第十一章 崩壊(二)
セラは、ロウの荷の脇から、松明を一本抜いて、外套の裾の下で、カンテラから火を移した。それから、窪みから出て、来た道を戻っていった。
壁に手をつきながら、一歩ずつ。小さな体は、骨の間を、ほとんど音を立てずに抜けていった。縦穴の下を過ぎた。その先の、右手の壁に、岩が張り出していた。人の背丈ほどの高さの、小さな岩棚だった。割れ目からは、空洞の反対側になる。
セラが、岩棚によじ登るのが、松明の明かりの中に見えた。
セラは、振り向いた。
襟巻きを、首から外していた。
ロウは、手帳と、羽根と、鞘を、外套の内側に押し込んだ。それから、腰の鉤からカンテラを外して、そちらへ掲げた。もう、隠す意味はなかった。光は、届かなかった。松明の明かりの中で、白い喉が、上下していた。
セラは、こちらを見て、笑った。泣きながら、笑っていた。
「四つ、吸って」
大穴潜りたちの耳が、いっせいに、セラのほうを向いた。
「四つ、吐く」
詠唱が、始まった。
迷宮で初めて通った、あの声だった。大穴潜りを呼んだときの、あの声だった。一音目から、途切れなかった。空洞の壁に跳ね返り、天井に跳ね返り、闇の隅々まで、届いた。
灰色の巨体が、セラの岩棚へ、なだれ込んでいった。
割れ目の前から、離れていった。
詠唱は、最後まで、途切れなかった。
最後の音節と同時に、空洞の天井が、白く燃えた。
炎の光が、一瞬だけ、空洞のすべてを照らした。骨の山。その中に落ちた、一振りの剣。その二十歩先の、胸に金の紋の光る、錆びた鎧。岩棚に群がる、いくつもの灰色の背中。
それから、光が消えた。岩棚の松明も、群がる灰色の背中の下で、見えなくなった。
詠唱の終わった声が、一度だけ、悲鳴になった。
「――っ、あ、ああ……!」
それも、すぐに消えた。
ロウは、窪みの岩に額を押しつけた。セラさん、セラさん、と、頭の中で呼んだ。声に出したら、終わる。歯を食いしばって、呼びつづけた。手帳を押しつけてきた手の冷たさが、まだ胸に残っていた。
窪みの口に立つガルドの背中が、震えていた。肩が大きく上下して、喉の奥で、何かを押し殺す音がした。
◇
ガルドが、ロウの腕を掴んで、窪みから引きずり出した。
割れ目の前の三匹は、いなくなっていた。
割れ目まで、あと十歩。
ロウは、数えた。壁に肩を擦りつけて、一歩ずつ。走らなかった。空洞の向こう側の、セラの岩棚のほうで、まだ、爪が岩を掻く音が続いていた。
七歩。八歩。
十歩目で、ガルドが止まった。
割れ目は、壁の根元に、斜めに口を開けていた。膝の高さから、胸の高さまで。幅は、ロウの肩が、やっと入るくらいだった。奥は、カンテラの光でも、見えなかった。
ガルドの胴鎧の幅では、入らなかった。
ガルドも、それを見ていた。指が、肩の留め金にかかった。一つ、外れた。金具が、小さく鳴った。
留め金は、まだあった。もう片方の肩に一つ。両の脇腹に、二つずつ。背中に、革帯が一本。全部を外すには、ロウが荷を一つ解くくらいの間がかかる。
壁の上から、爪の音が二つ、降りてきた。
セラの声に向かわなかった二匹だった。割れ目のすぐ前に、ずるりと降り立った。ロウたちから、四歩か、五歩。扇のような耳が、広がって、こちらを向いていた。ロウの、荒い息に。外れた留め金の、揺れる音に。
ロウは、息を止めようとした。止めきれなかった。吸いかけた息が、喉の奥で引っかかって、小さく鳴った。
二匹の舌が、伸びた。床の骨を、ゆっくりと舐めた。
ガルドの指が、二つ目の留め金から、離れた。
ガルドは、ロウの手から、カンテラをもぎ取った。足元に置いた。それから、斧を抜いた。
斧の背で、自分の胴鎧を、思いきり叩いた。
ごおん、と、空洞じゅうに響く音がした。
二匹の頭が、ガルドに向いた。ロウの息ではなく、鋼の音のほうへ。
――鎧の音は、鳴らした人のところに集まるだけです。
セラの言った通りだった。
二匹が、這い寄りはじめた。頭を低くして、舌で床を探りながら。一歩。また一歩。
ガルドは、斧を腰に差し戻すと、首の革紐を、引きちぎるように外した。
札の束が、ロウの手に押しつけられた。B、B、C、B、A。それから、ガルドのCの札。
「お前が持て」
「ガルドさ――」
ガルドの手が、ロウの襟首を掴んだ。もう片方の手が、荷の肩紐を、ロウの肩から引き剥がした。そのまま、ロウを、割れ目に頭から押し込んだ。
岩が、肩を削った。頬を擦った。ロウの体は、胸まで、腰まで、闇の中に入った。尻を、ガルドの手が押した。最後に、荷が、足の裏に押しつけられた。
「荷運びが、荷を忘れんな」
それから、割れ目の口が、暗くなった。
ロウは、狭い岩の中で、首だけをねじって、振り向いた。
鋼の背中が、そこにあった。
ガルドが、割れ目の口に、背中から座り込んでいた。鎧の背が、岩に擦れて、ぎしりと鳴った。肩の幅が、割れ目の幅より、広かった。足元のカンテラの光が、その背中の縁から、細く、ふちどるように漏れていた。漏れてくるのは、それだけだった。
大穴潜りの頭は、牛の胴ほどもある。この口には、入らない。入れるのは、爪と舌だけだった。その手前に、ガルドの体があった。
「ガルドさん」
ロウの声は、ほとんど、息だった。
鋼の背中の向こうから、ガルドの声がした。低かった。べらんめえの調子は、どこにもなかった。酒の抜けた朝のような、醒めた声だった。
「前は、俺がこの道を、一人で這った」
床を舐める音が、近づいてきた。
「仲間を置いてな。……止まれなかったんだよ、俺は。前も、今度も。縁で、お前が何か言いかけてたのも、分かってた」
ガルドの息が、一度、鼻から長く抜けた。
「だから、今度は、俺が止まる。ここでな。誰に言われたんでもねえ。自分で、止まる」
ごおん、と、鎧が鳴った。ガルドが、座ったまま、もう一度、叩いたのだった。音は、岩を伝って、ロウの腹の下まで響いた。
「荷運び」
ロウは、答えられなかった。
「運べ」
ロウは、動けなかった。
「こいつら全員を、運べ。……今度は、ちゃんと届けろ」
答えを、ガルドは待たなかった。
爪が、鋼を打った。
◇
ロウは、這った。
鼠道は、狭かった。
肩が岩に擦れた。頭を上げると、天井に当たった。ロウは、足で荷の肩紐を探った。手は届かなかった。足首を何度もねじって、紐を巻きつけた。荷は、引きずって這うしかなかった。札の束を、首にかけた。外套の内側の、セラの手帳と、リーネの鞘と、トビの赤い羽根を、手で確かめた。カンテラは、割れ目の外の、ガルドの足元にあった。灯り茸の小瓶だけが、外套の隙間から、かすかに青く漏れていた。
這った。
後ろで、音が続いていた。
遠くならなかった。
斧が、何か硬いものに食い込む、鈍い音。爪が、鋼の上を滑る、耳の奥を引っ掻くような音。鎧の背が、割れ目の口の岩に叩きつけられる音。そのたびに、岩が震えた。震えは、ロウの肘の下にも、膝の下にも、届いた。
ガルドの息が、聞こえた。鼻から、短く、荒く。斧を振り上げるたびに、喉の奥から、力と一緒に押し出された声が漏れた。
「……おう。来いよ。こっちだ」
這った。肘が擦り剥けた。膝が擦り剥けた。足首の荷が、岩に引っかかった。ロウは、足をねじって、外した。まだ、体を三つ分も進んでいなかった。
音は、すぐ後ろにあった。
大穴潜りが、吼えた。声が、途中で裏返った。斧が、舌か、どこか柔らかいところに届いたのかもしれなかった。
――前は、俺がこの道を、一人で這った。
前も、こうだったのだろうか。
ガルドも、這いながら、背中で、これを聞いていたのだろうか。
ガルドの声が、一度、喉の奥で潰れた。
鋼が、岩を、長く擦った。
息が、聞こえた。吸う音が、短くなった。吐く音だけが、長くなった。
斧の音が、一つ。
二つ目は、なかった。
爪が、二度、三度、鋼を掻いた。それも、止んだ。
息の音も、止んだ。
ロウは、首をねじって、振り向いた。
這ってきた闇の奥に、細い光の縁が見えた。カンテラの光だった。さっきと同じ形をしていた。鋼の背中の形を、ふちどったまま。
動かなかった。
爪の音は、もう来なかった。音を立てないものは、襲わない。
割れ目の口は、塞がったままだった。
ロウの喉から、何かが一度だけ漏れた。泣き声なのか、息なのか、自分でも分からなかった。ロウは、それを、歯の間で噛み潰した。
前を向いた。
這った。
止まったら、もう二度と、動けなくなると思った。
◇
鼠道は、六層の、野営の跡の近くに抜けていた。
朽ちた天幕。錆びた鍋。刻み目の入った、折れた槍。
ロウは、自分が張った綱を辿って、縦穴を登った。六層から五層へ。五層から四層へ。一人で。荷運びの頃、何度もそうしたように、手と足だけを動かした。何も考えなかった。考えたら、手が止まると思った。
五層の、右の横穴の前を通った。
行き止まりの壁の、白い爪の跡が、灯り茸の光の中で、まだ新しかった。
◇
灰石の迷宮の入口に出たのは、明け方だった。
空が、白みはじめていた。冷たい風が吹いていた。
ロウは、入口の石段に座り込んだ。
首から、札の束を外した。手のひらに、広げた。
ガルドのC。それから、名前も知らない仲間たちの札。B、B、C、B。
それから、Aの札。
ロウは、そのAの札を、初めて、まともに見た。縁がすり減って、刻まれた文字が、指の脂で黒ずんでいた。親指で、何度も、何度も撫でられた跡だった。
名前が、刻まれていた。
――エドガー。
ロウは、外套の内側から、リーネの鞘を出した。
鞘の口金に、小さな文字が彫ってあった。
何度も、目にしていたはずだった。酒場の卓の上で。防具屋の衝立の向こうで。野営の灯りの下で。一度も、読もうとしなかった。
――エドガー。娘へ。
ロウは、札と、鞘を、並べて置いた。
長いこと、そうしていた。
ガルドが、最初の日に、リーネの剣を見て、酒袋を持つ手を止めたこと。夜ごとの名前の、最後の一つの前の、長い間。
七層の、錆びた鎧の、金の紋。窪みで言いかけて、やめた言葉。
――嬢ちゃんの、親父はな。
割れ目の口に座り込んだ、鋼の背中。
――前は、俺がこの道を、一人で這った。仲間を置いてな。
全部が、一つにつながった。
つながったところに、もう、誰もいなかった。
この札を、届ける相手は、いなかった。
ガルドは、言えなかった。リーネは、知らないまま、父の二十歩手前で死んだ。
止めるなら、あそこだった。七層の縁で。荷が半分になった、あのとき。ガルドが、荷運び、それでいいな、と訊いた、あのとき。
戻りましょう、と言えばよかった。
ロウは、鞘を胸に抱えこんだ。
喉の奥で、ずっと噛み潰してきたものが、せり上がってきた。止めようとしたが、止まらなかった。
「……う、あ……」
一度出た声は、もう止まらなかった。ロウは石段に額をつけて、声を上げて泣いた。荷運びの頃から、一度も出したことのない声だった。誰もいない明け方の入口で、鞘と札を抱えて、子どものように泣いた。
トビさん。セラさん。リーネさん。ガルドさん。
呼んでも、誰も、返事をしなかった。
◇
日が昇った。
ロウは、札の束を、首にかけ直した。ガルドの革紐に、自分の手で、もう一つ、結び目を作った。
外套の内側から、赤い羽根を出した。帽子は、拾えなかった。羽根だけを、革紐の札の間に、結びつけた。
それから、手帳を開いた。
何を書けばいいのか、分からなかった。
ペンを持ったまま、ロウは、名前を数えた。
声に出して。一つずつ。ゆっくりと。
トビ。
セラ。
ガルド。
それから、知らない名前を、四つ。札に刻まれた順に。
エドガー。
最後の一つの前で、声が、止まった。
長い間があった。
朝の光が、灰石の迷宮の入口を、白く照らしていた。




