第八章 評判
ギルドの帳面より。
六件目。北街道、野犬の群れの駆除。十割。
七件目。灰石の迷宮、一層。魔石の採取。十割。
八件目。西の丘陵、薬師ミレラの護衛。夢見茸の胞子の採取。十割。
九件目。東区の倉庫、大鼠の駆除。十割。
十件目。ヘルン村から再依頼。森の奥のゴブリンの残党。十割。
ロウの手帳より。
――六件目。トビさん、偵察から戻るのが前より早い。異常なし。何も起きなかった。
――七件目。塩、二袋で足りた。三袋目は買わなかった。
――八件目。ミレラさん「あら、今度は全部採れたわね」。蝋燭、半分残った。
――九件目。ガルドさん、受付で「何匹だ」と訊かなかった。何も起きなかった。
――十件目。何も起きなかった。
◇
ヘルン村の残党を片付けに行った日の、樵の小屋のことを、ロウは、あとで何度か思い出した。
北の森の、ゴブリンの巣のあった崖下から、半刻ほど南。春に樵が逃げ出してから、誰も使っていなかった。
夏の昼だった。森の中は風がなく、蝉の声だけが、上から降ってきた。
トビが、先に小屋を見てきた。
戻ってくるまで、ロウが荷の紐を締め直す間もなかった。
「異常なしっす」
トビは、帽子を団扇にして、顔を扇いでいた。赤い羽根が、汗で額に貼りついていた。
「戸、開いてるっす。床に足跡なし。竈も冷えてるっす。残党がいるなら、もっと奥っすね」
「よし。昼にする」
ガルドが言った。それで決まった。
小屋の中は、外より、少しだけ涼しかった。丸太の壁。土間に竈。奥の半分に、板を渡した屋根裏があった。梯子は、外されて、壁に立てかけてあった。
リーネは、戸口の脇で革の小手を外して、腕の汗を拭った。ガルドは竈の縁に腰を下ろして、水袋を傾けた。トビは、土間に大の字に寝転んだ。
セラは、屋根裏の板の真下に座った。そこだけ、板の隙間から細い光が落ちていて、手帳が読めた。襟巻きを緩めて、ローブの襟元を指で引っぱり、風を入れていた。白い喉が、汗で光っていた。
ロウは、荷を下ろして、干し肉を配った。
配りながら、セラの頭の上の光を見た。
光の筋の中で、埃が、落ちていた。
細かい埃だった。ゆっくり、セラの手帳の上へ、降りていた。
風は、なかった。
ロウは、干し肉を一切れ持ったまま、屋根裏の板を見上げた。暗くて、何も見えなかった。
トビは、床を見たと言った。床に、足跡はなかった。
ロウは、口を開きかけた。
何と言えばいいのか、分からなかった。埃が、落ちています。それだけだった。古い小屋だった。埃くらい、どこからでも落ちる。
「荷運び。俺にも、一切れ」
ガルドが、手を出した。
ロウは、ガルドに干し肉を渡した。
そのとき、板が、軋んだ。
セラの真上で、板が一枚、跳ね上がった。灰緑色の痩せた体が、隙間から、逆さまに落ちてきた。
セラの背中に。
セラの喉から、吸いかけた息が、途中で止まった音がした。
錆びた小刀が、ローブの肩口を裂いた。布が、肩から、胸のほうまで、すっと開いた。
次の瞬間、ゴブリンの体は、横へ吹っ飛んでいた。
リーネの足だった。戸口から三歩で、蹴り飛ばしていた。小手を外したままの手が、もう剣を抜いていた。
ゴブリンが、壁に当たって跳ね起きた。甲高い声が、半分で途切れた。
リーネは、剣を一度振って、血を払った。
小屋の中が、静かになった。蝉の声が、また聞こえた。
◇
ガルドが、梯子を掛けて、屋根裏を覗いた。
「……一匹だけだ。ぼろ布で巣を作ってやがる。残党の、最後の一匹ってとこだな」
セラは、裂けたローブの肩を、両手で押さえていた。肩から鎖骨の下まで、白い肌が出ていた。小刀は、布だけを裂いていた。血は、出ていなかった。
セラの指が、震えていた。
「……理論上は」
セラが、言った。声が、裏返っていた。
「ゴブリンは、夜行性、です。昼は、巣で、寝て……」
「寝てたんでしょ。あんたの頭の上で」
リーネが、剣を鞘に戻しながら言った。
セラは、一瞬、きょとんとした。それから、肩を押さえたまま、笑い出した。笑いが止まらなくなって、しまいに、しゃっくりになった。
トビが、土間に起き上がって、頭を掻いた。
「いやあ。上は、見てなかったっす」
「斥候が、天井見ねえでどうすんだ」
ガルドが、梯子の上から言った。笑っていた。
「床は見たんすよ、床は。……次から、上も見るっす。上も」
トビは、帽子をかぶり直して、天井に向かって、指を一本立てた。皆が、笑った。
リーネも、笑っていた。
「当たらなかったんだから、いいじゃない」
ロウは、笑わなかった。
笑う前に、手が、勝手に荷を開けていた。針と糸を出していた。
「セラさん。縫います」
「……あ、はい」
セラは、肩を押さえていた手を、少しだけ緩めた。ロウは、裂け目の端を指でつまんで、縫い始めた。荷の袋を繕うときと、同じ縫い方だった。セラの肌に、針が触れないように。
セラの肩は、まだ、小さく跳ねていた。しゃっくりのせいなのか、そうでないのか、分からなかった。
◇
その夜、村の納屋で、ロウは手帳を開いた。
――十件目。ヘルン村、残党。一匹。樵の小屋の屋根裏。リーネさんが倒した。
ペンを止めた。
埃のことを、書こうとした。
書いたら、言わなかったことも、書かなければならなかった。
怪我をした人は、いなかった。
ロウは、一行だけ足した。
――何も起きなかった。
◇
「おい、あんたら」
酒場の卓に、男が一人、杯を持って近づいてきた。
見覚えのある顔だった。大穴潜りのあと、背後の卓で「まぐれのルーキー様だな」と笑っていた男だった。
トビの肩が、わずかに強張った。
男は、卓の端に杯を置いた。中で、琥珀色の酒が揺れていた。
「五件続けて十割だってな。ヘルン村の残党も、あんたらが片付けたって聞いた」
男は、頭を掻いた。
「まぐれ、ってのは取り消す。……一杯、奢らせてくれ」
トビが、ぽかんと口を開けた。羽根の付いた帽子を脱いで、ぶんぶんと振った。
「いいっすよ! いくらでも奢られるっす!」
酒場に、笑い声が起きた。今度は、ロウたちを笑う声ではなかった。
ガルドは、男が置いていった杯に、目を落としていた。
それから、手に取って、飲んだ。
ロウは、自分の杯を持つ手を止めた。
ガルドが酒を飲むのを見たのは、下水の帰りの晩以来だった。
ガルドは、ロウの視線に気づいたのか、杯を軽く持ち上げてみせた。
「一杯だけだ。祝いだからな」
本当に、一杯だけだった。ロウは、それを確かめてから、手帳を開かなかった。
◇
ヘルン村の残党の報酬が出た日に、ガルドの札が変わった。
受付の女は、Cと刻まれた新しい札を、ガルドの前に置いた。何も言わなかった。ガルドも、何も言わなかった。古いDの札を外し、首の革紐に、新しい札を通した。
革紐の、他の札の間に、新しい札が収まった。
◇
鍛冶屋通りの防具屋で、老婆は、今度は奥の棚から鉄の胸当てを出してきた。
「鋼の板を、革の上に重ねてある。剣も矢も、まず通さない」
リーネは、その胸当てを両手で持ち上げた。重さを確かめるように、何度か上下させた。
隣で、ガルドが自分用の鎧を見ていた。継ぎ当てだらけの鎖帷子の代わりに、鋼の板を連ねた、新しい胴鎧だった。
「いい値段だね」
老婆が言った。
「でも、あんたたちなら払えるだろ。最近、景気がいいって聞いたよ」
リーネは、胸当てを体に当てた。鋼の縁が、新しい革の胸当ての上で、かちりと鳴った。
「……重いわね」
「重いさ。それに」
老婆は、太い指で、鋼の板を軽く弾いた。
きん、と澄んだ音がした。
「鳴るよ。歩けば、擦れて鳴る。走れば、もっと鳴る。革とは違う」
リーネは、もう一度胸当てを弾いた。それから、笑った。
「当たらなければ、鳴っても構わないでしょ。当たったときに、通らないほうがいい」
「ちげえねえ」
ガルドも笑った。手は、新しい胴鎧の留め金を確かめていた。
ロウは、入口近くの丸椅子に座って、二人を見ていた。
老婆の指が弾いた、きん、という音が、耳の奥に残っていた。
◇
その夜の酒場は、遅くまで騒がしかった。
トビは、奢られた酒の数を指で数えて、途中で分からなくなっていた。セラは、二杯目で顔を真っ赤にして、学院の教官の口真似をしていた。それが妙に上手くて、隣の卓まで笑っていた。
リーネは、三杯目を飲み干したところで、卓に頬杖をついた。
頬が、ほんのりと赤かった。いつも高く結っている髪が、少し緩んで、後れ毛が首筋に落ちていた。新しい鋼の胸当ては外して、椅子の背に掛けてあった。その下の薄い上衣の胸元が、酒のせいか、はだけかけていた。
「ねえ、荷運び」
リーネが、頬杖をついたまま、ロウを見た。
「あなた、私の背中、何回見た?」
ロウは、杯を取り落としかけた。
「……え」
「下水で一回。防具屋で一回。川で、私があなたの背中を見たのは数えないとして」
リーネは、指を折った。
「あと、迷宮の岩の隙間。あれは背中じゃなかったわね」
トビが、杯を持ったまま固まった。セラが、教官の口真似をやめて、ゆっくりと両手で顔を覆った。指の隙間から、目だけがこちらを見ていた。
「リーネさん、それは」
「数えてたの?」
「数えて、ないです」
「書いてたりして。その手帳に」
リーネは、身を乗り出して、ロウの手帳に手を伸ばした。
ロウは、手帳を胸に抱え込んだ。
リーネが、声を立てて笑った。酒場の灯りの下で、笑うと、目尻がくしゃりと下がった。剣を振るっているときには、一度も見たことのない顔だった。
「冗談よ」
笑いながら、リーネは卓に突っ伏した。
「冗談……」
そのまま、動かなくなった。
しばらくして、寝息が聞こえた。
◇
「荷運び。運べ」
ガルドが、顎でリーネを示した。
「……私が、ですか」
「お前が一番、運び慣れてるだろ」
ロウは、リーネを背負った。
荷より、ずっと軽かった。荷より、ずっと温かかった。背中に押しつけられた体は火照っていて、首筋に、酒の匂いの混じった熱い寝息がかかった。リーネの腕が、ロウの首の前に、だらりと垂れていた。
宿の階段を上がるたびに、背中で、リーネの体が揺れた。鋼の胸当ては、ガルドが持ってくれていた。ロウの背中に当たっているのは、薄い上衣一枚だけだった。
ロウは、階段の段数を数えた。十二段。数えることだけを考えた。
部屋の寝台に、リーネを下ろした。
リーネは、寝返りを打って、枕に頬を埋めた。緩んだ髪が、寝台の上に広がった。毛布を掛けようとしたとき、リーネの手が、ロウの袖を掴んだ。
「……止まれって、言ってね」
寝言だった。目は、閉じたままだった。
「次も。ちゃんと」
指が、ゆっくりとほどけた。
ロウは、しばらく寝台の横に立っていた。それから、毛布を掛けて、部屋を出た。
◇
自分の部屋に戻ると、ロウは、手帳を開いた。
今日の頁を書く前に、ここ数件の頁を、もう一度読み返した。
――トビさん、偵察から戻るのが前より早い。
――塩、二袋で足りた。三袋目は買わなかった。
――蝋燭、半分残った。
――ガルドさん、受付で「何匹だ」と訊かなかった。
――何も起きなかった。
――何も起きなかった。
一つ一つは、小さなことだった。どれも、何も起きなかった。起きなかったのだから、問題はなかったのだ。
ロウは、そう考えようとした。
それから、今日の頁に書いた。
――ガルドさん、一杯だけ飲んだ。
――リーネさんとガルドさん、鋼の鎧を買った。鳴る。
最後に、少し迷って、もう一行足した。
――誰にも、言っていない。
書いてから、その一行を、しばらく見ていた。
言うほどのことではない。どれも、何も起きなかった。皆が笑っている夜に、何も起きなかったことを並べて、何を言えばいいのか分からなかった。
手帳を閉じた。
隣の部屋から、ガルドのいびきが聞こえていた。名前を数える声は、もう何日も聞こえていなかった。




