第三章 靴の足跡(三)
七匹目が倒れたとき、弓の弦が鳴った。
ガルドの盾に、矢が立った。猟師の矢だった。
「弓は、引くのに時間がかかる。射ったら、次まで、三つ数えろ」
残りは、四匹。射手は、広場の向こう、羊の死骸の陰にいた。二十歩はあった。その手前に、三匹。
「三つじゃ、届かない」
「だから、行くな」
弦が、鳴った。矢が、リーネの耳の横を抜けて、岩に当たって折れた。
一つ。
リーネは、口の左から、出た。
「嬢ちゃん!」
二つ。
兜をかぶった一匹が、前に飛び出してきた。リーネは止まらなかった。肩で、ぶつかった。小さな体が、兜ごと、地面に転がった。こっちの足も、もつれた。片膝が、土を噛んだ。
三つ。
立ち上がったとき、羊の陰で、射手が次の矢をつがえて、弦を引いていた。
まだ、五歩あった。
届かない。分かっていた。分かっていて、足が止まらなかった。
弦が、鳴った。
目の前が、暗くなった。鉄と、汗の匂い。顔の前に、横から、盾の裏側が突き出されていた。矢が、その向こうで、どん、と立った。
あいつの盾。膝をついていたあいだに、追いつかれていた。
リーネは、盾の陰から出た。五歩。射手が次の矢に手を伸ばす前に、剣が首に届いた。
振り向くと、一匹が、ガルドの背中に跳びついていた。もう一匹が、正面から、錆びた鉈を振りかぶっていた。
ガルドは、振り向かずに、肘を後ろへ振った。背中の一匹が、顔を潰されて落ちた。正面の鉈を、斧の柄で受けて、受けたまま柄を滑らせ、刃を相手の指の上に落とした。
リーネは、そっちへ走りかけた。
横で、兜の一匹が、起き上がっていた。鎌が、来た。
頬に、熱いものが走った。
振り向きざまに、斬った。兜が、地面に落ちた。中身と一緒に。
ガルドの足元に、二匹が転がっていた。
「十四」
ガルドが、言った。
広場が、静かになった。
頬から、血が、顎へ伝っていた。指で触ると、指が赤くなった。浅い。
ガルドが、斧を地面に突き立てて、盾に立った二本の矢を、根元から折った。
「前に出るなって、言ったよな」
「出なきゃ、あの弓、ずっと射ってきたでしょ」
「射られてたのは、俺の盾だ」
言い返す言葉が、見つからなかった。
息が、まだ上がっていた。膝の裏が、今になって笑いはじめていた。
ガルドは、折った二本を捨てた。こっちを見ないまま、言った。
「半歩引いてから、振り下ろすんだな」
それから、少し間を置いた。
「……嬢ちゃん。親父さんは、何級だった」
「……A」
ガルドは、黙った。それきり、何も訊かなかった。
穴の奥から、白い光が、一度だけ漏れてきた。少し遅れて、焦げた臭いが、口から流れてきた。
セラの、術だった。
ガルドが、もう走っていた。
◇
ガルドとリーネが、焦げた通路を抜けて裏の空洞に駆け込んできたのは、それからすぐだった。
二人とも、血まみれだった。ほとんどが、ゴブリンの血だった。リーネの頬に、一本だけ浅い切り傷があった。
ガルドは、空洞を一目で見渡した。倒れたゴブリンの数。焦げた通路。壁際で動かない一匹と、その横に転がった、中身の散らばった荷。荷の横で膝をついているロウ。
ガルドの目が、少しだけ長く、ロウに留まった。
「……奥にも、いやがったか」
低い声だった。
「俺の読み違いだ」
ガルドがそれを言うのを、ロウは初めて聞いた。
リーネは、セラのところに駆け寄った。自分の外套を外しかけて、手を止めた。それから、ゴブリンの死骸の首から紺の襟巻きを剥ぎ取り、焦げていないのを確かめて、セラの首に巻いてやった。一巻き、二巻き、三巻き。
セラは、襟巻きに顎を埋めた。それから、ようやく、肌着の裾を自分で引き下ろした。
「……ありがとう、ございます」
「借りは作りたくないだけ」
リーネは、ゴブリンが積んでいた奪い物の山から、誰のものか分からない外套を引き出し、セラの肩にかけた。
◇
オルトは、生きていた。
村まで運んだのは、ロウだった。荷を下ろし、代わりにオルトを背負った。痩せこけた体は、荷よりも軽かった。
村の柵の前で、女房が待っていた。夜通し、待っていたのだろう。夫の顔を見て、声も出さずに、赤ん坊ごとその胸にしがみついた。
ゴブリンの群れは、正面で十四匹、裏で七匹。巣は空になった。家畜は二頭だけ、生きて見つかった。
依頼は、十割の達成だった。
◇
明け方、村外れの小川で、リーネは顔を洗っていた。
血の臭いが落ちない。頬の傷が、水に沁みる。舌打ちした。
下流で、水音。
ロウだった。上着を脱いで腰まで川に浸かり、猟師を背負ったときの汚れを流していた。
目を逸らそうとした。逸らせなかった。
剣士の背中じゃない。剣士なら、肩と背の上のほうに肉がつく。振るために。あれは違う。肩から腰まで、太い筋が縄みたいに盛り上がっている。下から持ち上げて、ずっと支え続けるための体だ。両肩に、背負い紐の痕。一本じゃない。何年分も重なって、皮膚の色ごと変わっている。
荷物持ち、と最初に言った。剣を振ったこともない男、と。
荷を振り回して一匹ふっ飛ばした、とトビが言っていた。あれを振り抜いたのは、この背中だ。この背中なら、腰が入る。剣の振りでも、悪くない。
……何を、品定めしてるの。
水が、背中を伝って落ちる。朝の光が、濡れた肩で白く光る。
ロウが、振り向いた。
目が合った。
リーネは、顔を拭く布を、ゆっくりと目元まで上げた。
「……見てない」
「え」
「何も。見てないから」
布の陰で、頬が熱い。傷が沁みるせいだ。そういうことにした。
◇
村に戻る途中、リーネは、ロウの隣に並んで歩いた。
「正面で、あいつ」
声を落として言った。前を歩くガルドの背中を、見ないようにしていた。
「強かった。……悔しいけど」
一度、口を閉じた。
「終わったあとで、訊かれた」
「何を、ですか」
「親父さんは、何級だった、って」
「Aだって言ったら、黙った」
リーネは、その先を言わなかった。
前を歩くガルドが、首を鳴らした。
腰の酒袋が揺れていた。その横の、懐の膨らみが、来たときより少しだけ大きくなっているように、ロウには見えた。巣の奪い物の山の前で、ガルドが一人で屈み込んでいたのを、ロウは見ていた。錆びた剣と、穴の空いた革鎧の前で。
◇
その夜、ロウは手帳を開いた。
――夜は、あいつらの時間。だから、巣が空く。
――出口は、必ず二つ。
――読み違えたら、読み違えたと言う。
それから、少し迷って、もう一行足した。
――荷は、振れる。
書いてから、手のひらを見た。まだ、紐の跡が赤く残っていた。




