第三章 靴の足跡(二)
最初に引かれたのは、ローブの裾だった。
セラはそのとき、オルトの手首の縄に短刀を当てながら、その結び目がゴブリン特有の二重の引き結びであること、つまり彼らが人間の結び方を真似ているのではなく、獲物を吊るすための独自の結び方を持っているらしいことを、頭の隅で考えていた。後で手帳に書こう、と思った。その考えの途中で、屈み込んだ背中から床に広がっていた裾が、後ろへ強く引かれた。
尻もちをついて振り向くと、壁の窪みのさらに奥、灯りの届かないところから、小さな影がいくつも湧き出していた。奥に通路がある。狩りに出ていない個体が残っている。残るのは見張りと弱った個体と獲物だけ、というガルドの読みにも、例外はあったのだ。そこまで考えたとき、二匹がローブの裾に、一匹が袖に飛びついた。指の長い、乾いた手だった。爪が布を裂く音がした。
「っ、や……!」
詠唱。火の術式。第一音節は喉の奥を開いて、息を胸の底から、
吸いきる前に、肩を床に押しつけられた。背中でローブの留め具が弾け飛び、首元から腰まで、学院を出てから一度も外さずに留めてきた紺の布が、一気に引き剥がされた。
冷たい空気が、肌着一枚になった体を包んだ。学院の頃から何度も繕ってきた、薄い麻の肌着だった。ゴブリンの爪がその裾にかかって捲り上げ、白い腿が灯りの下に晒され、脇腹に冷たい石の床が触れた。ゴブリンは道具を自分で作れないから、獲物から奪う。布も、靴も。村で、自分でそう説明したばかりだった。理論上は、これは……
「はっ、は……っ」
理論が、続かなかった。
胸の上に、ゴブリンの膝が乗っていた。胸郭が押さえつけられて、肋骨が軋む。吸った息が、吐く前に押し出される。第一音節に要る息の量に、まるで足りない。
四つ吸って。
吸えない。
首に、手がかかった。襟巻きの端を掴まれ、引かれた。何重にも巻いた厚手の布が、首を絞めながらほどけていく。一巻き、二巻き。喉が擦れる。
最後の一巻きが外れて、喉が晒された。学院で「喉を冷やすな」と教わったあの日から、人前に出したことのない喉だった。冷たい空気が触れ、皮膚のすぐ下で脈が跳ねているのが、自分で分かった。
「ぁ……っ、は、ぁ……」
声が出ない。呼吸が浅く、速く、勝手に跳ねる。実技試験の日と同じだった。教官の前で、一音目すら出なかった、あの日と。
ゴブリンの一匹が、奪った襟巻きを自分の首に巻きつけて、ぎゃ、ぎゃ、と笑った。もう一匹が錆びた小刀を持っていて、その切っ先が、あらわな喉に近づいてきた。
考えることが、何もなくなった。
セラは、目を閉じることもできなかった。
◇
ロウは、また動けなかった。
水袋を握ったまま、膝をついていた。セラが倒されるのが見えた。ローブが剥がされるのが見えた。白い肌着と、白い脚と、ほどけていく紺の襟巻きが見えた。全部、見えていた。
体が、動かない。
下水と同じだった。足の裏が、床に縫いつけられている。喉の奥が、からからに乾いている。
――自分は、動けなかった。
手帳に書いた一行が、頭の中に浮かんだ。
トビが、出口から飛び込んできた。短剣が一匹の首を裂いた。だが、トビの前にもう二匹が立ち塞がった。トビは、セラのところまで届かない。
小刀の切っ先が、セラの喉に。
ロウは、水袋を放り出し、足元の荷を掴んだ。
考えたわけではなかった。剣は振れない。振ったことがない。だが、荷なら持てる。子どもひとり分の重さの荷を、何年も、毎日持ってきた。
荷の紐を両手で掴み、立ち上がる。体ごと回し、振り抜く。
鈍い音がした。
残りの水袋と、塩の残りと、油の壺と、ロープと、全員分の食料が詰まった荷が、小刀を持ったゴブリンの横面にまともに入った。小さな体が、壁まで飛んだ。壁に当たって、動かなくなった。
ロウは、荷を振り抜いた勢いのまま、膝をついた。手が、震えていた。
「……セラ、さん」
セラの胸の上の一匹が、ロウを見た。歯を剥いた。
その頭を、立ち塞がっていた二匹を片付けたトビの短剣が、背中から貫いた。
◇
セラは、仰向けのまま、天井を見ていた。
胸が、大きく上下していた。肌着は捲れ上がり、腿も、腹も、灯りに晒されたままだった。それを隠すことにさえ、まだ頭が回っていないようだった。
「はぁ……っ、はぁ……」
喉が、上下する。何も巻かれていない、白い喉が。
セラの目が、ロウに向いた。
それから、天井に戻った。唇が、動いた。
「四つ、吸って」
声が、出た。
「四つ、吐く」
空洞の奥から、新しい足音がした。まだいる。二匹、三匹。
セラは、仰向けのまま右手を上げた。指が震えていた。それでも、指先は通路の奥を向いていた。
詠唱は、短かった。
一音目から、最後まで、途切れなかった。
通路の奥が、白く光った。熱風が、ロウの頬を叩いた。悲鳴が二つ重なって、それから、静かになった。
焦げた臭いが、空洞に満ちた。
セラの右手が、ぱたりと床に落ちた。鼻から、細く血が垂れていた。
◇
正面の岩穴の前は、木が切れていた。
月が、崖の白い岩肌を照らしていた。穴の口は、人が二人並んでやっと通れるほどの幅だった。その手前に、踏み固められた土の広場があった。
見張りは、三匹。一匹は、穴の口の上の岩棚に。二匹は、穴の口のすぐ脇の、焚き火の跡のそばにしゃがんでいた。
ガルドが、手で、止まれと言った。指を一本立てて、岩棚の一匹を指し、自分の胸を叩いた。二本立てて、下の二匹。それから、リーネを指して、首を横に振った。
お前は待て、と言っていた。
リーネは、剣の柄を握り直した。手のひらが、汗で滑った。
ガルドが、消えた。
そう見えた。あの大きな体が、藪の影から影へ、ほとんど音を立てずに移っていく。下水で、汚水を蹴立てて歩いていた男と、同じ体とは思えなかった。
岩棚は、ガルドの背丈ほどの高さだった。ガルドは盾を背中に回し、斧を右手に提げたまま、左手と足だけで、岩の割れ目を登った。
岩棚の一匹が、鼻をひくつかせて、振り向いた。
振り向いた顔を、ガルドの左手が、口ごと塞いだ。斧の柄の尻が、喉に入った。短く、一度。小さな体が腕の中で跳ねて、それきり、だらりと下がった。ガルドは、それを岩棚に、そっと横たえた。
ガルドが、岩棚から飛び降りた。着地の音は、一つだけだった。下の二匹が、同時に顔を上げた。
一匹目は、顔を上げきる前に、斧が首を落としていた。二匹目が、口を開けた。叫ぶための口だった。その口に、斧の柄頭が叩き込まれた。歯の折れる音がした。倒れたところに、斧が、もう一度落ちた。
三匹。声は、一つも上がらなかった。
リーネは、自分が息を止めていたことに気づいた。吐いた。
……何よ、あれ。
ガルドが、背中の盾を腕に戻して、手招きした。リーネは、藪を出た。
◇
狩りに出ていた連中は、森の奥から戻ってきた。
先に聞こえたのは、何か重いものを地面に引きずる音だった。それから、甲高い、ぎゃ、ぎゃ、という声。笑っているのだと分かった。
月の下に、出てきた。
十一匹。二匹がかりで、村の羊を一頭、引きずっていた。手に手に、何か持っていた。錆びた鎌。折れた槍。一匹は、大きすぎる鉄の兜をかぶって、目の上まで沈んでいた。
一番後ろの一匹が、弓を持っていた。
猟師の弓だ、とリーネは思った。
「穴の口まで下がれ」
ガルドが、囁いた。
「口に背中をつける。幅は二人分だ。俺が右、嬢ちゃんが左。前に出るな。来た奴だけ、斬れ」
「前に出なきゃ、数が減らないでしょ」
「減らすのは、向こうだ。こっちは、口を塞いでりゃいい」
ゴブリンたちが、焚き火の跡で、首のない仲間を見つけた。
笑い声が、止んだ。
十一匹分の目が、穴の口に並んだ二人のほうを向いた。月の光を、緑色に返していた。
来た。
一度に、ではなかった。口の幅に二人が立っていると、横からは回り込めない。来るのは、前からだけだった。
最初の鎌が、リーネの膝を狙ってきた。低い。小さな体は、低いところから来る。半歩引いて、振り下ろした。父の剣は、思ったより軽く、思ったより深く入った。鎌が、手首ごと落ちた。もう一振りで、喉を払った。
隣で、鈍い音がした。
ガルドは、斧で斬っていなかった。盾で、押していた。槍の穂先を盾の面で受けて、そのまま体ごと押し出す。押された一匹が、後ろの一匹にぶつかって、二匹でもつれた。
「嬢ちゃん」
もつれた二匹の首が、リーネの剣の届くところにあった。
斬った。返す刃で、もう一匹。
斧の、刃の根元の鉤になったところが、次の一匹の足首を引っかけた。引いた。仰向けに転んだ喉の上に、ガルドの踵が落ちた。
崩す。崩れたところを、リーネが斬る。
ガルドは、ほとんど自分では止めを刺さなかった。盾で押し、斧の鉤で引っかけ、肩でぶつける。崩れたものが、全部、リーネの剣の前に転がってきた。一匹ずつ。リーネの剣は、一度も、二匹を同時に相手にしなくてよかった。
……気持ち悪い。
自分の剣が、誰かの手で、動かされているみたいだった。




