幕間二 楔
赤い楔の六人は、七層へ鎧を取りに行く。
七層の真ん中には、金の紋の鎧を着た骸が座っていると、ギルドの記録に書いてある。A級の鎧だから、売れば家が建つ、と頭のラルフは言う。
隊の名前は、マルタの腰の楔の束を見て、ラルフがつけた。岩に楔を打って登るのが、マルタの仕事だ。
降りる前に、入口の出張所の前で、荷を広げさせられた。
出張所の番の男が、ラルフの広げた荷の綱を、巻きごとに数えた。水袋を数え、干し肉の包みを数えた。
「写しを」
ラルフが、自分の写しを突き出した。番の男は、縁ごとの綱の長さの行を指でなぞって、綱の巻きと見比べた。
「六層の縁から下、十二尋。……足りてるな」
番の男は、帳面に何か書きつけた。
「補給の確認、済み。行っていい」
「規定だとよ」ラルフが、荷を詰め直しながら舌打ちした。「街の受付の女が決めたんだと。めんどくせえ」
マルタの懐にも、写しが一枚あった。まだ、開いてもいなかった。
六層の縁の杭は、どれも切り株のようだった。
古い杭に、古い綱が巻きついたまま残っているが、結び目から先は刃物で切られていた。切り口がまだ白い。綱は高く売れるから、誰かが持っていったのだろう。
切られていない綱は、一本だけだった。今朝、自分たちより一刻早く降りていった、ブルーノの隊の綱だ。
六層は暑い。マルタは上着を脱いで、袖のない胴着一枚になった。汗で布が背中に張りつく。盾持ちのテオが、隠しもせずにこちらを見ていた。
「見すぎ」
耳を指で弾くと、テオは少し笑って、水袋を差し出した。この人はほとんど喋らないかわりに、手が先に出る。
斥候のヨストが、写しを灯りにかざした。ラルフが野営地の写し屋で、人数分まとめて買ってきたものだ。
「六層の縁から、七層の底まで。十二尋」
槍のヴィムも、弓のリタも、ラルフも、自分の写しを見て頷いた。
マルタも自分のを開いた。
「……あたしのは、二十尋」
「写し違いだろ」ラルフが鼻を鳴らした。「みんな十二で、お前のだけ二十だ」
「銅貨三枚の地図だからな」とヨストが言い、皆が笑った。
マルタも笑った。笑いながら、二十の字を指でなぞった。そこだけ墨の色が濃い。上から書き直した字だ。間違いを直した字なのか、書き直すときに間違えた字なのか、指では分からない。分からないものを、ひとりで言い張れるほど、マルタは自分の写しを信じていなかった。
ただ、荷の底には、自分の金で黙って買った十尋の綱が一巻き入っている。見せれば、重いから置いていけと言われるに決まっていた。
テオが新しい綱を、両腕いっぱいに広げて測っていく。指先から指先までが一尋で、それを十二。測り終えると杭に結んで、ブルーノの綱の隣へ落とした。
壁を灯りでなぞると、指二本ほどの幅の、細い銀色の筋がいくつも光っていた。触ると、ぬるりとする。
「蝸牛か?」とリタが顔をしかめた。「こんな暑いとこに」
ラルフは壁など見ていなかった。
「家が建ったら、お前らも住ませてやる。……くそ、荷運びも雇っときゃよかったな。鎧なんか、誰が担ぐんだ」
「頭だろ」
笑い声が縦穴に落ちていくのを、ラルフが手を上げて止めた。ここから下では、笑ってはいけない。
◇
ヨストが、自分たちの綱で先に降りた。着いたら二回引く。下で何かあったら三回。
綱は手の中で長く鳴りつづけ、ヨストの重みが下へ、下へと移っていった。
それが、途中で止まった。
二回も、三回も、引かれない。
マルタは杭のそばで綱を握ったまま、息を止めた。下からは何も聞こえない。叫び声も、爪の音も。
綱がゆっくり、右へ、左へと揺れはじめた。ぶら下がった人が、もがいている揺れ方だった。揺れが大きくなるにつれて、綱を握るテオの手の甲に筋が浮いた。
ふっと、綱が軽くなった。
重みが消えて、綱はだらりと垂れたまま、もう揺れもしなかった。
リタが自分の口を手で覆った。マルタは綱を握ったまま、手のひらの中の、何もなくなった重さを量っていた。落ちていく声はしなかった。底を打つ音も。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
隣の、ブルーノの綱が、二回引かれた。
次にテオが、そのあとにマルタが、ブルーノの綱で降りた。腕の長さで量りながら滑っていくと、十二尋のところで、すぐ横に自分たちの綱の端が来た。何もない闇の中で、ゆらゆら揺れていた。
底は、そこからまだ八尋下だった。
降りると、ヨストがマルタの耳もとで囁いた。
「端が、宙だった。……隣に、跳んだ」
写しは、二十尋のほうが正しかった。誰も、マルタの顔を見なかった。
マルタは荷の底から一巻きを出した。
「継ぎましょう。今。あたしが登る」
「その綱は、鎧を縛るのに使う」ラルフはもう決めた声だった。「帰りは、ブルーノのを使えばいい。あいつはなおさら奥へ行くって言ってた。俺らより遅い。……真ん中まで三十歩だ。取って、戻るだけだ」
マルタがテオを見ると、テオは小さく首を振った。今は、やめとけ、という顔だった。
マルタは綱を抱えたまま、口を閉じた。
◇
七層の底は、骨の上だった。
踏むたびに、乾いたものが靴の下で砕ける。六人は濡らした布で口と鼻を覆っていたが、布越しにも甘い匂いが来た。蜂蜜を日なたに置き忘れたような匂いの下に、腐った肉の匂いが沈んでいる。
途中に、大穴潜りの骸がいくつも転がっていた。牛二頭分の体が、乾いて縮んでいる。
真ん中で、何かが金色に光った。
骸が、骨の山にもたれて座っていた。兜の下は骨で、胸板に金の紋がある。鎧の継ぎ目からは灰色の傘が生えていて、甘い匂いは、ここがいちばん濃かった。
「……これだ」ラルフの声がかすれた。
マルタとラルフで鎧を剥がした。留め紐は腐っていて、金具を外すと、中の骨が崩れてからからと鳴った。テオが盾を構えて前に立ち、ヴィムとリタが左右に、ヨストが灯りを持って後ろについた。
マルタは骨の山に膝をついていた。膝の下が湿って冷たかったが、気にしなかった。それより、まわりの地面が気になった。
楕円に浅くえぐれた跡が、いくつも並んでいる。大きな体が寝そべった跡で、寝床だとすぐに分かった。一つ、二つと数えて、十を越えたところでやめた。ほとんどは縁の土が乾いて崩れていたが、掻いたばかりの湿った土が、三つか四つあった。
記録には、少なくとも六匹、と書いてあった。
「急いで」
胸板と背板と兜をマルタの綱で一つにくくり、ラルフが背負って立ち上がった。
そのとき、壁の上で、爪が岩を掻いた。
◇
一匹目は、左の壁から降りてきた。
テオが前に出て、盾を斜めに構えた。灰色の頭が盾の音に向いて顎を開け、盾にぶつかる。テオの体は半歩滑ったが、倒れなかった。顎が跳ね上がって、その下の白い喉が灯りの中に出た。
そこへ、ヴィムの槍が入った。リタの矢が二本続けて喉に立ち、ラルフの大剣が首の付け根に落ちて、巨体が骨の山に崩れた。
「どうだ!」
ヴィムが笑って、槍を引き抜こうとした。抜けなかった。
その横から、骨の山を乗り越えて二匹目が来た。
「ヴィム、横!」
マルタの声に、ヴィムが振り向いた。その顔を、爪が払った。
「あ、ぐ……っ、あ――」
ヴィムは喉を押さえて、骨の上を転がった。押さえた指のあいだから、黒いものが溢れていく。何か言おうとしているのに、ごぼごぼと音がするだけだった。
「ヴィム! ヴィム、いや――」
叫んだリタのほうへ、頭が向く。テオが盾の縁を岩に叩きつけた。がん、と鳴って、頭がテオに戻る。テオは顎を受けて、膝をついた。ヨストが灯りを放り出して横から顔を突き、マルタはその脇へ潜りこんで、短剣を喉に柄まで押しこんだ。熱いものが肘まで流れた。巨体がよじれて、マルタは弾き飛ばされた。腰の角灯が岩に当たって割れ、消えた。
骨の上に転がったマルタの目の端で、縦穴のほうの闇に、小さな灯りが四つ揺れていた。ブルーノの隊の灯りが、上へ動いている。吼え声を聞いて、登りはじめたのだ。
待って、と叫ぼうとした。その一瞬、巨体の尾が横から来た。左の腿を打たれて、マルタは骨の山の、湿った窪みへ叩きこまれた。ズボンの裂ける音がして、息が詰まり、起き上がれなかった。
ラルフの大剣が、もう一度落ちた。
静かになった。
ヴィムは、喉から胸まで裂けていた。リタがその横に膝をついて、開いたままの目を閉じさせようとした。指が震えて、うまく閉じない。
「ヴィム……ねえ、ヴィム……」
リタは何度もまぶたを撫でた。ヴィムは、さっきまで笑っていた顔のままだった。
「……二匹、獲った」ラルフが肩で息をした。
マルタは縦穴のほうを振り向いた。灯りは、もう闇の高いところにあって、走っても間に合わない。見ているうちに、一つずつ見えなくなった。
ブルーノの隊は、上がったら自分たちの綱をたぐり上げて持っていく。縦穴の底に残るのは、八尋足りない、自分たちの綱だけだ。
ラルフも同じことに気づいていた。顔がこわばっていた。
「……戻るぞ。綱を継ぐ」
ラルフは鎧を背負い直して、もう歩き出していた。鎧を置いていく気は、なかった。
◇
ブルーノの綱は、なかった。
ヨストが灯りを高く掲げると、光のいちばん薄いところで、自分たちの綱の端が揺れていた。跳んでも届かない、八尋上だった。
ラルフは鎧をくくった綱をほどいてマルタに放り、金の紋の胸板と背板を、自分の体に帯で締めつけた。大剣は壁に立てかけた。
「剣は、あとで綱で上げる」
リタとヨストが、灯りを一つ持って、真ん中のほうへ十歩出て構えた。リタはヴィムの札を握ったまま、まだ泣いていた。テオがもう一つの灯りを持って、壁の根もとに立った。
壁には、大穴潜りの爪の溝が、上から下へ何本も走っていた。指が第二関節まで入るほど深く、足も掛かる。
楔を打てば早いが、打てば鳴る。
マルタは腰の槌から手を離して、溝で登ることにした。
右手、左手、右足と掛けて、左足を掛けようとしたとき、足が溝を感じなかった。膝から下が、他人の足のように重い。尾に打たれたせいだ、と思った。体が壁から剥がれて、テオの腕の中に落ちた。
テオが灯りをマルタの脚に向けた。尾に打たれたところで、ズボンの腿が裂けていた。その奥の、腿の内側の白い肌に、何かがついていた。
手のひらからはみ出すほどの、白っぽい、ぬめった塊だった。目がなく、脈を打つように、ゆっくり動いている。
蛭だ。
剥がそうとしたマルタの手を、テオが掴んで止めた。そして、角灯の熱いガラスを、蛭のすぐ横の肌に近づけた。
熱い。
声が出る前に、テオの左手が、布の上からマルタの口を塞いだ。マルタはその手のひらに、布ごと歯を立てた。噛んだまま、喉の奥で「ん、ぅ……っ」と息が鳴る。汗が腿の内側を伝って落ちていく。テオの顔がすぐそこにあって、息が頬にかかった。歯が食いこんでも、テオは手を引かなかった。
蛭が口を離して、骨の上に落ちた。ヨストが踵で踏みつぶした。
噛み跡は、小さな傷が三つ、星の形に並んでいた。血が細く流れて、押さえても止まらない。
マルタは肌着の裾を短剣で裂いた。腹が灯りの中に出る。テオが角灯を置いて、裂いた布を両手で腿に巻き、きつく縛った。結ぶ指が、腿の付け根に触れる。マルタは息を止めて、その手を見ていた。
「……ごめん。手」
テオの手のひらに、歯の跡が半月の形に残っていた。
テオは何も言わずに、二人の口の布を下ろした。灯りの中で、マルタの顔を長いこと見ていた。覚えておこうとするみたいに。それから、両手でマルタの顔を挟んだ。唇が重なった。短く。それから、もう一度、長く。
「下から、照らす。登れ」
◇
左脚は、膝で溝を押さえるくらいにしか使えなかったので、右足と両腕で登った。
溝に指を掛けては体を引き上げ、右足を次の溝へ送る。そのたびに腕が震えて、腿の布から、血がふくらはぎを伝っていった。
下を見たら登れなくなるので、マルタは下から照らしてくるテオの光だけを見ていた。光は少しも揺れなかった。
八つ目に伸ばした手が、綱の端に触れた。
泣きそうになったが、泣いている暇はなかった。端を腰に二巻きして体を預け、両手を空ける。石切り場で父親に教わった、重い石を吊るための結びで、二本を継いだ。引けば引くほど締まる結びだ。継いだ綱を、下へ落とした。
二回引くと、下から二回返ってきた。
――登ってきて。早く。
綱が張って、ラルフが登ってきた。灯りの輪の中を、金の紋が少しずつ上がってくる。鎧の縁が岩を擦って、がり、と鳴った。
やめて。その音、やめて。
真ん中のほうの暗がりで、爪の音がした。
リタとヨストの灯りの輪に、灰色の頭が入ってきた。リタの矢が二本、喉に立つ。ヨストが槍を突き出して、叫んだ。
「こっちだ、この――」
頭が横に振られて、ヨストの体が灯りごと宙を飛んだ。灯りが骨の上を転がって、消えた。
「ヨスト! ヨストォ!」
リタの声だった。暗がりで弦が一度、もう一度鳴って、それから、
「いや、来ないで、いや、いやあああ――」
悲鳴が、途中で潰れた。
マルタは自分の腕に噛みついていた。いつ噛んだのか分からない。歯の間で、声にならない声が震えていた。声を出したら、終わる。リタは、声を出したから。
闇の中を、爪の音が壁へ来る。
テオの灯りの輪に、大穴潜りの背中が入った。テオのすぐ横を通っていく。
――テオ、逃げて。
テオは動かなかった。灯りを掲げたまま、盾も鳴らさず、骨の上に立っていた。灯りは揺れもしなかった。
大穴潜りは、鎧の擦れる音のほうへ、壁を登りはじめた。ラルフの真下へ。
「来いよ、トカゲ野郎!」
ラルフが吼えて、綱に片腕を絡め、短剣を抜いた。舌が伸びて、ラルフの脚に巻きつく。ラルフはその舌に、短剣を二度叩きつけた。
「離せ、離せってんだ、こいつ――ぐ、あ、ああああっ!」
顎が、下からラルフの腰を咥えていた。
綱がぐんと引かれて、マルタの手のひらが焼けた。継ぎ目が締まっていく。抜けない結びだ。
「マルタ、引け! 引い――」
声がちぎれて、綱がふっと軽くなった。
金の紋が、灯りの輪の外へ落ちていった。少し遅れて、鉄が岩を打つ音が一度だけ上がってきた。
大穴潜りは、まだ壁にいた。マルタの足の下、腕一本の所で、舌が岩を舐めている。
マルタは息を止めた。腕を噛んだまま、手も足も、まぶたも動かさなかった。涙が勝手に出て、顎から落ちた。その一滴の音さえ、怖かった。
舌が、靴のすぐ下の岩を舐めて、離れた。大穴潜りは、ラルフの落ちたほうへ、壁を下りていった。
下に、テオの灯りだけが残った。
――テオ。
灯りは、さっきと同じ高さで、マルタの手もとを照らしていた。上がってこい、と言うみたいに。
その光が、少し下がった。
――テオ?
光は、ゆっくり下がっていった。腕が下りていくように。膝が折れていくように。
――だめ。動いて。動いてよ。
光は壁から外れて、骨の床に落ちて、止まった。
光の輪の中に、テオの手が見えた。手の甲にも、手首にも、白っぽいぬめったものが、いくつも、いくつも吸いついていた。マルタの腿についていたのと、同じものが。
テオの手は、灯りの取っ手を握ったまま、動かなかった。
テオは、一度も声を出さなかった。
マルタは登った。腕を噛んだ歯を外さずに、手を一つずつ掛け替えて、十二尋。下を見たら降りてしまいそうで、一度も見なかった。
六層の縁の杭をつかんで、体を引き上げると、湿った熱が、冷えきった体を包んだ。
喉から、何かが漏れた。
あ、と。あ、あ、と。止めようとしても止まらなかった。マルタは縁に額を押しつけて、声を殺しきれないまま、泣いた。
生きているのは、マルタだけだった。
下を覗くと、ずっと下に、針で突いたような光が一つだけあった。
マルタは杭の綱に手のひらを当てた。引かれたら、分かるように。
綱は、引かれなかった。
光が消えるまで、マルタは手を離さなかった。




