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第二章 下水(一)

 夜明け前、ギルドの裏口で待っていたロウに、ガルドが銅貨を放ってよこした。


「塩、買っとけ。粗いやつを三袋」


「塩、ですか」


「スライムは水でできてる。塩をかけりゃ縮む。……俺は指揮は取らねえぞ。荷運びが、荷を揃えるだけだ」


 そう言って、ガルドは大あくびをした。


 横で聞いていたトビが、ロウの袖を引いた。


「なんで俺らに金出すんすか、あの人」


「……さあ」


「タダより高いもんはないっすよ」


 ロウは市場で塩を三袋買い、カンテラと油とロープと松明と一緒に背負った。全員分の水と食料も入れると、荷は子どもひとり分ほどの重さになった。


 全部持ってる人が一番狙われる。リーネの言葉が、肩紐と一緒に食い込んだ。


◇


 下水路の入口は、魚市場の裏にあった。


 鉄格子の扉に錠はかかっていない。朝の光が届くのは、最初の段の三つ目までだった。その先は、湿った闇が口を開けている。


「くっさ……」


 トビが鼻をつまんだ。それでも、足を踏み入れた瞬間から、彼の目つきが変わった。首を傾け、耳を澄ませている。


「水の音、三か所っす。右の壁の中と、奥の左と、……上」


「上?」


「天井から垂れてる音っす。普通の雫(しずく)より、重い」


 一匹目は、四十歩も行かないうちに落ちてきた。


 トビが「来るっす」と言うのと、リーネが一歩引くのが同時だった。汚水に叩(たた)きつけられた粘液が広がる前に、剣先が一直線に走る。


 ぷつり、と小さな手応えの音。塊は核ごと貫かれ、形を失って水に溶けた。


「ほら。斬れば死ぬ」


 二匹目も、三匹目も同じだった。トビが音で場所を告げ、リーネが斬る。セラは粘液の色を見て「核は左寄りです」「今のは若い個体です」と小声で言い、それが全部当たった。


 ロウは、何もしていなかった。


 カンテラを掲げ、荷を背負い、汚水に足を取られないように歩くだけで精一杯だった。粘液が落ちるたびに、体が勝手に竦(すく)んだ。膝下の水は冷たく、靴の中まで染みてくる。足の指の感覚が、少しずつ遠くなっていった。


 最後尾で、ガルドは欠伸をしていた。


 ときおり振り返ると、ガルドの目は、天井ではなく、こちらを見ていた。リーネの胸当ての留め紐を。セラの杖の握りを。トビの短剣の刃こぼれを。ロウの背中の荷の膨らみを。


 一つずつ、値踏みするように。


「ほら。また見てるっす」


 トビが、ロウにだけ聞こえる声で言った。


◇


 分かれ道に差しかかったとき、通路の空気が変わった。


 天井が、高い。これまでの通路の倍はある。煉瓦の継ぎ目の苔(こけ)は、ここだけ一面が濡れて光っていた。カンテラを上げても、光が上まで届かない。分かれ道は三方に延びている。右と、正面と、左。足元の汚水は、ここだけ流れが澱(よど)んで、膝の上まで来ていた。


「……音が、しないっす」


 トビが、ぽつりと言った。


「さっきまで、あちこちで垂れてたのに。ここだけ、静かっす」


「なら、いないんでしょ」


 リーネが分かれ道の中央へ踏み出した。


「嬢ちゃん、止まれ」


 ガルドの声だった。欠伸混じりではなかった。


「静かなのは、いねえからじゃねえ。全部、ひとつにまとまってるからだ」


「後ろで寝てるんじゃなかったの」


 リーネは振り向きもせずに言った。あなたの言うことなんか聞かない、と背中が言っていた。


「大きければ、核も大きい。狙いやすいだけよ」


 止まらなかった。


 ぼたり、ではなかった。


 どさり、と、人ひとりが落ちてきたような音がした。


◇


 冷たい。


 最初に感じたのはそれだけだった。頭から肩、背中、胸元まで、一瞬で重く冷たいものに覆われる。息を吸おうとして、口の中に粘液が入りかけ、リーネは咳き込んだ。


「っ、げほ、はっ……!」


 剣を振る。粘液の中を刃が滑る。手応えがない。核はどこだ。見えない。自分の体に覆いかぶさっているものの中心が、自分の目では見えない。


 胸当ての留め紐が、ぶつりと切れた。


 何度も締め直して穴を増やした紐だった。革の胸当てが、粘液の重みで胸元からずり落ち、汚水に沈む。その下の布の上衣に、冷たいものが染み込んでくる。薄い生地はすぐに濡れて肌に張りつき、胸のふくらみの形をそのまま浮かせた。張りついたところから、溶けていく。


「はぁ、っ……は、ぁ……」


 肩口が、鎖骨が、外気に触れた。溶けた布の縁が、ぬるりと胸の上を滑り落ちていく。粘液は肌の上を這い、鎖骨のくぼみに溜(た)まり、そこからゆっくりと胸の谷間へ流れ込んでいく。脇腹にも、背中にも、冷たさが広がる。冷たさが通り過ぎたあとから、感覚が消えていく。


 剣が重い。違う。腕が、重い。


 柄を握る指が、一本ずつ言うことを聞かなくなっていく。父の剣が手のひらから抜けかける。握れ。握れ。


「ふ、ぅっ……ん、く……」


 食いしばったはずの歯の隙間から、声が漏れた。自分の声だと気づくまで、少しかかった。止められない。


 膝が折れた。汚水が腿まで上がってくる。ズボンの裾から、冷たいものが這い上がってくる。膝の裏を、腿の内側を、ゆっくりと。


 私が前だ。私が。


 なのに、体が、もう。


◇


 ロウは、動けなかった。


 目の前で、人が呑(の)まれていく。カンテラを持つ手が震え、光が揺れる。足が汚水の底に貼(は)りついたように動かない。喉がひりついて、唾が飲み込めない。頭のどこかで、二年前の荷車の音がしていた。荷台の縁で揺れていた、裸足の踵(かかと)。


「荷運び!」


 背中を、殴られたかと思った。ガルドの声だった。


「塩だ! 袋を裂いて、俺の横に来い!」


 体が、声に引っ張られて動いた。


「坊主、カンテラを奪え。光を嬢ちゃんの真上から当てろ。魔術師、火は使うな、近すぎる。核の位置だけ見てろ」


 次々と飛ぶ指示に、全員が弾かれたように動いた。疑っていたことも、さっきの小声も、全部どこかへ飛んでいた。トビがロウの手からカンテラをひったくり、セラが襟巻(えりまき)きの奥で四つ吸って四つ吐きながら、粘液を睨(にら)む。


 ガルドは鎖の籠手(こて)をはめた右手を、塊の上から突っ込んだ。粘液が鉄の輪にまとわりつき、じゅう、と白い湯気が立つ。


「素手で触るなよ。一緒に痺れる」


 ロウは塩の袋を裂き、汚水に膝をついた。リーネの、すぐ前だった。


 カンテラの光が、真上から粘液越しに彼女の体を照らしていた。


 見てはいけない、と思った。それでも、目を逸らせなかった。


「核を探せ、荷運び。お前の目の高さが一番近い」


 だから、見た。


 濡れた赤茶の髪がほどけかけ、白い首筋に何本も張りついていた。胸当ては外れ、布の上衣はほとんど残っていない。溶け残った生地の端が、粘液の中で藻のように揺れ、その下の肌を隠したり、晒(さら)したりしていた。剣を振るうための、無駄のない肩と腕。その下の、驚くほど柔らかそうな胸の丸み。粘液越しの光が、そこをゆらゆらと滑っていく。外気に触れたところだけ、肌が粟立(あわだ)ち、先が硬く尖っていた。寒さのせいだ、とロウは思おうとした。


 その、胸の下。


「あ……赤い、粒が」


「どこだ」


「左の、脇腹です。背中のほうに、動いて」


「背中に回られたら、届きません!」


 セラが叫んだ。


「荷運び、そこに塩だ。肌に当たっても構わねえ。叩き込め」


 ロウは塩を掴み、リーネの脇腹のすぐ横の粘液に叩き込んだ。素肌に塩の粒が当たり、リーネの体がびくりと跳ねた。


「ひ、ぁっ……!」


「止めるな。もう一掴み」


 二掴み目。粘液が白く濁って縮み、核の周りだけが肌から浮いた。


「坊主!」


 赤い羽根が、ロウの肩越しに飛び込んだ。片手にカンテラを掲げたまま、もう片方の手の短剣が、リーネの脇腹から指一本分の距離で核を貫く。


 巨大な塊が、一度大きく震え、それから一気に形を失った。


 残されたのは、汚水の中に膝をつき、肩で息をするリーネだけだった。


◇


 リーネは自分の体を見下ろしていた。


 上半身に残っているのは、溶けかけた布の切れ端だけだった。ズボンも裂け、裂け目から覗(のぞ)く腿が、濁った汚水の中で白く見えた。肌のあちこちに、粘液が這った跡が赤く残っている。


 隠そうとしたのか、腕がわずかに持ち上がり、すぐに落ちた。


 カンテラの光の中で、全員の視線が、一瞬だけ、そこに集まった。


 トビが慌てて光を逸らした。セラが小さく息を呑んだ。ガルドだけが、何事もないような顔で天井を見上げていた。


「荷運び。外套(がいとう)」


 ロウは自分の外套を脱ぎ、リーネの肩にかけた。前を合わせようとしたが、リーネの手は布を掴めず、指が震えたまま滑った。


「……合わせます。失礼します」


 外套の留め具を、首元から一つずつ留めていく。二つ目の留め具のところで、指の甲が胸元の濡れた肌にかすかに触れた。冷たいと思っていた肌は、内側から熱を持っていた。リーネの喉が、小さく鳴った。


「はぁ……っ」


 熱い息が、ロウの手の甲にかかった。


 ロウは顔を上げなかった。上げれば、目が合う。それが分かっていた。


「おう、荷運び。役得だな」


 ガルドが、わざとらしく大声で笑った。


「黙ってて」


 リーネの声は、掠(かす)れて、震えていた。


 ガルドは笑いを引っ込めると、汚水の中に手を入れた。


 引き上げたのは、リーネの剣だった。


 その瞬間、リーネの顔から、羞恥の赤みが消えた。代わりに浮かんだのは、ロウが初めて見る表情だった。


 ガルドは剣を手に、刃を灯りにかざしていた。刃紋を、柄の巻き革を、鍔(つば)の小さな傷を、一つずつ確かめるように。長かった。ひどく、長かった。


 リーネの唇が動いた。声にはならなかった。


 返して。


 腕は、上がらないままだった。外套の下で、リーネの肩が小刻みに震えていた。さっきまでとは、違う震え方だった。


 トビが、短剣を握ったまま半歩、ガルドのほうへ寄った。


 ガルドは、それに気づいたのか、気づかなかったのか。剣の粘液を自分の袖で丁寧に拭(ふ)い、それから、鞘(さや)に納めた。屈んで、リーネの腰の剣帯に、そっと戻した。


「……いい剣だ。手入れを欠かすなよ」


 リーネは答えなかった。


 ガルドが立ち上がって背を向けたあと、彼女は動くほうの手で、ずっと柄を握りしめていた。


◇


 右の通路の奥で、トビが前任の三人を見つけた。


 残っていたのは、鉄の札と、剣の柄と、革帯の留め金と、小さな銅のボタンがいくつか。布も、革も、それ以外のものも、何も。


 ボタンの一つに、糸がまだ一本だけ絡まっていた。ロウはそれから目を離せなかった。


 ガルドは屈んで、札を三枚とも拾った。刻まれた文字を親指で拭い、それから、自分の懐にしまった。


「それ、ギルドに持って帰るやつじゃないんすか」


 トビの声が、硬かった。


「俺が持って帰る」


「なんでガルドさんが」


「俺が持って帰る、と言った」


 ガルドは、口をつぐんだ。


「今日はここまでだ。戻るぞ」


 リーネは、今度は何も言わなかった。

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