第五章 音のない迷宮(二)
岩棚の上に、リーネが這い上がった。
鎧の留め具を全部外し、胸当ても置いてきた。金具が岩に当たれば、それで終わりだからだ。薄い上衣一枚で、父の剣だけを抜き身で持っていた。
トビは、岩棚から少し離れた脇の暗がりにうずくまった。手のひらに、小石を一握り握っていた。
ロウは、通路の曲がり角にいた。手に、命綱を持っていた。綱の反対の端は、セラの腰に結んであった。セラが詠唱を終えたら、綱を引いて、角の陰に引きずり込む。それが、ロウの役目だった。
ガルドは、セラの前に立っていた。盾を構えて。
セラは、岩棚から十歩先の、通路の突き当たりに立っていた。
ロウが渡した灯り茸の小瓶は、セラの足もとの、ガルドの盾から外れた脇に置いてあった。青白い光は、岩棚の縁を、かすかに撫でるところまで届いていた。
ロウの位置からは、その光で、彼女の横顔がわずかに見えた。襟巻きを、首から外していた。白い喉が、青白い光の中で、震えながら上下していた。
四つ吸って。
四つ吐く。
遠くで、岩を擦る音がした。
セラが、口を開いた。
◇
声は、最初の一音から、通った。
迷宮の石壁に跳ね返り、通路の奥へ、奥へと響いていった。ロウが聞いたことのない声だった。下水でも、ゴブリンの巣でも、こんな声は出ていなかった。
岩を擦る音が、止まった。
それから、速くなった。
暗がりの奥から、大穴潜りが来た。這うというより、滑るような速さだった。耳が、真正面のセラに向いて、いっぱいに開いていた。
脇の暗がりから、トビが小石を一つ、岩棚の真下に投げた。
かつん。
ほんの小さな音だった。それで十分だった。大穴潜りが、ちょうど岩棚の下で、止まった。頭が下がる。舌が出る。床を舐める。どこだ。音は、どこだ。
セラの詠唱が、続いていた。
大穴潜りの頭が、ゆっくりと、上がった。
声のほうへ。高く。顎が持ち上がり、喉の下の、白っぽい薄い皮膚が、岩棚の縁の、かすかな青い光の中に晒された。リーネの、目の前だった。
リーネが、跳んだ。
岩棚を蹴り、剣を前に突き出したまま、体ごと喉に飛び込んだ。全体重が、切っ先の一点に乗っていた。
刃が、喉に沈んだ。柄まで、沈んだ。
大穴潜りが、吼えた。
声のない魔物の、初めての声だった。迷宮全体が震えるような、低い、長い咆哮だった。巨体がのたうち、尾が壁を叩き、天井から石が降った。
リーネは、剣の柄にしがみついていた。振り落とされまいと、両脚で魔物の顎に絡みつき、柄を、さらに押し込んでいた。
「嬢ちゃん、離せ!」
ガルドの声だった。リーネは離さなかった。父の剣だった。
のたうつ巨体が前へ滑り、前脚の爪が、セラのほうへ薙いだ。
ガルドの盾が、その爪を受けた。鈍い音がして、ガルドの巨体が二歩、後ろに滑った。左腕の包帯に、赤い色が滲んだ。
セラの詠唱が、終わった。
最後の音節と同時に、通路の天井が、白く燃えた。熱が、大穴潜りの硬い背中を舐めた。背中は燃えなかった。だが、魔物の注意が、一瞬だけ、熱のほうへ逸れた。
その一瞬に、ロウは綱を引いた。
セラの体が、引きずられて角の陰に転がり込んだ。
同時に、リーネが、剣を抜いた。
喉から、黒い血が噴き出した。
◇
大穴潜りが動かなくなるまで、長い時間がかかった。
動かなくなってからも、誰もしばらくは近づかなかった。
リーネは、魔物の顎の横に座り込んでいた。全身が、黒い血にまみれていた。薄い上衣は血を吸って、肌に張りついていた。肩で息をしていた。剣を、膝の上で、両手で握りしめていた。
「……はぁ、はぁ……っ」
ロウが近づくと、リーネは顔を上げた。
笑っていた。泣いているのか笑っているのか分からない顔で、笑っていた。
「止まれって、言われなかったから」
息の合間に、そう言った。
「止まらなかった」
◇
鼠道は、鎧を脱いで、一人ずつ這う道だった。荷も、鎧も、置いていくことになる。大穴潜りの爪も、持って出られない。
「掘るぞ」
ガルドが、言った。
「音を立てて、来るやつは、もういねえ」
崩落した通路は、半日かけて掘った。
ロウが、岩を見た。荷運びの頃、崩れた荷車の荷を積み直すときと同じだった。どの石が、どの石を支えているか。下の石を抜けば上が落ちる。上から、外へ、順に。
「その石は、まだ動かさないでください。上の三つが乗っています」
ガルドが、その石から手を離した。
「じゃあ、どれだ」
「左上の、平たいのから」
ガルドは、言われた石を抱えて、脇に除けた。
一層の光が、瓦礫の隙間から差し込んだのは、夕方だった。
◇
鼠道は、使わなかった。
迷宮の外に出ると、空は赤く焼けていた。冷たい風が、汗と血に濡れた全員の体を撫でていった。
ギルドの受付は、大穴潜りの爪を見て、初めて帳面から顔を上げた。それから、奥に走っていった。
報酬は、四件分を合わせたより多かった。深層の魔物の浅層出現は、ギルドにとって見逃せない報告だったのだ。鉄の轍の三人の札も、今度は受付に渡された。渡したのは、ガルドだった。
「こいつらには、家族がいねえ。ギルドが弔え」
それだけ言った。
◇
酒場で、ロウは、革紐をガルドに返した。
ガルドは、しばらくそれを見ていた。それから、受け取って、首にかけ直した。札が、鎖帷子の内側に消えた。
「……そのうち、話す」
トビが、ガルドの向かいの席に、どさりと座った。
「新人狩りって」
トビは、杯を両手で包んでいた。
「一番いいときに、全部持ってくんすよ。迷宮の崩落なんて、一番いいときじゃないっすか。あそこで一人で鼠道に入れば、俺らの荷も、嬢ちゃんの剣も、全部」
ガルドは、黙って杯を傾けた。水だった。
「持ってかなかったっすね」
「重いからな」
「それ、冗談っすか」
「冗談だ」
トビは、しばらくガルドを見ていた。それから、帽子の赤い羽根を指で弾いて、笑った。前歯の欠けた、いつもの笑い方だった。今度は、目も笑っていた。
◇
その夜、ロウは手帳を開いた。
――音を立てないものは、襲わない。
――弱いところは、強いものに守らせて、見せる。
――石は、上から、外へ。
ペンを止めて、少し考えた。
それから、今日の頁の一番上に戻り、朝書いた一行を見た。
――ガルドさん、「楽な仕事だ」と言った。
その横に、小さく書き足した。
――楽な仕事は、ない。




