第四章 胞子の洞窟
三件目の依頼人は、ギルドの卓に自分から座っていた。
「あなたたちが、ヘルン村の猟師を連れ帰ったパーティね」
三十を少し過ぎたくらいの女だった。薬師の前掛けの上から、旅用の革の上着を羽織っている。黒髪を無造作に後ろでまとめ、ほつれた何本かが首筋にかかっていた。唇の端に、薬草で染まったような薄い緑色が残っていた。
「ミレラ。薬師よ。西の丘陵の、灯り茸の洞窟まで連れていってほしいの」
ミレラは卓の上に、小さな瓶を置いた。中で、灰色の粉が揺れていた。
「これが欲しいの。洞窟の奥に生える、夢見茸の胞子」
「夢見茸」
セラが、身を乗り出した。襟巻きの奥で、声が上ずった。
「吸った獲物の判断を鈍らせて、動きを止める胞子です。洞窟の生き物は、それで止まった獲物を食べます。食べ残しに、また茸が生える。苗床です」
「詳しいのね」
ミレラは面白そうにセラを見た。
「その胞子を薄めると、いい麻酔になるの。外科の先生たちが、喉から手が出るほど欲しがってる。……濃いままだと、別の使い道もあるけど」
ミレラは片目を細めて、卓の男たちを順番に見た。トビが目を逸らし、ロウは意味が分からずに瞬きをし、ガルドは酒袋の栓を抜いた。
「別の使い道って、なんですか」
ロウが訊くと、ミレラは声を立てて笑った。
「可愛いわね、荷運びさん。吸えば分かるわよ。吸わないでほしいけど」
◇
洞窟に入る前の晩、宿の一室で、ガルドが全員を座らせた。
ガルドがそうするのは、初めてだった。
「胞子の洞窟で一番死ぬのは、強い奴だ」
ガルドは、酒袋に口をつけなかった。
「止まった獲物を食う奴がいる。大百足だ。人の腕くらいの太さで、長さは馬二頭分。顎に毒がある。だが、こいつ自体はそこまで怖くねえ。怖いのは、胞子でぼうっとしてるところを、後ろから来られることだ」
「対策は」
リーネが訊いた。訊いたこと自体に、ロウは少し驚いた。
「一つ目、口と鼻を塞ぐ布。酢と灰を溶かした水で濡らす。乾いたら効かねえ」
セラが、すぐに続けた。
「酢は胞子の殻を弱らせます。灰は、粒を絡めとります。理論上は、湿った布二枚で、八割は防げます」
「残りの二割が問題だ」
ガルドは頷き、続けた。
「二つ目、入口から命綱を張る。一本の綱を、ずっと手で辿りながら進む。頭がぼやけたら、綱を引いて戻る。綱が頭の代わりだ」
ガルドの目が、ロウに向いた。
「荷運び。綱はお前が持て。それと、蝋燭を一本。火を点けたら、それが燃え尽きる前に出る。燃え尽きたら、誰が何と言おうと、引き返す。お前が言え」
「……私が、ですか」
「お前が一番、胞子に近づかねえ。一番後ろで、一番頭がはっきりしてる奴が、時間を言う」
ロウは手帳を開いた。手が少し震えて、字が歪んだ。
――濡れた布。酢と灰。乾いたら効かない。
――綱が、頭の代わり。
――蝋燭が燃え尽きたら、引き返す。自分が言う。
◇
灯り茸の洞窟は、名前の通り、光っていた。
入口から二十歩も入ると、岩壁一面に、指の先ほどの小さな茸がびっしりと生えていた。それが、ぼんやりと青白く光っている。カンテラがなくても、互いの顔が見えるほどだった。
美しかった。それが、かえって怖かった。
口元の布が、酢の臭いで鼻を刺した。息をするたびに、湿った布が唇に張りつく。セラは布の上から、さらに襟巻きを二重に巻いていた。
隊列は、トビ、リーネ、ミレラ、セラ、ガルド、最後尾がロウだった。ロウは片手で命綱を繰り出し、もう片方の手に、火を点けた蝋燭を持っていた。
蝋燭の長さは、指三本分。
洞窟は、奥に行くほど暖かくなった。湿った、生温い空気だった。誰かの汗の匂いが、酢の臭いの隙間から鼻に届いた。
一度だけ、大百足が出た。天井の割れ目から、セラの頭の上に、ずるりと半身を垂らしてきた。トビが振り返って「上っす」と言い、セラが身を屈め、すぐ後ろのガルドが盾で顎を受けた。引き返してきたリーネの剣が節と節の間に滑り込み、百足は二つに分かれて落ちた。分かれてからも、しばらく脚が動いていた。
ガルドは、それを見下ろして言った。
「一匹いりゃ、もう一匹いる。急げ」
蝋燭は、指二本分になっていた。
◇
夢見茸は、洞窟の一番奥の、天井の低い窪みにあった。
他の茸より一回り大きく、傘の色が灰色だった。それが、骨の上に生えていた。
人の骨だった。
仰向けに寝ているような形で、茸に覆われていた。肋骨の間から、頭蓋骨の目の穴から、灰色の傘がいくつも覗いていた。腰のあたりに、錆びた短剣が一本だけ転がっていた。
誰も、何も言わなかった。
ミレラだけが、静かに膝をついた。
「ごめんなさいね」
骨に向かって、小さく言った。それから、手袋をはめた手で、茸の傘の下に瓶の口を当て、指先で傘を軽く叩いた。灰色の粉が、さらさらと瓶の中に落ちていく。
「一本につき、三回。それ以上叩くと、外に舞う」
ミレラの手つきは、慣れていた。
ガルドは、窪みの入口に立ち、背中で全員を守るようにして、洞窟の暗がりを見ていた。
そのとき、暗がりが、動いた。
◇
二匹目は、床を這ってきた。
音がなかった。気づいたのは、ガルドだけだった。
ガルドは盾を下ろして受けた。顎が盾の縁を噛み、毒の滴が鉄の上でじゅっと泡立つ。押し返す。百足の体が、ぐるりとガルドの足に巻きつこうとする。
その尾が、窪みの天井を叩いた。
夢見茸の群れが、いっせいに揺れた。
灰色の霧が、窪みの中に降った。
ガルドは、顔を背けた。遅かった。百足の脚の一本が、口元の布を引っかけて、裂いていた。
息を、吸ってしまった。
◇
甘え、とガルドは思った。
酢の臭いの向こうに、熟れすぎた果物みてえな匂いがあった。喉の奥がじわりと熱くなって、その熱が胸に落ち、腹に落ち、もっと下まで落ちていく。
くそったれ。吸っちまった。
頭はまだ回っていた。回っているうちは問題ねえ、と昔の自分なら言っただろう。百足の頭を盾で押さえつけ、斧で叩く。一発。二発。手応えはある。腕も脚も、言うことを聞く。
目だけが、言うことを聞かなかった。
視界の端に、嬢ちゃんがいた。剣を構えて、百足の胴に斬り込む隙を窺っていた。洞窟の中は蒸していて、嬢ちゃんは汗をかいていた。結い上げた髪からほつれた毛が首筋に張りついて、その首筋を汗が一筋、のろのろと伝っていく。鎖骨のくぼみに溜まって、革の胸当ての縁の、その奥へ。
ガルドは、それを最後まで目で追っていた。
おい。何を見てやがる。
剣を振り上げた嬢ちゃんの脇腹が、胸当ての横から覗いた。安物の上衣が汗で肌にへばりついている。剣を振るための、短く強い息が聞こえる。はっ、と吐く。はっ、と吐く。いい呼吸だ、と頭のどこかが、妙に醒めた声で言った。剣士の呼吸だ。
その音が、耳の奥に絡みついて、離れなかった。
ガルドは、奥歯を噛んだ。
あれは仲間だ。あれは、あの剣を下げた娘だ。
十年前に決めたことがある。酒場の女なら、いくらでも口説く。だが、背中を預ける女には、指一本触れねえ。それだけは十年守った。全員くたばったあの日まで守ったし、くたばった後も守ってきた。守ってきたもんしか、俺には残ってねえ。
なのに、目が、離れねえ。
無理やり視線を引き剥がした先に、薬師の女がいた。膝をついたまま瓶を胸に抱えて、霧から逃れようと身をよじっている。前掛けがはだけて、汗に濡れた喉元が灯り茸に青白く照らされ、こっちを見上げた目が、霧のせいか、ひどく潤んで見えた。
ちげえ。そうじゃねえだろうが。
息が荒くなっていた。裂けた布の隙間から熱い息が漏れて、吸えばまた甘い匂いが入ってくる。分かっていて、吸っちまう。
百足の顎が、盾の縁を回り込んだ。
一瞬、遅れた。昔なら遅れなかった、とその一瞬のうちにも、頭の隅で考えていた。
左の前腕に、焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走った。顎が、鎖帷子の継ぎ当ての、色の違う鉄の、ちょうど継ぎ目に食い込んでいた。
◇
痛みが、霧を裂いた。
ありがてえ、とガルドは思った。
噛まれた腕は引かなかった。逆に斧を放り捨て、空いた右手で、顎の食い込んだ傷口を上から握り込んだ。目の前が白くなるほど痛かった。それでいい。痛えあいだは、余計なもんが見えねえ。昔、北の砦で、凍えて眠りかけた若いのに、自分の指を噛ませたことがある。あれと同じだ。
「嬢ちゃん! 節だ、頭の後ろの三つ目!」
声が出た。まだ、俺の声だった。
嬢ちゃんの剣が、節の継ぎ目に滑り込んだ。百足がのたうち、顎が外れて、腕から黒い血が溢れ出た。
百足が動かなくなるまで、ガルドは傷口を握り続けた。
それから、嬢ちゃんを見ないようにして、一歩、後ろに下がった。
もう一歩。
嬢ちゃんが、怪訝な顔でこちらを見た。
「ガルド、腕」
「寄るな」
思ったより強い声になった。
嬢ちゃんの足が、止まった。
「……寄るな。俺は、吸った」
ガルドは、裂けた布を顔に押し当てた。もう濡れていなかった。乾いた布越しに、まだ甘い匂いがした。
◇
ロウは、蝋燭を見ていた。
指一本分も、残っていなかった。
窪みの中で、ガルドが壁に背をつけて立っていた。左腕から血を流し、右手で傷を握りしめたまま、浅い息を繰り返している。目が、焦点を結んでいなかった。
リーネが、ガルドとミレラの間に立っていた。剣は、まだ抜いたままだった。ミレラは瓶を抱いたまま、膝をついて咳き込んでいた。セラは襟巻きを両手で押さえ、四つ吸って、四つ吐いていた。トビは窪みの外で、来た道のほうを向き、背後の暗がりに短剣を向けていた。
誰も、引き返そうと言わなかった。
ミレラの瓶は、まだ半分しか埋まっていなかった。
ロウの口の中が、からからに乾いた。言わなければならない。蝋燭が燃え尽きたら、誰が何と言おうと、引き返す。お前が言え。
でも、ガルドさんが。
ガルドさんが、まだ、何も言っていない。
蝋燭の火が、芯の根元で小さくなった。
「――時間です」
声が、出た。
全員が、ロウを見た。
「時間です。引き返します。綱を、辿ってください」
ミレラが、何か言いかけた。瓶を見た。半分。
ガルドが、壁から背を離した。
定まらない目で、ロウを見た。それから、低く言った。
「……聞こえたろ。荷運びが、時間だと言った」
ガルドは、綱を掴んだ。
「止まれと言われたら、止まる。戻れと言われたら、戻る」
それきり、何も言わずに、綱を辿りはじめた。
◇
洞窟を出たとき、外は夕暮れだった。
ガルドは入口の岩に座り込み、セラが用意していた酢の水を頭からかぶった。何度も、何度も。それから、ミレラが解毒の膏薬を塗った。百足の毒は、ミレラの鞄の中の薬で抑えられるものだった。
「運がいいわ。継ぎ当ての鉄が、顎の半分を止めてた」
膏薬を塗るミレラの指が、傷の周りの肌を撫でた。ガルドは、目を閉じたまま、身じろぎ一つしなかった。
ロウは、ミレラの鞄を抱えて、二人のすぐ後ろに立っていた。
「……それと」
ミレラは手を止めずに、声を落とした。
「霧の中で、あなた、私とあの子から下がったわね。二歩」
ガルドは答えなかった。
「普通は、逆に寄ってくるのよ。あれを吸った男は。だから、高く売れるの」
ミレラは包帯の端を結び、ガルドの腕を軽く叩いた。
「いい男ね。顔はともかく」
別れ際、ミレラはロウに、小さな瓶を一つ放ってよこした。中で、灯り茸のかけらが青白く光っていた。
「暗いところでも、字が読めるわよ。荷運びさん、いつも何か書いてるでしょ」
◇
瓶は、半分だった。
報酬は、半分だった。
誰も、文句を言わなかった。
その夜、丘の麓の村の小さな酒場で、ガルドの杯には、本当に水が入っていた。ロウは、匂いで分かった。
トビが、上着の内側から銅貨を何枚か出して、ガルドの前に置いた。
「……下水のときの、借り。半分っす」
「返さなくていいと言った」
「返すっす」
トビは、しばらくガルドの包帯を見ていた。それから、目を逸らして言った。
「腕。痛いっすか」
「痛え」
「ならいいっす」
何がいいのか、トビは説明しなかった。
リーネは、ガルドの向かいに座っていた。何も言わずに、自分の皿から肉を一切れ取って、ガルドの皿に載せた。ガルドが顔を上げると、リーネは窓のほうを見ていた。
セラは、ロウの隣で、小さく言った。
「時間です、って言ったとき」
ロウは、杯を持つ手を止めた。
「ロウさんの声、初めて、大きかったです」
◇
その夜、ロウは手帳を開いた。
――強い奴から死ぬ。
――綱が、頭の代わり。
――止まれと言われたら止まる。言われたのが、自分より弱い者でも。
書いてから、ペンを止めた。
窓の外は、静かだった。今夜は、宿の裏口から誰も出ていかなかった。
代わりに、隣の部屋から、低い声が聞こえた。ガルドの部屋だった。誰かと話しているのではなかった。一人で、何かを数えているような声だった。
名前だった。
知らない名前が、いくつも。一つずつ、ゆっくりと。
最後の一つだけ、少し長く間を置いてから、呼ばれた。
ロウには、聞き取れなかった。




