第九章 灰石の縦穴
瓜畑の持ち主は、腰の曲がった男だった。
毎年、夏の終わりに、孤児院へ瓜を荷車一杯届けてくれる人だ、とトビは言った。
「その瓜を、今年は猪が食ってるんすよ。ギルドに出すほどの金は、村にないっす。だから、俺らで」
瓜の味を覚えた猪は、人を怖がらなくなる。追っても逃げずに向かってくる、と持ち主の男は言った。
依頼ではなかった。報酬もない。帳面にも載らない。それでも、誰も断らなかった。ガルドは「暇つぶしだ」と言って、新しい鋼の胴鎧を着込んできた。リーネも、鋼の胸当てを着けてきた。
歩くたびに、二人の鎧が鳴った。
畑は、街から東へ一刻ほどの、林の縁にあった。
瓜は、半分ほどが割られていた。食べ殻の周りの土に、二つに割れた蹄の跡が沈んでいる。ロウの足跡の、倍は深かった。
跡は、林の中へ続いていた。
トビが先に立った。足音がしなかった。そのあとをリーネ、ガルド、セラ、最後にロウ。林の中は、畑より涼しかった。湿った土と、腐った葉の匂いがした。
トビが、手のひらを後ろへ向けた。止まれ、の合図だった。五人は、斜面の縁に横に散って、下を覗いた。
木々の切れ目の下、ゆるい斜面の底に、泥の溜まりがあった。差し渡し十歩ほど。斜面の下り口の右手から、細い沢が流れ込んでいる。水は茶色く濁っていた。沢の口の岸は、灰色の粘土だった。その脇に、楢が一本立っていた。
ぬた場っす、とトビが口だけを動かした。
その楢の幹に、泥がこすりつけてあった。ロウは、高さを測った。自分の腰より、手のひら一つ上。泥はまだ乾いておらず、幹を伝って、ゆっくりと垂れていた。
濁った水の表に、小さな泡が一つ浮かんで、割れた。
また、一つ。
すぐ近くにいる。ロウにも、それは分かった。
リーネが、一歩、斜面を下りた。
きし、と胸当てが鳴った。
ガルドが身を屈めた。胴鎧の板と板が擦れて、かち、と鳴った。
鳴ります、とロウは思った。思っただけだった。
泥の溜まりが、盛り上がった。
泥の色をした背中だった。荷車の半分ほどもあった。泥を撥ね上げて立ち上がった猪は、頭を低くして、そのまま斜面を駆け上がってきた。一番近くで鳴った、リーネへ。
六歩。
リーネが剣を抜いた。振る間はなかった。体をひねるのが、精一杯だった。
牙が、胸当ての左の脇に当たった。
ぎいっ、と、鍋の底を釘で引っ掻くような音がした。牙は鋼の上を滑り、リーネの体ごと横へ弾き飛ばした。リーネは斜面を転がり落ちて、背中から泥の溜まりの縁に落ちた。
猪は止まらなかった。勢いのまま斜面を駆け上がり、ロウの横を、腕一本の距離で抜けていった。獣と泥の臭いが、熱い風になって顔を打った。
十歩、二十歩。猪は、大きく弧を描いて、向きを変えはじめた。
「……っ、く」
泥の中で、リーネがもがいていた。剣は、握ったままだった。膝まで沈んだ脚を引き抜こうとするたびに、泥が吸いつき、鋼の胸当ての重さが、体を引き戻した。
ばしゃ、ばしゃ、と泥が鳴った。
猪の頭が、その音のほうへ向いた。
ロウの足は、斜面の上で、動かなかった。猪が頭を下げるのが見えた。蹄が、土を掻きはじめた。
ロウは、荷を下ろしていた。
いつ下ろしたのか、分からなかった。斜面を滑り降りて、泥に腿まで入っていた。冷たかった。
リーネの胸当ての、背の縁を、両手で掴んだ。
斜面の上で、蹄が土を蹴る音がした。
泥に沈んだ荷は、腕で引いても上がらない。腰を落として、脚で引く。十年、そうしてきた。
「――ん、ぐっ」
リーネの体が、泥から抜けた。ロウは、尻もちをつくように下がりながら、脇の楢の幹の陰まで引きずった。
すぐ脇を、猪が通り過ぎた。泥の溜まりに突っ込み、茶色い水が壁のように立ち上がって、二人の上に降ってきた。
「濡れた土の上では」
セラの声だった。斜面の上で、杖を両手で握りしめていた。
「蹄が、滑ります。急には、曲がれません。理論上は――」
「上等だ」
ガルドが、斜面を駆け下りてきた。楢の先の、沢の口の粘土の岸に立った。盾を左腕に構え、斧を右手に下げている。
斧の背で、自分の胴鎧を叩いた。
がん。がん。
溜まりの中で、猪の頭が、ガルドのほうを向いた。
「来い」
猪が泥を蹴って、岸へ駆け上がった。
ガルドは、盾を斜めに構えて待った。ぶつかった。鈍い音がして、ガルドの体が一歩、後ろへずれた。盾の面を、猪の頭が滑っていった。
その先は、濡れた粘土だった。
猪の前脚が、左右に開いた。止まろうとした蹄が、粘土の上を滑った。巨体が横へ流れて、どさりと半身を地面に落とした。前脚の付け根の後ろ、毛の薄いところが、空を向いた。
リーネが、楢の陰から出た。
三歩だった。泥に濡れた剣が、そこへ根元まで沈んだ。
猪が、甲高く鳴いた。脚が、二度、三度、宙で跳ねた。
やがて、脚が止まった。
沢の水音が、聞こえた。
リーネは、剣を引き抜いて、しばらく猪を見下ろしていた。それから、自分の胸当ての左の脇に、指を当てた。
牙の跡が、白く一本残っていた。脇の下から、胸の真ん中へ向けて、指の長さほど。
「革なら」
リーネは、その指で、自分の腹のあたりまで線を引いてみせた。
「ここまで、裂けてた」
トビも、セラも、黙っていた。
「ロウさん、すげえっす。泥ん中、平気で入ってったっすよ」
トビが、泥まみれのロウの腕を小突いた。
平気ではなかった。最初の一拍、足が出なかった。ロウはそれを言わずに、斜面の上に転がっている荷を拾いに行った。
ガルドは、粘土の岸に座り込んで、盾の縁の泥を払っていた。笑っていた。
◇
畑に戻ると、持ち主の男が、瓜を三つ割って待っていた。
五人とも、頭から足まで泥だった。乾きかけた泥が、頬の上でひび割れていた。セラは、ローブの裾を絞りながら、瓜の汁で顎までべたべたにしていた。
トビは、男が荷車に積んでくれた瓜を見て、笑った。
「院長も、これなら受け取るっす。金じゃないっすから」
ロウは、瓜を齧った。甘かった。泥の味が、少し混じっていた。
◇
翌朝、ギルドの掲示板の真ん中に、他より一回り大きな紙が貼られていた。
――灰石の迷宮、二層崩落跡の縦穴。深層の調査隊を募る。
――条件:C以上の冒険者を二名以上含むパーティ。
――報酬:調査の範囲に応じて。最低保証あり。
最低保証の額を見て、トビが口笛を吹きかけ、途中でやめた。
「……これ、大穴潜りが上がってきた穴っすよね」
「そうだ」
ガルドが、紙を見上げていた。新しい鋼の胴鎧の上から、首の革紐のあたりを、指で一度だけ叩いた。
「C以上が、二人」
セラが、小さく繰り返した。
全員が、リーネとガルドを見た。
リーネは、紙から目を離さなかった。親指が、柄頭の上で止まっていた。
◇
いつもの卓に戻っても、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に口を開いたのは、リーネだった。
「行きたい」
短い言葉だった。いつもの言い切る声ではなかった。
「父は、灰石の深層で死んだの」
トビが、杯を置いた。セラが、襟巻きから顔を上げた。
「五年前。私は別の町にいた。届いたのは、ギルドの通知一枚。名前と、等級と、日付と、灰石の深層、って書いてあっただけ」
リーネは、腰の剣を、鞘ごと卓の上に置いた。
「これは、後でギルドから届いた。回収された、とだけ書いてあった。遺体は、戻ってこなかった」
鞘の拵えが、酒場の灯りを鈍く返していた。
「父が最後に何を見たのか、知りたい。……それだけ」
誰も、何も言わなかった。
ガルドは、卓の上の剣を見ていた。
長かった。
それから、杯の水を一口飲んで、言った。
「行くか」
一拍、置いてから。
「今の俺らなら、行ける」
◇
「俺は」
トビが、帽子の羽根を指でいじっていた。
「院長から、また手紙が来たっす。危ない仕事は、もうやめてくれって。冬の薪は、自分でなんとかするからって」
トビは、少し笑った。
「なんとかなんて、ならないっす。去年も、そう書いてたっす」
トビは、羽根から手を離した。
「最低保証だけで、冬が越せるっす。……これ終わったら、少し休むっすよ。院長にも、そう言うっす」
セラは、襟巻きの端を指に巻きつけていた。
「深層の魔物の記録は、学院にも、ほとんど残っていません」
早口だった。目が、少しだけ光っていた。
「大穴潜りがどうやって浅層まで上がってきたのか。深層の生態がどうなっているのか。ちゃんと記録して持ち帰れたら、それは、論文になります。理論上は、実技の試験とは別に、学院に認めてもらえる道が――」
そこで、セラは自分の早口に気づいて、口をつぐんだ。
「……行きたいです。わたしも」
四人の目が、ロウに向いた。
◇
ロウは、手帳を開いていた。
大穴潜りのときの頁だった。震える字で書いた一行。
――音を立てないものは、襲わない。
何頁か先。
――ガルドさん、すぐ「ああ」と言った。
それから、防具屋の夜の頁。
――リーネさんとガルドさん、鋼の鎧を買った。鳴る。
「……あの」
声が出た。
「深層には、まだ大穴潜りがいるかもしれません。一匹が上がってきたなら、下には、もっと」
誰も、遮らなかった。ロウは、続けた。
「大穴潜りは、音で来ます。鋼の鎧は、鳴ります」
リーネが、ロウを見た。
「革じゃ、深層の爪は止まらない」
静かな声だった。からかうような響きは、どこにもなかった。
リーネは、胸当ての左の脇に、手のひらを当てた。昨日の、白い牙の跡の上に。
「大穴潜りの爪を見たでしょ。あれが当たったら、革なんて紙と同じ。鳴っても、通らないほうがいい」
ロウは、言い返す言葉を探した。見つからなかった。リーネの言うことは、正しかった。猪が鎧の音で起きたのも、ロウは見ていた。それでも、牙は通らなかった。
ガルドが、笑った。
「荷運び」
いつもの、べらんめえの声だった。
「あのときも、何とかなっただろ」
大穴潜りのときのことだ、とロウは思った。崩落に閉じ込められて、それでも全員で生きて帰った、あのとき。
「音を立てねえものは、襲わねえ。お前が見つけたんだ。分かってりゃ、やりようはある」
ガルドは、ロウの肩を軽く叩いた。
「お前の手帳があれば、大丈夫だ」
ロウは、口を開きかけた。
何を言えばいいのか、分からなかった。手帳に書いた言葉を、一つ残らず読み上げればいいのか。何も起きなかった、何も起きなかった、と並んだ頁を。
ロウは、口を閉じた。
「……はい」
手帳の頁が、指の下で、少しだけ皺になった。
◇
出発の前の日、ロウは市場で、塩を三袋買った。
最近は二袋で足りていた。誰にも頼まれていなかった。
それから、古布屋で、厚手の布を何枚か買った。鎧の板と板の間に挟めば、擦れる音が少しは減る。荷運びの頃、金具の多い荷を運ぶときに、そうしていた。
布は、荷の一番底に入れた。
誰にも、言わなかった。
◇
その夜、宿の食堂に、ミレラが来た。
薬師の前掛けの上に、夜風よけの薄い外套を羽織っていた。黒髪は、いつもより丁寧に結い上げてあった。唇の端の、薬草の緑だけは、いつもと同じだった。
「深層に潜るって聞いたわよ」
ミレラは、卓の上に小さな瓶を五つ並べた。
「解毒薬。百足の毒にも、大抵の毒にも効く。今回はお代はいいわ。帰ってきたら、深層で見つけた珍しい茸でも持ってきて」
「ただっすか!」
トビが瓶に飛びついた。
ミレラは、トビの手の届かないところまで瓶を一つずらしてから、ガルドのほうを見た。
ガルドは、卓の端で、杯の水を見ていた。
ミレラの声が、少しだけ低くなった。
「あなた、またあそこへ行くの」
「仕事だ」
ガルドは、顔を上げなかった。
「また?」
トビが、瓶を握ったまま訊いた。
「昔な」
ガルドは、それだけ言った。
ミレラは、しばらくガルドを見ていた。やがて、ふっと息を吐いて、笑った。いつもの、からかうような笑い方だった。
「相変わらず、いい男ね。顔はともかく」
ミレラは、ガルドの肩に手を置いて、身を屈めた。結い上げた髪から、薬草と、甘い香油の匂いがした。外套の襟元がゆるみ、薄い前掛け越しの胸が、ガルドの肩に押しつけられて、柔らかく形を変えた。
ミレラの唇が、ガルドの左の耳に寄った。上半分が欠けた耳だ。古い傷の縁に、唇が触れたように見えた。
「ちゃんと帰ってきなさいよ」
吐息の混じった、低い声だった。
ガルドは、身じろぎ一つしなかった。ただ、卓の上で握った杯の水が、細かく震えていた。
ミレラは、ガルドの肩から手を離した。
それから、ロウのほうを向いた。
「荷運びさん」
「はい」
「あの小瓶、まだ持ってる?」
ロウは、荷の中から灯り茸の小瓶を出した。青白い光が、卓の上でぼんやりと揺れた。
「そう。じゃあ、ちゃんと書いてきてね。深層で見たもの、全部」
ミレラは、外套の襟を直して、食堂を出ていった。扉が閉まる直前に、一度だけ振り返った。誰を見たのかは、分からなかった。
◇
その夜、ロウは手帳を開いた。
明日の荷を書きつけた。塩三袋。解毒薬五つ。松明、油、ロープ、灯り茸の小瓶。厚手の布、数枚。
書き終えて、ペンを止めた。
それから、一行だけ書いた。
――止まってください、と、言えなかった。
壁の向こうから、低い声が聞こえた。
ガルドの部屋だった。
名前だった。一つずつ、ゆっくりと。何日も聞こえなかった声だった。
最後の一つの前に、長い間があった。
今夜の間は、これまでで一番長かった。




