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第十八章 帰り場(二)

 二日目の夜、ロウは眠らなかった。

 焚き火は、熾きだけになっていた。


 縁に腹ばいになって、耳を岩に当てていた。

 縦穴の音は、岩を伝ってきた。風が擦れる音。水の滴る音。どこかで、小石が転がる音。

 グレタが、一度、毛布を持ってきた。ロウの背中にかけて、何も言わずに戻っていった。


 降りたかった。

 五層より下には行けない。規定だった。規定は、守られていた。赤い楔の補給の確認も、ロウがここに座っていることも。

 守られた規定の下で、六人が、まだ下にいた。

 ロウは、縁の杭を握っていた。指が、白くなっていた。


 明け方の、一番冷える頃だった。


 綱が、鳴った。

 ずっと下で、一本の綱が、軋んだ。

 ロウは、顔を上げずに、耳だけを澄ませた。

 軋む。止まる。

 長い間。

 また、軋む。止まる。

 止まっているあいだに、息の音がした。短く、苦しそうに、何度も。

 それから、また、軋む。


 ロウは、数えた。

 軋みと軋みのあいだ。五つ。七つ。九つ。

 だんだん、長くなっていた。

 大穴潜りの爪の音とは、違った。あれは、止まらない。


「……人です」

 ロウは、囁いた。

 隣で、剣の柄を握っていたダインが、ロウを見た。

「人が、登ってきます。休み休み。……もう、腕だけで登っています」


 軋みの、もっと下から、別の音が上がってきた。

 かり。

 かり、かり。

 重い爪が、岩の溝を掻く音だった。

 止まらなかった。

 軋みの音を追うように、上がってきていた。


 ロウの背中が、冷たくなった。

 ――鎧の音は、鳴らした人のところに集まるだけです。

 綱の軋みも、同じだった。あの人が登れば登るほど、あいつは、あの人を追ってくる。


 グレタが、両手剣を抜こうとした。

 ロウは、その肩を、一つ叩(たた)いた。

 止まれ。

 グレタの手が、止まった。

 蜂飼いの村で、五人で決めた合図だった。


 ロウは、縁から下を覗いた。

 火は使えなかった。外套(がいとう)の内側から、灯り茸(あかりだけ)の小瓶を出して、手のひらで覆ったまま、指の隙間を少しだけ開けた。七層から帰ってきた夜にも、この青い光だけがあった。

 縁から、二尋ほど下に、手が見えた。

 岩の出っぱりに掛かった、白い指だった。もう片方の手が、綱を握っていた。

 その下に、顔。

 女だった。

 唇が、紫色だった。目が、ロウを見上げていた。

 声を出そうとして、口が開いた。


 ロウは、自分の唇に、指を一本当てた。

 女の口が、閉じた。


 ロウは、小瓶を、縁の岩のくぼみに、光を下へ向けて伏せた。

 それから、自分の外套を脱いで、縁の岩の、綱が擦れるところに噛ませた。荷運びの頃、重い荷を縁から引き上げるとき、綱が岩で鳴らないようにそうした。

 それから、女の掴んでいる綱を指さして、ダインとグレタとノーラの顔を、順に見た。

 三人が、音を立てずに寄ってきて、ロウの後ろで綱を握った。

 ロウも、綱を握った。


 下で、爪の音が、近づいていた。

 かり、かり。

 ロウは、片手を綱から離して、すぐ後ろのダインの肩を、三つ叩いた。ダインがグレタの肩を、グレタがノーラの肩を、同じように三つ叩いた。

 行け。


 四人で、綱を引いた。

 ゆっくりと。一度に、腕一本分ずつ。

 外套を噛ませた縁で、綱は、鳴らなかった。

 女は、もう登っていなかった。綱にぶら下がって、目を閉じていた。腕だけで、綱にしがみついていた。

 一尋。

 もう一尋。


 女の肩が、縁を越えた。

 グレタが、女の脇に腕を差しこんで、引きずり上げた。

 女の喉から、息が漏れかけた。

「は――」

 グレタの手が、女の口を塞いだ。

 女は、グレタの手のひらの中で、目を見開いて、それから、ぎゅっと閉じた。


 誰も、動かなかった。

 ミモザが、自分の口を両手で押さえていた。

 ノーラの指が、投げナイフの柄の上で、止まっていた。


 縦穴の中で、爪の音が、上がってきた。

 縁のすぐ下まで。

 生温い息が、縁の上に、ふわりと上がってきた。

 腐った肉の匂いがした。

 縁の岩の上を、何か濡れたものが、ゆっくりと舐めていった。外套の端を。綱を。

 ロウの指の、すぐ先を。


 ロウは、息を止めていた。

 胸が、焼けるように苦しかった。

 七層の、割れ目の前と、同じだった。

 ガルドの背中を、思った。


 舌は、離れなかった。

 縁の下で、爪が岩を掻いた。

 灯り茸の青い光の端に、灰色のものが掛かった。爪だった。縁の岩に、一本、また一本。

 巨体が、縁の下で、体を持ち上げようとしていた。

 縁の上に、牛の胴ほどもある頭の、てっぺんが覗いた。扇のような耳が、ゆっくりと開いた。

 ロウたちの後ろには、坂の下まで、天幕が百張り並んでいた。


 ――遠くから呼ばないと、割れ目からは、離れません。


 セラの声が、頭の中で鳴った。

 七層の窪みで、セラが囁いた声だった。


 ロウは、首だけを回した。

 縁から十歩のところに、水の樽があった。半分、残っていた。

 ロウは、樽を指さした。それから、グレタを見た。

 グレタの目が、樽を見た。縦穴を見た。ロウを見た。

 分かった、という目だった。


 グレタは、マルタの口から手を離して、その手をミモザの手に重ねた。ミモザが、両手でマルタの口を覆った。

 グレタが、立ち上がった。

 大柄な体が、音を立てずに、十歩を歩いた。戦場で、夜に敵の陣へ忍んだときの歩き方なのだろう、とロウは思った。いつも藪を体ごと押し分けて歩く人が、踵から、そっと、骨一つ踏まずに歩いた。

 グレタは、樽を抱え上げた。腕の筋が、袖の上からでも分かるほど盛り上がった。中の水が、揺れた。グレタは、樽を胸に押しつけて、揺れを止めた。

 十歩を、戻ってきた。


 縁の上で、頭がもう半分、覗いていた。舌が、縁の上の外套を、たぐるように舐めていた。


 ロウは、グレタの肩を、三つ叩いた。

 行け。


 グレタが、樽を振りかぶった。

 頭の脇を、腕一本の距離でかすめて、樽が縦穴の闇へ吸いこまれた。


 がん。

 壁に、ぶつかった。

 がん。がらん。

 ぶつかるたびに、樽は割れ、水が撒かれ、板が跳ねて、音が下へ、下へと落ちていった。


 頭が、跳ねるように振り向いた。

 耳が、下を向いた。

 巨体が、縁から手を離した。

 爪の音が、壁を駆け下りていった。かりかりかりと、樽の音を追って。

 速かった。

 音は、ずっと下で、一度だけ大きく岩を打って、それきり、遠くなった。

 縦穴の底の、ずっと下へ。


 最初に息を吐いたのは、ミモザだった。

 震える、長い息だった。

 ミモザが、女の口から、手を離した。


「……樽」

 グレタが、空になった自分の両手を見た。

「出張所のだったな、あれ」

 ノーラが、喉の奥で、変な音を立てた。笑ったのだった。


◇


 女は、マルタと名乗った。


 左の腿に巻いた布が、血で黒く固まっていた。

 その下から、まだ、細く血が流れていた。

 ミモザが布をほどくと、腿の内側に、小さな傷が三つ、星の形に並んでいた。

「……蛭」とマルタが言った。

 声は、ほとんど息だった。

「……脚、動かない」

 マルタは、自分の左脚を、他人の脚のように見下ろした。

 ロウは、マルタの手を見た。

 手のひらの皮が、両方とも剥けていた。爪が、何枚も割れて、黒く血が固まっていた。腕だけで、綱を握って、登ってきた手だった。

 ほどいた布の結び目は、一つではなかった。古い結び目の上に、新しい結び目が、いくつも重なっていた。緩むたびに、ぶら下がったまま、片手で締め直したのだろう。荷運びが、崩れかけた荷を、背負ったまま縛り直すときと、同じ結び方だった。


 ミモザが、聖油の栓を抜いた。今度は、指が震えなかった。

 最初の一句の前に、深く息を吸った。

「主よ」

 一つ目の御名。二つ目。三つ目。

 途切れなかった。

 ミモザの手のひらの下で、星の形の傷が、ゆっくりと塞がっていった。

 血が、止まった。


「……痺れは、残ります」

 ミモザは、マルタの脚に、自分の手を置いたまま言った。

「主の力は、傷を、閉じます。でも、入ってしまったものは……」

「いい」

 マルタは、目を閉じた。

「血が、止まれば、いい」


 グレタが、マルタの濡れた胴着の前を開けて、体を拭こうとしたとき、懐から、紙が一枚、滑り落ちた。

 汗と血で波打った紙だった。

 写しだった。

 ロウは、拾い上げた。

 六層の縁から、七層の底まで。

 ――二十尋。

 そこだけ、墨が濃かった。

 ロウが、写し屋に直させた一枚だった。

 合っている。この通りなら、綱は届いたはずだった。


「……これを、持っていたのに」

 声が、出ていた。

「どうして」


 マルタが、ロウの手の中の紙を見た。

「それ、あたしのだけ」

 かすれた声だった。

「ほかの五枚は、十二だった。……誰も、信じなかった。あたしも、信じきれなかった」


 束ごと直すなら手間賃がかかる、と写し屋は言った。ロウは、それを払わなかった。一番上の一枚を直させて、それで済んだと思った。

 残りの五枚は、十二のまま、あの台に積んであった。

 ロウは、何も言えなかった。

 紙を、マルタの手に返した。

 マルタは、それを胸に押し当てた。


「テオが、下で、照らしてた」

 ぽつりと言った。

「あたしが登るあいだ、ずっと。動かないで。……動かないでいたら、あれが、集まってきて」

 マルタの顔が、歪んだ。

「あの人、一回も、声、出さなかった」


 そこから先は、言葉にならなかった。

 マルタは、写しを胸に抱えたまま、体を丸めて、泣いた。

 声を殺そうとして、殺しきれなかった。二日分の声が、喉から溢れていた。

 ミモザが、マルタの背中に、手を置いた。

 グレタが、自分の毛布を、マルタの肩にかけた。

 ロウは、膝の上で、自分の手を握っていた。


◇


 昼になって、マルタは、少しずつ話した。

 ロウは、それを、手帳に書いた。


 ――七層、真ん中。骨の山のまわりに、寝床。十より多い。湿っているのは、三つか、四つ。

 ――大蛭。手のひらより大きい。噛まれても痛くない。痺れが広がる。血が止まらない。熱で口を離す。動かない者に、集まる。


 それから、マルタの写しを借りて、余白に、同じことを書き足した。

 自分が見ていないことを、人に渡す紙に書くのは、初めてだった。

 七層から帰ってきた者の言葉だった。

 書き終えると、マルタに写しを返した。

 マルタは、書き足した行を、指でなぞった。

「……これ、あんたの字?」

「はい」

「下手だね」

 マルタは、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

「でも、読める」


 あの夜、降りていたら、とロウは思った。

 規定を破って、縁の綱を伝って降りていたら。

 マルタに、もっと早く会えたかもしれない。ほかの誰かを、連れて帰れたかもしれない。誰にも会えずに、自分も帰らなかったかもしれない。

 分からなかった。

 降りなかったから、もう、分かることはなかった。

 ロウは、縁の杭を握ったときの、白くなった指を思い出していた。


◇


 三日目の夕方、帰り場の仕事が終わった。

 帳面には、上がってきた隊の名前が、七つ並んでいた。

 一番下に、ロウは書いた。

 ――赤い楔、六名のうち、一名。マルタ。

 出張所に出す報告の紙には、もう一行、書き足した。

 ――補給の確認は、出張所でしている。照合しているのは、隊の持ってきた写し。出張所は、正しい長さを持っていない。


 出張所の裏を通ったとき、白い天幕の前に、籠が出ていた。

 小物の籠だった。帯の留め金。水袋。手袋の片方。

 その中に、帽子があった。

 つばのある、くたびれた帽子。羽根の挿さっていた穴が、一つ空いていた。

 トビの帽子だった。

 籠の札に、「七層の品 銀貨三枚」とあった。


 ロウは、籠の前で立ち止まった。

 記録係には、報酬の取り分がない。

 懐には、銅貨が何枚か、あるだけだった。


「記録係さん」

 ダインが、横に立っていた。

 ダインは、帽子を見た。それから、天幕の入口の、帳面を抱えた若い男を見た。

 しばらく、黙っていた。

 それから、懐の革袋から、銀貨を三枚出した。

 ダインの取り分の、依頼三件分ほどだった。


 若い男が、ダインの顔を見て、何か言いかけた。

「坊ちゃ――」

「これを」

 ダインは、遮った。

 商家の者の、丁寧な声だった。

「この帽子を、ください」


 ダインは、帽子を受け取ると、ロウの胸に押しつけた。

「帳尻です」

 それだけ言って、背を向けた。

 なんの帳尻なのか、ロウには分からなかった。


 少し離れたところで、ノーラが見ていた。

 腕を組んで、何も言わずに。

 ダインが横を通り過ぎるとき、ノーラは、その腕を、肘で一度だけ小突いた。

 ダインは、振り向かなかった。


 ロウは、帽子を両手で持っていた。

 軽かった。

 つばの裏に、縫い直した跡があった。下手な縫い目だった。

 トビが、自分で縫ったのだろう。

 ロウは、それを、外套の内側に、そっとしまった。

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