第十章 深層
灰石の迷宮の二層は、あの日とはまるで違う場所に見えた。
崩落の瓦礫は、ギルドの人足たちが片付けていた。通路の真ん中に、木の柵と、ギルドの印を焼きつけた札が立っていた。その向こうに、穴が口を開けていた。
縦穴だった。
差し渡しは、荷馬車が二台並んで落ちるほど。縁から覗き込んでも、底は見えなかった。カンテラを吊るして下ろすと、光はゆっくりと小さくなり、やがて闇に溶けた。
柵のそばに、大穴潜りの骨が積んであった。肉は、とうに迷宮の何かに食われていた。喉の骨のところに、細い傷が一本残っていた。
リーネが、その傷を指でなぞった。
「……ここに、刺さったのね」
誰も、答えなかった。
◇
縦穴を降りるのは、ロウの仕事だった。
荷運びの頃、崖下の採石場に荷を下ろす仕事を、何年もやった。綱の結び方、張り方、体重の預け方。それなら、誰より知っていた。
ロウは、縁の岩に杭を打ち込み、綱を二重に掛けた。一本が切れても、もう一本で止まるように。それから、全員の腰に、別の綱を一本ずつ結んだ。
「一人ずつ、です。下に着いたら、二回引いてください」
降りた縁ごとに、ロウは綱を一本、張ったまま残していくことにした。帰りの綱だった。昔からの習いだった。
トビが最初に降りた。身軽に、ほとんど音を立てずに、闇の中へ消えていった。しばらくして、綱が二回引かれた。
次はセラ。それから、リーネ。
リーネが綱に体を預けたとき、鋼の胸当てが、岩壁に擦れた。
きん、と音がした。
縦穴の闇の中で、その音は、思っていたよりずっと遠くまで響いた。
リーネが、壁から体を離した。下を見た。何も起きなかった。
ロウは、荷の底から、厚手の布を一枚出した。
「リーネさん」
リーネが、綱にぶら下がったまま、こちらを見上げた。
「鎧の、板と板の間に、挟みますか。擦れる音が、少し減ります」
リーネは、布を見た。それから、ロウを見た。
しばらく、黙っていた。
「……貸して」
ロウは、布を胸当ての縁に挟んでやった。鋼の板と、革の間。荷の金具を包むときと同じやり方だった。リーネが体を揺らしても、もう鳴らなかった。
「ガルドさんも」
ガルドは、縁に立って、腕を組んでいた。
「いらねえ」
「でも」
「布を噛ませると、板の動きが鈍る。いざってとき、腕が上がらねえ」
ガルドは、自分の胴鎧を拳で軽く叩いた。
ごん、と、くぐもった音がした。
「それに、鳴るほうが、いいこともある」
そう言って、ガルドは綱を掴んだ。
何がいいのか、ガルドは言わなかった。
◇
三層、四層。
縦穴の途中に、横穴がいくつも口を開けていた。降りるたびに、空気が変わった。三層では冷たく湿っていた空気が、四層では乾き、五層に近づくにつれて、少しずつ温かくなっていった。
セラは、降りるたびに、壁を見ていた。
「この擦り跡、見てください」
縦穴の岩肌に、深い溝が何本も刻まれていた。爪の跡だった。上から下へ。下から上へ。
「大穴潜りが、この縦穴を登り降りしてたんです。一匹じゃありません。溝の幅が、三通りあります。少なくとも、三匹」
セラは、自分の手帳に、溝の幅を書きつけた。ロウにもらった安い紙を綴じて作った、セラの手帳だった。早口で、独り言のように、書きながら喋っていた。
「深層から浅層への移動経路。これ、学院の誰も知りません。これだけでも――」
「セラさん」
ロウが言った。
「声が」
セラは、はっと口を押さえた。それから、襟巻きの奥で、四つ吸って、四つ吐いた。
縦穴の下から、何も上がってこなかった。
ガルドが、壁の溝を指でなぞっていた。
「道理で、何も出てこねえわけだ」
低い声だった。
「大穴潜りの通り道にゃ、ほかの魔物は寄りつかねえ。……昔は、こんな穴はなかった。普通の道を、何日もかけて降りたもんだ」
ガルドの話は、そこで切れた。
◇
五層で、トビが偵察から戻ってきた。
「異常なしっす」
速かった。降りていってから、戻ってくるまで、百を数えるほどもなかった。
「縦穴は、ここで一度、底を打ってるっす。横穴が二つ。右は行き止まり。左は、少し先で、また下に落ちてるっす。足跡はなし」
「よし。左だ」
ガルドが言った。
ロウは、トビの肩越しに、右の横穴を見た。灯り茸の小瓶を、少しだけ掲げた。
行き止まりの壁に、溝があった。
縦穴の壁と同じ、深い爪の溝だった。上から、下へ。真新しい、白い削り跡だった。
「トビさん。右の奥の壁、溝が」
「見たっすよ」
トビは、振り向かずに言った。
「行き止まりっす。爪の跡くらい、深層ならどこにでもあるっす」
少しだけ、尖った声だった。トビにしては、珍しかった。
樵の小屋の一件から、トビは、酒場でも宿でも、皆に「上も見ろよ」とからかわれていた。そのたびに、天井に指を一本立てて、笑っていた。
今は、笑っていなかった。
ガルドが、右の横穴を一瞥した。
「古い跡だ。行くぞ」
ロウは、もう一度だけ、白い削り跡を見た。
古い跡には、見えなかった。
ロウは、手帳に書いた。
――五層、右の横穴。行き止まりの壁に、新しい爪の跡。
何も起きなかった。
◇
六層で、野営をした。
深層は、暑かった。地の底から湧き上がるような、湿った熱だった。じっとしていても、額から汗が流れた。
リーネは、鋼の胸当ての留め紐を緩めて、外した。その下の上衣は、汗でぐっしょりと濡れていた。脇腹にも、胸の下にも、布が肌の形をなぞるように貼りついていた。リーネは、上衣の胸元をつまんで、ぱたぱたと風を送った。
「暑い」
それだけ言って、壁に背を預けて座り込んだ。濡れた後れ毛が、首筋に何本も張りついていた。
見張りの番は、ロウとリーネだった。
他の三人は、少し離れた窪みで眠っていた。ガルドのいびきは、聞こえなかった。ガルドは、眠っていても、いびきをかかない場所を選ぶのだ、とロウは思った。
灯り茸の小瓶だけが、二人の間で、青白く光っていた。
「ねえ」
リーネが、壁を見たまま言った。
「父は、どのあたりで死んだのかしらね」
「……分かりません」
「でしょうね」
リーネは、膝を抱えた。汗に濡れた上衣が、膝に押しつけられた胸の形に、ぴったりと沿っていた。ロウは、通路の暗がりのほうを見た。
「もし、分かったら」
リーネが言った。
「そこで、止まる。それ以上は行かない。父が何を見たのか、見られたら、それで十分だから」
リーネは、膝をほどいて、立ち上がった。脇に置いてあった鋼の胸当てを、両手で持ち上げた。
「着ける。見張りが鎧なしじゃ、しょうがないでしょ」
胸当てを胸に当てて、両腕で押さえた。それから、ロウに背中を向けた。
「紐。締めて」
ロウは、リーネを見上げた。
「あなたが締めたほうが、きつく締まるの。防具屋で、分かった」
ロウは、立ち上がった。
上衣の背中は、汗で、肌と一枚になっていた。肩甲骨の形も、背骨の溝も、濡れた布の上から、そのまま見えた。その布が、灯り茸の光を、鈍く返していた。
リーネが、胸当てを片腕で押さえたまま、もう片方の手で、結った髪の先をまとめて上げた。うなじが出た。一番上の留め穴は、髪の下にあった。
ロウは、外したときにずれていた布を、鋼の板と革の間に、挟み直した。それから、紐を通した。
指の背が、何度も、濡れた布越しに、背中に触れた。布の下の肌は、湯のように熱かった。そのたびに、リーネの肩甲骨が、内へ寄った。
ロウは、紐を引いた。
リーネの息が、短く抜けた。
「……もっと」
もう一度、引いた。鋼の胸当てと体のあいだから、隙間が消えた。
結び目を作った。防具屋で締めたときと、同じ結び方だった。
「約束する」
リーネが、前を向いたまま、言った。
「あなたが止まれって言ったら、止まる」
ロウの指は、まだ、結び目の上にあった。
「……はい」
「何よ、その返事」
リーネは、小さく笑った。笑いが、背中越しに、伝わってきた。
背中は、すぐには離れなかった。結び目の上のロウの指が、リーネの息に合わせて、少しのあいだ、上下していた。
リーネは、持ち上げていた髪の先から、手を離した。それから、何も言わずに、壁の前に戻って座った。剣を膝に立てて、通路の暗がりのほうを向いた。
布を挟み直した胸当ては、リーネが座っても、鳴らなかった。
◇
七層への縦穴の縁で、ガルドが止まった。
縁の近くに、古い野営の跡があった。
朽ちた天幕の布。錆びて、輪が崩れかけた鍋。折れた槍が一本。柄に、何本も刻み目が入っていた。倒した魔物の数を刻む、冒険者の古い癖だった。
それから、盾が一枚。
鉄の縁がひしゃげ、表の革が剥がれかけていた。剥がれた革の下に、何かの紋章が、かすかに残っていた。
ガルドは、その盾の前に立ったまま、動かなかった。
「……知ってるんすか」
トビが訊いた。
「灰石じゃ、よくある」
ガルドは、それだけ言った。屈んで、折れた槍の柄を拾った。刻み目を、親指でなぞった。一本ずつ。数えるように。
それから、槍を、元の場所にそっと戻した。
セラが、手帳に何かを書いていた。リーネは、野営の跡を見回していた。ひしゃげた盾にも、折れた槍にも、特別な目は向けなかった。灰石の深層には、こういうものがいくらでもある。誰かが野営し、誰かが戻らなかった跡が。
ロウは、荷を下ろして、中身を確かめた。
水が、半分。食料が、半分。蝋燭が、半分。塩は、まだ三袋とも残っていた。
ロウは、手帳を開いた。それから、顔を上げた。
「荷が、半分です」
四人が、ロウを見た。
「戻るなら、今です。ここから先に降りたら、帰りの分が、足りなくなるかもしれません」
声は、ちゃんと出た。大穴潜りのときのように。胞子の洞窟の、蝋燭のときのように。
トビが、縦穴を覗き込んでいた。
「下、静かっすよ。異常なしっす」
セラが、手帳から顔を上げた。
「七層は、学院に記録がない層です。ここまで来て、七層を見ないで戻ったら……」
言いかけて、口をつぐんだ。でも、目は、縦穴の闇から離れなかった。
リーネは、何も言わなかった。
ただ、縦穴の縁に、膝をついていた。闇の底を、じっと見ていた。剣の柄を、握っていた。撫でる形ではなかった。握る形だった。
ガルドが、縦穴の縁に立った。
七層の闇を、長いこと見下ろしていた。首の革紐のあたりに、手を当てていた。
「あと一層だ」
ガルドは、言った。
「七層を見たら、戻る。荷運び、それでいいな」
ロウは、口を開いた。
止まってください、と言うつもりだった。
頭に浮かんでいたのは、手帳の、何年も前の頁だった。大雨の翌日、「下の層が水に浸かっているかもしれません」と言ったロウを、Cのパーティの頭は、笑って振り向いて、荷運びは黙って荷を運べ、と言った。そして、誰も上がってこなかった。
あのときと同じだ、と思った。だから、今度こそ言わなければ。
でも、ガルドは笑っていなかった。
ガルドは、ロウを見ていた。笑い飛ばすのではなく、荷運び、それでいいな、と訊いていた。ロウの答えを、待っていた。
あの頭とは違う。ガルドさんは、ちゃんと訊いてくれている。荷運びの言うことを、聞こうとしてくれている。
その人が、あと一層だけ、と言っている。
だから、ロウは、迷った。
迷っている間に、トビが綱を掴んだ。
「じゃ、先行くっす。異常なしなら、すぐ合図するっす」
トビの体が、縦穴の闇に沈んでいった。
しばらくして、綱が、二回引かれた。
◇
ロウは、手帳に書いた。
――七層の手前。荷、半分。
――戻るなら今、と言った。
――進んだ。
書きながら、最後の一行の横に、もう一行、書こうとした。
何を書こうとしたのか、自分でも分からなかった。
縦穴の下から、トビの小さな声が聞こえた。
「異常なしっすよー」
その声は、少しだけ、反響が長かった。




