↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/34

第十一章 崩壊(一)

 七層の底は、広かった。


 縦穴を降りきったところで、ロウは綱(つな)から手を離し、カンテラに火を入れた。光は、足元の岩を照らしただけで、その先の闇に吸い込まれた。壁も、天井も、見えなかった。


 大きな空洞だった。


 トビの声の反響が長かったのは、このせいだった。


「異常なしっすよ」


 トビが、左の壁沿いに十五歩ほど先、カンテラの光がぎりぎり届くあたりで、小声で言った。


「足元、足跡なしっす。壁、手で探ったっすけど、ずっと続いてるっす」


 セラが、リーネが、ガルドが、ロウの後ろに降り立った。ガルドの鋼の胴鎧が、着地のときに、ごん、と低く鳴った。


 音は、空洞の闇の奥まで転がっていって、なかなか戻ってこなかった。


 ロウは、耳を澄ませた。


 何も、聞こえなかった。


 水の滴る音も。風の音も。虫の這う音も。何も。


 いや。


 ずっと高いところで、何かが、一度だけ岩を擦った。ほんのかすかに。寝返りを打つような音だった。


 それきり、また何も聞こえなくなった。


 ――静かなのは、いないからじゃない。


 手帳の、一番最初のほうの頁。下水の、分かれ道。ガルドの声。


 ――全部、ひとつにまとまってるからだ。


「……ガルドさん」


 ロウは、囁(ささや)いた。


「静かすぎます」


 ガルドが、ロウを見た。


 それから、空洞の闇を見た。首を巡らせて、ゆっくりと、見回した。その顔から、血の気が引いていくのが、カンテラの光の中でも分かった。


 ガルドが、片手を、そっと上げた。


 動くな。音を立てるな。


◇


 リーネだけが、その手を見ていなかった。


 リーネは、空洞の中央を見ていた。


 カンテラの光のずっと先、闇の中で、何かが、かすかに光っていた。


 光の外の、空洞の中央のあたりに、金色の小さな光が、一つだけ、鈍く浮いていた。カンテラの光を、遠くで拾っていた。床から、人が横たわるほどの低さだった。


 リーネの唇が、動いた。


「……お父さん」


 ほとんど、息だけの声だった。


「リーネさん」


 ロウは、囁いた。


「止まってください」


 リーネは、ロウを見た。


 それから、もう一度、金色の光を見た。


「……見るだけ」


 囁き返した。


「少しだけ。何も、いないじゃない。静かよ」


 リーネは、一歩、踏み出した。


「嬢ちゃん」


 ガルドが、低く言った。


 リーネは、骨の間を、中央へ歩いていった。胸当てに挟んだ布のおかげで、鎧は鳴らなかった。けれど、足の下で、骨が砕けた。


 ぱき。


 ぱき、と。


 小さな音だった。けれど、この空洞では、小さな音など、どこにもなかった。


 ――あなたが止まれって言ったら、止まる。


 六層の、見張りの夜の声が、ロウの頭の中で鳴っていた。


「止まってください」


 ロウは、もう一度言った。声が、震えていた。


 リーネの足が、止まった。


 十歩ほど先だった。カンテラの光が、背中を薄く照らすところだった。金色の光までは、まだ二十歩ほどあった。


 リーネは、振り向かなかった。金色の光のほうを向いたまま、立っていた。肩が、一度だけ、大きく上下した。


「……止まったわよ」


 囁き声だった。


「言われた通りに」


 高いところで、爪が、岩を掻(か)いた。


◇


 一つ。


 少し離れたところで、もう一つ。


 壁の、ずっと上のほうで、もう一つ。


 ロウは、数えた。


 カンテラの光の端で、壁際のトビが、ぴたりと動きを止めた。


 首を傾けていた。耳を澄ませていた。ゴブリンの巣の前で、骨の鳴子を一つずつ外していたときの、あの顔だった。


 トビの顔が、ゆっくりと、上を向いた。


「上っ――」


 トビの声が、途切れた。


 途切れたところに、トビは、もういなかった。


 壁際の影の中に、何か大きなものが、上から落ちてきた。音は、岩を擦る、ごく短い音だけだった。それが、また上へ戻っていった。壁を這い上がる、爪の音がした。


 トビのいた場所に、帽子が一つ、転がっていた。


 赤い羽根が、宙を舞って、帽子の横に落ちた。


 ロウには、それが何なのか、分からなかった。分かりたくなかった。さっきまで、そこでトビが小声で喋っていた。異常なしっすよ、と。足跡なしっす、と。


 すぐ後ろで、ひ、と細い音がした。セラだった。ロウの外套の背中を、セラの指が、千切れそうなほど握っていた。


◇


 リーネが、振り向いた。


 途切れた声のほうを。カンテラの光の端に転がった、帽子と、赤い羽根を。


 リーネの顔から、すべての色が消えた。


「……トビ?」


 小さな声だった。それが、喉の裂けるような声になった。


「トビ! トビっ!」


 声が、空洞じゅうに響いた。


 空洞は、もう、目を覚ましていた。


 爪の音が、四方から降ってきた。壁を這い下りる音。天井から落ちる音。骨を踏み砕く、重い音。リーネと、ロウたちとの間の闇に、灰色の巨体が、いくつも形を取りはじめていた。


 リーネの背後の闇から、扇のような耳を広げた頭が、ゆっくりと下りてきた。


「リーネさん、後ろ!」


 ロウは、叫んだ。


 リーネは、振り向かなかった。


 振り向く代わりに、横へ転がった。


 巨大な顎が、さっきまでリーネの背中があったところに、落ちた。骨の山が砕け散った。


 転がった勢いのまま、リーネは片膝で立ち上がっていた。父の剣が、もう抜かれていた。鞘(さや)が、腰から外れて、骨の間に転がった。


 大穴潜り(おおあなくぐり)の頭が、獲物を探して、持ち上がった。耳が広がった。リーネの、荒い息のほうへ。


 頭が、リーネの胸の高さまで上がる。喉が晒(さら)される。


 あの日と、同じだった。


 岩棚は、要らなかった。


 リーネは、踏み込んだ。骨と瓦礫(がれき)の上で、体が、真っ直ぐに伸びた。切っ先が、白い喉に吸い込まれた。柄まで、沈んだ。


 大穴潜りが、吼(ほ)えた。


 空洞じゅうが、震えた。巨体がのたうち、尾が骨の山を薙(な)ぎ払った。骨と一緒に、黒い革の鞘が、床を滑って、左の壁のほうへ転がっていった。それから、巨体は、ゆっくりと、横倒しになった。


 リーネは、剣を引き抜いて、一歩下がった。


 黒い血を浴びて、肩で息をしていた。それでも、剣は下がっていなかった。


 一匹を、仕留めていた。


 ロウは、駆け出していた。


 リーネのほうへ。


◇


「止まりなさい!」


 リーネの声だった。


 空洞に、通った。


 ロウの足が、止まった。


 カンテラの光の端で、リーネが、こちらを見ていた。止まったその場所に立って、剣を構えたまま。


「来たら、あなたも死ぬ」


 二人の間の闇で、灰色の背中が、いくつも動いていた。


「ちゃんと、止まったでしょ。私」


 リーネは、言った。


「……遅かったけど」


 声が、震えていた。


「私が歩いたから。トビが」


 剣士の、いつもの、言い切る声ではなかった。酒場で笑ったときの声でも、なかった。


「だから、あなたは止まって。戻って」


 リーネは、少しだけ笑った。


「止まれって言われたら、止まるんでしょ。荷運び」


 ロウは、動けなかった。


 止まれと言われた足は、言われた通りに、止まっていた。


 ロウは、カンテラを、高く掲げた。光が、少しだけ、リーネに届いた。


 リーネは、前を向いた。


 止まったその場所に、両足を開いて立った。闇の向こうに、金色の小さな光が、かすかに浮いていた。剣を、構えた。


 二匹目の頭が、闇から落ちてきた。リーネの剣が、それを迎え撃った。鋼の胸当てが、きん、と鳴った。挟んだ布が、どこかで外れていた。


 三匹目が、横から来た。


 リーネは、それも受けた。一歩も下がらなかった。止まったその場所から、一歩も。


 カンテラの光が、震えていた。光の中で、赤茶の髪が、跳ねていた。剣が、何度も、光を返した。


 四匹目の爪が、リーネの背中を薙いだ。


「あ――ぐ、っ……!」


 リーネの体が、前に傾いた。膝が、骨の上に落ちた。


 リーネは、膝をついたまま、剣を振り上げた。肩が震えていた。食いしばった歯のあいだから、獣のような声が漏れていた。


「まだ……っ、まだよ……!」


 振り下ろされる前に、光の届かない闇が、リーネを呑(の)んだ。


 悲鳴が、一度だけ上がった。短かった。途中で、ぶつりと切れた。


 剣が、骨の山の上に落ちる音がした。


 ロウの口が、開いた。声は出なかった。喉の奥が、ぴたりと閉じていた。前へ出ようとしても、足が動かなかった。止まれと言われた足だった。最後に言われた言葉が、まだ、足を縫いとめていた。


◇


 ガルドの手が、ロウの襟首を掴んだ。声は出さなかった。ただ、引いた。左へ。壁のほうへ。


 ロウの足が、ようやく、動いた。


 ガルドが先に立ち、ロウが、セラの手を引いて続いた。壁に肩を擦りつけるようにして、一歩ずつ。走らなかった。走れば、足音が鳴る。カンテラは、ロウの腰の鉤(かぎ)に吊るして、外套(がいとう)の裾をかぶせてあった。足元だけを照らしていた。


 十五歩ほど行ったところで、光の中に、トビの帽子が見えた。赤い羽根が、その横に落ちていた。


 ロウは、屈んで、羽根を拾った。音を立てないように。なぜ拾ったのか、分からなかった。荷運びの手が、勝手に拾っていた。


 その少し先の壁際に、黒い革の鞘が転がっていた。さっき、のたうつ尾に薙ぎ払われて、骨と一緒に滑ってきたものだった。ロウは、それも拾った。


 二十歩のところで、ガルドが止まった。


 壁が、浅く窪んでいた。三人が、体を押しつければ入れるほどの窪みだった。ガルドが、ロウとセラを、そこへ押し込んだ。自分は、窪みの口を塞ぐように、背を向けて立った。


◇


 静かになった。


 空洞の中央のほうで、爪が骨を掻く音が、ときどきした。それも、やがて、間遠になった。音を立てないものは、襲わない。大穴潜りたちは、また、闇の中で動かなくなりつつあった。


 ガルドが、しゃがんで、ロウの足元の光の中に手を差し入れた。指で、這う形をしてみせた。それから、壁の先を指さした。この先に、這って抜ける道がある、と言っていた。


 ロウは、外套の裾を、少しだけ持ち上げた。カンテラの光が、壁沿いに伸びた。


 ガルドの指の先、壁沿いにあと十歩ほどのところに、割れ目があった。


 その手前に、灰色の背中が、三つ、うずくまっていた。


 ロウは、裾を下ろした。


 隣で、セラが震えていた。


 声は、出していなかった。襟巻(えりまき)きの端を、口に押し込んで、噛(か)んでいた。肩だけが、小刻みに揺れていた。ロウの腕に押しつけられたセラの頬(ほお)が、濡れていた。


 ロウは、自分の手を見た。


 赤い羽根を握っていた。リーネの鞘を握っていた。どちらも、さっきまで、持ち主がいた。


 ――止まれって言われたら、止まるんでしょ。荷運び。


 止まった。言われた通りに。


 だから、ここにいる。


 ガルドの手が、ロウの肩に置かれた。窪みの口に立ったまま、振り向かずに、手だけを後ろに回していた。


 大きな手だった。震えていた。


「……荷運び」


 ガルドが、囁いた。ロウの耳にだけ届く声だった。


「嬢ちゃんの、親父はな」


 そこで、声が止まった。


 長い間があった。夜ごとに壁越しに聞いた、名前を数える声の、最後の一つの前の間と、同じ長さだった。


「……いや」


 ガルドの手が、ロウの肩を一度だけ強く掴んで、離れた。


「帰ってからだ」


◇


 セラが、襟巻きを口から外した。


 ロウの耳に、唇を寄せた。息だけの声だった。


「割れ目の前の、三匹。どかさないと、入れません」


 ロウは、頷(うなず)いた。


「わたしの声が、一番、遠くまで通ります」


 ガルドが、振り向いた。セラの腕を掴んだ。首を横に振った。それから、自分の胴鎧を、指で軽く叩(たた)いてみせた。俺がやる、と言っていた。


 セラは、ガルドの手に、自分の手を重ねた。


「鎧の音は、鳴らした人のところに集まるだけです」


 囁きのまま、早口だった。いつもの、理屈を並べるときの早口だった。


「ガルドさんがここで鳴らしたら、三匹はここに来ます。割れ目の、すぐ横に。……遠くから呼ばないと、割れ目からは、離れません」


 ガルドの手が、止まった。


「理論上は」


 セラは、そう言って、少しだけ笑った。


 ガルドの手が、ゆっくりと、セラの腕から離れた。


 セラは、ローブの内側から、手帳を出した。ロウにもらった安い紙で綴じた、深層の溝の幅が書いてある、あの手帳だった。それを、ロウの胸に押しつけた。


「持って帰ってください。学院に」


 囁いて、セラは、ロウの手をほどいた。


「……理論上は、論文に、なりますから」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。