第六章 まぐれのルーキー
大穴潜りの報酬は、五人で分けても、荷運びの一年分を超えていた。
ロウは、受付で受け取った自分の革袋を、しばらく両手で持っていた。重かった。荷の重さには慣れていたが、この重さには慣れていなかった。
「五人で分けるっすよ」
トビが言った。ガルドは、自分の分を卓の真ん中へ押し戻そうとしていた手を、止めた。
「今度は、ガルドさんの分もっす。返すとか、いらねえとか、なしっす」
ガルドは何も言わず、革袋を懐に入れた。
そのとき、背後の卓で、笑い声がした。
「おい、あれだろ。大穴潜りの」
「Eが三匹にDが一匹、あと、落ちたBのおっさんか」
「深層の魔物が浅層まで上がってきたんだ。崩落で半死半生だったんだろうよ。喉を一突き、ってのも、どうせ死にかけを突いただけだ」
「まぐれのルーキー様だな」
笑い声が、酒場に広がった。
トビの椅子が、がたりと鳴った。
立ち上がりかけたトビの肩に、手が置かれた。リーネだった。リーネは、笑っている男たちのほうを見もしなかった。
「止まりなさい」
トビが、リーネを見た。
「私たちが一番知ってるでしょ。まぐれだったって」
リーネは、自分の革袋を腰に括りつけた。
「次もまぐれで勝てるかどうか。それだけ」
トビは、ゆっくりと椅子に座り直した。羽根の付いた帽子を、目深にかぶり直した。
ガルドは、最初から最後まで、笑い声のほうを見なかった。酒袋にも、手を伸ばさなかった。
◇
防具屋は、鍛冶屋通りの外れにあった。
店の奥に、木の衝立で仕切られた狭い一角がある。採寸と試着のための場所だった。店主は、腰の曲がった小柄な老婆で、指が驚くほど太かった。
「留め紐の穴、こんなに増やして。体に合ってない胸当てを、無理に締めてたね」
老婆は、リーネが持ち込んだ古い胸当てを指でつまみ、鼻を鳴らした。下水で汚水に沈み、拾い直したものだった。
「新しいのを作るよ。脱ぎな」
衝立の向こうで、布の擦れる音がした。
ロウは、店の入口近くの丸椅子に座って、待っていた。荷を見張っているように、と言われたのだ。荷運びの頃と、何も変わらない仕事だった。
「荷運び」
衝立の向こうから、リーネの声がした。
「ちょっと、来て」
「……はい?」
「この人の手が、届かないの。背中の紐」
老婆の、からからという笑い声が続いた。
「腰が曲がってるとね、背の高い娘の肩までは届かないのさ。あんた、荷運びなんだろ。紐の結び方くらい知ってるね」
ロウは、衝立の端に立った。
リーネは、こちらに背を向けていた。
上衣を脱ぎ、胸元に薄い麻の布を一枚巻いただけの姿だった。その上から、まだ紐の通っていない新しい胸当ての前半分を、両腕で抱えるようにして押さえていた。赤茶の髪は、採寸の邪魔にならないように、いつもより高く結い上げてあった。
背中が、見えていた。
剣士の背中だった。肩甲骨の下に、薄く筋が浮いている。ところどころに、古い傷があった。斜めに走る細い白い線。脇腹のあたりには、まだ新しい、赤みの残る筋。大穴潜りのときのものだろう。
うなじから背骨に沿って、細い産毛が、窓の光で金色に光っていた。
「早く」
リーネが、振り向かずに言った。耳の先が、赤かった。
「……失礼します」
ロウは、胸当ての後ろ半分を持ち上げ、リーネの背中に当てた。左右の留め穴を合わせる。革紐を通す。荷なら、何百回と縛ってきた。手は、迷わなかった。
ただ、紐を締めるたびに、指の背がリーネの肌に触れた。肩甲骨の下。背骨の脇。触れるたびに、リーネの背中が、ほんのわずかに強張った。
「きつく、ないですか」
「……もう少し、締めて」
ロウは紐を引いた。胸当てが、リーネの体の線に沿って、ぴたりと収まった。
「そこで、結んで」
結び目を作る。荷が崩れないように縛るときの結び方だった。解くときは一引きで解ける。
老婆が、ロウの手元を覗き込んで、ほう、と声を上げた。
「いい結びだね。冒険者より、うちで働いたほうがいいんじゃないかい」
リーネは、新しい胸当ての上から、自分の胸元に手を当てた。何度か、肩を回した。それから、ようやく、肩越しにロウを見た。
「……悪くない」
胸当てのことなのか、結び目のことなのか、ロウには分からなかった。
◇
孤児院は、東区の、染物屋の並ぶ通りの裏にあった。
トビに「ついてきてほしいっす」と言われたのは、防具屋を出たあとだった。理由は言わなかった。
古い石造りの建物で、壁のあちこちに、子どもの手で描いた落書きがあった。門をくぐると、小さな子どもたちが、わっとトビに群がってきた。
「トビにい!」
「トビにい、羽根まだつけてる!」
五つくらいの女の子が、トビの帽子の赤い羽根を指さして、得意げに胸を張った。
「あたしがあげたやつ!」
「そうっすよ。お守りっす。これのおかげで、まだ生きてるっす」
トビは、女の子を抱き上げて、くるりと回した。女の子が甲高い声で笑った。
ロウは、門のそばで、それを見ていた。
トビの笑い方が、酒場で見るのと、少しだけ違った。
◇
院長は、六十を過ぎた痩せた女だった。
トビが差し出した革袋を、院長は、受け取らなかった。卓の上に置かれたまま、二人の間にあった。
「多すぎるわ」
「多いほうがいいじゃないっすか。冬の薪も、屋根の修理も」
「トビ」
院長の声は、静かだった。
「この前の手紙を読んだわ。迷宮で、崩落があったって。深層の魔物が出たって」
トビは、黙った。
「あなたがこれを持ってくるたびに、私は、次は誰が掲示板の紙を持ってくるんだろうって、考えるの」
「……大丈夫っすよ。俺、目も耳もいいし」
「染物屋の親方が、見習いを探してるわ。あなたなら、すぐに覚えられる。手先が器用だもの」
トビの手が、膝の上で握られた。指の腹の、硬いところを、親指で擦っていた。
「見習いの給金で、ここの冬、越せるっすか」
院長は、答えなかった。
「越せないっすよね。去年、越せなかったっすよね。ミナが熱出して、薬が買えなくて」
「トビ」
「だから、いいんすよ。俺が、稼ぐんで」
トビは立ち上がった。革袋を、卓の上に置いたまま。
「また来るっす」
院長は、何も言わなかった。
ただ、門を出るトビの背中を、ずっと見ていた。ロウは、その目を見てしまった。
荷運びの頃、迷宮の入口で、パーティを見送る女たちが、同じ目をしていた。
◇
帰り道、トビはしばらく口をきかなかった。
染物屋の並ぶ通りを抜け、運河沿いの道に出たところで、トビがぽつりと言った。
「ロウさんは、なんで冒険者になったんすか」
「……お金を、稼ぐためです」
ロウは答えた。用意していた答えだった。荷運びの給金では、いつか体を壊したら終わりだ。冒険者なら、少なくとも、荷運びよりは稼げる。
トビは、運河を見ていた。
「それ」
トビの声が、少し掠れていた。
「冒険者じゃなくても、いいんじゃないっすか」
ロウは、口を開いた。
何も出てこなかった。
金を稼ぐためなら、ほかにも道はあった。荷運びの親方には、帳場の仕事を任せたいと言われたこともあった。字が書けて、数が数えられて、荷の管理ができる。防具屋の老婆も、さっき、同じようなことを言った。
なのに、ロウは銀貨三枚を払って、Eの札を買った。
なぜだろう。
トビは、答えを待っていなかった。運河の水面に、小石を一つ投げた。
「……俺も、分かんないっす」
小石が、水の中に消えた。
「俺は、金が要るから冒険者やってるって、ずっと思ってたんすけど。院長に、染物屋の話されて、なんか、すぐ嫌だって思ったんすよ。金の話の前に」
トビは、帽子の羽根に触れた。
「なんでっすかね」
ロウは、答えられなかった。トビの問いにも。自分の問いにも。
◇
セラは、学院の門の前に立っていた。
門の上に彫られた紋章は、二年前までと何も変わっていなかった。変わったのは自分のほうで、それが何なのかを、セラはここへ来る道々ずっと考えていた。
手の中には、受験料の銀貨があった。数え直したのは三度目で、三度とも同じ枚数だった。数が合っていることを確かめても何の意味もないと分かっていながら数えずにいられないのは、たぶん緊張しているからだ、とセラは自分を分析した。
門の向こうの中庭から、詠唱の声が聞こえていた。実技の練習をしている学生たちだった。揃った声。整った呼吸。誰の声も途切れない。実技試験の条件も、昔と同じはずだった。静かな試験場、正面に三人の教官、標的は藁人形、制限時間は詠唱一回分。
セラは、襟巻きの上から、自分の喉に触れた。
迷宮で声が通ったときの条件を、頭の中に並べてみた。暗い通路。正面に、牛二頭分の盲目の蜥蜴。失敗すれば、自分も仲間も死ぬ。比べるまでもなく、試験場のほうが楽なはずだった。
それなのに、試験場では一音目すら出ず、迷宮では最後まで出た。
仮説は、いくつか立てられた。緊張の度合いではなく、緊張の種類が違うのかもしれない。誰かに見られている恐怖と、何かに殺される恐怖とでは、息の通り道への効き方が違うのかもしれない。あるいは、あの場所には声を出さなければならない理由があって、試験場にはそれがなかったのかもしれない。最後の仮説は、論文に書けるような種類のものではなかった。
理論上は、と言いかけて、セラは口をつぐんだ。どの仮説を確かめるにも、比べる相手が足りなかった。そして、その足りないものが何なのか、セラにはうすうす分かっていた。
中庭の詠唱が終わり、教官の乾いた拍手が聞こえた。
セラは、銀貨を握りしめたまま、門に背を向けた。受付には行かなかった。行かないと決めたわけではない、と自分の中で注釈をつけてから、歩き出した。
◇
湯屋は、日が暮れてから混む。
女湯の湯船の隅で、セラは肩まで湯に沈んでいた。襟巻きは、脱衣所の籠に置いてきた。首を湯に浸けるのは苦手で、顎の下まで沈んだところで止めていた。喉を温めすぎると声がこもる、という俗説を学院の誰が言い出したのかは知らないが、セラは十二の頃から律儀に信じていた。
隣に、リーネが入ってきた。セラは思わず目を逸らし、それから、逸らした自分を少しおかしく思って、もう一度だけ盗み見た。
湯気の中で見るリーネの体は、服を着ているときより、ずっと大きく見えた。肩と二の腕の肉の付き方は、剣を水平に振る動作を何千回も繰り返した結果で、たぶん左右で少し太さが違う。腿の外側も同じだった。それでいて腰はきゅっと細く、胸は――セラはそこで観察を打ち切って、目を湯面に落とした。比べようがなかった。体のあちこちに細い傷跡が白く走っていて、湯に浸かると、その傷跡だけがほんのりと赤く浮かび上がった。血の巡りがよくなると古い傷は周りと色が変わる、という知識が浮かんで、すぐに沈んだ。
セラは、自分の体を見下ろした。湯の中で、薄い肩と、薄い胸が、ゆらゆらと揺れていた。こちらは、比べる気にもなれなかった。
「……リーネさん」
「なに」
「その傷、痛くないんですか」
「痛かったら、湯になんか入らない」
リーネは、湯船の縁に頭を預けて、目を閉じた。結い上げた髪から、湯気に濡れた後れ毛が、首筋に張りついていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「学院、行ったんでしょ」
リーネが、目を閉じたまま言った。
セラは、顎まで湯に沈んだ。
「……門の前まで、です」
「そう」
「リーネさんは、どうするんですか。次の一件が終わったら」
リーネは、すぐには答えなかった。
「さあ」
湯の表面を、指で軽く弾いた。
「前のパーティは、私が壊した。止まれって言われても、止まらなかったから」
セラは、黙って聞いていた。
「ここに来て、初めて止まった。……あいつに、止まれって言われて」
「ガルドさん、ですか」
「ガルドもだけど」
リーネは、それ以上言わなかった。言わなかったことが、セラには分かった。
「居心地がいいのよ。たぶん」
悔しそうに、リーネは言った。
「腹が立つくらい」
セラは、湯の中で、小さく笑った。笑った拍子に、喉が湯に浸かった。
思っていたより、怖くなかった。俗説は、ただの俗説だったのかもしれない、とセラは思った。
◇
その夜、ロウは手帳を開いた。
今日のことを、書こうとした。防具屋の結び目。孤児院の院長の目。運河に沈んだ小石。
ペンが、止まった。
――冒険者じゃなくても、いいんじゃないっすか。
その一行を、書けなかった。
ロウは、手帳の頁を、前へ前へと繰った。ガルドの言葉。下水。ゴブリンの巣。胞子の洞窟。さらに前。荷運びの頃の、荷の数ばかりが並んだ頁。
もっと前。
紙の端が茶色く変色した、何年も前の頁で、指が止まった。
荷の数の横に、小さな字で、誰かの言葉が書き留めてあった。
ロウは、その一行を、長いこと見ていた。
それから、手帳を閉じた。
隣の部屋は、静かだった。今夜は、名前を数える声も、聞こえなかった。




