第二章 下水(二)
ギルドの受付には、昼過ぎの気だるい空気が溜まっていた。
受付の女は、ロウが卓に並べたものを一つずつ数えた。
小指の先ほどの、赤黒い粒が六つ。スライムの核だ。トビが帰り道に汚水を漁って拾い集めたもので、討伐の証になるのだという。そのうち一つだけ、親指の先ほどの大きさがあった。
「六匹。うち一匹は大型、と」
女は帳面に書きつけ、それから顔を上げた。
「第三区画、四本の通路のうち、確認済みは」
「……三本、です」
「左の通路は」
「未確認です」
女は何の感情もなく頷き、帳面の隅に数字を書いた。
「では、達成扱いは六割です。大型の討伐で少し上乗せして、こちら」
革袋が、卓の上に置かれた。
音が、軽かった。
「六割って、どういうことよ」
リーネだった。ロウの外套の上から、借りた毛布を肩に巻いている。胸当ての代わりに、毛布の端を胸元できつく握っていた。
「あんな化け物がいるなんて、依頼書のどこにも書いてなかった。死にかけたのよ」
「依頼は区画の駆除です。区画の駆除が終わっていないので、六割です」
「残りがいたら、また誰かが――」
「次の方に依頼します」
女は、それで話は終わりだという顔で帳面を閉じた。リーネは何か言いかけて、口を閉じた。掲示板の、三枚の紙のことを考えたのかもしれなかった。
「それと」
女が、ふと思い出したように言った。
「前任の三名の札は、見つかりましたか。遺品として回収していただければ、規定の謝礼が出ますが」
ロウは、隣のガルドを見た。
懐に、あの三枚が入っているはずだった。
ガルドは、受付の女のほうを見もせずに言った。
「見つからなかった」
ロウの喉が、ひくりと動いた。
トビが、こちらを見ていた。セラも見ていた。リーネの手が、毛布の下で剣の柄のあたりに動いた。
言わなければ、と思った。札はあります、ガルドさんが持っています、と。
口は、開かなかった。
「そうですか。では、こちらで処理しておきます」
女は帳面に何かを書き足した。それで、三人の名前は終わった。
◇
酒場の隅の卓で、革袋の中身を広げた。
銀貨が、二枚。あとは銅貨ばかりだった。
「五等分すると……」
セラが、襟巻きの奥でぶつぶつと計算した。
「一人あたり、安宿の二晩分です。食事を抜けば三晩」
「胸当ての修理代にもならない」
リーネが、吐き捨てるように言った。
「上衣も買い直さなきゃいけないし、留め紐も。……剣の手入れ油も」
トビは、銅貨の山をじっと見ていた。指で一枚ずつ数え、数え直し、それから小さく笑った。
「まあ、生きてりゃ次があるっすよ。余裕っす」
声だけが、明るかった。
ロウは自分の取り分を見下ろした。冒険者の札を買うのに、ひと月分の給金を払った。今日の稼ぎは、荷運びの三日分にも足りない。しかも今日、自分は塩を投げただけだった。
ガルドが、自分の前に分けられた銅貨を、指で卓の真ん中へ押し戻した。
「俺の分はいらねえ。お前らで分けろ」
全員が、ガルドを見た。
「……なんでっすか」
最初に口を開いたのは、トビだった。笑っていなかった。
「何もしてねえからな。後ろで寝てただけだ」
「寝てなかったっすよね」
「寝てた」
ガルドは酒袋の栓を抜いた。
「施しなら、いらない」
リーネが、押し戻された銅貨に目もくれずに言った。
「私の分は、私が稼いだ分だけでいい」
「なら、坊主と魔術師と荷運びで分けろ」
セラが、困ったようにロウを見た。ロウは、トビを見た。
トビは、しばらく銅貨の山を睨んでいた。やがて、何かを飲み込むような顔で、その三分の一を自分のほうへ引き寄せた。
「……借りっすからね。返すっすよ」
「返さなくていい」
「返すっす」
ガルドは、それ以上何も言わなかった。
◇
ガルドが席を立ったあと、トビが、誰にともなく言った。
「新人狩りって、最初は優しいんすよ」
銅貨を握った手が、白くなっていた。
「金を貸して、飯を奢って、物を教えて。そうやって、こいつは味方だって思わせてから、一番いいときに、全部持ってく。……路地で、そういう奴、何人も見てきたっす」
「札のことも」
セラが、小さな声で言った。
「謝礼を受け取らなかったのは、ギルドに札を渡したくなかったから、と考えるのが自然です。札には名前が彫ってあるので、身元の照合に使えます。たとえば、死んだ冒険者の名義で、何かを――」
「やめて」
リーネが遮った。
「推理ごっこはいい。あいつが何者でも、私の剣には二度と触らせない。それだけ」
「でも、あと四件、抜けられないんですよね」
セラの声が、襟巻きの中で小さくなった。
「……抜けなくていいっすよ」
トビが言った。銅貨を、上着の内側にしまいながら。
「見張るなら、近くにいたほうがいいっす。離れたとこで何されるか分かんないより、ずっと」
三人の目が、ロウに向いた。
「ロウさんは、見てたっすよね。札、懐に入れるとこ」
「……はい」
「なんで、受付で言わなかったんすか」
ロウは、答えられなかった。
言えなかったのだ、とは言えなかった。怖かったのか、ガルドを庇ったのか、ただ口が動かなかっただけなのか。自分でも、分からなかった。
◇
その夜、扉を叩く音がしたのは、ロウが寝台に腰かけて手帳を開いたときだった。
開けると、リーネが立っていた。
髪を下ろしていた。高く結っていないと、赤茶の髪は思っていたより長く、まだ湿った毛先が肩の上で丸まっていた。宿の湯を使ったのだろう、石鹸の匂いがした。着ているのは、宿の女将から借りたらしい生成りの麻のシャツ一枚で、彼女の体には少し大きかった。襟元が開き、廊下の灯りが鎖骨の影を深くしていた。その鎖骨のあたりに、粘液が這った赤い跡が、まだうっすらと残っていた。
腕に、ロウの外套を抱えていた。
「これ」
突き出すように渡された外套は、きちんと畳まれていた。汚水の臭いがしなかった。洗ってくれたのだ、とロウは気づいた。
「……ありがとう、ございます」
「お礼を言うのは、私のほう」
リーネは目を逸らしたまま言った。言い慣れていない言葉を、無理やり押し出すような声だった。
「……助かった。それだけ」
それから、ほんの少しだけ、目がロウに戻った。
「見たでしょ」
ロウは答えに詰まった。何を、とは訊けなかった。訊けば、答えが返ってくる。
「核を、探していたので」
「知ってる。だから、いい」
リーネは自分の胸元を、借り物のシャツの上から片手で押さえた。押さえたせいで、薄い麻がかえって体の線に沿った。本人は気づいていないようだった。
「あいつが剣を持ったとき、私、何もできなかった。腕が動かなくて。……あの剣が取られるくらいなら、死んだほうがましだと思った」
声が少しだけ震え、すぐに硬く戻った。
「次は、止まれって言われたら止まる。あいつに言われるのは癪だけど」
踵を返しかけて、リーネはもう一度だけ振り返った。
「外套。少し、あなたの匂いがした」
それが文句なのか何なのか、ロウには分からなかった。リーネは答えを待たずに、廊下の奥へ消えた。裸足の足音が、ぺたぺたと遠ざかっていった。
ロウはしばらく扉の前に立っていた。外套から、石鹸の匂いがした。
◇
寝台に戻り、手帳を開いた。
――静かなのは、いないからじゃない。まとまっているから。
――止まれと言われたら、止まる。
――自分は、動けなかった。
ペンを止めて、窓の外を見た。
宿の裏口から、大きな影が一つ、通りへ出ていくところだった。片耳の欠けた輪郭が、月明かりに一瞬だけ浮かぶ。懐のあたりを、手で押さえていた。あの三枚の札を入れたあたりを。
影は、ギルドとは反対の方角へ歩いていった。
ロウは、手帳にもう一行足した。
――ガルドさんは、札をどこへ持っていったのか。
翌朝、宿の主人がロウに言った。あの大きな旦那、昨夜は一杯しか飲まずに出ていったよ、と。
戻ったのは、夜明け前だったそうだ。




