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善人を殺さないとレベルが上がらない世界で、僕は“最悪の英雄”になる  作者: 妙原奇天


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第4話 英雄狩りの掟

 空閑ライガは、地図を持たない。


 持てば奪われる。奪われれば皆が死ぬ。ここではそれが等式になる。


 それでも道は覚えている。山の尾根、沢の浅瀬、馬が通れる幅、荷車が止まる地点、火を焚くと見える距離。覚えるのは生存のためではない。回数を減らすためだ。


 勇者たちは魔王へ向かうと言う。だが彼らが向かうのは、道の途中の村だ。村の善人が必要だからだ。善人が死ななければ祝福が落ちない。祝福が落ちなければ彼らは弱い。弱い勇者は、正義を続けられない。


 だから補給がある。補給は食料ではない。善人だ。


 善人を確保するために、勇者は道を作る。道ができれば、殺しが定期化する。定期化すれば、村は受け入れる。受け入れるようになれば、抵抗は消える。抵抗が消えれば、数えるだけになる。


 数えるだけになった世界では、殺す者の手が軽くなる。


 ライガはそれを止める術を持たない。制度を壊すには中心が必要だ。中心は遠い。遠い中心へ行く前に、目の前の回数が増える。


 増えた回数の分だけ、子どもが減る。


 それが現実だ。


 ライガは、回数を減らす。


 それが掟の一つ目だった。


 森の縁の小さな祠で、セラと合流したのは三日前だ。合流と言っても接触は短い。長く会えば追跡が近づく。近づけば保護区が潰れる。


 セラは物を渡した。乾いた薬草、縫い糸、硬いパン、そして、短い報告。


「補給隊が動いている」


 それだけで十分だった。


 補給隊という言葉は、ここでは別の意味を持つ。荷車がある。だが荷車の中身は粉や塩だけではない。帳簿に載るものがある。帳簿に載るのは、善の量だ。


「場所は」


 ライガが言うと、セラは指で地面に線を引いた。線は短い。短い線は、口で説明しないという決意の形だ。


 尾根を越えた先の谷。古い街道。石畳が途切れる場所。そこは馬が必ず速度を落とす。速度を落とす地点は襲撃に向く。


「護衛は」


「勇者が二人。兵が十数」


 勇者が二人なら、処理に時間がかかる。処理が長引けば周囲が動く。動けば善人が死ぬ。


 それでもやる価値はある。勇者が死ねば、その補給隊の回数は減る。回数が減れば、次の村が救われる可能性が上がる。


 可能性でしかない。だが確実よりはましだ。


 ライガは動いた。単独で。単独で動くのは、誰かを巻き込まないためだ。巻き込まないために孤立する。孤立は弱さになる。弱い者は死ぬ確率が上がる。


 それでも単独で動く。


 掟の二つ目。自分以外を道具にしない。


 夜。谷に霧が落ちた。霧は視界を奪う。奪われる視界は均等ではない。慣れた者だけが霧の中で働ける。勇者は霧に慣れていない。勇者は光に慣れている。祝福の光があるからだ。


 ライガは霧の中に身を沈めた。沈めるように歩く。足音を消す。呼吸を整える。肋はまだ痛む。痛みは消えない。消えない痛みは、無理をしないという警告だ。


 警告を無視する夜もある。


 谷の底に、火が見えた。松明ではない。焚き火だ。焚き火は油断の証拠だ。油断がある場所に、補給がある。


 荷車が二台。馬が四頭。兵が十六。数は予想通りだった。陣形は粗い。粗いが、油断ではない。彼らはこの道に敵がいないと思っている。敵がいるはずがない。正義の補給路を襲う者など、世界の外側にしかいない。


 そして、世界の外側は数が少ない。


 焚き火の近くに、白い外套の男が一人立っていた。首筋に薄い光。祝福の痕。薄いが確実に見える。痕が薄いということは、まだ多くを殺していない。殺していないから弱い。弱いから、補給隊に付けられている。


 もう一人は座っていた。鎧を脱いで、腕を伸ばしている。首筋の光が濃い。濃い痕は、強い。


 強い者がいるなら、この補給隊の目的は単なる護衛ではない。回収だ。善人の回収。あるいは、反世界行為者の捕縛。つまりライガの捕縛。


 痕が濃い勇者が言った。


「遅い」


 兵が答えた。


「山が荒れておりました。獣が多く」


「獣はどうでもいい」


 勇者は淡々と言った。


「善が減れば、均衡が崩れる。均衡が崩れれば、次の村が荒れる。荒れれば善がさらに減る。止めるのが我々だ」


 言葉は理性的で、滑らかだった。滑らかだから厄介だ。滑らかな正義は折れにくい。折れにくいものは長く続く。長く続けば人は慣れる。慣れた殺しは、日常になる。


 痕が薄い勇者が小さく言った。


「今夜は、ここで」


 痕が濃い勇者が頷いた。


「ここで一人。明日、村で二人。効率は悪いが、仕方ない。魔王戦が近い」


 魔王戦。旗印になる言葉だ。旗印は、誰かの死を軽くする。死が軽くなれば、祝福が落ちやすい。祝福が落ちれば、勇者は強くなる。


 循環。


 ライガは焚き火の外側を回った。兵の視線を避ける。風上に立つ。匂いは嗅がれる。嗅がれれば犬が使われる。犬は善悪を知らない。犬は制度に忠実だ。


 荷車の陰に近づく。荷車の下には縄。縄は人を縛るためのものだ。縛る相手は盗賊ではない。盗賊なら殺せばいい。縛る相手は、生かして運ぶ必要がある。


 生かして運ぶ相手は、善人だ。


 ライガは荷車の布を少しだけめくった。中には木箱。木箱の隙間に、布の端。布の端に、指。小さな指。


 子どもだ。眠っているのではない。薬で眠らされている。眠らせて運ぶ。運べば泣かない。泣かなければ騒ぎにならない。騒ぎにならなければ、村は気づかない。気づかなければ、殺しは滑らかになる。


 滑らかにする工夫がある。


 工夫がある殺しは、産業に近い。


 ライガは布を戻した。深呼吸を一度だけした。深呼吸は余分だ。余分だが必要な時がある。必要なのは、今夜の手順を間違えないためだ。


 最初に殺すのは、痕が濃いほう。


 強いほうを落とさないと、兵が散らない。散らない兵は追撃になる。追撃は、どこかの善人を殺す。


 ライガは焚き火の明かりの外側から、石を投げた。石は遠くの藪を叩く。乾いた音。乾いた音は獣に聞こえる。人にも聞こえる。


 兵が動いた。槍を構え、二人が藪へ向かう。痕の薄い勇者が立ち上がり、兵に合図する。


「確認しろ」


 痕の濃い勇者は動かない。動かないのは余裕だ。余裕がある者は、死ぬ瞬間まで余裕のままだ。


 ライガは焚き火の横へ滑り込み、濃い痕の勇者の背後に出た。刃は短く、動きは最小。首の付け根に刃を入れる。深く。迷いなく。血が出る。勢いは弱い。弱いのは、刃が正確だからだ。


 勇者の身体が一瞬、硬直した。硬直は痛みではない。理解だ。理解した瞬間、人は死ぬ。


 勇者が倒れる。倒れながら、口が動いた。


「……反世界」


 そこで終わった。


 光は出ない。ライガの身体は何も光らない。光らないことが、ここでは敗北の印だ。だが光らない殺しのほうが、静かだ。静かな殺しは見つかりにくい。


 次。痕の薄い勇者。


 痕の薄い勇者は気づいた。気づくのが遅い。遅いのは、世界が正しいと信じているからだ。正しい世界では、補給隊が襲われることはない。


 痕の薄い勇者が剣を抜く。剣が光る。祝福が刃に宿る。宿った祝福は、刃の速度を上げる。速度が上がれば、人は防げない。


 ライガは正面から受けない。横へ回る。焚き火を挟む。火は視界を遮る。火の熱で空気が歪む。歪む空気は判断を狂わせる。


 勇者が踏み込む。踏み込みは教本通り。教本通りの踏み込みは、予測できる。


 ライガは足を払った。勇者が転びかける。転びかけた瞬間に、刃を喉へ当てる。深く入れない。入れれば死ぬ。死なせる必要がある。ここでは殺すのが最短だ。


 だが、殺すのは勇者だけ。


 喉へ当てた刃を押し込み、呼吸を断つ。血が出る。血は煽らない。事実として落ちる。


 勇者は目を見開き、何か言いかけた。言葉は出ない。出ない言葉は正義の敗北だ。敗北は、いつも無言だ。


 勇者が倒れる。


 光は出ない。


 焚き火のそばに、勇者が二人倒れた。


 兵が気づき、叫ぶ。


「勇者さまが」


 叫びは混乱を生む。混乱は逃げ道を作る。だが混乱は同時に、無差別な殺しも呼ぶ。


 ライガは兵に向かって言った。


「退け」


 命令ではない。警告だ。ここで死ぬ必要はない。必要がない死は、どこかの善人の死につながるだけだ。


 兵は退かない。退けない。退けば反世界勢力に協力したことになる。協力した者は処分される。処分は、帳簿に載らない。


 帳簿に載らない死は、制度にとっても無駄だ。だが制度は無駄な死を嫌わない。無駄な死は恐怖を作る。恐怖は従順を作る。


 兵が槍を突く。ライガは槍を弾き、柄を折る。折るのは簡単だ。だが折っても敵は減らない。敵は数で押してくる。数で押す敵に、殺さないという縛りは重い。


 重い縛りは、いつか誰かを潰す。


 兵が四人、同時に来た。ライガは一人の膝を砕き、次の肘を折り、次の手首を切り、最後の足首を刃の背で叩いた。殺さない。殺さないことで、手順が増える。手順が増えるほど時間がかかる。時間がかかれば追撃が整う。


 その結果、補給隊は散らなかった。散らずに、ひとつの塊になった。塊は強い。塊が動けば、道の先の集落へ向かう。集落へ向かえば、誰かが巻き込まれる。


 ライガは荷車へ向かった。荷車を守る兵が二人いる。二人とも震えている。震えているのは恐怖ではない。状況が理解できないからだ。正義の護衛隊が襲われている。襲う者は、正義の外側だ。


 外側は怪物に見える。


「鍵を渡せ」


 ライガは短く言った。


 兵が鍵束を投げた。投げるのは降伏ではない。生存の選択だ。生存の選択は、いつも正義より強い。


 ライガは鍵で荷車の木箱を開けた。中に子どもが二人。女が一人。目を閉じている。薬で眠っている。息はある。


 ライガは縄を切り、口元の布を外し、子どもを抱えた。軽い。軽い身体は、すぐに消える。消えないためには、ここから出すしかない。


 兵の叫びが近づいた。追撃が整っている。整った追撃は、制御が効く。制御が効く追撃は、必ず民を巻き込む。民を巻き込めば、反世界勢力への憎しみが増える。憎しみが増えれば、勇者制度は強くなる。


 ライガは荷車を燃やした。燃やすのは証拠を消すためではない。追撃を止めるためだ。荷車が燃えれば兵は足を止める。足を止めれば時間が生まれる。時間が生まれれば、子どもが生きる。


 火が上がる。火は善悪を区別しない。火はただ燃える。燃えれば、煙が上がる。煙は合図になる。合図になれば、別の追手が来る。


 それでも燃やす。最短を選ぶ。


 掟の三つ目。守るために壊すことを躊躇しない。


 ライガは子どもを抱え、女を引き、夜の谷を走った。走ると肋が痛む。痛みは増える。増えた痛みは速度を落とす。落ちた速度は捕縛につながる。


 捕縛されれば、保護区が潰れる。


 背後で角笛が鳴った。合図だ。合図が鳴れば、追撃は組織になる。組織になった追撃は、近くの集落に通報する。通報された集落は扉を閉める。扉を閉めれば、逃げ道は減る。減った逃げ道の分だけ、誰かが遅れる。


 遅れた者は、供物になる。


 森に入る手前で、明かりが見えた。小さな集落だ。畑と井戸と納屋。煙突から薄い煙。人がいる。善人がいる。


 ライガは集落を避けるつもりだった。避けるのが合理だ。合理は、善人を守る。


 だが追撃が背後から迫り、子どもが咳き込んだ。咳は小さい。だが夜は音を拾う。拾われれば追われる。追われれば捕まる。


 捕まる前に、身を隠す場所が必要だった。


 集落の納屋が開いていた。中に干し草。干し草は匂いを隠す。匂いを隠せば犬が迷う。犬が迷えば、人間も迷う。


 ライガは納屋へ滑り込み、子どもを草の陰に置き、女を座らせた。女が目を開けた。薬が切れている。切れかけの目は、恐怖と理解が混じる。


 女が言った。


「……勇者に」


 ライガは答えない。答えれば彼女の恐怖が形になる。形になった恐怖は叫びになる。叫びは追撃を呼ぶ。


 納屋の外で、足音がした。集落の住人だ。追撃ではない。住人は灯りを持っている。灯りは見える。見える灯りは危険だ。危険だが、危険の中に隠れるしかない夜がある。


 納屋の扉が開き、老人が入ってきた。老人は干し草を見て、動きを止めた。動きを止めるのは恐怖ではない。理解だ。理解した瞬間、人は自分の世界が壊れたことを知る。


 老人が言った。


「反世界の」


 言いかけた言葉が止まった。老人の視線が、子どもに落ちたからだ。子どもは善だ。善は守られるべきだ。守られるべきものが、干し草の中にいる。


 老人の顔が歪んだ。歪みは怒りではない。秩序が壊れる音だ。


 外で叫び声がした。追撃だ。


「そこに入ったぞ」


 足音が増える。槍の音。鎧の擦れる音。音が整っている。整った追撃は、逃げ場を作らない。


 老人が震える手で扉を閉めようとした。閉めれば追撃は扉を叩く。叩けば集落が巻き込まれる。巻き込まれれば善人が死ぬ。善人が死ねば、追撃の中の勇者が光る。


 老人の喉が鳴った。


「出ていけ」


 老人は小さく言った。命令ではない。懇願だ。懇願は弱い。弱い言葉は、制度に飲まれる。


 ライガは干し草の陰から出た。剣を抜いた。老人の前に立った。老人は後ずさる。後ずさるのは怖いからだ。怖いものを前にしても、老人は叫ばない。叫べば追撃が早く入ってくる。早く入れば子どもが死ぬ。


 老人は善人だった。


 善人は、逃げることを許されない。逃げないことで、誰かを守る。誰かを守る行為が、制度を支える。


 追撃が扉を叩いた。


「開けろ。反世界行為者だ」


 老人の身体が硬直した。硬直は恐怖と義務の間に挟まれた証拠だ。義務は、門を開けることだ。門を開ければ正義に協力できる。協力すれば、集落は守られるかもしれない。


 守られるかもしれない。条件付きの守りは、脅しに近い。


 ライガは老人に言った。


「開けるな」


 老人が唇を震わせた。


「開けねば」


「開ければ、ここで誰かが死ぬ」


 ライガの言葉は断定だ。断定は責任を取る形だ。責任を取る者は、善人ではない。善人は責任を取れない。責任を取れば、殺しの構造が見えるからだ。


 扉がさらに叩かれる。木が軋む。軋む音は、次の瞬間に破られる音だ。


 老人が叫びそうになるのを、堪えた。堪えたのは善性のせいではない。堪えることで、自分がまだ人間でいられるからだ。


 扉が破られた。


 兵が雪崩れ込む。槍が向けられる。松明の光が納屋の内部を照らす。干し草が光る。光った干し草の陰に、子どもが見える。見えた瞬間、兵の目が変わった。


 兵は理解する。子どもは善だ。善は祝福の材料だ。材料は、ここにある。


 兵の背後から、白い外套が入ってきた。首筋に光の痕。濃い。濃い痕は、さっき殺した勇者より濃い。つまり、この追撃には別の勇者がいる。補給隊の護衛ではない。狩りのための勇者だ。


 白い外套の勇者が言った。


「回収する」


 回収。言葉が軽い。軽い言葉が人を殺す。


 老人が言った。


「やめてくれ。子どもは」


 白い外套の勇者は老人を見た。見た目は穏やかだった。穏やかさは理性に見える。理性に見える殺しが、この世界で最も長持ちする。


「均衡のためだ」


 勇者は断定した。


 老人が膝をついた。膝をつくのは祈りだ。祈りはここでは役に立たない。役に立たない祈りは、制度の正しさを補強するだけだ。


 ライガは勇者へ向かった。勇者は剣を抜く。剣が光る。光は眩しい。眩しさは、正義の演出だ。


 ライガは正面から受けず、横へ動く。槍の列を崩す。崩すと兵が乱れる。乱れれば老人と子どもが巻き込まれる。巻き込まれれば善人が死ぬ。死ねば勇者が光る。


 どちらに転んでも、代償が出る。


 気持ちいい正義はない。


 勇者の剣が振り下ろされる。速い。祝福が速度を上げている。速度は正しい者の特権だ。


 ライガは干し草の束を蹴った。干し草が舞い、視界が散る。散る視界は、刃の軌道を狂わせる。狂った刃は柱を斬り、木が裂ける。裂けた木が落ち、兵の頭を打った。兵が倒れる。倒れた兵が子どもへ向けて槍を落としかける。


 ライガは槍を踏んで止めた。止める動作の一拍が遅れれば、槍先が子どもに刺さる。刺されれば終わる。


 その一拍の遅れが、次の被害を呼ぶ。


 白い外套の勇者が踏み込み、老人の肩を掴んだ。掴むのは盾にするためだ。盾にされれば、ライガは斬れない。斬れないことが、勇者にとって最も安全だ。


 勇者は老人を自分の前に引き寄せ、言った。


「動くな」


 老人が息を呑む。息を呑む音が小さい。小さい音は、まだ祈りが続く音だ。


 勇者が続けた。


「反世界行為者。お前は善を守っているつもりだろう。だがそのせいで均衡が乱れる。乱れた分は、別の場所で帳尻が合う。お前が守った善の分だけ、外で死ぬ」


 勇者の言葉は理屈だった。理屈は正義の衣だ。衣が整っているほど、人は反論できない。反論できない者が黙る。黙れば、正義が勝つ。


 ライガは答えない。答える必要がない。必要なのは手だ。


 ライガは干し草の束をもう一つ投げた。勇者の視界に干し草が散る。散った瞬間、勇者の手が老人を押し出す。押し出すのは盾を失うことへの恐怖だ。恐怖は善悪を問わない。


 老人が前へ倒れ、地面に手をつく。手をついた瞬間、勇者の首筋が露出する。露出した首筋の痕が光る。光る痕は狙いになる。


 ライガは斬った。


 刃が首筋を裂く。血が出る。勇者が倒れる。倒れる勇者の身体は光らない。光るのは痕だけだ。痕が光っているのは、彼が殺してきた善の量が残っているからだ。


 勇者は息をしながら言った。


「……レオン」


 名前が出る。旗印が近い。旗印は、もっと大きい正義を連れてくる。


 勇者はそこで終わった。


 兵が一瞬、止まった。止まるのは理解できないからだ。勇者が死んだ。だが祝福の光が舞わない。舞わない死は、正義の儀式として不完全だ。不完全な儀式は恐怖になる。


 恐怖になった兵は、余計に乱暴になる。


 槍が振られる。松明が倒れる。干し草に火が移る。火は広がる。広がった火は納屋を燃やす。燃えれば集落が燃える。集落が燃えれば、善人が焼ける。焼けた善人は、経験値にならないかもしれない。だが死は死だ。死が増えれば、世界は荒れる。


 ライガは子どもを抱え、女の腕を掴み、納屋を出た。外に出ると、集落の住人が叫んでいた。叫びは混乱だ。混乱は火を広げる。火が広がれば、逃げる者が増える。逃げる者が増えれば、追撃はさらに乱暴になる。


 ライガは走った。走りながら、背後の家が燃えるのを見た。見る必要はない。だが見てしまう。見てしまうのは感情ではない。結果の確認だ。


 自分が勇者を殺した。だが勇者以外を殺さなかった。殺さなかったから、兵が残った。残った兵が火をつけた。火が広がった。罪のない者が傷ついた。


 これが代償だ。


 代償はいつも遅れて来る。遅れて来る代償は、回収できない。


 森へ逃げ込む途中で、足音が交差した。誰かが倒れている。倒れているのは兵ではない。鎧がない。布の服。血。片腕がない。腕がない断面が布で縛られている。縛りは雑だ。雑な縛りは、急いだ縛りだ。


 男だった。年は三十前後。顔は青い。青いのは失血だ。だが目は開いている。開いた目は正気だ。正気が残っているほど苦しい。


 首筋に光の痕があった。濃い。肩から胸、鎖骨のあたりまで伸びている。光の刺青が、暗い森の中でも見える。見える罪だ。


 男が言った。


「来るな」


 声は掠れていた。掠れているが、命令の形をしている。命令の形をしているのは、かつて命令する側だったからだ。


 ライガは止まった。子どもを背中に回し、女を木の陰に押し込んだ。女が小さく息を呑む。息の音が追撃に届く距離だった。危険だ。


 男が笑った。笑いは乾いている。


「まだ生きてるのか、反世界」


 ライガは答えない。


 男は自分の首筋の痕を指でなぞった。なぞる指が震える。震えが止まらない。止まらない震えは、身体の反応だ。身体は嘘をつかない。身体が嘘をつかない時、人は言葉で嘘をつく。


「俺は英雄だった」


 男が言った。


「善人を殺して、強くなって、救った」


 救った。救うという言葉がここでは最も曖昧だ。救った結果が何か。救った相手が誰か。救いの定義は帳簿にある。


 男が続けた。


「でも夜になると、全部戻ってくる」


 戻ってくるのは何か。男は説明しない。説明しないほうが真実に近い時がある。


 男は片腕の断面を見た。見た瞬間、喉が鳴った。吐き気の音だ。吐き気は、祝福の副作用ではない。祝福の内側に押し込まれたものが、外へ出ようとする音だ。


 男が言った。


「今も戻ってる。匂いが戻ってる。声が戻ってる。目が戻ってる」


 言葉が短く、数が多い。数が多い言葉は、整理できない現実だ。


 ライガは男の首筋の痕を見た。濃い痕。濃い痕は強さの証明とされる。だがこの男は震えている。震えている強さは、武器ではない。


 男が言った。


「殺せ」


 命令だった。命令の形が強い。強い命令は、自分を終わらせるための命令だ。


「お前なら殺せる。俺はもう英雄じゃない。勇者でもない。片腕がない。追いつけない。使えない」


 使えない。制度にとって使えない。使えない者は切り捨てられる。切り捨てられる前に自分で切り落とす。そういう選択を、人は追い詰められるとする。


 ライガは言った。


「お前は勇者だった」


 確認だ。確認は分類だ。分類は、刃の向きを決める。


 男が笑った。


「だった。もう違う。痕は残ってるけどな」


 痕は残る。残る罪。消えない刻印。刻印は祝福と呼ばれる。


 ライガは男に近づき、血止めの布を見た。雑だ。縛りが緩い。これでは死ぬ。死ぬのは時間の問題だ。


 ライガは布を締め直した。締め直す手つきは早い。早いのは慣れだ。慣れは、死体を増やしてきた者の手つきにも似る。


 男が呻いた。呻きは痛みだ。痛みがあるのに、男は「ありがとう」と言わない。言えば人間らしくなる。人間らしくなると、次が苦しい。


 ライガが言った。


「名は」


 男が一瞬だけ目を逸らした。名は重い。名を言うことは、自分の過去を認めることだ。


「グレン」


 男が言った。


 元勇者グレン。名が付けば物語の中の役割になる。役割が付けば、死が軽くなる危険もある。だが今は役割が必要だ。役割がない者は、ただ死ぬ。


 背後で、追撃の角笛がまた鳴った。近い。近い音は、もう見つかる距離だ。


 ライガは子どもを抱え直し、女の腕を引き、グレンの背中に手を回した。


「立て」


 グレンが笑った。


「無理だ。片腕がない」


「片足はある」


 ライガは言った。断定。断定は人を動かす。動くしかない状況では、断定が救いになることがある。救いを語らない場所で、断定だけが救いになる。


 グレンは立った。立った瞬間、膝が崩れかける。ライガが支える。支えれば速度が落ちる。落ちれば捕まる。捕まれば終わる。


 それでも支える。


 掟の四つ目。罪のある者を切り捨てない。ただし、善人を盾にしない。


 森を抜け、沢へ降りた。沢の水音が足音を隠す。隠せば犬が迷う。迷えば追撃が遅れる。遅れれば時間が生まれる。


 時間が生まれた分だけ、別の村が燃えるかもしれない。だが今、ここで燃えるよりはましだ。まし、という言葉が出る時点で、正しさはもう残っていない。


 沢を渡る途中で、背後の集落から悲鳴が上がった。悲鳴は火の悲鳴だ。人の悲鳴だ。区別はつかない。区別がつかないほど、世界は雑になる。


 グレンが震えながら言った。


「俺が……俺が行けば」


 言いかけた言葉は、自己犠牲の形だ。形が整いすぎている。善人だけではない。勇者だった者も、自己犠牲の形を覚える。覚えることで自分を許す。許しは麻薬になる。


 ライガは言った。


「黙れ」


 短い命令。命令は人を救う。救うとは言わない。ただ、死なせないための手段だ。


 グレンが歯を噛んだ。噛んだ歯の音が水音に混じる。混じる音は聞こえにくい。聞こえにくい音ほど、後で戻ってくる。


 森を抜けた先に、道があった。街道ではない。獣道でもない。馬の蹄の跡がある。規律のある隊が通った跡だ。


 その道の先に、旗が見えた。


 白地に黒い線。天秤の紋。天秤殿の紋ではない。だが同じ系統の意匠。教会の中心に近い者が使う旗印だ。


 旗の横に、別の紋があった。獅子の頭。剣を咥えている。レオンの旗印だ。現勇者の象徴。


 本人がいるとは限らない。だが旗があるだけで、空気が変わる。旗は命令だ。命令は人を動かす。動いた人の数だけ、善人が死ぬ。


 グレンが息を呑んだ。息を呑む音が、震えに混じる。震えが強くなる。


「来てる」


 グレンが言った。


「レオンの隊が」


 ライガは旗を見た。旗は遠い。だが遠い旗は、近い死を意味する。


 レオンは象徴だ。象徴は、個人の強さ以上の圧を持つ。象徴が動けば、村が動く。村が動けば、善人が列を作る。列ができれば、回数が増える。


 ライガは回数を減らしたい。だが回数は、象徴が来ることで増える。


 増える回数を前にして、最適解の誘惑が戻ってくる。善人を一人殺せば強くなる。強くなれば象徴に届く。届けば回数が減る。


 誘惑は簡単だ。簡単だから危険だ。


 ライガは誘惑を見ない。見ないという行為は、目を逸らすことではない。目を逸らさずに、手を動かすことだ。


 ライガは言った。


「ここから先は型になる」


 グレンが顔を上げた。顔は青い。青い顔のまま、目だけが焦点を結ぶ。


「型」


「英雄狩りの掟」


 ライガは続けた。


「一、回数を減らす。二、勇者以外は殺さない。三、善人を盾にしない。四、罪は切り捨てない。五、勝てない戦いは避ける。勝てないのに戦えば、善人が死ぬ」


 グレンが乾いた笑いを漏らした。


「英雄みたいだな」


 ライガは答えた。


「違う。英雄は善人を殺す」


 断定。断定は冷たい。冷たい断定が、ここでは熱を持つ。熱を持つのは、人がそこに頼るからだ。


 女が小さく言った。


「子どもは」


 ライガは言った。


「生かす」


 生かすという言葉は約束に近い。約束は嘘になりやすい。だが嘘になりやすい約束でも、今は必要だ。


 ライガは道を外れた。旗印のある道は避ける。避ければ追撃は広がる。広がれば別の村が巻き込まれる可能性が上がる。


 それでも避ける。ここで捕まれば確実に保護区が潰れる。確実を避けて可能性を取る。正しいかどうかは、誰にも分からない。分からないまま、足を動かす。


 森の奥で、犬の遠吠えが聞こえた。犬が動いた。追跡が始まる。追跡はレオンの旗の下で整う。整った追跡は、必ず民を巻き込む。


 巻き込まれる民が、次にどこで死ぬか。今は分からない。分からないことが、恐怖になる。


 恐怖を抱えたまま、世界は回る。


 グレンが震えながら言った。


「俺は……どうすればいい」


 質問は遅い。遅いが、必要な質問だ。必要なのは役割だ。役割がない者は、罪に押し潰される。押し潰された者は、最適解の誘惑に負ける。


 ライガは言った。


「目を逸らすな」


 短い。短いから残る。


「戻ってくるなら、戻しておけ。戻ってきたものを、祝福で塗り潰すな」


 グレンが唇を噛んだ。噛んだ唇から血が出た。血は小さい。小さい血は、生きている証拠だ。


 遠くで角笛が鳴った。複数。合図が連鎖している。連鎖は組織の動きだ。組織の動きが始まったら、もう止まらない。


 レオンの旗印が動く。


 それは、次の話の始まりでもあった。


 ライガは森を抜けず、森の中を選んだ。見通しを捨てる。代わりに匂いを散らす。散らした匂いの分だけ、追跡が遅れる。遅れた追跡の分だけ、今夜の誰かが生きる。


 それが掟の実際の意味だった。


 気持ちいい正義ではない。


 代償が出る道だ。


 代償の出方だけを、少しでも自分の側へ引き寄せる。その程度のことしかできない。それでもやる。やらなければ、回数が増える。


 回数が増える世界は、すぐに慣れる。


 慣れた殺しは、もう止まらない。


 だから、止められない者が、止めるふりをする。


 最悪の英雄とは、そういうものだ。

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