らないんですか」

「できるかどうかは、やってから考える」

 セラは呆然とした。

 神殿には、すべての問いに答えがあった。どう生きるべきか。何を尊ぶべきか。誰のために死ぬべきか。そこには常に正しい言葉が用意されていた。

 この男には、答えがない。

 ただ、殺されるなと言う。

 死なせないと言う。

 それが可能かどうかすら分からないまま、殺す側を殺すと言う。

「あなたは」

 セラは小さく言った。

「悪人なんですか」

「ああ」

 ライガは即答した。

「勇者を殺しました」

「見てただろ」

「でも、マルタさんのために花を」

「悪人でも花くらい置く」

「ヨナさんに謝っていました」

「間に合わなかったからな」

「なら、どうして自分を悪人だと言うんですか」

 ライガは橋の上に足をかけた。

 しばらく、流れる水を見ていた。

「悪人にも」

 彼は言った。

「殺していいものと、悪いものがある」

 セラはその背中を見つめた。

 黒い外套は裂け、肩から血が滲んでいる。頬にも傷がある。勇者を殺した男。村人から石を投げられた男。善人を殺さないと言った悪人。

 彼の背中は、英雄のものには見えなかった。

 けれどセラは、神殿の誰よりも、その背中を信じたいと思ってしまった。

 その感情を、彼女はまだ名前で呼ぶことができなかった。



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