第十一章 崩壊(一)
七層の底は、広かった。
縦穴を降りきったところで、ロウは綱から手を離し、カンテラに火を入れた。光は、足元の岩を照らしただけで、その先の闇に吸い込まれた。壁も、天井も、見えなかった。
大きな空洞だった。
トビの声の反響が長かったのは、このせいだった。
「異常なしっすよ」
トビが、左の壁沿いに十五歩ほど先、カンテラの光がぎりぎり届くあたりで、小声で言った。
「足元、足跡なしっす。壁、手で探ったっすけど、ずっと続いてるっす」
セラが、リーネが、ガルドが、ロウの後ろに降り立った。ガルドの鋼の胴鎧が、着地のときに、ごん、と低く鳴った。
音は、空洞の闇の奥まで転がっていって、なかなか戻ってこなかった。
ロウは、耳を澄ませた。
何も、聞こえなかった。
水の滴る音も。風の音も。虫の這う音も。何も。
いや。
ずっと高いところで、何かが、一度だけ岩を擦った。ほんのかすかに。寝返りを打つような音だった。
それきり、また何も聞こえなくなった。
――静かなのは、いないからじゃない。
手帳の、一番最初のほうの頁。下水の、分かれ道。ガルドの声。
――全部、ひとつにまとまってるからだ。
「……ガルドさん」
ロウは、囁いた。
「静かすぎます」
ガルドが、ロウを見た。
それから、空洞の闇を見た。首を巡らせて、ゆっくりと、見回した。その顔から、血の気が引いていくのが、カンテラの光の中でも分かった。
ガルドが、片手を、そっと上げた。
動くな。音を立てるな。
◇
リーネだけが、その手を見ていなかった。
リーネは、空洞の中央を見ていた。
カンテラの光のずっと先、闇の中で、何かが、かすかに光っていた。
光の外の、空洞の中央のあたりに、金色の小さな光が、一つだけ、鈍く浮いていた。カンテラの光を、遠くで拾っていた。床から、人が横たわるほどの低さだった。
リーネの唇が、動いた。
「……お父さん」
ほとんど、息だけの声だった。
「リーネさん」
ロウは、囁いた。
「止まってください」
リーネは、ロウを見た。
それから、もう一度、金色の光を見た。
「……見るだけ」
囁き返した。
「少しだけ。何も、いないじゃない。静かよ」
リーネは、一歩、踏み出した。
「嬢ちゃん」
ガルドが、低く言った。
リーネは、骨の間を、中央へ歩いていった。胸当てに挟んだ布のおかげで、鎧は鳴らなかった。けれど、足の下で、骨が砕けた。
ぱき。
ぱき、と。
小さな音だった。けれど、この空洞では、小さな音など、どこにもなかった。
――あなたが止まれって言ったら、止まる。
六層の、見張りの夜の声が、ロウの頭の中で鳴っていた。
「止まってください」
ロウは、もう一度言った。声が、震えていた。
リーネの足が、止まった。
十歩ほど先だった。カンテラの光が、背中を薄く照らすところだった。金色の光までは、まだ二十歩ほどあった。
リーネは、振り向かなかった。金色の光のほうを向いたまま、立っていた。肩が、一度だけ、大きく上下した。
「……止まったわよ」
囁き声だった。
「言われた通りに」
高いところで、爪が、岩を掻いた。
◇
一つ。
少し離れたところで、もう一つ。
壁の、ずっと上のほうで、もう一つ。
ロウは、数えた。
カンテラの光の端で、壁際のトビが、ぴたりと動きを止めた。
首を傾けていた。耳を澄ませていた。ゴブリンの巣の前で、骨の鳴子を一つずつ外していたときの、あの顔だった。
トビの顔が、ゆっくりと、上を向いた。
「上っ――」
トビの声が、途切れた。
途切れたところに、トビは、もういなかった。
壁際の影の中に、何か大きなものが、上から落ちてきた。音は、岩を擦る、ごく短い音だけだった。それが、また上へ戻っていった。壁を這い上がる、爪の音がした。
トビのいた場所に、帽子が一つ、転がっていた。
赤い羽根が、宙を舞って、帽子の横に落ちた。
ロウには、それが何なのか、分からなかった。分かりたくなかった。さっきまで、そこでトビが小声で喋っていた。異常なしっすよ、と。足跡なしっす、と。
すぐ後ろで、ひ、と細い音がした。セラだった。ロウの外套の背中を、セラの指が、千切れそうなほど握っていた。
◇
リーネが、振り向いた。
途切れた声のほうを。カンテラの光の端に転がった、帽子と、赤い羽根を。
リーネの顔から、すべての色が消えた。
「……トビ?」
小さな声だった。それが、喉の裂けるような声になった。
「トビ! トビっ!」
声が、空洞じゅうに響いた。
空洞は、もう、目を覚ましていた。
爪の音が、四方から降ってきた。壁を這い下りる音。天井から落ちる音。骨を踏み砕く、重い音。リーネと、ロウたちとの間の闇に、灰色の巨体が、いくつも形を取りはじめていた。
リーネの背後の闇から、扇のような耳を広げた頭が、ゆっくりと下りてきた。
「リーネさん、後ろ!」
ロウは、叫んだ。
リーネは、振り向かなかった。
振り向く代わりに、横へ転がった。
巨大な顎が、さっきまでリーネの背中があったところに、落ちた。骨の山が砕け散った。
転がった勢いのまま、リーネは片膝で立ち上がっていた。父の剣が、もう抜かれていた。鞘が、腰から外れて、骨の間に転がった。
大穴潜りの頭が、獲物を探して、持ち上がった。耳が広がった。リーネの、荒い息のほうへ。
頭が、リーネの胸の高さまで上がる。喉が晒される。
あの日と、同じだった。
岩棚は、要らなかった。
リーネは、踏み込んだ。骨と瓦礫の上で、体が、真っ直ぐに伸びた。切っ先が、白い喉に吸い込まれた。柄まで、沈んだ。
大穴潜りが、吼えた。
空洞じゅうが、震えた。巨体がのたうち、尾が骨の山を薙ぎ払った。骨と一緒に、黒い革の鞘が、床を滑って、左の壁のほうへ転がっていった。それから、巨体は、ゆっくりと、横倒しになった。
リーネは、剣を引き抜いて、一歩下がった。
黒い血を浴びて、肩で息をしていた。それでも、剣は下がっていなかった。
一匹を、仕留めていた。
ロウは、駆け出していた。
リーネのほうへ。
◇
「止まりなさい!」
リーネの声だった。
空洞に、通った。
ロウの足が、止まった。
カンテラの光の端で、リーネが、こちらを見ていた。止まったその場所に立って、剣を構えたまま。
「来たら、あなたも死ぬ」
二人の間の闇で、灰色の背中が、いくつも動いていた。
「ちゃんと、止まったでしょ。私」
リーネは、言った。
「……遅かったけど」
声が、震えていた。
「私が歩いたから。トビが」
剣士の、いつもの、言い切る声ではなかった。酒場で笑ったときの声でも、なかった。
「だから、あなたは止まって。戻って」
リーネは、少しだけ笑った。
「止まれって言われたら、止まるんでしょ。荷運び」
ロウは、動けなかった。
止まれと言われた足は、言われた通りに、止まっていた。
ロウは、カンテラを、高く掲げた。光が、少しだけ、リーネに届いた。
リーネは、前を向いた。
止まったその場所に、両足を開いて立った。闇の向こうに、金色の小さな光が、かすかに浮いていた。剣を、構えた。
二匹目の頭が、闇から落ちてきた。リーネの剣が、それを迎え撃った。鋼の胸当てが、きん、と鳴った。挟んだ布が、どこかで外れていた。
三匹目が、横から来た。
リーネは、それも受けた。一歩も下がらなかった。止まったその場所から、一歩も。
カンテラの光が、震えていた。光の中で、赤茶の髪が、跳ねていた。剣が、何度も、光を返した。
四匹目の爪が、リーネの背中を薙いだ。
「あ――ぐ、っ……!」
リーネの体が、前に傾いた。膝が、骨の上に落ちた。
リーネは、膝をついたまま、剣を振り上げた。肩が震えていた。食いしばった歯のあいだから、獣のような声が漏れていた。
「まだ……っ、まだよ……!」
振り下ろされる前に、光の届かない闇が、リーネを呑んだ。
悲鳴が、一度だけ上がった。短かった。途中で、ぶつりと切れた。
剣が、骨の山の上に落ちる音がした。
ロウの口が、開いた。声は出なかった。喉の奥が、ぴたりと閉じていた。前へ出ようとしても、足が動かなかった。止まれと言われた足だった。最後に言われた言葉が、まだ、足を縫いとめていた。
◇
ガルドの手が、ロウの襟首を掴んだ。声は出さなかった。ただ、引いた。左へ。壁のほうへ。
ロウの足が、ようやく、動いた。
ガルドが先に立ち、ロウが、セラの手を引いて続いた。壁に肩を擦りつけるようにして、一歩ずつ。走らなかった。走れば、足音が鳴る。カンテラは、ロウの腰の鉤に吊るして、外套の裾をかぶせてあった。足元だけを照らしていた。
十五歩ほど行ったところで、光の中に、トビの帽子が見えた。赤い羽根が、その横に落ちていた。
ロウは、屈んで、羽根を拾った。音を立てないように。なぜ拾ったのか、分からなかった。荷運びの手が、勝手に拾っていた。
その少し先の壁際に、黒い革の鞘が転がっていた。さっき、のたうつ尾に薙ぎ払われて、骨と一緒に滑ってきたものだった。ロウは、それも拾った。
二十歩のところで、ガルドが止まった。
壁が、浅く窪んでいた。三人が、体を押しつければ入れるほどの窪みだった。ガルドが、ロウとセラを、そこへ押し込んだ。自分は、窪みの口を塞ぐように、背を向けて立った。
◇
静かになった。
空洞の中央のほうで、爪が骨を掻く音が、ときどきした。それも、やがて、間遠になった。音を立てないものは、襲わない。大穴潜りたちは、また、闇の中で動かなくなりつつあった。
ガルドが、しゃがんで、ロウの足元の光の中に手を差し入れた。指で、這う形をしてみせた。それから、壁の先を指さした。この先に、這って抜ける道がある、と言っていた。
ロウは、外套の裾を、少しだけ持ち上げた。カンテラの光が、壁沿いに伸びた。
ガルドの指の先、壁沿いにあと十歩ほどのところに、割れ目があった。
その手前に、灰色の背中が、三つ、うずくまっていた。
ロウは、裾を下ろした。
隣で、セラが震えていた。
声は、出していなかった。襟巻きの端を、口に押し込んで、噛んでいた。肩だけが、小刻みに揺れていた。ロウの腕に押しつけられたセラの頬が、濡れていた。
ロウは、自分の手を見た。
赤い羽根を握っていた。リーネの鞘を握っていた。どちらも、さっきまで、持ち主がいた。
――止まれって言われたら、止まるんでしょ。荷運び。
止まった。言われた通りに。
だから、ここにいる。
ガルドの手が、ロウの肩に置かれた。窪みの口に立ったまま、振り向かずに、手だけを後ろに回していた。
大きな手だった。震えていた。
「……荷運び」
ガルドが、囁いた。ロウの耳にだけ届く声だった。
「嬢ちゃんの、親父はな」
そこで、声が止まった。
長い間があった。夜ごとに壁越しに聞いた、名前を数える声の、最後の一つの前の間と、同じ長さだった。
「……いや」
ガルドの手が、ロウの肩を一度だけ強く掴んで、離れた。
「帰ってからだ」
◇
セラが、襟巻きを口から外した。
ロウの耳に、唇を寄せた。息だけの声だった。
「割れ目の前の、三匹。どかさないと、入れません」
ロウは、頷いた。
「わたしの声が、一番、遠くまで通ります」
ガルドが、振り向いた。セラの腕を掴んだ。首を横に振った。それから、自分の胴鎧を、指で軽く叩いてみせた。俺がやる、と言っていた。
セラは、ガルドの手に、自分の手を重ねた。
「鎧の音は、鳴らした人のところに集まるだけです」
囁きのまま、早口だった。いつもの、理屈を並べるときの早口だった。
「ガルドさんがここで鳴らしたら、三匹はここに来ます。割れ目の、すぐ横に。……遠くから呼ばないと、割れ目からは、離れません」
ガルドの手が、止まった。
「理論上は」
セラは、そう言って、少しだけ笑った。
ガルドの手が、ゆっくりと、セラの腕から離れた。
セラは、ローブの内側から、手帳を出した。ロウにもらった安い紙で綴じた、深層の溝の幅が書いてある、あの手帳だった。それを、ロウの胸に押しつけた。
「持って帰ってください。学院に」
囁いて、セラは、ロウの手をほどいた。
「……理論上は、論文に、なりますから」




