第九章 最悪の英雄
炉の中は、熱くなかった。
ライガはそう思った。
扉が閉じ、外の音が途切れた瞬間、全身を焼かれるのだと覚悟していた。神の炉。善人の魂を燃やし、結界を生み、勇者の力を育てる巨大な神具。その中枢へ踏み込めば、肉体など一瞬で灰になると思っていた。
だが、そこにあったのは熱ではなかった。
寒さだった。
骨の内側から凍っていくような、静かな冷たさ。
光はあった。
青白い光が、闇の中を川のように流れている。床も壁も天井も分からない。どこまでも続く空間に、細い光の筋が無数に走っている。その一本一本に、人の声が絡みついていた。
ありがとう。
世界のためなら。
怖くありません。
どうか、私の家族を。
痛い。
助けて。
死にたくない。
笑わなければ。
泣かないで。
私は、喜んで――。
声は途中で途切れ、別の声に飲み込まれた。
ライガは足を止めた。
声は耳から聞こえているのではない。頭の中に直接流し込まれているようだった。声だけではない。景色も混じってくる。白い祭壇。花びら。泣いている子ども。祈る神官。拍手。剣の光。胸を貫かれる瞬間の息苦しさ。
他人の記憶だった。
炉に食われた者たちの最期。
ライガは歯を食いしばった。
「見せんな」
声は止まらない。
むしろ増えた。
マルタがいた。
老婆は白い前掛けを血で染め、膝をついていた。ヨナの泣き声が遠くで響いている。マルタは泣いていなかった。だが怖くなかったわけではない。胸を剣が貫く瞬間、彼女は心の中でこう思っていた。
ヨナ、パンを焦がさないだろうか。
それだけだった。
世界のことなど、考えていなかった。
勇者の力になる名誉など、考えていなかった。
ただ、自分がいなくなったあとの子どもの朝食を心配していた。
ライガの喉が詰まった。
「やめろ」
次に見えたのは、ミリアだった。
彼女の剣が、何度も人の胸を貫く。老人、医師、若い母親、修道女、農夫。ミリアはそのたびに名前を聞いた。最後の言葉を聞き、覚え、剣の柄に刻んだ。
許されたいわけではなかった。
忘れることが怖かった。
忘れたら、自分が本当に怪物になると思っていた。
だが、覚え続けても、剣は止まらなかった。
ミリアの涙が炉の中で光となり、すぐに吸い込まれていく。
ライガは拳を握った。
そして、ノアが現れた。
予想していた。
それでも、実際に見ると息が止まった。
ノアは子どもの姿だった。胸に傷がある。白い服は血に濡れている。だが顔は、記憶の中と同じように、困ったように笑っていた。
「君は、またそんな顔をしてる」
声がした。
ライガは動けなかった。
夢の中で何度も聞いた声。
思い出すたびに腹が立ち、忘れようとしても忘れられなかった声。
「黙れ」
ライガは言った。
「お前まで出てくるな」
「僕が出てきたわけじゃないよ。君が聞いているんだ」
「屁理屈を言うな」
「君の方が昔から屁理屈だった」
ノアは笑った。
その笑顔に、ライガは怒りを覚えた。
怒りがなければ、立っていられなかった。
「何で笑ってる」
「君が生きてるから」
「俺はお前を助けられなかった」
「うん」
「俺は見てただけだった」
「うん」
「あのとき、俺がもっと強ければ」
「うん」
「俺が、本当に悪人なら」
「違うよ」
ノアは静かに首を振った。
「君はあのとき、僕の代わりに死のうとした」
「死ねなかった」
「それは君の罪じゃない」
「罪だ」
「違う」
「お前に何が分かる」
ライガの声が荒くなった。
「お前は死んだ。俺は生きてる。ずっと生きて、勇者を殺して、悪人だと名乗って、それでも何も変えられなかった。マルタも死んだ。ミリアも死んだ。リリィも殺されかけた。俺はいつも遅い」
ノアは少し悲しそうに目を細めた。
「それでも、君は善人を殺さなかった」
「それが何になる」
「何かになるよ」
「ならねえよ」
ライガは叫んだ。
「お前らは死んだ。俺が何を殺さなかったとしても、お前らは帰ってこない」
光の筋が震えた。
声が一斉にざわめいた。
ありがとう。
助けて。
死にたくない。
忘れないで。
誰かを、代わりにしないで。
ライガは耳を塞いだ。
しかし声は消えない。
ノアが近づく。
「ライガ」
「呼ぶな」
「君は僕を助けられなかった」
「ああ」
「でも、僕を殺した側にはならなかった」
ライガは顔を上げた。
ノアは笑っていなかった。
まっすぐに彼を見ていた。
「僕はそれを、覚えている」
ライガの胸の奥で、何かが軋んだ。
救いではなかった。
許しでもなかった。
ただ、事実だった。
ノアは殺された。
ライガは助けられなかった。
けれど、ライガはノアのような者を殺す側にはならなかった。
その事実を、ノアは覚えていると言った。
「礼を言うな」
ライガは掠れた声で言った。
「俺は、お前らを助けられなかった」
「うん」
「感謝するな」
「うん」
「許すな」
「それは、僕が決めることだよ」
ノアはそう言った。
昔と同じ、少し頑固な声だった。
ライガは笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
どちらも嫌だったので、歯を食いしばった。
そのとき、炉の奥に黒い柱のようなものが現れた。
中枢。
老人の設計断片に記されていた場所。
徳流を制御する核。
そこへ剣を突き立てれば、炉の流れは逆転する。勇者たちが蓄えた経験値は崩れ、殺された善人たちの記録へ返される。結界は一時的に消える。神殿都市は混乱する。多くの人間が、守られる側から守る側へ立たされる。
失敗すれば、セラもリリィも死ぬ。
成功しても、ライガが生きて戻れる保証はない。
彼は剣を握った。
グラムの血を浴びた古い剣。
祝福などない。
聖なる名もない。
だが、それでよかった。
「ノア」
ライガは言った。
「何」
「俺は、英雄にはならない」
「知ってる」
「悪人のままで行く」
「それも知ってる」
「なら、止めるな」
ノアは小さく笑った。
「止めたことなんて、一度もないよ」
ライガは黒い核へ向かって歩いた。
声が増える。
痛みも増える。
全身に、数えきれない死が流れ込んでくる。胸を貫かれる感覚。首を落とされる感覚。炉へ魂を引き剥がされる恐怖。拍手の中で死ぬ屈辱。笑えと命じられた怒り。
ライガは一歩ごとに膝を折りそうになった。
それでも進んだ。
善人を殺さない。
それだけのために。
地上では、アルメリアが揺れていた。
神の炉が逆流を始めた瞬間、礼拝堂の床に走っていた金色の紋様が黒く変わった。白い柱にひびが入り、天井から粉が落ちる。市民たちは悲鳴を上げ、神官たちは制御祈祷を叫び、勇者候補たちは次々に膝をついた。
「レベルが……」
一人の勇者が震える声で言った。
「力が抜ける」
彼の腕から光が剥がれていく。
別の勇者も同じだった。
剣を持って立っていた者たちが、次々と床に膝をつく。長年積み上げてきた経験値が、指の間から砂のように落ちていく。善人を殺して得た力が、所有者を離れ、炉の奥へ引き戻されている。
セラはリリィを抱え、地下神域から礼拝堂へ戻ってきたところだった。
階段を駆け上がる途中で、何度も崩れかけた。リリィは泣いていたが、必死に足を動かしていた。セラも息が切れていた。白い献身衣は汚れ、膝のあたりは破れている。花冠はもうなかった。
礼拝堂へ出ると、人々の視線が二人に集まった。
「セラ様」
誰かが叫んだ。
「何が起きているのですか」
「炉が」
「結界が消えるぞ!」
「神殿はどうするんだ!」
市民たちは混乱していた。
ついさっきまで、彼らはセラの献身に花を撒こうとしていた。今は、炉の異常に怯え、神殿に答えを求めている。
ラギス神官長が階段から上がってきた。
顔色は青白く、額には汗が滲んでいる。
「市民を落ち着かせなさい!」
彼は神官たちへ叫んだ。
「これは試練です! 神の試練であり、勇者殺しによる一時的な混乱にすぎません!」
その言葉に、市民たちの一部が頷きかけた。
人は、理解できない恐怖に名前を与えられると、それに縋ろうとする。
試練。
勇者殺しのせい。
一時的な混乱。
そう聞けば、何も考えずに済む。
セラはリリィを修道女の一人に預けた。
「この子を守ってください」
修道女は震えながらも頷いた。
「セラ様は」
「言わなければならないことがあります」
セラは礼拝堂の中央へ歩いた。
ラギスが彼女を見つける。
「セラ! 下がりなさい。あなたは混乱しています」
「混乱しているのは、神殿です」
セラの声は大きくなかった。
だが、不思議と礼拝堂に通った。
「炉は、善人の魂を燃やしていました。結界も、聖水も、勇者の力も、そのすべてが誰かの命から作られていました」
市民たちのざわめきが大きくなる。
ラギスが叫んだ。
「嘘です! 彼女は勇者殺しに惑わされている!」
「嘘ではありません」
セラは胸元から、老人に託された写しの一部を取り出した。
「魔王は百年以上前に討たれています。神殿は戦争が終わったあとも、供物制度を続けました。結界維持、貴族の延命、都市の繁栄、勇者階級の強化。そのために、マルタのような人たちを、ノアのような子どもを、リリィのような子を、殺し続けようとした」
「黙れ!」
ラギスが神官兵に命じた。
「拘束しなさい!」
兵たちが動いた。
その瞬間、礼拝堂の外から爆発音が響いた。
正面階段の脇が崩れ、黒い煙が上がる。外にいた市民たちが悲鳴を上げた。だが煙の中から現れたのは魔物ではなかった。
アルメリアの洗濯場でセラを助けた若い女だった。
その背後には、市民たちが数人続いている。彼らは神殿兵から奪った槍や、鍬、木槌を持っていた。皆、恐怖に顔を強張らせている。だが逃げてはいなかった。
女が叫んだ。
「私の姉は、献身者番号ではありません!」
礼拝堂が静まった。
女は震えながら続けた。
「エリナ・トールです! 去年の献身祭で殺されました! 神殿は名碑に番号しか残さなかった! 私たちは感謝しろと言われた。でも、姉は死にたくないって、前の日に泣いていた!」
別の男が声を上げた。
「俺の父もだ! 治療院のためと言われて、捧げられた。でも母は、それからずっと壊れたままだ!」
声は一つでは終わらなかった。
最初は小さかった。
だが、次第に増えていった。
供物となった家族の名。
失われた隣人の名。
笑って死んだことにされた人々の、本当の顔。
礼拝堂が、記録されなかった名で満ちていく。
ラギスは顔を歪めた。
「これは暴動です! 神殿への反逆です!」
セラは言った。
「いいえ。これは、記録です」
神官兵たちは動けなくなっていた。
市民たちが、ただの暴徒ではないことを理解したからだ。彼らは武器を持っている。しかし叫んでいるのは殺せという言葉ではない。名前だった。忘れられた者の名を、取り返そうとしていた。
そのとき、地下から轟音が響いた。
床が大きく揺れる。
炉の逆流がさらに強まった。
礼拝堂の奥の扉を破って、グラムが現れた。
彼は血まみれだった。鎧は割れ、腕には黒い火傷のような痕が走っている。それでもまだ立っていた。巨大な斧剣を引きずり、目は血走っている。
「どいつもこいつも……」
グラムの体から、青白い光が剥がれ落ちていた。
彼が得てきた経験値が失われている。
善人を殺して積み上げた力が、炉に吸い戻されている。
「俺の力を返せ」
彼は唸った。
市民たちは恐怖で後ずさる。
グラムはセラを見つけた。
「お前が……お前らが邪魔しなけりゃ」
彼が斧剣を持ち上げた。
セラは動けなかった。
その前に、誰かが立った。
洗濯場の女だった。
彼女は木槌を両手で握っている。足は震えていた。それでもセラの前に立った。
続いて、別の男が立つ。
さらに、誰かが。
数人の市民が、セラの前に壁を作った。
グラムは笑った。
「何だ、お前ら。低徳値の雑魚が、俺を止めるのか」
男の一人が叫んだ。
「もう、その言葉で黙らせられない」
グラムが斧剣を振り上げた。
次の瞬間、礼拝堂の天井近くの窓が割れた。
黒い影が落ちてくる。
ライガではなかった。
彼はまだ炉の中にいる。
落ちてきたのは、黒い剣だった。
ライガの剣。
炉の中枢で使われていたはずの剣が、光に包まれ、礼拝堂の床に突き刺さった。
その瞬間、グラムの体から残っていた光が一気に剥がれた。
「ぐああああっ!」
グラムが膝をつく。
斧剣が床に落ちる。
彼の巨大な体が、急速に力を失っていく。筋肉が萎むわけではない。だが、纏っていた威圧感が消えていく。勇者という肩書きが剥がれ、そこに残ったのは、ただの大柄な男だった。
洗濯場の女が木槌を振り上げた。
だが、セラが止めた。
「殺さないで」
女は振り返った。
「でも、この男は」
「裁かれなければなりません。でも、ここで殺せば、また誰かが誰かを殺して終わるだけです」
グラムは床に這いつくばりながら、セラを睨んだ。
「偉そうに……」
セラは彼を見下ろした。
「あなたの名前も記録します」
「あ?」
「勇者グラム。善人を餌と呼び、殺した者の名を覚えなかった勇者。あなたを美談にはしません。悪魔にも逃がしません。あなたが何をしたか、そのまま残します」
グラムは何か言おうとした。
だが声にならなかった。
礼拝堂の床に刺さった黒い剣が、震えた。
セラはその剣へ近づいた。
剣の柄は熱を持っていなかった。むしろ冷たかった。炉の中の寒さを連れてきたようだった。
「ライガさん」
返事はない。
そのとき、床に青白い光が広がった。
光は人の形をとった。
マルタ。
ミリア。
見知らぬ医師。
農夫。
母親。
子ども。
無数の人影が、礼拝堂に現れた。
市民たちは息を呑んだ。
それは幽霊ではなかった。
魂が戻ったわけでもない。
炉に記録されていた、最後の残響だった。
名前を奪われ、番号にされ、経験値に変えられた人々の記録が、逆流によって一瞬だけ姿を取っている。
人影の中に、一人の少年がいた。
セラはすぐに分かった。
ノアだ。
見たことはない。
だが、分かった。
少年は黒い剣を見て、少しだけ笑った。
そして、口を動かした。
声は聞こえない。
けれど、セラには読めた。
君は悪人じゃないよ。
黒い剣が強く震えた。
礼拝堂の奥で、炉の音が変わる。
吸い上げる音ではない。
吐き出す音。
百年以上、蓄えられていた力が解放されていく。
アルメリアの空を覆っていた結界が、音もなく砕けた。
外から悲鳴が上がる。
空が見えた。
神殿の正面扉の向こう、白い都市の上空に、透明な膜のようなものが割れて消えていく。青い空が広がった。美しい空だった。だが同時に、それは外敵からの守りが消えたことを意味していた。
市民たちはざわめいた。
「結界が」
「魔物が来る」
「どうするんだ」
「神殿は」
誰も答えられない。
神殿は、力を失っていた。
勇者たちは膝をつき、神官たちは制御を失い、ラギスは呆然と立っている。ヴァルドの姿は見えない。地下に残っているのか、それとも別の通路から逃げたのか。
不安が広がった。
その不安は、すぐに怒りへ変わろうとしていた。
「勇者殺しのせいだ!」
誰かが叫んだ。
「炉を壊した悪人が、世界を壊した!」
その言葉に、何人かが反応した。
恐怖は、分かりやすい敵を求める。
ライガ。
勇者殺し。
悪人。
そう呼べば、すべてが簡単になる。
セラは黒い剣の前に立った。
「違います」
声はかすれていた。
だが、彼女はもう一度言った。
「違います」
人々が彼女を見る。
セラは深く息を吸った。
「彼は世界を壊したのではありません。私たちが誰かを燃料にして守られていた世界を、止めたのです」
「同じことだ!」
市民の一人が叫んだ。
「結界が消えたら、魔物が来る! 俺たちはどうなる!」
「守ります」
セラは言った。
「誰が!」
別の声。
「私たちです」
礼拝堂が静まった。
セラ自身も、言葉にしながら怖かった。
神殿に守られる世界が終わった。
なら、誰が守るのか。
答えは一つしかない。
生きている者たちだ。
「もう、誰か一人を燃やして守ることはできません。勇者だけに背負わせることも、聖女だけに死なせることもできません。私たちが、少しずつ背負うしかない」
「そんなことができるか!」
「分かりません」
正直に答えた。
人々が息を呑む。
セラは続けた。
「分かりません。でも、誰かを殺し続ける方法が正しいとは、もう言えません」
沈黙。
長い沈黙。
その中で、リリィが前に出た。
小さな足で、セラの隣に立つ。
「私は、死にたくありません」
声は震えていた。
それでも、礼拝堂に届いた。
「怖かったです。でも、怖いって言ったら悪い子になると思っていました」
リリィは泣いていた。
「もう、誰かにそう思ってほしくないです」
洗濯場の女が、木槌を下ろした。
「姉も、死にたくなかった」
彼女は言った。
「私は、それを知っていたのに、感謝しているふりをした」
別の市民が膝をついた。
「父を誇れと言われた。誇らなければ、父の献身を汚すと言われた」
声がまた増えていく。
怒りだけではない。
悲しみ。
後悔。
恐怖。
そして、ほんの少しの決意。
黒い剣が床から抜けた。
誰の手も触れていないのに、剣はゆっくりと浮かび、セラの前に落ちた。
そこに、ライガの姿はなかった。
光の人影も薄れていく。
ノアの姿が最後まで残っていた。
少年はセラを見た。
そして、黒い剣を見た。
セラは頷いた。
「覚えています」
声には出さなかった。
だが、ノアの残響は笑ったように見えた。
光が消えた。
礼拝堂には、黒い剣だけが残った。
セラはそれを拾った。
重かった。
ライガの剣。
勇者を殺し、善人を殺さなかった悪人の剣。
彼がどこにいるのかは分からない。
生きているのかも分からない。
それでも、剣は戻ってきた。
だから、完全に終わったわけではない。
そのとき、遠くで獣の咆哮が聞こえた。
結界の外から魔物が来ている。
人々が凍りつく。
セラは黒い剣を抱きしめるように持ち、正面扉の方を見た。
神殿の外には、白い都市が広がっている。
花びらの敷かれた道。
澄んだ水路。
美しい塔。
誰かの死で守られてきたもの。
それを、今度は生きている者たちで守らなければならない。
「門を閉じてください」
セラは言った。
「怪我人を治療院へ。神官は聖水の残量を確認してください。勇者だった方々は、剣を取れなくても避難誘導を。市民の方は、子どもと老人を地下ではなく中央広場へ。神殿地下は危険です」
誰もすぐには動かなかった。
だが、洗濯場の女が最初に走った。
「聞こえたでしょ! 動いて!」
次に、若い男が駆け出した。
神官の一人が、震える手で治療院への扉を開けた。
リリィが修道女たちの手を引き、子どもたちを集め始めた。
少しずつ、人々が動き出す。
完全な秩序ではない。
混乱している。
間違いも起きるだろう。
けれど、誰かを供物にして安心する世界ではなかった。
セラは礼拝堂の中央に立ち、黒い剣を見下ろした。
「ライガさん」
返事はない。
「戻ってくると言ったわけではありませんでしたね」
彼はいつも、肝心な約束を避ける。
けれど、セラは覚えている。
戻ってこい。
彼が自分に言った言葉を。
ならば、今度はこちらが言う番だった。
「戻ってきてください」
遠くで、また魔物の咆哮が響いた。
アルメリアの空は、結界のない青さを晒していた。恐ろしく、広い空だった。
その下で、神殿都市は初めて、自分の足で立とうとしていた。




