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第七章 五件目

「これで、新人編成の固定期間は終わりです」


 受付の女は、五件目の依頼書を卓に置きながら言った。


「戻られたら、継続か解散かを届け出てください。どちらでも構いません」


 依頼書は、隊商の護衛だった。塩と布を積んだ荷馬車二台を、灰鷹峠(はいたかとうげ)の向こうの町まで送り届ける。二日の道のり。


「それと、ガルドさん」


 受付の女は、帳面をめくった。


「次の新人編成の割り当てが、来月に入っています。引率の件で」


「後で聞く」


 ガルドはそれだけ言って、依頼書を指で引き寄せた。


 トビが、ちらりとガルドを見た。セラも、リーネも見た。ガルドは誰の目も見ずに、いつものように訊いた。荷の量は。峠の道幅は。最近、何か出たか。


 盗賊が出ている、と受付は答えた。


◇


 隊商の主は、ベルトラムという、日に焼けた中年の商人だった。


「おや、荷運びが一人いるのか。助かる」


 ロウを見て、ベルトラムはそう言った。冒険者の一人として紹介されたのに、荷運びと呼ばれた。ロウは何も言わなかった。言われ慣れていた。


 出発の前に、ロウは荷馬車の荷を見て回った。塩の樽が、片側に寄って積まれていた。


「この積み方だと、峠の下り坂で、左に傾きます」


 ベルトラムは、ロウを見て、それから荷を見た。


「……そうかい」


 御者たちが、樽を積み直した。半刻かかった。ベルトラムは、口を挟まずに見ていた。


◇


 一日目は、何も起きなかった。


 トビが先に行き、戻ってきて「異常なしっす」と言う。それを、昼までに三回繰り返した。三回目のとき、トビの戻りが少し早かった。


「早いな」


 ガルドが言った。


「見通しのいい道だったんで。異常なしっす」


「なら、行くか」


 ガルドは、それ以上訊かなかった。


 ロウは、歩きながら、手帳の端に小さく書いた。


 ――三回目。確かめなかった。


 何も起きなかった。日が暮れて、峠の手前の岩陰で野営を張った。


◇


 夜半から、雨になった。


 見張りの番は、ロウとリーネだった。荷馬車の下に潜り込んで、雨を避けた。車輪の間から、峠に続く暗い道が見えた。


 冷たい雨だった。荷馬車の床板の隙間から、ときどき滴が落ちてきた。


 リーネの肩が、小さく震えていた。新しい胸当ての下の上衣が、雨を吸って重くなっていた。


 ロウは、自分の外套(がいとう)を広げた。


「……入りますか」


 リーネは、しばらく黙っていた。それから、何も言わずに、外套の中に体を寄せてきた。


 一枚の外套に、二人で包まった。肩と肩が、触れていた。濡れた髪から、雨と、鉄と、わずかに石鹸の匂いがした。外套の内側で、リーネの体温が、ゆっくりとロウの側に移ってきた。


「あなた」


 リーネが、道のほうを見たまま言った。


「続けるの。明日の後」


「……分かりません」


「そう」


「リーネさんは」


「私は――」


 そこで、リーネは言葉を切った。


 雨の音だけがしていた。


 しばらくして、肩に重みがかかった。


 リーネの頭が、ロウの肩に乗っていた。寝息が聞こえた。浅く、規則正しい息だった。外套の中で、彼女の手が、ロウの袖を軽く握っていた。


 ロウは、動かなかった。


 見張りは、一人でもできる。夜明けまで、まだ長い。肩の重みは、荷よりずっと軽かった。それなのに、荷よりずっと、下ろし方が分からなかった。


◇


 二日目の昼、峠の一番狭いところで、道が塞がれていた。


 荷車が一台、車輪を外して傾いていた。そばに、男が二人と、女が一人、子どもが一人。家族連れの行商人に見えた。


「すみません、車輪が割れちまって」


 男の一人が、両手を上げて近づいてきた。


「手を貸しちゃもらえませんか。この先の町まで、どうしても」


 ベルトラムが、御者に合図をしようとした。


 ロウは、荷車を見ていた。


 車輪の外れた荷車。荷台に積まれた麻袋。その下の、道に刻まれた轍(わだち)。


 轍が、浅かった。


 麻袋が山のように積まれているのに、轍は、空の荷車のように浅い。荷運びを長くやっていれば、それくらいは分かる。中身は、藁か何かだ。


 それに、外れた車輪の軸。楔(くさび)が、割れていなかった。抜かれていた。抜いた跡に、新しい刃物の傷があった。


 ロウの口の中が、乾いた。


 言わなければ。


 でも、自分は荷運びだ。ベルトラムもそう呼んだ。商人が助けると言っている。ガルドも、まだ何も言っていない。


 ――荷運びは黙って荷を運べ。


 頭の中で、昔の声がした。


 ――口を出すのは、冒険者の仕事だ。


 ロウは、首から下げた札を、外套の上から握った。


「止まってください」


 声が、峠に響いた。


 全員が、ロウを見た。両手を上げていた男の顔から、表情が消えた。


「あの荷車、荷が入っていません。轍が浅すぎます。車輪の楔も、割れたんじゃなくて、抜かれてます」


 ガルドが、盾を上げた。


「――坊主、上だ!」


◇


 斜面の岩陰から、男たちが湧き出した。


 四人。弓が三つ。荷車のそばにいた「家族」も、隠していた短剣を抜いた。子どもだと思ったのは、小柄な男だった。


 だが、待ち伏せの最初の一矢は、もう誰にも当たらなかった。ロウの声で、全員が荷馬車の陰に入っていた。


 ガルドの指示は短かった。


「嬢ちゃん、荷車の四人。坊主、左の弓。魔術師、右の斜面に一発。荷運び、商人と御者を馬車の下へ」


 リーネが走った。最初に両手を上げていた男が短剣を振る前に、剣が男の手首を払った。男の手が、短剣ごと道に落ちた。男が叫んだ。叫び終わる前に、リーネは二人目に向かっていた。


 セラの詠唱が、雨上がりの峠に通った。右の斜面の岩陰が、白く燃えた。悲鳴が上がった。


 トビは、左の斜面を駆け上がっていた。岩から岩へ。弓の男が、トビに気づいて振り向いた。矢をつがえる手が、間に合わなかった。


 トビの短剣が、男の喉に入った。


 男は、驚いたような顔をした。それから、トビの肩にもたれかかるようにして、崩れた。


 男の喉もとから、赤いものが、斜面に垂れていた。


 トビは、男を支えたまま、動かなかった。


「……あ」


 斜面から、トビの声がした。それきり、何も言わなかった。


 男の体は、トビの肩の上で、もう重くなっていた。トビの手が、男の背中の服を、子どもがしがみつくように握っていた。


「坊主! 次だ!」


 ガルドの声で、トビは男を放した。男は、斜面を転がり落ちていった。トビは、次の弓に向かって跳んだ。


 四半刻もかからなかった。


 盗賊のうち、五人が道に倒れ、二人が峠の向こうへ逃げた。一人は、両脚を焼かれて、斜面の下で呻(うめ)いていた。


◇


 呻いていた男は、まだ若かった。


 トビより少し上くらいだろう。痩(や)せていた。頬(ほお)がこけて、手首が細かった。焼けた脚から、肉の焼けた臭いがした。


「……みず」


 男が言った。


 ロウは、水袋を取り出した。ガルドが、何か言いかけて、やめた。


 ロウは男の頭を支えて、水を飲ませた。男は、むせながら、少しだけ飲んだ。


「……すまねえ」


 それきり、男は黙った。


 日が傾く頃、男は動かなくなった。


 トビは、少し離れた岩に座って、自分の手首を見ていた。乾いた血が、指の間にこびりついていた。何度か、外套の裾で擦った。落ちなかった。


 セラが、黙ってトビの隣に座った。水袋の水で、布を濡らして、トビの手を拭(ふ)いた。トビは、されるがままになっていた。


 誰も、何も言わなかった。


◇


 隊商が峠の向こうの町に着いたのは、日が落ちて、すっかり暗くなってからだった。


 荷は、一つも欠けていなかった。


「荷運びの兄さん」


 別れ際に、ベルトラムがロウを呼び止めた。


「いや。冒険者の兄さんか」


 ベルトラムは、少し照れたように笑い、ロウの手に銀貨を一枚握らせた。報酬とは別の、礼だった。


「あんたが止めなきゃ、うちの御者は二人とも死んでた。ありがとうよ」


◇


 その夜、ロウは、なかなか寝つけなかった。


 宿の裏の井戸のほうで、水の音がしていた。何度も、桶をひっくり返す音だった。


 ロウは、外へ出た。


 井戸端に、トビがしゃがんでいた。月の明かりの中で、両手を桶に突っこんで、擦っていた。指の間を、爪の先で掻いていた。手首から先が、赤く擦りむけていた。血は、とっくに落ちていた。


「……落ちないんすよ」


 トビは、振り向かずに言った。


 ロウは、トビの隣にしゃがんだ。何を言えばいいのか、分からなかった。


「路地じゃ、財布は、いくらでも抜いたっす。殴られたことも、殴ったこともあるっす。でも」


 桶の中で、トビの手が止まった。


「あいつ、驚いた顔したんすよ。俺に刺されて。なんで、って顔」


 トビは、笑おうとした。口の端が、引きつっただけだった。


「あいつにも、待ってる誰かがいたんすかね」


 言い終わる前に、トビの背中が丸まった。井戸の石に手をついて、吐いた。吐くものは、ほとんどなかった。それでも、何度も喉が鳴った。


 ロウは、水袋を差し出した。トビは口をゆすいで、また吐いた。


 ロウは、トビの背中に手を置いた。荷運びの頃、荷を下ろした仲間の背中に、そうしたように。ほかに、できることがなかった。


 しばらくして、トビが、袖で口を拭った。


「……次も、やれるっすかね、俺」


 小さな声だった。


 ロウは、答えられなかった。


 トビは、もう一度、手を桶に入れた。今度は、擦らなかった。冷たい水の中で、両手を握ったり開いたりしていた。月が雲に隠れるまで、そうしていた。


◇


 ギルドの受付は、五件分の記録を並べて、帳面に何かを書きつけた。


「十割の達成。固定期間、満了です」


 それから、卓の上に、新しい札を並べた。


 ロウ、トビ、セラの前に、Dの札。リーネの前に、Cの札。ガルドの前には、何も置かれなかった。


「引率一件分として、記録しておきます」


 受付の女は、続けてもう一枚、紙を出した。


「継続か、解散か。こちらに署名をお願いします。今日でなくても構いません」


◇


 酒場の隅の、いつもの卓だった。


 紙は、卓の真ん中に置かれていた。誰も、手を伸ばさなかった。


 トビは、新しい札を指で回していた。セラは、襟巻(えりまき)きの端をいじっていた。リーネは、親指で柄頭を撫(な)でていた。ガルドは、杯の水を見ていた。


 ロウは、手帳を開いていた。


 何年も前の頁だった。


 紙の端が茶色く変色した頁の、荷の数の横に、小さな字で書かれた一行。


 ――荷運びは黙って荷を運べ。口を出すのは冒険者の仕事だ。


 Cのパーティの頭が、ロウに言った言葉だった。


 荷運びになって、三年目の春だった。前の晩に大雨が降っていた。迷宮の入口の階段に、見たことのない高さまで、水の跡がついていた。下の層が、水に浸かっているかもしれない。ロウは、それを言った。


 頭は、振り向いて、笑って、そう言った。


 あのパーティでは、荷運びは迷宮の入口の野営地で待つ決まりだった。ロウは、言われた通りに待った。一日。二日。三日。


 誰も、上がってこなかった。


 その夜、ロウは手帳の荷の数の横に、あの一行を書いた。


 ロウは、手帳から顔を上げた。


「続けたいです」


 四人が、ロウを見た。


「このパーティで。……私は、ずっと、口を出せる側に立ちたかったんだと思います。止まってください、って、言える側に」


 トビを見た。


「冒険者じゃなきゃ、だめでした。荷運びのままだと、言っても、誰も止まらないので」


 トビは、しばらくロウを見ていた。それから、羽根の付いた帽子を、指で弾いた。


「……俺も、っす」


 札を、卓に置いた。


「院長には、また怒られるっすけど。でも、ここなら、死なずに稼げる気がするっす」


 セラが、襟巻きから顔を上げた。


「試験は、来年も、あります」


 小さな声だった。でも、途切れなかった。


「今年は、ここで、声を出したいです」


 リーネは、三人を順番に見た。最後に、ロウを見た。


「……あなたたちが続けるなら」


 そう言って、腰の剣の柄頭を、ぽんと叩(たた)いた。


「前は、私がやる」


 ガルドは、何も言わなかった。


 四人が、ガルドを見た。ガルドは杯の水を飲み干し、空になった杯を卓に置いた。それから、紙を引き寄せて、一番上に、太い字で自分の名前を書いた。


「おう」


 それだけだった。


 ロウは、ガルドの名前の下に、自分の名前を書いた。荷運びの頃、荷の受け取りに何百回と書いてきた名前だった。


 ギルドの紙に書くのは、初めてだった。


 五人の名前が並んだ紙を、ロウが受付に持っていった。


 受付の女は、紙を受け取り、上から順に名前を目で追った。一番上で、目が止まった。


 女は、ガルドのほうを見た。帳面の、来月の欄を開きかけた。口を開いた。


 酒場の隅の卓で、ガルドがこちらを見ていた。


 女は、口を閉じた。帳面の来月の欄に、細い線を一本引いた。それから、何事もなかったように、紙に受理の印を押した。


「継続、承りました」


 ロウは、卓に戻りながら、女の引いた線のことを考えていた。


 何の線なのか、訊かなかった。訊いても、ガルドは答えないだろうと思った。


◇


 その夜、酒場はいつまでも騒がしかった。


 トビは、ベルトラムにもらった礼の話を三回した。セラは、少しだけ酒を飲んで、顔を真っ赤にして、学院の教官の悪口を早口で言った。リーネは、それを聞いて、声を出して笑った。


「次は」


 トビが、杯を掲げた。


「もっと上の依頼、いけるっすよね。俺ら」


「ああ」


 ガルドが答えた。


 すぐに、答えた。


 ロウは、手帳を開いていた手を、止めた。


 これまで、ガルドは、何を訊かれてもすぐには答えなかった。数は。水位は。前の連中は。いつも、確かめてから答えた。


 ロウは、ペンを持ったまま、少しだけ迷った。


 それから、今日の頁の最後に、二行書いた。


 ――止まってください、と言えた。

 ――ガルドさん、すぐ「ああ」と言った。


 騒がしい酒場の中で、その二行目だけが、なぜか、手帳の上で重かった。

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