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善人を殺さないとレベルが上がらない世界で、僕は“最悪の英雄”になる  作者: 妙原奇天


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第2話 善人は、逃げることを許されない

 山道は細く、左右の斜面は落ち葉で滑った。昼の光は木の枝に遮られ、足元に斑に落ちる。草原よりも静かで、静かだからこそ追手の音がよく響く。


 空閑ライガは先に立ち、村の生存者を導いた。背後には十数人。老人が二人、女が四人、子どもが五人。怪我をした男が三人。全員が荷を持っている。荷は重くない。重いものは燃えて、残らない。


 ライガは振り返らない。振り返れば歩みが止まる。止まれば追いつかれる。追いつかれれば、また儀式が始まる。


 背後から、足音が一つ遅れた。


 女だった。二十代の後半に見える。肩に子どもを抱えていたが、子どもはすでに別の女に渡している。空いた腕で、彼女は自分の腹を押さえていた。浅い傷だ。だが血が滲んでいる。血が滲むと足が遅くなる。遅くなると、列が乱れる。


 列が乱れると、誰かが遅れる。遅れた者は、手順の一部になる。


「止まるな」


 ライガは前を向いたまま言った。命令ではない。計算の確認だ。


 女が答えた。


「……私が、囮になります」


 声は震えていなかった。震えるのを止める術を知っている声だった。震えると、怖れていることが外に出る。外に出た怖れは、誰かの正義の材料になる。


 ライガは歩幅を変えずに言った。


「囮はいらない」


「でも」


「いらない」


 女は息を吸った。息を吸うのは言い返すためではない。言い返してはいけないことを知っているから、口の中で言葉を潰すためだ。


 列の後方で、老人が咳をした。咳は目立つ。目立てば切り捨てられる。切り捨ては残酷だが、この世界では合理だ。合理は善悪を超える。


 老人が自分から足を止めかけた。杖が地面に深く刺さる。刺さる音が乾いて響く。


「わしが……」


 老人は言いかけて黙った。言い切れば、その瞬間に自分が善い選択をしたことになる。善い選択は、制度に利用される。


 ライガは振り返り、老人の杖を蹴り払った。蹴り払うと言っても強くはない。杖の角度をずらすだけだ。杖は落ち、老人がよろける。近くの男が支える。


「歩け」


 ライガは短く言った。


 老人は口を開いたが、何も言わずに歩き出した。歩くことが命令に見えると、彼は楽になる。楽になってはいけない。楽になれば次からも止まる。


 しばらく進むと、山道の分岐が見えた。左は尾根に出る。右は谷へ降りる。尾根は見通しが良い。見通しが良いと、矢が通る。谷は見通しが悪い。見通しが悪いと、追う側が苛立つ。苛立ちが出れば、判断が乱れる。判断が乱れれば、逃げる余地が生まれる。


 ライガは右へ進んだ。


 その選択に、誰も異議を唱えない。異議は判断だ。判断は責任になる。責任は死を呼ぶ。だから生存者は判断を他人に預ける。預ける相手は、勇者でも司祭でもない。今はライガだ。悪人のほうが責任を取る。善人は責任を取れない。責任を取れば善人でなくなる。


 谷を降りると、川があった。浅いが流れは速い。石が濡れて光っている。流れは足跡を消す。血も消す。消えるものは証拠になりにくい。証拠になりにくいものは追跡を遅らせる。


 ライガは川を渡った。生存者が続く。子どもは抱えられ、老人は支えられる。怪我人は歯を食いしばる。食いしばっても、声は出さない。声を出せば自分が悪になる。悪になれば、次に切り捨てられる。切り捨てられるなら、善でいたほうがいい。


 川を渡り終えると、道が整ってきた。人の手が入っている。草が刈られ、石が並べられ、ところどころに木の杭が打たれている。杭には小さな札が掛かっていた。札に書かれた文字は薄い。薄いのは、わざとだ。読みづらいことが安全になることがある。


 ライガは札を見た。そこに書かれているのは、地名ではない。注意書きでもない。祈りの文句だった。


 均衡を乱すな。

 善を守るな。

 善を動かすな。


 言葉は短く、命令だった。


 生存者の一人が札を見て、顔色を変えた。女だ。唇が白い。彼女は口を開きかけ、すぐに閉じた。言えば、この札の意味を認めることになる。認めれば、従わなければならなくなる。従えば、また殺される。


 それでも彼女は言った。


「ここ……」


 声が細い。


「来てはいけない場所、じゃないんですか」


 ライガは答えた。


「来てはいけない場所は、この世界に多い」


 それで終わりだ。慰めはない。慰めは方向を狂わせる。方向が狂えば誰かが死ぬ。


 道の先に、壁が見えた。


 石壁だった。高さは人の背の二倍以上。上には鉄の柵がある。壁の前には見張り台が二つ。見張り台に人影があり、弓を持っている。弓の先がこちらを向いた。


 村の生存者が足を止めた。止まるのは恐怖ではない。壁が示す意味を知っているからだ。


 壁の内側にあるのは、善人保護区。


 善人を匿う場所。善人を集める場所。善人を殺させないための場所。


 そして、違法な場所。


 違法という言葉は軽い。軽いが、その軽さが命を左右する。合法は正義に接続される。違法は反世界勢力に接続される。反世界勢力という言葉は便利だ。便利な言葉は殺しを正当化する。


 見張り台の弓が下がり、門が少し開いた。門番が顔を出す。男だ。顔に傷がある。傷がある者はここでは信用される。信用は見た目で決まることが多い。


「誰だ」


 門番が言った。


 ライガは名を告げない。名は記録される。記録されれば、追跡は早くなる。


「通すだけだ」


 ライガはそう言った。


 門番は生存者を見て、眉をひそめた。ここに来る人間は少ない。来る人間は、追われている。追われている人間を受け入れるという行為は、壁を厚くするだけでは足りない。心臓を強くする必要がある。


「勇者が?」


「来た」


 門番は舌打ちをした。舌打ちは怒りではない。現実の確認だ。


「入れ」


 門が開く。生存者が中へ吸い込まれる。中は静かだった。外の山道より静かだ。静かというより、音が制御されている。足音が軽くなるように土が敷かれ、話し声が広がらないように建物が密集している。


 壁の内側には畑があり、水場があり、作業場があり、小さな祠がある。祠には教会の光輪とは違う紋が刻まれていた。輪が欠けている。欠けた輪は、完全を拒む印だ。


 だが穏やかだった。穏やかに見えるように作られていた。


 穏やかさは防壁になる。穏やかさが崩れれば人は恐慌を起こす。恐慌は集団を殺す。だから保護区は穏やかでなければならない。穏やかであることが、最初の規律だ。


 生存者は建物の陰に通され、水を渡され、傷を見られた。看護係の女が手早く包帯を巻く。包帯は新しい。新しい包帯は資源がある証拠だ。資源がある場所は狙われる。


 ライガは壁際に立った。見張り台の影になる場所。そこから保護区全体が見える。見えるが、全体を把握するのは難しい。これは村ではなく、小さな国家だ。国家は把握されることを嫌う。


 歩いてくる足音があった。規則正しい。急いでいない。急がないことが権力の型になる。


 女が現れた。白い布を首に巻き、灰色の上着を着ている。装飾はない。顔立ちは穏やかで、目が乾いている。乾いた目は、泣き尽くした者の目ではない。泣く必要を削ぎ落とした者の目だ。


「あなたが空閑ライガ」


 女は断定した。問いではない。名前が漏れている。漏れているということは、世界のどこかに帳簿がある。


 ライガは頷いた。


「代表のセラです」


 女は名乗った。名乗ることは責任を引き受ける行為だ。責任を引き受ける者は、善人であることを許されない。善人は守られる側であって、守る側ではない。守る側に回った善人は、すぐに悪人とみなされる。


 セラの声は穏やかだった。穏やかさは意志の強さに近い。


「ここに来ると、外が少しずつ荒れます」


 最初の言葉がそれだった。歓迎でも礼でもない。因果の提示だ。ここでは因果を最初に置く。そうしないと善意が暴走するからだ。


 生存者の一人が顔を上げた。若い男だ。鼻の頭に乾いた血がこびりついている。


「荒れるって……」


 セラは説明しない。説明は議論になる。議論は善悪を持ち込む。善悪は結論を鈍らせる。ここで必要なのは結論だ。


「凶作が増え、病が増え、盗賊が増えます」


 セラは事実だけを並べた。事実は残酷だが、残酷さが薄い。薄い残酷は長持ちする。


 生存者の女が言った。


「私たちが来たせいで?」


 セラは首を振らない。肯定も否定もしない。肯定すれば罪になる。否定すれば無責任になる。


「ここに善が集まると、外側の均衡が揺れます。揺れた分は、どこかで帳尻が合います」


 帳尻という言葉が出た瞬間、空気が一段冷えた。帳尻は、教会がよく使う言葉だ。教会は帳尻を神意と呼ぶ。保護区は帳尻を現象と呼ぶ。呼び方が違うだけで、起きることは同じだ。


 ライガはセラを見た。


「止められないのか」


 セラは即答した。


「止められません」


 断定が強い。断定が強い者は危うい。危うさは行動を呼ぶ。行動は血を呼ぶ。


「それでも、ここは必要です。必要だから、違法です」


 矛盾が並ぶ。矛盾が並ぶ場所が制度の周縁だ。周縁にはいつも血が流れる。


 セラは生存者に目を向けた。


「今夜はここに。明日、移送の準備をします」


「移送?」


 生存者が聞き返す。


「ここは長居する場所ではありません。善が溜まれば溜まるほど、外が崩れます。ここに善人を留めるのは、優しさではありません」


 優しさが否定される。優しさはここでは毒になる。毒になる優しさは、世界の構造そのものだ。


 ライガは問う。


「どこへ」


「分散させます。壁の外に小さな隠れ家が点在しています。そこで、数を薄める」


 数を薄める。善は数で扱われる。数で扱われる時点で、善は資源だ。資源は倫理と無関係に動く。


 その夜、保護区は灯りを落とした。完全に消すのではない。外から見えない程度に落とす。灯りの数が少ないと、安心する者がいる。灯りが多いと、救いがあると錯覚する者がいる。錯覚は危険だ。錯覚は犠牲を増やす。


 ライガは壁の上に立った。見張り台のさらに上。夜風が強い。草原の匂いが薄く、土と石の匂いが強い。遠くの空に雲がある。月は出ていない。月が出ない夜は、弓が見えない。見えない弓は当たりやすい。


 ライガは耳を澄ませた。


 外から、足音が来る。


 静かだが、数が多い。規律がない。規律がない足音は兵ではない。兵でない数の多さは、別の危険になる。


 門番が壁の下から呼んだ。


「来た」


 門が少し開き、影が入ってくる。難民だった。服は擦り切れ、顔は泥で汚れ、目だけが光っている。光る目は飢えの目だ。飢えは人を悪人にする。悪人はこの世界では役に立たない。役に立たない者は、切り捨てられやすい。


 難民の代表らしい男が膝をついた。膝をつくのは屈服ではない。助けを乞う姿勢だ。


「凶作だ」


 男は言った。声が枯れている。


「畑が死んだ。水が腐った。子どもが咳をして倒れた。医者はいない。教会は来ない」


 教会が来ない。それは答えだ。教会は帳簿を見て動く。帳簿に価値がない場所には来ない。価値は善の数だ。善の数が減れば、価値が減る。


 難民の男は続けた。


「近くの村は、まだ収穫があるって聞いた。だが行ってみたら、畑は荒れてた。みんな言ってた。善人がいなくなったからだって」


 誰も答えない。答えはもうある。善人が集まると外が荒れる。荒れた外は飢えを生む。飢えは人を盗賊にする。盗賊は善人を襲う。善人が死ねば勇者が強くなる。勇者が強くなれば、さらに善人が死ぬ。


 循環だ。


 循環は美しい。美しい循環は止めにくい。止めにくいものが制度になる。


 セラが難民に近づいた。セラは優しい顔をしていない。優しい顔をすると、難民は期待する。期待は裏切られたときに暴力になる。


「食料は少ない」


 セラは言った。


「それでも、分けます。ただし、ここに留まれません」


 難民の男が顔を上げた。目に怒りが混じる。怒りは理屈の代わりになる。


「行けと言うのか。どこへ」


「分散する場所がある」


 セラは同じ言葉を繰り返した。繰り返しは規律だ。規律は混乱を抑える。


 難民の男は唇を噛み、低い声で言った。


「ここが原因なんだろ」


 誰も答えない。答えないことで、責任が宙に浮く。責任が宙に浮けば、今夜は殺し合いにならない。今夜生きることが優先される。


 難民の男は続けた。


「善人を集めるから、外が死ぬ。外が死ぬから、俺たちがここに来る。ここが俺たちを追い返す。じゃあ、俺たちはどこへ行けばいい」


 問いは正しい。問いが正しいとき、世界は答えない。答えがあるなら、世界はすでに救われている。


 セラは言った。


「明日、道を渡します。今夜は休んでください」


 難民の男は立ち上がった。立ち上がる動作に、僅かな殺意が混じる。殺意は匂いのように空気を変える。


 その瞬間、壁の外で合図の音がした。


 鳥の鳴き声に似ている。だが鳥ではない。意図のある音だ。意図のある音は、人の死を呼ぶ。


 見張り台の弓が一斉に上がった。


「伏せろ」


 門番が叫ぶ。


 矢が飛んだ。矢は壁を越えない。壁は高い。だが矢は合図だ。合図が出たということは、別の手段が来る。


 壁の外側で、松明の光が揺れた。規則正しく揺れる。規則正しい光は、兵だ。


 通達が届いたのは、その直後だった。


 壁の外から、巻物が矢に結びつけられて飛んでくる。矢は壁の上に刺さる。巻物が揺れる。見張りが引き抜き、巻物を渡す。門番が受け取り、セラに差し出した。


 セラは巻物を開いた。目を走らせる。目が動く速度が一定だ。一定の速度は動揺を隠す。隠せる動揺は、すでに経験してきた動揺だ。


 セラは読み上げた。


「通達。善人保護区は反世界勢力と断ずる。均衡を乱す者は裁かれる。反世界勢力に協力する者も同罪とする。処置は速やかに。祝福の痕を持つ勇者隊が現地に向かう」


 反世界勢力。便利な言葉だ。便利だから使われる。使われるから人が死ぬ。


 難民の男が笑った。笑いは乾いている。


「ほらな」


 男は言った。


「ここは地獄だ。俺たちはどこへ行っても地獄だ」


 誰も否定しない。否定する言葉は、今夜の現実に負ける。


 壁の外の松明が増えた。数が多い。だが動きが整っている。兵の動きだ。兵の動きの中に、別の重さがある。祝福の痕を持つ者が混じっている。


 ライガは壁の上から見下ろした。松明の列の先頭に、白い外套が見える。白は夜でも目立つ。目立つ白は、権威だ。権威は矢より早く届く。


 門番が唾を飲み、言った。


「勇者だ」


 セラは短く返した。


「来ます」


 来る、ではない。来ます、だ。来ることが決まっているという言い方だった。


 ライガは壁から降りた。降りる途中、手のひらに石の冷たさが伝わる。壁の石は冷たい。冷たいものは、熱い希望を吸い取る。


 門の前に立ち、剣を抜く。剣は光らない。光らない剣は、英雄に似合わない。


 門番が言った。


「殺せないんだろ」


 嘲りではない。確認だ。確認は現実に近い。


 ライガは答えた。


「殺すのは勇者だけだ」


 門番は口を歪めた。笑いではない。理解できないものに対する顔だ。


「勇者が何人来る」


「分からない」


 分からないが、結果は分かる。祝福の痕が多い者ほど強い。強い者ほど殺しが上手い。殺しが上手い者ほど痕が増える。痕が増えるほど国家が持ち上げる。持ち上げられるほど、逃げ道がなくなる。


 逃げ道がない者は、さらに正しさにしがみつく。しがみついた正しさは刃になる。


 門の外で、声が響いた。


「開けろ」


 声は若い男のものだった。若いが、震えていない。震えない声は、覚悟か鈍さだ。どちらにせよ危険だ。


「通達が出ている。反世界勢力を引き渡せ。協力すれば情状を考慮する」


 情状を考慮する。情状があるという前提は、死が基本だという意味だ。


 セラが門の前に出た。


「ここには子どもがいる」


 セラは言った。訴えではない。事実の提示だ。


 外の声が返す。


「子どもも同罪だ。均衡を乱す者は、年齢で免責されない」


 年齢で免責されない。正義が徹底されるほど、世界は壊れやすい。徹底は柔軟性を失う。柔軟性を失った正義は、折れるまで走る。


 門番が歯を食いしばった。


「畜生が」


 言葉は小さい。小さい言葉は、まだ人間が残っている証拠だ。


 セラが門番に目を向けた。


「門は開けない」


 門番は頷いた。頷くしかない。頷かないと、ここは終わる。


 壁の外で、別の声が混じった。やや年上。落ち着いている。


「話は終わりだ。開けないなら、こちらで開ける」


 松明が動く。前に出る影がある。鎧が光を吸い、首筋が薄く光っている。祝福の痕だ。痕は夜だとよく見える。よく見える痕は、誇りの代わりになる。


 門に、衝撃が来た。


 木が軋む。鉄が鳴る。門番が叫ぶ。


「体当たりだ。押さえろ」


 内側から木材を当て、縄を締める。だが門は長く持たない。門を壊す技術は教会が持っている。教会は人を殺すだけではなく、壁を破る術も持っている。壁を破れる者が、世界を管理する。


 衝撃が三度来た。四度目で、門の金具が外れた。木が割れる音が大きい。大きい音は、もう隠せないという宣告だ。


 門が破られ、兵が雪崩れ込んだ。


 先頭の兵は槍を突き出す。槍先が月のない夜に鈍く光る。槍の動きは訓練されている。訓練された動きは、迷いを削る。迷いが削れた槍は、人をよく刺す。


 ライガは槍の軌道をずらし、槍柄を叩き落とした。次の兵の肘を折り、剣を落とさせる。殺さない。殺さないための動きは複雑になる。複雑になるほど、刃は遅れる。遅れれば刺される。


 実際、ライガの肩に矢が刺さった。


 痛みはある。だが顔には出さない。出せば自分が人間になる。人間になれば判断が揺れる。揺れれば、誰かを殺してしまう。


 ライガは矢を抜かない。抜くと血が出る。血が出れば滑る。滑れば終わる。


 兵の列の後ろから、祝福の痕を持つ者が出てきた。若い勇者だった。二十歳前後。顔色が悪い。額に汗が浮いている。勇者は汗をかかないふりをする者が多いが、この若い勇者は汗を隠せない。


 若い勇者の首筋に、光の刺青がいくつも走っていた。痕が多いほど、殺した善人が多い。


 若い勇者は剣を構えた。構えながら、喉が鳴った。吐き気を堪える音だ。


「下がれ」


 後ろの兵が言う。


「俺たちがやる」


 若い勇者は首を横に振った。


「俺が……やらないと」


 声が掠れている。掠れていても、命令の形をしている。命令の形をしているのは、自分に言い聞かせるためだ。


 保護区の中で、誰かが叫んだ。子どもの声だ。叫びは混乱を広げる。混乱は殺しの効率を上げる。


 セラが子どもたちを奥へ追いやる。走らせない。走ると転ぶ。転ぶと泣く。泣くと目立つ。目立つと狩られる。手順は冷たい。


 ライガは勇者たちの中心を見た。白い外套の男がいた。顔は見えないが、立ち方が違う。余裕がある。余裕がある者が指揮を取る。


 だが、第2話で殺すべき象徴はまだいない。ここで出てきたのは偵察と粛清だ。象徴を殺すと、別の象徴が来る。象徴が来れば、村人が死ぬ。まだ準備が足りない。


 ライガは勇者ではなく、門の外へ出る道を作る必要があった。道を作るには、守りを崩す。守りを崩すには、強い者の注意を引く。


 ライガは若い勇者の前に出た。


 若い勇者の目が揺れた。揺れる目は、まだ人間が残っている証拠だ。人間が残っているほど、制度はその人間を使い潰す。


「お前が空閑ライガか」


 若い勇者が言った。


 ライガは答えない。名を呼ばれること自体が追跡の証明だ。


 若い勇者は剣を握り直した。握り直すたびに、指が白くなる。白くなる指は強く握っている証拠だ。強く握るのは怖いからだ。怖いのに、やる。


「善人を匿うのは、均衡に反する」


 若い勇者は言った。言葉は教義そのままだ。教義を言えば、自分の行為が正当化される。正当化がないと、人は自分を保てない。


 ライガは短く言った。


「均衡は帳簿だ」


 若い勇者が一瞬、動きを止めた。帳簿という言葉に反応した。帳簿に触れる言葉は、教会内部の者しか使わないはずだ。外から言われると揺らぐ。


 揺らいだ瞬間、ライガは踏み込み、若い勇者の剣を弾いた。弾いた角度が深い。若い勇者の手首が痺れ、剣が落ちかける。落ちかけるが落ちない。落ちないことが、勇者の訓練の成果だ。


 若い勇者が呻いた。呻いた直後、喉を押さえて吐いた。吐瀉物が土に落ちる。吐いたことで、周囲の兵が一瞬引く。引くのは嫌悪ではない。吐く勇者は危険だ。吐くほどの状態でも剣を振る。それが徹底だ。


 若い勇者は涙目のまま、口元を拭い、言った。


「それでも……やらないと」


 誰に向けた言葉か分からない。ライガにではない。自分にだ。


 そのとき、保護区の奥から、女が引きずられてきた。


 難民の女だった。昼に来た難民の一団の中の一人。腕を掴まれ、引き倒され、土に膝をついている。兵が彼女の髪を掴み、顔を上げさせた。


「こいつらは善人ではない」


 兵が叫ぶ。


「盗賊だ。飢えたからと言って奪うつもりの連中だ。均衡を乱すのはこいつらだ」


 言葉は便利だ。便利だから真実に見える。真実に見えれば、殺しが軽くなる。


 難民の女が叫んだ。


「違う、奪うつもりなんか……」


 言葉は途中で切れた。兵が腹を蹴ったからだ。腹を蹴るのは簡単だ。簡単な暴力はよく使われる。


 若い勇者の目が揺れた。揺れた目が、さらに泣きそうになる。泣きそうなまま剣を振るのが、この世界の勇者だ。


 白い外套の指揮官が静かに言った。


「彼女が善人かどうかは関係ない。ここにいる者は、均衡を乱している。均衡を保つには、善を供する必要がある」


 指揮官の言葉は、柔らかい。柔らかい言葉は、強い命令になる。


 兵が難民の女を若い勇者の前に押し出した。


「やれ」


 兵が言った。


 若い勇者の手が震えた。震えたまま、剣が持ち上がる。持ち上がる剣は、まだ止められるように見える。だが止まらない。止められない仕組みがここにある。


 若い勇者は目を閉じなかった。目を閉じれば、相手が人になる。人を殺すには、相手を記号にしなければならない。善人、悪人、反世界勢力。記号のままなら、剣は落ちる。


 剣が落ちた。


 難民の女の首筋に刃が入る。血が出る。女は倒れる。倒れるまでの時間が短い。短い死が慈悲だと言われる。慈悲が言葉になると、殺しは正義になる。


 光が舞った。


 金色の粒子が立ち上がり、若い勇者の身体へ吸い込まれていく。首筋の祝福の痕が増えた。増えた瞬間、若い勇者の顔が歪んだ。歪みは喜びではない。吐き気だ。涙だ。だが痕は増えた。増えたという結果が、すべてを上書きする。


 若い勇者が泣いた。声を殺して泣いた。泣きながら、レベルアップする。泣きながら、世界を救うと言い張る。


 その光景を見て、保護区の人間が動きを止めた。止めるのは恐怖ではない。理解だ。理解は絶望になる。


 ライガは若い勇者を見た。若い勇者は剣を落としそうになり、落とさない。落とせない。落とせば自分のしたことが無になる。無になることは救いではない。無になることは罪のまま残る。


 ライガは一歩退いた。退くのは逃げではない。道を作るための退きだ。


 その瞬間、指揮官が合図を出した。短い指の動き。兵が一斉に前へ出る。門の内側の通路が塞がる。塞がれれば、逃げ道は壁しかない。壁は越えられない。


 越えられない壁を前に、人は二つのことをする。祈るか、殺すか。


 祈った者は殺される。殺した者は光る。


 ライガは弓矢の音を聞いた。矢が飛ぶ。矢が壁の内側へ落ちる。狙いは人ではない。松明だ。松明が倒れる。火が広がる。火は混乱を作る。混乱は逃げ道を作る。逃げ道は、弱者のためにある。


 ライガは走った。走るのは初めてだ。走ると音が出る。音が出ると位置が割れる。位置が割れると狙われる。それでも走る必要があった。


 壁際の梯子に飛びつき、上へ上がる。矢が背中を掠めた。布が裂ける。皮膚が裂ける。痛みはある。痛みは計算の一部だ。


 壁の上に出た瞬間、目の前に兵がいた。兵が槍を突き出す。ライガは槍の穂先を避け、槍柄を掴み、引いた。兵が前のめりになる。前のめりになった兵の首筋に刃を当てられる距離。だが当てない。代わりに膝裏を蹴り、兵を倒した。


 倒れた兵は呻き、槍を落とす。槍が壁の下へ落ち、鈍い音がする。


 壁の上から見える外は暗い。暗いが、松明の列がある。列がある場所に敵がいる。敵がいる場所に出口はない。出口は列のない暗がりにある。


 ライガは壁の上を走り、暗がりの角へ飛び降りた。着地で膝が沈む。沈んだ膝に痛みが走る。痛みは走りを鈍らせる。鈍らせれば捕まる。捕まれば、また善人が死ぬ。


 壁の内側から、セラの声がした。大声ではない。大声にすると人がパニックになる。セラはパニックを避けた。避けながら命令する。


「子どもを先に。分散路へ。走らない。倒れたら置いていく」


 最後の言葉が冷たい。冷たいが、冷たい命令が生存率を上げる。


 生存者が動く。動くとき、数人が立ち止まりかけた。老人だ。怪我人だ。自分から遅れようとする。自分の身体が遅れになることを知っているからだ。


 善人は、逃げることを許されない。


 許されないのは外からではない。内側からだ。善人は自分に許可を出せない。自分の生存を最優先することが、善の規範から外れる。外れれば、今までの死が無駄になる。無駄にしないために、善人は自分を供物に戻す。


 供物に戻る行為が、最も制度を強くする。


 ライガは壁際の通路で老人の襟を掴み、引いた。引きずるように動かす。老人の顔が歪む。痛みだ。だが痛みは後でいい。後があるなら。


「置いていけ」


 老人が言った。


 ライガは答えない。答えないことで、老人の言葉が命令にならないようにする。


 背後で、若い勇者がまた吐いた。吐く音が続く。吐きながら進む足音。足音が近づく。


 ライガは振り向き、若い勇者の前に出た。若い勇者の目には涙が溜まっている。溜まっている涙は、乾けば痕になる。痕は増える。増えれば、もう戻れない。


「やめろ」


 若い勇者が言った。声が震えている。震えは怒りではない。懇願に近い。懇願は人間の形だ。だが次の瞬間、教義がそれを塗りつぶす。


「俺は……世界を救うんだ」


 若い勇者が言った。


「救うために、必要なんだ」


 ライガは短く言った。


「必要なら、お前が死ね」


 若い勇者が固まった。固まるのは、答えが出ないからだ。出ない答えを抱えたまま剣を振ると、人は壊れる。壊れた人は制度に最も都合がいい。壊れた人は止まらない。


 若い勇者が叫びそうになり、叫ばずに歯を食いしばった。食いしばったまま、剣を振り上げる。振り上げる動作の途中で、また吐く。吐いても剣は落ちない。落ちないように訓練されている。


 ライガは若い勇者の剣を弾き、柄で顎を打った。若い勇者が倒れる。倒れても痕は消えない。痕は残る。残るものが、罪の重さだ。


 その隙に、セラが子どもたちを通路の先へ導く。通路の先には小さな扉がある。扉の向こうは壁の内側のさらに内側。分散路への入口だ。


 だが扉の前に兵が立った。祝福の痕を持つ兵だ。首筋が光っている。光っている者は強い。強い者は短い動きで人を殺す。短い動きは避けにくい。


 兵が槍を突き出す。セラが足を止め、子どもたちを背に庇う。庇う動作は美しい。美しい動作はこの世界では消費される。


 ライガが間に入った。槍の穂先を剣で弾く。弾いた反動で肩の矢傷が痛んだ。痛みが走る。走る痛みは動きを遅らせる。


 遅れた。


 槍の柄がライガの脇腹に当たり、肋が鳴った。鈍い音。息が詰まる。息が詰まった瞬間、視界が狭くなる。狭くなれば判断が遅れる。遅れれば、善人が死ぬ。


 ライガは槍柄を掴み、相手の手首を斬った。浅い。手首が使えなくなる程度。兵は槍を落とす。落ちた槍が床に当たり、音が響く。音が響くと、さらに兵が集まる。


 集まる前に、ライガは兵の膝を蹴り、倒し、扉の前を開けた。


「行け」


 セラが子どもたちを押し込む。押し込む動作が乱暴だ。乱暴さが必要な夜がある。


 最後にセラが振り返り、ライガを見る。セラの目は乾いている。乾いた目は、もう泣かないという決意だ。決意は美しい。美しいものは燃料になる。


「あなたも」


 セラが言う。


 ライガは首を振った。


「俺は外に出る」


 セラが一瞬だけ眉を動かした。驚きではない。理解だ。理解は別れに近い。


「追われます」


「いつもだ」


 会話はそこで終わった。続ければ感情になる。感情は今夜の仕事に邪魔だ。


 セラが扉を閉め、鍵をかけた。鍵の音が小さく鳴る。小さな音は、ここに秘密があるという証拠だ。秘密はいつか暴かれる。暴かれる前に、動くしかない。


 ライガは壁の外へ走った。外は闇と松明の列。列の端に、白い外套の指揮官が立っている。首筋の痕が光っている。痕が多い。多いほど、殺した善人が多い。多いほど、正義が深い。


 指揮官が言った。


「空閑ライガ。お前は均衡を乱す」


 ライガは答えない。答えれば議論になる。議論は正義を強くする。


 指揮官が続けた。


「お前は勇者を殺した。英雄を殺した。なぜだ」


 なぜ、という問いは罠だ。問いに答えさせ、思想を吐かせ、思想を罪にする。罪が可視化されれば、処刑が正当化される。


 ライガは短く言った。


「英雄は、善人を殺す」


 指揮官は笑わない。笑わない者がいちばん厄介だ。笑わない正義は、純度が高い。


「必要だ」


 指揮官は断定した。


「善が消費されなければ、世界は回らない。世界が回らなければ、もっと多くが死ぬ」


 功利の刃だ。最大多数の最大幸福。言葉にしなくても、構造としてそこにある。


 ライガは一歩踏み出し、剣を構えた。構えるだけで呼吸が痛む。肋が軋む。血が喉の奥に上がる。吐きそうになる。だが吐かない。吐けば、若い勇者と同じになる。善人を殺して光る側と同じになる。


 ライガは自分の口の中の血を飲み込んだ。


 指揮官が手を上げた。兵が動く。矢が放たれる。槍が構えられる。松明の光が揺れる。夜が戦場になる。


 ライガは走った。走りながら、自分が強くなれないことを思い出す。思い出すが、嘆かない。嘆いても光は出ない。


 強さはこの世界では祝福の痕として可視化される。可視化されるものだけが価値になる。価値にならないものは消える。


 ライガは消えないために走るのではない。善人を殺させないために走る。走れば走るほど、別の場所で善人が死ぬかもしれない。善人を守る行為が外の均衡を崩すかもしれない。その可能性が、今夜すでに見えている。


 それでも走る。


 正しいことが正しい結果を呼ぶとは限らない。限らないことが、この世界の法則だ。


 背後で、若い勇者が泣き声を上げた。泣き声は短く、すぐに途切れた。途切れたのは、兵に引き起こされたのか、もう一人を斬ったのか、あるいは自分を保つために声を殺したのか。分からない。分からないが、祝福の痕は増える。増えた痕は、朝になっても消えない。


 ライガは闇の中へ身を滑らせ、松明の列の外側へ出た。外側の闇は冷たい。冷たい闇は、善悪を照らさない。照らさない闇だけが、少しだけ自由だ。


 壁の内側から、遠くで子どもの泣き声がした。泣き声は短く、すぐに止まった。止まったのはセラが口を塞いだのかもしれない。塞ぐことが優しさになる夜がある。


 ライガは足を止めずに、山道へ戻った。血が腹の中で揺れる。視界が滲む。滲む視界は危険だ。危険だが、止まれば終わる。


 善人は逃げることを許されない。


 だから、悪人が逃げ道を作る。


 その役割が、今夜も続く。

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