第五章 音のない迷宮(一)
四件目の朝、ロウの手帳は、半分が埋まっていた。
荷運びの頃に書いた荷の数と、ここ数週間に書いた言葉とが、同じ紙の束の中で混ざっていた。塩三袋、松明四本。静かなのは、いないからじゃない。綱が、頭の代わり。
「次で四件目っすね」
ギルドの卓で、トビが指を折った。
「あと一件で、解散できるっす」
「解散したいの?」
リーネが訊いた。皮肉の形をしていたが、目は皮肉を言っていなかった。
トビは帽子の羽根をいじった。
「……どうっすかね」
それ以上、誰も何も言わなかった。
依頼書は、灰石の迷宮の浅層。一層と二層の地図の更新と、壁に出る魔石の採取。DとEのパーティが、駆け出しの仕上げに受ける仕事だった。
「灰石か」
ガルドが依頼書を眺めて、ふっと鼻で笑った。笑い方が、少し柔らかかった。
「楽な仕事だ。昔、何度も潜った。浅いところは、目をつぶってても歩ける」
そう言いながら、ガルドの手が、鎖帷子の胸元に一瞬だけ触れたのを、ロウは見た。
「目はつぶらないでください」
ロウが言うと、トビが噴き出した。セラも、襟巻きの中で小さく笑った。ガルドは、ロウを見て、口の端を上げた。
ロウは手帳の隅に、小さく書いた。
――ガルドさん、「楽な仕事だ」と言った。
なぜそれを書いたのか、自分でも分からなかった。
◇
迷宮の一層は、本当に楽だった。
トビが床石の継ぎ目に隠れた落とし穴を二つ見つけ、印をつけた。ロウは歩数を数え、手帳に地図を描いた。三つ目の角で出た大鼠の群れは、ガルドが「右」と言い、リーネが右を斬り、それで終わった。セラは壁の魔石を見分け、ロウの荷はみるみる重くなった。
一層から二層に降りる階段で、別のパーティとすれ違った。
三人組だった。揃いの、使い込まれた鉄の胸当て。Cの札。
「鉄の轍だ」
トビが小声で言った。
「三層まで潜るって話っす。Cの中じゃ、けっこう名前の通った連中っすよ」
先頭の男が、すれ違いざまにリーネの剣に目を留め、口笛を吹いた。後ろの女が男の頭をはたき、こちらに軽く手を振った。三人目の若い男は、緊張した顔で荷を背負い直していた。荷運びの背負い方だ、とロウは思った。
三人は二層の奥へ、三層への階段のほうへ消えた。
◇
二層の地図を半分ほど埋めたところで、床が、揺れた。
最初は、遠い雷のような音だった。それから、足の裏から腹へ、低い振動が上がってきた。天井から、細かい砂がぱらぱらと落ちる。
「伏せろ!」
ガルドが叫んだ。
全員が床に這いつくばった。背後で、轟音がした。岩が岩を叩き潰す、骨にまで響く音。砂埃が通路を満たし、カンテラの光が濁った。
音が止んだあとも、しばらく、誰も顔を上げなかった。
ロウは、咳き込みながら振り返った。
来た道が、なかった。
一層への階段に続く通路が、天井まで、崩れた岩で埋まっていた。
「……崩落、です」
セラが、震える声で言った。
「灰石の迷宮で、浅層の崩落の記録は、ここ二十年、ありません。理論上は、何か、下から――」
セラは、そこで言葉を切った。
ガルドが、片手を上げていた。黙れ、の合図だった。
ガルドの顔から、血の気が引いていた。ロウがこれまで一度も見たことのない顔だった。
遠くで、音がした。
崩落の音ではなかった。もっと低く、もっと長い。巨大なものが、石の上を擦りながら、這う音だった。
足元から、聞こえていた。
◇
鉄の轍は、三層への階段の手前で見つかった。
二人は、もう人の形をしていなかった。揃いの鉄の胸当てが、紙のようにひしゃげていた。
三人目は、壁際に座り込んでいた。荷運びの背負い方をしていた、あの若い男だった。荷は、なかった。右脚が、膝から下で、なかった。
生きていた。
ロウが駆け寄ると、男の目がゆっくりとこちらを向いた。唇が動いた。ロウは耳を寄せた。
「……おと、を」
息だけの声だった。
「たてる、な」
男の手が、ロウの袖を掴んだ。力のない指だった。
「あいつは、目が、ない。……おとで、くる」
それから、男は何かを言おうとした。名前か、誰かへの伝言か。唇が二度動き、三度目は動かなかった。
ロウの袖を掴んでいた指が、ほどけた。
ロウは、しばらく動けなかった。自分と同じ背負い方をしていた男だった。三層まで潜るパーティで、荷を担ぐ役をしていた男。
ガルドが、無言でロウの肩を掴んだ。それから、通路の脇の、岩が張り出した窪みを顎で示した。
全員が、窪みに身を押し込んだ。
ちょうどそのとき、それが、三層への階段から這い上がってきた。
◇
蜥蜴だった。
だが、牛二頭を並べたほどの大きさがあった。背中は灰色の岩のように硬く、ごつごつと盛り上がっていた。目が、なかった。目のあるべきところは、つるりとした皮膚に覆われていた。代わりに、頭の両側に、扇のような薄い膜の耳が大きく開いていた。
それが、ひくひくと震えていた。
長い舌が、ちろりと出た。床を舐めた。床の振動を、舐めとっているのだ、とロウは思った。
大穴潜り。
ガルドの唇が、音を出さずにその名前を形作った。深層の、五層から下にしかいないはずの魔物だった。
大穴潜りは、ゆっくりと通路を進んできた。
鉄の轍の三人の前で、頭を低くした。舌が、床を舐めた。耳が、震えた。
そして、素通りした。
ひしゃげた二人の前も。壁際で動かなくなった、荷を担いでいた男の前も。
ロウは、それを見ていた。息を止めて、見ていた。
音を立てないものは、襲わない。
◇
窪みは、五人が入るには狭すぎた。
ロウの背中は岩に押しつけられ、胸には、リーネの体が押しつけられていた。押し込まれたときに、向かい合う形になってしまったのだ。
リーネの額が、ロウの顎のすぐ下にあった。革の胸当ての固い縁が、みぞおちに食い込んでいた。
心臓の音がした。
自分のものか、リーネのものか、分からなかった。ただ、うるさかった。こんなにうるさい音が、あいつに聞こえないはずがない、と思った。
通路の向こうで、大穴潜りの舌が床を舐める音がした。
リーネの息が、ロウの首筋にかかった。浅く、速い。止めようとして、止めきれていない。
――音になる。
ロウは、その息だけを聞いていた。細い息が、いつ喉で鳴るか。いつ、声になるか。
「……っ」
鳴りかけた。
リーネはロウの外套の胸元を握りしめ、そこに顔を押しつけて、音を殺した。布越しに、湿った熱い息が胸に染みてきた。ロウは、それが外に漏れないことだけを祈った。
大穴潜りの耳が、こちらを向いた。
リーネの指が、ロウの胸元の布を掴んだ。爪が、布越しに肌に食い込んだ。痛かった。痛いと思うことさえ、音になりそうで怖かった。
ロウは息を止めた。リーネも、止めた。密着した体の上下が、止まった。
長かった。
大穴潜りの耳が、ゆっくりと、別の方向に向いた。
岩を擦る音が、遠ざかっていった。
聞こえなくなった。
ロウの膝から、力が抜けかけた。岩に背中を預けて、ようやく息を吐いた。リーネも、同じように息を吐いた。
それで、初めて気づいた。
顔が、近かった。
リーネの額は、まだロウの顎の下にあった。結った髪から、汗と埃の匂いがした。押しつけられたままの胸当ての向こうに、柔らかい重みがあった。さっきまで、ただ「音を出すかもしれないもの」だった体が、急に、リーネの体になった。
自分の片手が、リーネの腰の、剣帯の少し上にあった。いつからそこにあったのか、分からなかった。
リーネも、気づいたらしかった。
顔を上げなかった。上げないまま、外套の胸元を握っていた手を、一本ずつ、指をほどいた。
◇
大穴潜りの音が、通路の奥に遠のいたところで、ガルドが窪みの奥の暗がりに這い込んだ。
しばらくして、戻ってきた。手のひらに、砂がついていた。
「鼠道が、生きてる」
ほとんど息だけの声だった。全員が、ガルドの口元に顔を寄せた。
「昔の、抜け道だ。ここから一層の裏に出られる。鎧を脱げば、一人ずつなら通れる。這って、四半刻」
「なんで知ってるんすか」
トビの声も、息だけだった。
「昔、ここで死にかけた。そのとき、這って出た」
ガルドは、鎖帷子の留め具に手をかけた。
トビの目が、それを見ていた。
「這ってる間、音がするっすよね」
「する」
「あいつが、来たら」
「来ねえように、別のところで、もっとでかい音を出す奴がいりゃいい」
ガルドは、鎖帷子を脱がなかった。留め具から手を離し、代わりに、鎖帷子の襟元に指を入れ、革紐を引き出した。
紐には、札が何枚も通っていた。一枚は、Dと刻まれたガルド自身の札だった。残りは、どれも縁がすり減って、刻まれた文字が指の脂で黒ずんでいた。B、B、C、B。それから、一枚だけ、Aの札。
ガルドは紐ごと首から外し、ロウの手に押しつけた。
鉄の板が、手のひらの中で擦れ合って、小さく鳴った。
「向こうに出たら、それを宿の親父に渡せ。届け先は、親父が知ってる」
「これは」
「前のパーティだ」
ロウは、札の裏に刻まれた名前を見た。知らない名前ばかりだった。だが、どこかで聞いた気がした。
胞子の洞窟から戻った夜。壁越しに、一つずつ、ゆっくりと数えられていた名前。
「行くのはお前らだ。順番は、魔術師、坊主、荷運び、嬢ちゃん。俺が、反対側の通路で盾を鳴らす」
トビが、ガルドを見た。
酒場で、からかう相手を探すときの目ではなかった。何か、全く別のものを測っている目だった。
「……ガルドさんが、最初に行けば。一人で、確実に、出られるっすよね」
「ああ」
「なんで、行かないんすか」
ガルドは、少しだけ黙った。
「前に、そうしたからだ」
◇
「待ってください」
ロウは、自分の声が出たことに驚かなかった。もう、驚かなかった。
手帳を開いていた。カンテラの光は消してある。ミレラにもらった灯り茸の小瓶を、ずっと荷に入れていた。その青白い光で、文字を読んだ。
さっき、震える手で書いた一行。
「音を立てないものは、襲いません。鉄の轍の人の前を、素通りしました。私たちの前も」
「だから何だ」
「ガルドさんが音を出し続けたら、ガルドさんが死にます。でも、音を一度出して、止めたら」
ロウは、指で手帳の地図をなぞった。二層の地図だった。自分が歩数を数えて描いた地図。
「あいつは、音の出たところまで来て、そこで止まります。舌で床を舐めて、探します。頭を下げて」
地図の一か所を、指で叩いた。
「ここに、岩棚がありました。通路の天井が低くなって、人一人が乗れる段が張り出してるところ。地図に、書いてあります」
リーネが、ロウの指先を見た。
「その下に、あいつを呼んだら」
「頭を下げて床を舐めてるとき、首の下は見えません。でも、遠くの音のほうに頭を高く上げたら、喉が、ちょうど岩棚の高さに来ます」
セラが、息を呑んだ。
「……喉が、見えます。蜥蜴の仲間は、喉の下の皮膚が一番薄いです。理論上は」
「呼ぶのは誰だ」
ガルドが訊いた。
全員が、黙った。
セラが、襟巻きを指で緩めた。
「わたしです」
声が、震えていた。
「詠唱は、声が大きいです。一番遠くまで、通ります。……実技試験で、一度も、ちゃんと出なかった声ですけど」




