第十二章 軽い荷
荷が、軽かった。
灰石の迷宮から街までは、半日の道のりだった。ロウは、街道を一人で歩いた。
背中の荷の中身は、出発したときの半分だった。五人分の水と、五人分の食料の、残りの半分。それが、今は一人分の荷だった。一人で食べきれる量ではなかった。
荷運びの頃、こんなに軽い荷で歩いたことはなかった。
軽い荷は、歩きにくかった。肩紐が、背中で浮いた。一歩ごとに、荷が揺れた。重さで体を前に運ぶ、いつもの歩き方が、できなかった。
首には、札の束がかかっていた。歩くたびに、鉄の板が擦れ合って、小さく鳴った。その間で、赤い羽根が揺れていた。
街道で、すれ違った荷馬車の御者が、ロウを見て、何か言いかけて、やめた。
◇
ギルドの扉を開けると、酒場が静かになった。
ロウは、受付まで歩いた。誰も、何も言わなかった。卓の間を通るとき、杯を持つ手が止まるのが見えた。
受付の女は、ロウの顔を見て、それから、首の札の束を見た。
帳面を、開いた。
「……報告を」
ロウは、札の間に結んだ赤い羽根をほどいて、外套の内側にしまった。それから、首から札の束を外して、卓の上に置いた。
女は、一枚ずつ、札を手に取った。ガルドのC。それから、縁のすり減った、古い札が五枚。
女の手が、古い札のところで、止まった。
何も言わなかった。
「トビさんと、セラさんと、リーネさんの札は」
「……持って、帰れませんでした」
ロウは、外套の内側から、トビの赤い羽根を出しかけて、やめた。
「七層です。大きな空洞で。大穴潜りが、少なくとも、六匹」
声が、思ったより、ちゃんと出た。
受付の女は、聞いたことを、一つずつ帳面に書きつけた。それから、帳面の別の頁を開いて、四つ、名前を書いた。
ロウは、それを見ていた。
名前と、等級と、日付。それだけだった。
◇
背後の卓で、誰かが小声で言った。
「……一人だけ、帰ってきたのか」
「灰石の深層で、また一人だけかよ」
「ガルドの時と、同じじゃねえか」
声は、すぐに止んだ。誰かが、言った男の脛を蹴ったらしかった。
ロウは、振り向かなかった。
――前のパーティ、ガルドさん以外、全員死んだって。
最初の日に、トビがそう言った。明るい声のまま。
そのとき、ロウは、ガルドを疑った。掲示板の、褪せた貼り紙を思い出して。
今、同じ目が、自分の背中に向いていた。
そうでない目も、あった。
「……七層、って言ったか」
奥の卓で、誰かが言った。
「縦穴だろ。二層の崩落の跡から」
「何日で着いた」
答える者はいなかった。それでも、問いは止まなかった。椅子が一つ、こちらへ向き直る音がした。
酒場の隅の卓では、身なりのいい若い男が、膝の上の帳面に、何か書きつけていた。ロウと目が合うと、男は、商家の者のような丁寧さで頭を下げた。
「調査の記録は」
受付の女が、言った。
「深層の様子を、ギルドに報告していただく決まりです。何か、持ち帰ったものがあれば」
ロウは、外套の内側に手を入れた。
セラの手帳に、指が触れた。
それから、手を抜いた。
自分の手帳を出して、卓の上に置いた。
「縦穴の地図と、各層の様子と、大穴潜りの数は、こっちに書いてあります」
「持ち帰った記録は、これで全部ですか」
決まりの文句だった。受付の女は、帳面から目も上げずに訊いた。
ロウは、外套の上から、セラの手帳に触れた。
黙っていれば、それで済んだ。
「……もう一冊、あります」
受付の女が、顔を上げた。
「でも、それは」
ロウは、言った。
「学院に、持っていく約束です」
受付の女が、ロウを見た。
ロウは、目を逸らさなかった。
女は、しばらく黙っていた。それから、ロウの手帳を、帳面の横に引き寄せた。
「……写させていただきます。今日中に、お返しします」
◇
報酬は、最低保証の分だけが出た。
受付の女は、それを、五つに分けて、卓の上に並べた。
「規定です。死亡した冒険者の取り分は、遺族がいれば、遺族に渡されます。いなければ、ギルドに戻ります」
女は、四つの山のうちの一つを、指で押した。
「トビさんの分は。……東区の孤児院が、届け先に登録されています」
ロウは、その山を見た。
トビは、いつ、そんなものを登録したのだろう。最初の日か。下水の帰りか。孤児院に、自分の取り分が届くように。死んだら、届くように。
「私が、持っていきます」
ロウは、言った。
受付の女は、少し迷ってから、頷いた。
◇
宿に戻ったのは、夕方だった。
食堂の、いつもの卓に、宿の主人が杯を並べていた。
五つ。
ロウが入ってきたのを見て、主人の手が止まった。それから、黙って、杯を四つ、盆に戻した。
一つだけ、卓に残った。
ロウは、その杯の前に座った。
いつもの卓だった。トビが、朝のパンを一つ、黙って懐にしまっていた場所。セラが、その紙はどこで買うんですかと訊いた場所。リーネが、結いかけの髪紐を口にくわえたまま、早く食べなさいよと急かした場所。ガルドが、一杯だけ飲んで、夜の通りへ出ていった場所。
卓は、こんなに広かっただろうか。
主人が、何も言わずに、杯に水を注いだ。
ロウは、それを、飲まなかった。
◇
階段を上がった。
十二段。リーネを背負って上がった夜に、数えた段数だった。
廊下の、手前から二つ目が、リーネの部屋だった。扉は、閉まっていた。
その隣が、ガルドの部屋だった。扉は、閉まっていた。
ロウは、自分の部屋に入って、扉を閉めた。
◇
翌朝、ロウは、東区の孤児院へ行った。
染物屋の並ぶ通りの裏。壁に、子どもの手で描いた落書きのある、古い石造りの建物。
門の前で、足が止まった。
――そのうち、話す。
灰石の浅層から戻った日、ガルドは札の束を首にかけ直して、そう言った。話さないまま、いなくなった。昔の仲間の札を、首から外せずにいた男だった。
この門をくぐれば、トビがいないことを、自分の口で言うことになる。
門の内側で、子どもの声がしていた。
ロウは、胸元に手をやった。札の束は、ギルドに置いてきた。手は、外套の上から、何もない胸元を握った。
それから、門をくぐった。
◇
最初に気づいたのは、あの女の子だった。
五つくらいの、トビの帽子の羽根を指さして、あたしがあげたやつ、と胸を張っていた子だった。
「あ、トビにいのおともだち!」
女の子が、駆けてきた。ロウの前で止まって、後ろを覗き込んだ。
「トビにいは?」
ロウは、しゃがんだ。女の子と、目の高さを合わせた。
言葉が、出てこなかった。
外套の内側から、赤い羽根を出した。女の子の前に、差し出した。
女の子は、羽根を見た。
それから、ロウの顔を見た。
もう一度、羽根を見た。
小さな手が、羽根を受け取った。両手で、そっと。
「……お守り、だったのに」
女の子は、それだけ言った。
泣かなかった。泣き方が、分からないような顔をしていた。
◇
院長は、院の奥の、小さな部屋で、ロウを迎えた。
ロウが卓の上に置いた革袋を、院長は、前と同じように、すぐには受け取らなかった。
「あの子の、取り分です。ギルドに、ここが届け先として登録されていました」
院長は、革袋を見ていた。
「……いつかは、こうなると思っていたわ」
静かな声だった。
「あの子がここにお金を持ってくるたびに、次は誰が掲示板の紙を持ってくるんだろうって。前に、そう言ったでしょう」
ロウは、頷いた。孤児院の、この部屋で、ロウも聞いていた。
「持ってきたのが、あなたで、よかった」
院長は、革袋を、両手で引き寄せた。
「あの子、最後に、何か言っていた?」
ロウは、口を開いた。
上っ――。
それが、トビの最後の言葉だった。耳のいいトビが、真上の音に気づいて、言いかけた言葉。
それを、この人に言えるだろうか。
「……上だ、逃げろ、って」
ロウは、言った。
「最後まで、斥候でした。一番先を歩いて、一番先に、気づいて」
院長は、目を閉じた。
長いこと、そうしていた。
「そう」
それから、目を開けて、少しだけ笑った。
「あの子らしいわね」
◇
帰り際、門のところで、女の子が待っていた。
赤い羽根を、自分の髪に挿していた。うまく留まらずに、斜めになっていた。
「トビにいの、おともだち」
女の子が、言った。
「また、来る?」
ロウは、しゃがんで、羽根を挿し直してやった。荷運びの頃、荷の結び目を直すときと同じ手つきで。羽根は、まっすぐに立った。
「……来ます」
ロウは、言った。
女の子は、羽根に手を触れて、それから、門の中へ駆けていった。
門の脇で、ロウは手帳を開いた。
――トビさん。孤児院。届けた。
――セラさん。学院。明日。
セラの行の、最後の一言を、しばらく見ていた。
今日は、行かなかった。セラの手帳を、まだ、手放す準備ができていなかった。
◇
宿に戻ると、主人が、帳場の奥から、ロウを手招きした。
「旦那から、預かってるもんがある」
主人は、帳場の引き出しから、紐で綴じた薄い紙の束を出した。安い紙だった。角が、何年分も擦れて、丸くなっていた。
「もしものことがあったら、首の札と一緒に、渡す相手に渡してくれってな。五年、預かってた。旦那は、ときどき持ち出しては何か書き足して、また返しに来た」
主人は、紙の束を、ロウの手に置いた。
「旦那の札、あんたが持って帰ってきたんだろ。なら、あんたが、渡す相手だ」
ロウは、紙の束を開いた。
一枚目に、名前が四つ、並んでいた。
その横に、太い、不器用な字で、届け先が書いてあった。西の丘陵の、村の名前。南の峠の向こうの、町の名前。東区の、通りの名前が、二つ。どれも、知っている場所だった。歩いて行ける場所だった。
それぞれの横に、日付が、いくつも書きつけてあった。
五年前から、今年まで。何度も、何度も。
どの日付の横にも、同じ一言が、添えてあった。
――扉の前まで。
ロウは、頁をめくった。
二枚目に、名前が一つだけ、書いてあった。
――エドガー。
届け先の欄に、こうあった。
――娘、リーネ。冒険者になったと聞く。居場所、不明。
その下に、日付が並んでいた。あちこちの町の名前と一緒に。探していたのだ、とロウは思った。五年間、ずっと。
一番下に、新しい墨で、一行だけ、書き足してあった。
ロウが、ガルドと初めて会った日の、日付だった。
――見つけた。言えない。




