第十八章 帰り場(一)
四件目の依頼は、焦げた帆布の匂いの中で渡された。
「縦穴の口に、三日詰めてくれ」
ギルドの出張所の番の男は、帳面を二冊、卓に置いた。
「一冊は、入った者の帳面だ。隊の名前と、人数と、日付。もう一冊は空だ。上がってきた者を、こっちに書け。名前と、人数。水も渡してやれ。樽は出す」
「上がってきた者を、数えるんですか」とダインが訊いた。
「街のギルドから、そう言ってきた。誰が降りて、誰が上がったか、全部書けってよ。受付の女だ。細けえんだ、あそこは」
番の男は、肩をすくめた。
「帰り場、って呼ぶことにした。ここで待ってりゃ、帰ってきた奴は、誰でも一度はここを通る」
ロウは、入った者の帳面を開いた。
一番新しい頁に、今朝の二行があった。
――ブルーノ隊、六名。十一月五日。
――赤い楔、六名。十一月五日。
写し屋の台から、上の六枚を人数分まとめて買っていった隊だろう。
◇
縦穴の口は、二層の崩落跡にあった。
縁に、杭が何十本も打たれていた。綱が何十本も、下の闇へ垂れていた。
五人は、縁から十歩のところに、水の樽と、空の帳面と、焚き火を据えた。
一日目に上がってきたのは、二組だった。
どちらも三層で引き返してきた隊で、どちらも欠けていなかった。
ミモザが、水を柄杓で注いで回った。
「お、お帰りなさい、ませ」
言うたびに、少しずつ言い方が変わった。
「なんで毎回違うんだよ」とグレタが言った。
「ど、どれが一番、ほっとするか、試しています」
上がってきた男の一人が、柄杓を受け取りながら、噴き出した。
ロウは、空の帳面に、名前と人数を書いた。
手帳に書くのと、同じ字で。
下から誰かが上がってくるたびに、綱の震えで先に分かった。荷運びの頃、縁で待ちながら、何度も見てきた震え方だった。
◇
夜は、二人ずつ見張った。
夜半からは、ロウとグレタの番だった。
十一月の二層は、冷えた。
縦穴の口から、下の空気がゆっくり吹き上がってきた。深層の湿った熱は、ここまで上がってくるあいだに冷えきって、首筋を撫でていった。
焚き火は、小さくしてあった。
「寒いだろ」
グレタが、自分の毛布の端を持ち上げた。
「入れ」
「……いえ」
「歯が鳴ってんだよ、さっきから。うるせえ」
ロウは、自分の歯が鳴っていたことに、言われて気づいた。
毛布の中は、温かかった。
グレタは、ロウを前に座らせて、後ろから毛布ごと抱えこんだ。
背中に、柔らかいものが、二つ押しつけられた。
グレタが息をするたびに、それが背中で、ゆっくり持ち上がって、沈んだ。
ロウは、固まった。
「戦場じゃな、冬はこうやって寝たんだ。男も女もねえ。毛布が足りねえからな」
グレタの息が、ロウの耳の後ろにかかった。麦酒と、汗と、鉄の匂いがした。
「一番あったけえのは、でけえ男の背中だった。……あんたは、痩せてるけど、悪くねえな。荷運びの背中だ」
「……はい」
「固まってんじゃねえよ。取って食いやしねえ」
グレタは、喉の奥で笑った。笑うと、背中に当たったものが揺れた。
「それとも、食ってほしいか」
「……い、いえ」
「なんだよ、その声」
グレタは、今度は声を出して笑った。焚き火の向こうで、寝ているダインが寝返りを打った。
そのときだった。
縦穴の、ずっと下から、何かが上がってきた。
音だった。
低く、長く、縦穴の壁を這い上がってくる音。
吼え声だった。
大穴潜りの。
グレタの腕が、ロウの胸の前で、ぎゅっと締まった。
ロウは、息を止めた。
七層の空洞で、何度も聞いた声だった。リーネが剣を突き入れたときの。セラの岩棚に、灰色の背中がなだれこんでいったときの。
音は、一度で止んだ。
しばらくして、もう一度。
それから、何も聞こえなくなった。
「……今の、下か」とグレタが言った。
「……ずっと、下です」
ロウの声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「誰かが、戦っています」
グレタは、何も言わなかった。
毛布の中で、ロウの胸の前に回した手を、ほどかなかった。
ロウの心臓の音を、確かめているみたいだった。
◇
二日目の日暮れ前に、ブルーノの隊が上がってきた。
綱の震え方が、違った。
速くて、乱れていた。
縁に手をかけたブルーノは、髭が汗で濡れていた。顔が、灰色だった。一度も休まずに登ってきた、と後で言った。
続いて、五人。欠けていなかった。
荷は、少なかった。袋が、二つだけだった。
ミモザが柄杓を差し出すと、ブルーノは、柄杓ごと水を頭からかぶった。
「……っは」
それから、縁に座りこんだ。
「下で、誰かが戦ってやがった」
ブルーノは、縦穴の口を見ずに言った。
「七層の、真ん中のほうで。吼え声がした。一匹じゃねえ。……あんなもんに、付き合ってられるか」
「後から降りた隊は」
ロウは、訊いていた。
「……赤い楔、という隊です。六名」
「名前なんざ知らねえよ」
ブルーノは、首を振った。
「あいつら、うちの綱で降りてきやがった」
「登るとき、隣に、別の綱が垂れてた。底まで届いてねえ。宙ぶらりんだ」
十二尋。
ロウの手の中で、帳面の角が、ぐしゃりと潰れた。
ロウは、入った者の帳面を、もう一度開いた。
今朝は、名前しか見ていなかった。二行目の横の、細い欄に、出張所の番の字で書いてあった。
――赤い楔、六名。十一月五日。補給の確認、済。綱、十二尋と杭の分。写しと照合。
確認は、されていた。規定どおりに。
照合したのは、間違った写しだった。
「ブルーノさんの綱は」
「上げてきたに決まってんだろ。うちの綱だ。いくらすると思ってる」
ロウは、立ち上がっていた。
縁のほうへ、一歩、出ていた。
「記録係さん」
ダインが、ロウの腕をつかんだ。
「五層より下には、行けません。規定です。……それに、六層の縁まで、一日かかります」
ロウは、ダインの手を見た。
それから、縦穴の口を見た。
何十本もの綱が、下の闇へ垂れていた。どれがどこまで届いているのか、ロウには分からなかった。届いていたとしても、ロウには、そこまで降りることができなかった。
「待つしかねえだろ」とグレタが言った。
「帰り場ってのは、そういう仕事だ」
ブルーノの隊は、袋を担いで、出張所の裏の白い天幕のほうへ歩いていった。
袋の口から、布のようなものが、はみ出していた。
つばのある、くたびれた帽子だった。
トビの帽子に、似ていた。
ロウは、その帽子から、目を離せなかった。
羽根は、挿さっていなかった。




