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善人を殺すとレベルが上がる世界で、僕は勇者だけを殺す  作者: 二条理|アコンプリス


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9/10

第九章 最悪の英雄

 炉の中は、熱くなかった。

 ライガはそう思った。

 扉が閉じ、外の音が途切れた瞬間、全身を焼かれるのだと覚悟していた。神の炉。善人の魂を燃やし、結界を生み、勇者の力を育てる巨大な神具。その中枢へ踏み込めば、肉体など一瞬で灰になると思っていた。

 だが、そこにあったのは熱ではなかった。

 寒さだった。

 骨の内側から凍っていくような、静かな冷たさ。

 光はあった。

 青白い光が、闇の中を川のように流れている。床も壁も天井も分からない。どこまでも続く空間に、細い光の筋が無数に走っている。その一本一本に、人の声が絡みついていた。

 ありがとう。

 世界のためなら。

 怖くありません。

 どうか、私の家族を。

 痛い。

 助けて。

 死にたくない。

 笑わなければ。

 泣かないで。

 私は、喜んで――。

 声は途中で途切れ、別の声に飲み込まれた。

 ライガは足を止めた。

 声は耳から聞こえているのではない。頭の中に直接流し込まれているようだった。声だけではない。景色も混じってくる。白い祭壇。花びら。泣いている子ども。祈る神官。拍手。剣の光。胸を貫かれる瞬間の息苦しさ。

 他人の記憶だった。

 炉に食われた者たちの最期。

 ライガは歯を食いしばった。

「見せんな」

 声は止まらない。

 むしろ増えた。

 マルタがいた。

 老婆は白い前掛けを血で染め、膝をついていた。ヨナの泣き声が遠くで響いている。マルタは泣いていなかった。だが怖くなかったわけではない。胸を剣が貫く瞬間、彼女は心の中でこう思っていた。

 ヨナ、パンを焦がさないだろうか。

 それだけだった。

 世界のことなど、考えていなかった。

 勇者の力になる名誉など、考えていなかった。

 ただ、自分がいなくなったあとの子どもの朝食を心配していた。

 ライガの喉が詰まった。

「やめろ」

 次に見えたのは、ミリアだった。

 彼女の剣が、何度も人の胸を貫く。老人、医師、若い母親、修道女、農夫。ミリアはそのたびに名前を聞いた。最後の言葉を聞き、覚え、剣の柄に刻んだ。

 許されたいわけではなかった。

 忘れることが怖かった。

 忘れたら、自分が本当に怪物になると思っていた。

 だが、覚え続けても、剣は止まらなかった。

 ミリアの涙が炉の中で光となり、すぐに吸い込まれていく。

 ライガは拳を握った。

 そして、ノアが現れた。

 予想していた。

 それでも、実際に見ると息が止まった。

 ノアは子どもの姿だった。胸に傷がある。白い服は血に濡れている。だが顔は、記憶の中と同じように、困ったように笑っていた。

「君は、またそんな顔をしてる」

 声がした。

 ライガは動けなかった。

 夢の中で何度も聞いた声。

 思い出すたびに腹が立ち、忘れようとしても忘れられなかった声。

「黙れ」

 ライガは言った。

「お前まで出てくるな」

「僕が出てきたわけじゃないよ。君が聞いているんだ」

「屁理屈を言うな」

「君の方が昔から屁理屈だった」

 ノアは笑った。

 その笑顔に、ライガは怒りを覚えた。

 怒りがなければ、立っていられなかった。

「何で笑ってる」

「君が生きてるから」

「俺はお前を助けられなかった」

「うん」

「俺は見てただけだった」

「うん」

「あのとき、俺がもっと強ければ」

「うん」

「俺が、本当に悪人なら」

「違うよ」

 ノアは静かに首を振った。

「君はあのとき、僕の代わりに死のうとした」

「死ねなかった」

「それは君の罪じゃない」

「罪だ」

「違う」

「お前に何が分かる」

 ライガの声が荒くなった。

「お前は死んだ。俺は生きてる。ずっと生きて、勇者を殺して、悪人だと名乗って、それでも何も変えられなかった。マルタも死んだ。ミリアも死んだ。リリィも殺されかけた。俺はいつも遅い」

 ノアは少し悲しそうに目を細めた。

「それでも、君は善人を殺さなかった」

「それが何になる」

「何かになるよ」

「ならねえよ」

 ライガは叫んだ。

「お前らは死んだ。俺が何を殺さなかったとしても、お前らは帰ってこない」

 光の筋が震えた。

 声が一斉にざわめいた。

 ありがとう。

 助けて。

 死にたくない。

 忘れないで。

 誰かを、代わりにしないで。

 ライガは耳を塞いだ。

 しかし声は消えない。

 ノアが近づく。

「ライガ」

「呼ぶな」

「君は僕を助けられなかった」

「ああ」

「でも、僕を殺した側にはならなかった」

 ライガは顔を上げた。

 ノアは笑っていなかった。

 まっすぐに彼を見ていた。

「僕はそれを、覚えている」

 ライガの胸の奥で、何かが軋んだ。

 救いではなかった。

 許しでもなかった。

 ただ、事実だった。

 ノアは殺された。

 ライガは助けられなかった。

 けれど、ライガはノアのような者を殺す側にはならなかった。

 その事実を、ノアは覚えていると言った。

「礼を言うな」

 ライガは掠れた声で言った。

「俺は、お前らを助けられなかった」

「うん」

「感謝するな」

「うん」

「許すな」

「それは、僕が決めることだよ」

 ノアはそう言った。

 昔と同じ、少し頑固な声だった。

 ライガは笑いそうになった。

 泣きそうにもなった。

 どちらも嫌だったので、歯を食いしばった。

 そのとき、炉の奥に黒い柱のようなものが現れた。

 中枢。

 老人の設計断片に記されていた場所。

 徳流を制御する核。

 そこへ剣を突き立てれば、炉の流れは逆転する。勇者たちが蓄えた経験値は崩れ、殺された善人たちの記録へ返される。結界は一時的に消える。神殿都市は混乱する。多くの人間が、守られる側から守る側へ立たされる。

 失敗すれば、セラもリリィも死ぬ。

 成功しても、ライガが生きて戻れる保証はない。

 彼は剣を握った。

 グラムの血を浴びた古い剣。

 祝福などない。

 聖なる名もない。

 だが、それでよかった。

「ノア」

 ライガは言った。

「何」

「俺は、英雄にはならない」

「知ってる」

「悪人のままで行く」

「それも知ってる」

「なら、止めるな」

 ノアは小さく笑った。

「止めたことなんて、一度もないよ」

 ライガは黒い核へ向かって歩いた。

 声が増える。

 痛みも増える。

 全身に、数えきれない死が流れ込んでくる。胸を貫かれる感覚。首を落とされる感覚。炉へ魂を引き剥がされる恐怖。拍手の中で死ぬ屈辱。笑えと命じられた怒り。

 ライガは一歩ごとに膝を折りそうになった。

 それでも進んだ。

 善人を殺さない。

 それだけのために。

 地上では、アルメリアが揺れていた。

 神の炉が逆流を始めた瞬間、礼拝堂の床に走っていた金色の紋様が黒く変わった。白い柱にひびが入り、天井から粉が落ちる。市民たちは悲鳴を上げ、神官たちは制御祈祷を叫び、勇者候補たちは次々に膝をついた。

「レベルが……」

 一人の勇者が震える声で言った。

「力が抜ける」

 彼の腕から光が剥がれていく。

 別の勇者も同じだった。

 剣を持って立っていた者たちが、次々と床に膝をつく。長年積み上げてきた経験値が、指の間から砂のように落ちていく。善人を殺して得た力が、所有者を離れ、炉の奥へ引き戻されている。

 セラはリリィを抱え、地下神域から礼拝堂へ戻ってきたところだった。

 階段を駆け上がる途中で、何度も崩れかけた。リリィは泣いていたが、必死に足を動かしていた。セラも息が切れていた。白い献身衣は汚れ、膝のあたりは破れている。花冠はもうなかった。

 礼拝堂へ出ると、人々の視線が二人に集まった。

「セラ様」

 誰かが叫んだ。

「何が起きているのですか」

「炉が」

「結界が消えるぞ!」

「神殿はどうするんだ!」

 市民たちは混乱していた。

 ついさっきまで、彼らはセラの献身に花を撒こうとしていた。今は、炉の異常に怯え、神殿に答えを求めている。

 ラギス神官長が階段から上がってきた。

 顔色は青白く、額には汗が滲んでいる。

「市民を落ち着かせなさい!」

 彼は神官たちへ叫んだ。

「これは試練です! 神の試練であり、勇者殺しによる一時的な混乱にすぎません!」

 その言葉に、市民たちの一部が頷きかけた。

 人は、理解できない恐怖に名前を与えられると、それに縋ろうとする。

 試練。

 勇者殺しのせい。

 一時的な混乱。

 そう聞けば、何も考えずに済む。

 セラはリリィを修道女の一人に預けた。

「この子を守ってください」

 修道女は震えながらも頷いた。

「セラ様は」

「言わなければならないことがあります」

 セラは礼拝堂の中央へ歩いた。

 ラギスが彼女を見つける。

「セラ! 下がりなさい。あなたは混乱しています」

「混乱しているのは、神殿です」

 セラの声は大きくなかった。

 だが、不思議と礼拝堂に通った。

「炉は、善人の魂を燃やしていました。結界も、聖水も、勇者の力も、そのすべてが誰かの命から作られていました」

 市民たちのざわめきが大きくなる。

 ラギスが叫んだ。

「嘘です! 彼女は勇者殺しに惑わされている!」

「嘘ではありません」

 セラは胸元から、老人に託された写しの一部を取り出した。

「魔王は百年以上前に討たれています。神殿は戦争が終わったあとも、供物制度を続けました。結界維持、貴族の延命、都市の繁栄、勇者階級の強化。そのために、マルタのような人たちを、ノアのような子どもを、リリィのような子を、殺し続けようとした」

「黙れ!」

 ラギスが神官兵に命じた。

「拘束しなさい!」

 兵たちが動いた。

 その瞬間、礼拝堂の外から爆発音が響いた。

 正面階段の脇が崩れ、黒い煙が上がる。外にいた市民たちが悲鳴を上げた。だが煙の中から現れたのは魔物ではなかった。

 アルメリアの洗濯場でセラを助けた若い女だった。

 その背後には、市民たちが数人続いている。彼らは神殿兵から奪った槍や、鍬、木槌を持っていた。皆、恐怖に顔を強張らせている。だが逃げてはいなかった。

 女が叫んだ。

「私の姉は、献身者番号ではありません!」

 礼拝堂が静まった。

 女は震えながら続けた。

「エリナ・トールです! 去年の献身祭で殺されました! 神殿は名碑に番号しか残さなかった! 私たちは感謝しろと言われた。でも、姉は死にたくないって、前の日に泣いていた!」

 別の男が声を上げた。

「俺の父もだ! 治療院のためと言われて、捧げられた。でも母は、それからずっと壊れたままだ!」

 声は一つでは終わらなかった。

 最初は小さかった。

 だが、次第に増えていった。

 供物となった家族の名。

 失われた隣人の名。

 笑って死んだことにされた人々の、本当の顔。

 礼拝堂が、記録されなかった名で満ちていく。

 ラギスは顔を歪めた。

「これは暴動です! 神殿への反逆です!」

 セラは言った。

「いいえ。これは、記録です」

 神官兵たちは動けなくなっていた。

 市民たちが、ただの暴徒ではないことを理解したからだ。彼らは武器を持っている。しかし叫んでいるのは殺せという言葉ではない。名前だった。忘れられた者の名を、取り返そうとしていた。

 そのとき、地下から轟音が響いた。

 床が大きく揺れる。

 炉の逆流がさらに強まった。

 礼拝堂の奥の扉を破って、グラムが現れた。

 彼は血まみれだった。鎧は割れ、腕には黒い火傷のような痕が走っている。それでもまだ立っていた。巨大な斧剣を引きずり、目は血走っている。

「どいつもこいつも……」

 グラムの体から、青白い光が剥がれ落ちていた。

 彼が得てきた経験値が失われている。

 善人を殺して積み上げた力が、炉に吸い戻されている。

「俺の力を返せ」

 彼は唸った。

 市民たちは恐怖で後ずさる。

 グラムはセラを見つけた。

「お前が……お前らが邪魔しなけりゃ」

 彼が斧剣を持ち上げた。

 セラは動けなかった。

 その前に、誰かが立った。

 洗濯場の女だった。

 彼女は木槌を両手で握っている。足は震えていた。それでもセラの前に立った。

 続いて、別の男が立つ。

 さらに、誰かが。

 数人の市民が、セラの前に壁を作った。

 グラムは笑った。

「何だ、お前ら。低徳値の雑魚が、俺を止めるのか」

 男の一人が叫んだ。

「もう、その言葉で黙らせられない」

 グラムが斧剣を振り上げた。

 次の瞬間、礼拝堂の天井近くの窓が割れた。

 黒い影が落ちてくる。

 ライガではなかった。

 彼はまだ炉の中にいる。

 落ちてきたのは、黒い剣だった。

 ライガの剣。

 炉の中枢で使われていたはずの剣が、光に包まれ、礼拝堂の床に突き刺さった。

 その瞬間、グラムの体から残っていた光が一気に剥がれた。

「ぐああああっ!」

 グラムが膝をつく。

 斧剣が床に落ちる。

 彼の巨大な体が、急速に力を失っていく。筋肉が萎むわけではない。だが、纏っていた威圧感が消えていく。勇者という肩書きが剥がれ、そこに残ったのは、ただの大柄な男だった。

 洗濯場の女が木槌を振り上げた。

 だが、セラが止めた。

「殺さないで」

 女は振り返った。

「でも、この男は」

「裁かれなければなりません。でも、ここで殺せば、また誰かが誰かを殺して終わるだけです」

 グラムは床に這いつくばりながら、セラを睨んだ。

「偉そうに……」

 セラは彼を見下ろした。

「あなたの名前も記録します」

「あ?」

「勇者グラム。善人を餌と呼び、殺した者の名を覚えなかった勇者。あなたを美談にはしません。悪魔にも逃がしません。あなたが何をしたか、そのまま残します」

 グラムは何か言おうとした。

 だが声にならなかった。

 礼拝堂の床に刺さった黒い剣が、震えた。

 セラはその剣へ近づいた。

 剣の柄は熱を持っていなかった。むしろ冷たかった。炉の中の寒さを連れてきたようだった。

「ライガさん」

 返事はない。

 そのとき、床に青白い光が広がった。

 光は人の形をとった。

 マルタ。

 ミリア。

 見知らぬ医師。

 農夫。

 母親。

 子ども。

 無数の人影が、礼拝堂に現れた。

 市民たちは息を呑んだ。

 それは幽霊ではなかった。

 魂が戻ったわけでもない。

 炉に記録されていた、最後の残響だった。

 名前を奪われ、番号にされ、経験値に変えられた人々の記録が、逆流によって一瞬だけ姿を取っている。

 人影の中に、一人の少年がいた。

 セラはすぐに分かった。

 ノアだ。

 見たことはない。

 だが、分かった。

 少年は黒い剣を見て、少しだけ笑った。

 そして、口を動かした。

 声は聞こえない。

 けれど、セラには読めた。

 君は悪人じゃないよ。

 黒い剣が強く震えた。

 礼拝堂の奥で、炉の音が変わる。

 吸い上げる音ではない。

 吐き出す音。

 百年以上、蓄えられていた力が解放されていく。

 アルメリアの空を覆っていた結界が、音もなく砕けた。

 外から悲鳴が上がる。

 空が見えた。

 神殿の正面扉の向こう、白い都市の上空に、透明な膜のようなものが割れて消えていく。青い空が広がった。美しい空だった。だが同時に、それは外敵からの守りが消えたことを意味していた。

 市民たちはざわめいた。

「結界が」

「魔物が来る」

「どうするんだ」

「神殿は」

 誰も答えられない。

 神殿は、力を失っていた。

 勇者たちは膝をつき、神官たちは制御を失い、ラギスは呆然と立っている。ヴァルドの姿は見えない。地下に残っているのか、それとも別の通路から逃げたのか。

 不安が広がった。

 その不安は、すぐに怒りへ変わろうとしていた。

「勇者殺しのせいだ!」

 誰かが叫んだ。

「炉を壊した悪人が、世界を壊した!」

 その言葉に、何人かが反応した。

 恐怖は、分かりやすい敵を求める。

 ライガ。

 勇者殺し。

 悪人。

 そう呼べば、すべてが簡単になる。

 セラは黒い剣の前に立った。

「違います」

 声はかすれていた。

 だが、彼女はもう一度言った。

「違います」

 人々が彼女を見る。

 セラは深く息を吸った。

「彼は世界を壊したのではありません。私たちが誰かを燃料にして守られていた世界を、止めたのです」

「同じことだ!」

 市民の一人が叫んだ。

「結界が消えたら、魔物が来る! 俺たちはどうなる!」

「守ります」

 セラは言った。

「誰が!」

 別の声。

「私たちです」

 礼拝堂が静まった。

 セラ自身も、言葉にしながら怖かった。

 神殿に守られる世界が終わった。

 なら、誰が守るのか。

 答えは一つしかない。

 生きている者たちだ。

「もう、誰か一人を燃やして守ることはできません。勇者だけに背負わせることも、聖女だけに死なせることもできません。私たちが、少しずつ背負うしかない」

「そんなことができるか!」

「分かりません」

 正直に答えた。

 人々が息を呑む。

 セラは続けた。

「分かりません。でも、誰かを殺し続ける方法が正しいとは、もう言えません」

 沈黙。

 長い沈黙。

 その中で、リリィが前に出た。

 小さな足で、セラの隣に立つ。

「私は、死にたくありません」

 声は震えていた。

 それでも、礼拝堂に届いた。

「怖かったです。でも、怖いって言ったら悪い子になると思っていました」

 リリィは泣いていた。

「もう、誰かにそう思ってほしくないです」

 洗濯場の女が、木槌を下ろした。

「姉も、死にたくなかった」

 彼女は言った。

「私は、それを知っていたのに、感謝しているふりをした」

 別の市民が膝をついた。

「父を誇れと言われた。誇らなければ、父の献身を汚すと言われた」

 声がまた増えていく。

 怒りだけではない。

 悲しみ。

 後悔。

 恐怖。

 そして、ほんの少しの決意。

 黒い剣が床から抜けた。

 誰の手も触れていないのに、剣はゆっくりと浮かび、セラの前に落ちた。

 そこに、ライガの姿はなかった。

 光の人影も薄れていく。

 ノアの姿が最後まで残っていた。

 少年はセラを見た。

 そして、黒い剣を見た。

 セラは頷いた。

「覚えています」

 声には出さなかった。

 だが、ノアの残響は笑ったように見えた。

 光が消えた。

 礼拝堂には、黒い剣だけが残った。

 セラはそれを拾った。

 重かった。

 ライガの剣。

 勇者を殺し、善人を殺さなかった悪人の剣。

 彼がどこにいるのかは分からない。

 生きているのかも分からない。

 それでも、剣は戻ってきた。

 だから、完全に終わったわけではない。

 そのとき、遠くで獣の咆哮が聞こえた。

 結界の外から魔物が来ている。

 人々が凍りつく。

 セラは黒い剣を抱きしめるように持ち、正面扉の方を見た。

 神殿の外には、白い都市が広がっている。

 花びらの敷かれた道。

 澄んだ水路。

 美しい塔。

 誰かの死で守られてきたもの。

 それを、今度は生きている者たちで守らなければならない。

「門を閉じてください」

 セラは言った。

「怪我人を治療院へ。神官は聖水の残量を確認してください。勇者だった方々は、剣を取れなくても避難誘導を。市民の方は、子どもと老人を地下ではなく中央広場へ。神殿地下は危険です」

 誰もすぐには動かなかった。

 だが、洗濯場の女が最初に走った。

「聞こえたでしょ! 動いて!」

 次に、若い男が駆け出した。

 神官の一人が、震える手で治療院への扉を開けた。

 リリィが修道女たちの手を引き、子どもたちを集め始めた。

 少しずつ、人々が動き出す。

 完全な秩序ではない。

 混乱している。

 間違いも起きるだろう。

 けれど、誰かを供物にして安心する世界ではなかった。

 セラは礼拝堂の中央に立ち、黒い剣を見下ろした。

「ライガさん」

 返事はない。

「戻ってくると言ったわけではありませんでしたね」

 彼はいつも、肝心な約束を避ける。

 けれど、セラは覚えている。

 戻ってこい。

 彼が自分に言った言葉を。

 ならば、今度はこちらが言う番だった。

「戻ってきてください」

 遠くで、また魔物の咆哮が響いた。

 アルメリアの空は、結界のない青さを晒していた。恐ろしく、広い空だった。

 その下で、神殿都市は初めて、自分の足で立とうとしていた。



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