第十七章 張り綱
灰石の入口の野営地は、ふた月足らずで町になっていた。
ロウが七層から一人で上がってきた朝、ここには天幕が数張りと、ギルドの出張所の小屋が一つあるだけだった。
今は、坂の下まで天幕が並んでいた。
百は超えていた。数えるのを、途中でやめた。
天幕と天幕のあいだに、屋台が出ていた。焼いた腸詰め。酒。蝋燭。綱。
骨の賽を転がす輪があった。
鍋を叩いて客を呼ぶ女がいた。
「町じゃねえか」とグレタが言った。
「これ全部、七層ですか」とミモザが言った。
「全部じゃない」とノーラが言った。「七層に降りる連中に、売る連中」
依頼は、ギルドの出張所からだった。
二晩、野営地の夜の見回り。荷盗りと喧嘩が増えて、出張所の人手では足りないのだという。見回りは夜半まで。夜半からは、出張所の番が引き継ぐ。
新人向けの依頼だった。
◇
出張所の小屋の前に、写し屋が台を出していた。
板の上に、紙の束が積んであった。
「七層まで、全部書いてあるよ」
写し屋は、ロウの顔も見ずに、一枚差し出した。
「掲示板の写しと同じだ。字は、こっちのほうがきれいだ。銅貨三枚」
ロウは、紙を見た。
縦穴の降り方。縁ごとの綱の長さ。各層の空気。七層の空洞。大穴潜り、少なくとも六匹。五名のうち、帰還一名。
自分の手帳から、ギルドが写したものの、そのまた写しだった。
グレタが、ロウの肩越しに覗いた。
「おい。あんた、自分の書いたもんを、買わされてるぞ」
写し屋が、顔を上げた。
「……あんたが、書いた本人か」
「はい」
「じゃあ、本人の名前入りで、銅貨五枚にしとこう」
グレタが、腹を抱えた。
ロウは、紙を最後まで読んだ。
六層の縁から七層の底までの、綱の長さの行で、目が止まった。
――十二尋。
手帳には、二十と書いた。
降りるとき、綱が足りずに一本継ぎ足したから、よく覚えていた。
「ここが、違っています」
ロウは、指で押さえた。
「十二尋では、届きません。二十です」
写し屋は、紙を覗きこんで、肩をすくめた。
「写した奴の手が、すべったんだな」
「直してください」
「直すなら、その分、払いな。束ごと書き直すんだ。手間賃がかかる」
台の上の束は、指一本分の厚さがあった。
「直した一枚を、台の一番上に置いてください。それなら、払います」
写し屋は、少し考えて、頷いた。
ロウは、銅貨を三枚置いた。自分の書いた写しの、直し賃だった。
◇
出張所の裏手に、白い天幕が一つ張ってあった。
ほかの天幕より大きく、新しかった。
入口に、帳面を抱えた若い男が立っていた。
いつかの晩、酒場の隅の卓で、膝に帳面を置いていた男だった。
天幕の中に、鎧が並んでいた。剣も。盾も。綱の束も。
入口の板に、「買い取り」と書いてあった。
ノーラが、その前で足を止めた。
ほんの一歩分だけだった。
すぐに歩き出した。
ダインは、天幕のほうを見なかった。見ないようにしているのか、気づいていないのか、ロウには分からなかった。
◇
縦穴の口は、二層の崩落跡にあった。
見回りの範囲は野営地までだったが、ダインが「一度、見ておきます」と言った。
崩落跡の縁に、杭が何十本も打たれていた。
綱が、何十本も、下の闇へ垂れていた。
古い綱。新しい綱。切られて、短くなった綱。
一本の綱が、震えていた。
下から、誰かが登ってきていた。
最初に縁へ手をかけたのは、髭の男だった。
酒場で、ハインツの剣を卓に置いていた男だった。
続いて、五人。誰も欠けていなかった。
六人とも、背負いきれないほどの荷を担いでいた。
「よう。写しの」
男は、ロウに気づいて、片手を上げた。
「ブルーノだ。この前は、奢りを断られたな」
「……すみません」
「いいさ。見ろ」
ブルーノの隊が、縁の上に荷を下ろした。
ロウは、数えた。
鎧が、四つ。剣が、五振り。籠手が、三組。帯。水袋。兜が、一つ。
骨の山に落ちたリーネの剣は、なかった。
鋼の胴鎧も、なかった。
数え終えて、ロウは、自分の指が震えているのに気づいた。
ダインが、縁から下を覗きこんでいた。
冷たい風が、下から吹き上がっていた。
「七層は、どうでしたか」
「暗い。広い。甘い匂いがする」とブルーノは言った。「それと、拾い物がある」
ダインは、まだ下を見ていた。
「……見てみたいです。一度でいいから」
ロウは、何も言わなかった。
ロウも、同じ闇を見ていた。
ブルーノが、グレタを見た。
上から下まで。両手剣の柄で、目を止めた。
「あんた、傭兵上がりだろ。次に降りる支度ができるまで、二晩、夜番を頼みてえ。一晩、銀貨三枚」
依頼一件の一人分の、三倍だった。
グレタは、ロウたちを振り向きもしなかった。
「乗った」
「グレタさん」とダインが言った。「見回りの依頼が」
「見回りの最中に、ついでに番をする。同じとこをぐるぐる回るより、ましだろ」
グレタは、ロウの肩を叩いた。
「あたしは金で動くって、言ってあるだろ」
◇
野営地には、天幕を張る場所が残っていなかった。
出張所が貸してくれたのは、二人用の天幕が一張りだった。
グレタは、ブルーノの天幕の横の荷の山で寝ると言った。
残りの四人で、二人用に入った。
一晩目の見回りは、喧嘩が二つと、荷盗りが一つだった。
荷盗りは、ノーラが天幕の陰で足を引っかけて転ばせ、ダインが押さえた。十五か十六の痩せた子どもだった。
出張所に引き渡した。
夜半に、出張所の番と替わった。
ミモザが、一番奥。
その隣に、ノーラ。
ノーラの隣に、ダイン。
ロウは、入口の垂れ布の脇で、荷を背に座った。横になる幅は、残っていなかった。
暗かった。
外の屋台の灯りが、帆布を透かして、ぼんやり赤かった。
酒に酔った声。賽の転がる音。
それが少しずつ減って、夜が更けた。
ミモザは、すぐに寝た。小さな寝息が、規則正しかった。
ノーラは、寝ていなかった。
帆布の赤い明かりで、ノーラの肩の線が見えた。ダインに、背を向けていた。
幅が足りなかった。
ノーラの背中は、ダインの胸に、ついていた。
ダインが、身じろぎした。
衣擦れの音がした。
腕の置き場が、ないようだった。
その腕が、ノーラの腰の上に乗った。
ノーラの肩が、強張った。
払わなかった。
ノーラの背中が、ゆっくり、ダインの胸のほうへ沈んだ。
腰の上の手が、ほんの少し、前へ回った。
「……ん」
喉の奥で、音がした。
ノーラが、寝返りを打った。
ダインのほうへ。
帆布の赤い明かりの中で、二人の影が、一つになった。
「……坊ちゃん」
四人分の息が、狭い天幕の中にこもっていた。
ロウは、荷に背を預けたまま、動かなかった。
「……その呼び方、久しぶりだね」
ダインの声は、かすれていた。
「寝言」とノーラが言った。
それきり、二人とも黙った。
二人の影は、離れなかった。
ロウは、荷に背を預けて、外の音を聞いていた。
眠ったのは、明け方だった。
◇
二日目、ブルーノの隊は、荷を三つの山に分けて、天幕の横に積んだ。
鎧と剣と籠手の、一番値の張るものは、一つの袋にまとめてあった。
グレタは、その袋の前に、両手剣を立てて座った。
日が落ちてから、風が出た。
北西の、乾いた風だった。
十一月の風は、帆布の上を音を立てて這った。
ロウは、ミモザと組んで、野営地の風上の端を回っていた。
屋台の並びの、一番外れだった。
ダインとノーラは、反対の、出張所のほうを回っていた。
腸詰めの屋台の裏で、何かが倒れる音がした。
ランプだった。
油が、帆布の裾に流れていた。
火が、裾を舐めた。
屋台の主は、表で客と話していた。
裏には、誰もいなかった。
風が、火を持ち上げた。
帆布が、一気に燃えた。
熱が、ロウの顔を打った。
火は、張り綱を伝って、風下の隣の天幕へ移った。
天幕は、張り綱で、隣の天幕の杭とつながっていた。その隣も。その隣も。
「火事だ!」
誰かが叫んだ。
人が、天幕から飛び出した。
屋台の並びの道に、人がなだれこんだ。
ロウは、水の樽を探した。
屋台の並びに、二つ。
どちらも、半分しか入っていなかった。
二つかけても、帆布一枚分の火も消えなかった。
煙が、低く流れてきた。
目に沁みた。
息を吸うと、喉が焼けた。
外套の肩に、火の粉が落ちて、焦げる匂いがした。
人の波が、狭い道を塞いでいた。
誰かの荷が、道の真ん中で崩れた。
樽を運ぼうとした男が、人にぶつかって、樽を落とした。
水が、土に吸われた。
燃えているのは、三張りになっていた。
四つ目の天幕の中で、声がした。
「足が……! 誰か……!」
ミモザが、ロウの横を抜けた。
「ミモザさん!」
ミモザは、もう垂れ布をくぐっていた。
「怪我を、している人が……!」
四つ目の天幕の屋根の端に、火がついた。
中から、煙が噴き出した。
荷運びの頃、野営地で天幕が燃えたとき、親方は、燃える天幕の先の張り綱を切って、引き倒した。
ロウは、腰の小刀を抜いた。
五つ目の天幕の張り綱を、切った。
一本。二本。
天幕が、傾いた。
でも、一人では倒しきれなかった。
反対側の張り綱が、まだ引いていた。
その向こうに、六つ目、七つ目が並んでいた。
ロウは、屋台の荷車に飛び乗った。
人の波の頭の上に、顔が出た。
煙で、喉が裂けそうだった。
「張り綱を、切ってください!」
「火の先の、天幕を倒して! 引きずって、道を空けて!」
何人かが、振り向いた。
ほとんどは、逃げていく背中だった。
でも、荷を背負ったまま立ち止まった男たちがいた。
荷運びだった。
背負子の、背負い方で分かった。
一人が、ロウの顔を見た。
「……七層から帰ってきた、荷運びだ」
そう言って、腰の刃物を抜いた。
もう一人が、続いた。
三人目が、自分の荷を地面に下ろした。
五つ目の張り綱が、反対側からも切られた。
天幕が、地面に倒れた。
六つ目。七つ目。
荷運びたちが、倒れた帆布の端をつかんで、火から遠いほうへ引きずった。
燃える天幕の列と、その先の天幕の列のあいだに、土の道が開いた。
火は、四つ目の天幕までを焼いて、開いた道の手前で止まった。
四つ目の天幕は、屋根を燃やしたまま、まだ立っていた。
中から、咳が聞こえた。
「ノーラ、そっちの杭!」
ダインの声だった。
ダインとノーラが、屋台の並びの外側を回って、走ってきていた。
ダインが、四つ目の天幕の手前の杭を、足で蹴り抜いた。
ノーラが、反対の杭の張り綱を、投げナイフで切った。
天幕が、斜めに崩れた。
燃える屋根の端を、ダインが剣の腹で地面に叩き伏せた。
崩れた帆布の端が、内側から持ち上がった。
ミモザが、這い出してきた。
後ろに、男の襟首をつかんで引いていた。
男は、逃げようとして天幕の中で足を挫いていた。脛が、赤く腫れていた。
ロウとダインで、男を引き出した。
ミモザの顔は、煤で黒かった。
金色の編んだ髪の先が、少し焦げていた。
「……出られ、ました」
ミモザは、咳をした。
そこで、膝をついた。
ロウは、ミモザの肩を支えた。
法衣の背中が、汗で、肌に張りついていた。
熱かった。
火の熱か、ミモザの熱か、分からなかった。
「怪我は」
「わたしは……ない、です。この人の、足が……」
ミモザは、聖油の小瓶を出した。
指が震えて、栓が抜けなかった。
ロウが、抜いた。
◇
火が消えたのは、夜半だった。
燃えた天幕は、四張り。倒した天幕は、三張り。
死んだ者は、いなかった。
グレタは、ブルーノの天幕の横に、座っていた。
左の腕を、自分の腰帯で縛っていた。
縛った上から、血がにじんでいた。
目の前に、男が二人、伸びていた。
鎧と剣と籠手の袋は、なかった。
「三人だ」とグレタは言った。
「火が出て、皆がそっちへ走った。あたしも、立った。そこへ、三人。二人は、伸した。三人目が、腕を切って、袋を抱えて、逃げた」
グレタは、自分の腕を見た。
「火を出して、そっちに目を向けさせて、荷を取る。戦場じゃ、よくある手だ」
ロウは、屋台の裏で倒れたランプのことを考えた。
ミモザが、かすれた声で祈って、グレタの腕を塞いだ。
◇
朝、野営地は、焦げた帆布の匂いがしていた。
ブルーノは、残った荷を雇いの荷運びに担がせて、街へ送り出した。
自分の隊は、また縦穴へ降りる支度をしていた。
「一番いいのを、持っていかれた」とブルーノは言った。「なら、なおさら、奥へ行く。持っていかれた分を拾って、もう一袋、上乗せする」
誰も、止めなかった。
ロウも、止めなかった。
ロウの目は、縦穴の口のほうへ行っていた。
ダインは、縦穴へ向かうブルーノの隊の背中を、長いこと見ていた。
ノーラは、出張所の裏の、白い天幕を見ていた。
帳面を抱えた若い男が、焦げた鎧を一つずつ、天幕の中へ運び入れていた。
ノーラは、帯の投げナイフの柄を、指で一本ずつ撫でていた。
ロウは、写し屋の台へ行った。
台の上の紙の束は、なくなっていた。
「売り切れだ」と写し屋は言った。
「一昨日、B級の旦那が荷を担いで上がってきたろ。あれを見た連中が、昨日のうちに買っていった。最後の六枚は、今朝降りてった隊が、人数分まとめて」
ロウは、台の上を見た。
板の木目しか、なかった。
「……直した一枚は」
「一番上に置いといたよ。約束だからな。上から六枚、持っていった」
ロウは、縦穴の口のほうを見た。
一層の奥の、もっと奥。
六層の縁の、その下。
六枚のうち、二十尋と書いてあるのは、一枚だけだった。




