第三章 靴の足跡(一)
二件目の依頼書は、下水のときより少しだけ紙が厚かった。
「北の森沿い、ヘルン村。家畜の失踪が十日で七頭。三日前から、猟師が一人戻らない。ゴブリンの群れと推定」
受付の女が読み上げると、トビが口笛を吹いた。
「報酬、下水の三倍っすね」
「人が一人消えていますので」
女の声は、いつもと変わらなかった。
ガルドは依頼書を指で引き寄せ、下水のときと同じことを訊いた。何匹か。巣の場所は。前に誰か受けたか。今度は、受付の女も一つずつ答えた。数は不明。巣は未確認。前任はいない。依頼が出たのは、昨日だという。
「三日前に消えた奴を、昨日依頼に出したのか」
「村から街まで、歩いて一日半ですので」
ガルドは、依頼書を指で押し返した。
ロウは手帳を開いた。
――消えてから、三日。ここから村まで、一日半。
足すと、四日半になった。
◇
ヘルン村は、森の縁にへばりつくような、家が二十軒ほどの村だった。
柵の内側で、女が一人、ロウたちを待っていた。三十前後だろうか。日に焼けた腕に、赤ん坊を抱いていた。目の下が黒かった。
「オルトの、女房です」
それだけ言って、女は森のほうを指さした。
「あの人の靴の跡が、あっちに続いてるんです。でも、戻ってこない。靴の跡だけ、毎晩、増えるんです」
トビが、村外れの泥地に屈み込んだ。
しばらく、黙って地面を見ていた。羽根の付いた帽子を脱ぎ、顔を地面すれすれまで近づけ、指先で泥の縁に触れる。下水で、天井の雫の音を聞き分けていたときの目だった。
「……裸足が、たくさんっす。子どもくらいの大きさで、指が長い。爪の跡がある。ゴブリンっすね。十、いや、もっと」
トビは、裸足の跡に混じった一つを指した。
「で、こっちが靴。猟師の靴っす。底の釘の並びが、村の靴屋の作り方っす」
「じゃあ、生きてるのね」
リーネが言った。
トビは首を振った。
「歩幅が、短すぎるっす。大人の男の歩幅じゃない。それに、踵に体重が乗ってない。靴が、足より大きいんすよ」
オルトの女房が、赤ん坊を抱いた腕に力を込めた。
「ゴブリンは」
セラが、襟巻きの奥から小さな声で言った。言うべきか迷っている声だった。
「自分で道具を作れません。だから、獲物から奪います。武器も、服も、靴も。奪った獲物は、すぐには殺さないことが多いです。巣に連れて帰って、食料として、取っておく」
「セラさん」
ロウは思わず遮った。女房が、そこにいた。
だが、女房は顔を上げた。
「生きてるってことですか」
セラは、しばらく黙ってから、言った。
「……理論上は」
◇
ガルドは、村の誰より先に動いた。
森の手前まで歩いて、獣道を三本確かめた。戻ってくると、村長の家の土間に、炭で地図を描いた。
「巣はここだ。森の奥の崖下。古い岩穴だろう。入口はこっちの正面と、もう一つ、裏の崖の割れ目」
「なんで分かるんすか。まだ見てもないのに」
「足跡の向きだ。行きと帰りが、二本に分かれてる。ゴブリンは出口を二つ作る。必ずだ」
トビが黙った。足跡を読んだのはトビだった。だが、その足跡から巣の形まで読んだのは、ガルドだった。
「行くのは、夜だ」
土間の空気が変わった。
「夜は、あいつらの時間っすよ」
トビの声が、硬くなった。
「だからだ。日が落ちたら、狩りに出る連中が巣を空ける。残るのは見張りと、弱った奴と、獲物だ。昼に行けば、全部と戦うことになる」
「それと、二手に分かれる」
ガルドは炭で、正面の入口に丸を付けた。
「俺と嬢ちゃんが正面。見張りを片付けて、狩りから戻ってくる連中を入口で止める。荷運びと魔術師と坊主は、裏の割れ目から入って、猟師を探せ。見つけたら、裏から出ろ。正面には来るな」
誰も、すぐには返事をしなかった。
ロウの頭の中で、二年前に聞いた話がよみがえった。親切で物知りだったという男は、最後の依頼で、夜のうちに出よう、二手に分かれよう、と言ったらしい。
トビが、ゆっくりと口を開いた。
「なんで、リーネさんとガルドさんが二人なんすか」
「剣が要るからだ」
ガルドの目が、リーネの腰に向いた。
「入口で一番数を相手にするのは前だ。この中で、前で斬れるのは嬢ちゃんしかいねえ」
「俺らは、裏で三人。戦えるのは俺だけっすよね。セラさんの術は、何回っすか」
「……二回、です。たぶん」
「で、ロウさんは荷物持ち。もし裏に、狩りから戻った連中が来たら」
「来ねえように、正面で止める」
「止められなかったら」
ガルドは、答えなかった。
代わりに、リーネが言った。
「いいわよ。正面で」
全員がリーネを見た。リーネは剣の柄頭を親指で撫でていた。撫でる形だった。握る形ではなかった。
「見張るなら、一番近くにいたほうがいいんでしょ」
トビの言葉だった。トビは口を開きかけて、閉じた。
リーネは、それ以上何も言わなかった。ただ、ガルドを見ていた。ガルドは、酒袋に手をかけて、離した。
◇
夜の森は、昼の森とは別の場所だった。
ロウは、トビの背中だけを見て歩いた。月は出ていたが、木々の天井に遮られて、足元までは届かない。カンテラは消している。光を持てば、遠くからでも見える。ガルドがそう言った。
見えないまま歩くのが、こんなに怖いとは思わなかった。
枝が頬を擦るたびに、心臓が跳ねる。足の下で小枝が折れる音が、森じゅうに響いたような気がする。背中の荷の重さだけが、昨日までと何も変わらなかった。それにしがみつくようにして、ロウは歩いた。
後ろで、セラが小さく数えていた。四つ吸って、四つ吐く。四つ吸って、四つ吐く。その声が途切れないことだけが、救いだった。
トビが、手を上げた。止まれの合図だった。
ロウには、何も見えなかった。トビは屈み込み、足元の暗がりに手を伸ばした。指先で、何かをそっと摘み上げる。
トビが、ロウの手を取って、それに触らせた。細い蔓だった。指で辿ると、膝の高さで、獣道を横切っていた。トビは蔓を伝って、その先の木の枝に吊るされたものを、音を立てないように外した。
骨だった。トビが外したものに指を添えると、小さな骨が十数本、蔓で束ねてあるのが分かった。触れれば、からからと鳴る。
「鳴子っす」
トビが、ほとんど息だけで言った。
「路地で、似たようなの、よく見たっす。盗品の隠し場所の前に、割れた鍋の蓋ぶら下げとくやつ」
トビは同じものを、裏の割れ目までの間に、あと三つ外した。どれも、ロウには見えなかった。
◇
崖下の割れ目は、人ひとりがようやく横向きに入れるほどの幅だった。
中は、臭かった。下水とは違う臭いだった。腐った肉と、獣の脂と、それから、人間の汗の臭い。
割れ目を抜けると、少し広い空洞に出た。壁の窪みに、ゴブリンの脂を燃やす小さな灯りが一つだけ揺れていた。
そこに、男が転がされていた。
後ろ手に縛られ、足首も縛られていた。服は一枚も着ていなかった。泥と、乾いた血と、自分の汚物にまみれていた。痩せこけた胸が、浅く上下していた。
生きていた。
男の周りには、ゴブリンが奪ったものが積まれていた。鍋。鍬の刃。誰かの外套。子ども用の靴が片方。それから、錆びた剣と、穴の空いた革鎧。冒険者のものだった。
「……オルト、さん」
ロウが呼ぶと、男の目がわずかに動いた。唇が割れて、声にならない声が漏れた。
セラが真っ先に駆け寄った。襟巻きの奥の呼吸が、少し速くなっていた。
「縄を切ります。ロウさん、水を」
ロウは荷を下ろし、水袋を探った。トビは割れ目の出口に張りつき、外の音を聞いていた。
正面のほうから、遠く、金属の音がした。
始まったのだ、とロウは思った。
その音を聞いて、トビの肩がほんの少し下がった。正面で、戦っている。少なくとも、ガルドは正面にいる。トビは、そう考えたのだろう。
ロウも、同じことを考えていた。
だから、気づくのが遅れた。




