第十六章 蜂追い(二)
夜、ノーラは熱を出した。
ゼップの小屋の炉のそばで、毛布にくるまっていた。
ダインが、その横に座っていた。何も言わずに、ときどき炉に薪を足していた。
鍋の蜜の匂いが、まだ残っていた。
「夜は、巣の中で動かん」とゼップが言った。
「口を燻して、塞げばいい。灯りには、赤い布をかけな。あいつらには、赤は、闇と同じだ」
「汗と、酒の匂いにも、来る」
ゼップは、籾殻と枯れた松葉を藁で巻いて、太い束を作った。
「火をつけても、炎は上がらん。煙だけだ。これを、穴に押しこむ」
「僕が行きます」とダインが言った。
「あたしが行く」
ノーラだった。毛布から、顔を出していた。
「熱があるでしょう」
「あいつら、あたしの顔に、借りがあんの」
「その目で、見えないでしょう」
ノーラは、腫れていない右の目で、ロウを見た。
「……見えるやつが、横で言えばいい」
ダインが、ノーラを見た。
ノーラは、ダインを見なかった。
「なら、僕も行きます。頭は、僕ですから」
ロウは、言った。
「声は、出せません。耳もとで、言います。ノーラさんにだけ」
「数を、言います。三つ数えたら、と言ったら、三つ目で、動いてください」
ノーラが、頷いた。
◇
月が出ていた。
小屋の裏で、黒いものを外した。
「黒いものは、全部、外してください」とロウは言った。「汗と、酒の匂いも」
グレタは、鎧下を脱いだ。上着も。
肌着一枚になって、腕を広げた。
月の光で、首筋から鎖骨へ走る古い刀傷が、白かった。肌着は昼に淵で濡れたのが乾ききらずに、張りついていて、大きな胸の形が、そのまま出ていた。
「ほら。黒いの、残ってるか」
ロウは、見た。
見て、数えた。
髪。肌着。帯。腰の革袋。靴。
「……靴の紐が、黒いです」
「細けえな」
グレタは笑って、紐を抜いた。
「見とけ見とけ。減るもんじゃねえ」
ノーラは、黒い革の胴着の紐に指をかけて、止まっていた。
ダインが、そこにいた。
ダインは、昼に蜂を払った上着を、拾い直して濡れたまま着ていた。それを脱ぐのに手間取っていて、こちらを見ていなかった。
ノーラは、ダインに背を向けて、胴着を脱いだ。
下は、白い麻の肌着だった。胸に巻いた細い布が、薄く透けていた。痩せた肩が、月の光で尖って見えた。
黒い髪を、ゼップにもらった白い手拭いで、きつく包んだ。
ミモザだけが、法衣のまま立っていた。
「わ、わたしは……脱がなくて、いいんですか」
「白いので」
「……そう、ですね」
ミモザは、なぜか、少し残念そうだった。
グレタが、腹を抱えて笑った。
ゼップに、「静かにしろ」と言われた。
◇
倒れた木の根の下に、拳ほどの穴があった。
十歩手前で、ミモザが灯りを置いた。ゼップの娘が嫁ぐときに使ったという、赤い布をかけた灯りだった。
赤い光は、ほとんど何も照らさなかった。根の形が、黒く浮いて見えるだけだった。
グレタは、その横で、土を詰めた袋と、平たい石を抱えていた。
三人で、這った。
ノーラが真ん中。左にロウ。右に、ダイン。
ノーラの熱が、肩ごしに伝わってきた。
ロウは、ノーラの耳に口を寄せた。
「まっすぐ。三歩」
ノーラが、這った。
「……そこで、止まって」
止まった。
穴の口から、何かが、這い出してきた。
一匹。
夜でも、口の番は、いた。
蜂は、ノーラの手の甲を這い、手首を這い、肌着の襟から、中へ入った。
ノーラの体が、固まった。
左の目は、塞がっている。右の目の前は、土だ。
ノーラの肩が、肌着の下の何かの動きを追って、小さく震えていた。
ロウは、ノーラの耳に、唇が触れるほど近づいた。
「蜂です。肌着の中」
ノーラの喉が、ひくりと鳴った。
「動かないで。息を、細く」
「胸を、膨らませないで」
ノーラが、息を止めかけた。
「止めないで。細く、です」
ノーラの息が、細くなった。歯のあいだから、糸のように。
肌着の下で、小さな膨らみが動いていた。
鎖骨の下から、胸に巻いた布の上を、ゆっくり、下へ。
薄い胸の上を、親指ほどのものが、這っていく。
ノーラの背中が、震えた。
「……ん……っ」
声が、喉の奥で潰れた。
ノーラの右手が、横へ伸びた。
ダインの手首を、つかんだ。爪が食いこむほど。
ダインは、動かなかった。
蜂は、布の下の縁を越えて、腹へ降りた。
へその横。脇腹。
ノーラの腰が、ぴくりと跳ねかけて、止まった。
ダインの手首をつかむ指が、白くなっていた。
肌着の裾から、蜂が出た。
土の上を這って、根の穴へ、戻っていった。
ノーラが、細い息を、長く吐いた。
ダインの手首から、指が、一本ずつ離れた。
「燻し束を」とロウは言った。
ダインが、懐から火口を出して、束に火を移した。籾殻は、炎を上げずに、くすぶった。
ダインが、その束を、ノーラの右手に渡した。煙が、赤い光の中を黒く流れた。
「穴は、右手の、指一本分、左。腕一本と、半分の先」
「三つ数えたら、腕を、まっすぐ前へ。押しこんでください」
ノーラの頭が、小さく動いた。
「一つ」
「二つ」
「三つ」
ノーラの腕が、伸びた。
束が、穴に入った。
「グレタさん!」
初めて、声を出した。
グレタが、闇から走ってきた。肌着一枚で、袋と石を抱えて。
石を、穴にかぶせた。土を、叩きつけた。両手剣を抜いて、その腹で、上から押さえつけた。
根の下で、地面が唸った。
土の隙間から、二匹、這い出した。
グレタが、剣の腹で叩き潰した。
「出てくんな」
三匹目は、ダインが靴の踵で踏んだ。
唸りは、長く続いた。
それから、少しずつ弱くなった。
夜明けまで、誰も、根のそばを離れなかった。
明け方、ダインの手首に、爪の跡が四つ、残っていた。
◇
夜明けに、掘った。
巣は、根の下に、何段も重なっていた。灰色の、紙のような殻。その中に、白い蜂の子が、びっしり詰まっていた。
村で、振る舞われた。
炒ったのと、生のと。
グレタは、生のをつまんで、口に放りこんだ。
「甘えな。乳みてえだ」
ミモザが、小さく悲鳴を上げた。
「た、食べるんですか、それ」
「食わねえのか。神官は、蜂の子は禁止か」
「禁止では……ない、です、けど」
ミモザは、炒ったのを一つ、目をつぶって口に入れた。
しばらく、噛んでいた。
「……おいしい、です」
それから、小さく、「主よ」と言った。
ノーラは、左の目を腫らしたまま、炉のそばで黙って食べていた。熱は、朝には下がっていた。
ダインが、ノーラの顔を見た。
「見んな」
ダインは、目を逸らさなかった。
「腫れが引いたら、見ます」
ノーラは、何か言いかけて、蜂の子を口に詰めこんだ。
グレタが、ロウの肩を叩いた。
「あれ。三つ数えて前へ、ってやつ。あたしにもやれ」
「声が出せねえときの合図は、戦場でも要った。決めとかねえと、死ぬ」
「……肩を、叩くのは、どうですか」
グレタが、指で、自分の肩を叩いてみせた。
「一つが、止まれ」
「二つが、下がれ」
「三つが、行け」
五人で、決めた。
ミモザが、練習で、ダインの肩を四回叩いた。
「四つは、何ですか」とダインが訊いた。
「……お、お腹が、すきました」
ゼップが、喉の奥で笑った。
◇
帰りぎわ、ゼップが蜜の甕を持たせてくれた。一抱えある甕だった。巣の殻も、袋に一つ。
「売れますよ、これ」とダインが言った。「巣の殻は、薬屋が買います。蜜は、神殿が」
ダインは、指を折って、何か数えていた。
「全部、持って帰りましょう」
グレタが、甕を抱えた。
「あたしが、担ぐ」
ロウは、甕を見た。
「帰りは、尾根を越えます。登りです」
「その甕は、一人では、無理です」
「平気だ」
尾根の半分で、グレタは甕を下ろした。
肩で、息をしていた。
「……先に、言えよ」
「言いました」
ミモザが、噴き出した。ノーラは、腫れた頬を押さえて、肩だけで笑った。
甕は、ダインとグレタが、二人で棒に吊るして運んだ。
ダインは、途中から、指を折るのをやめていた。
◇
街に着いたのは、日が落ちてからだった。
十割だった。
イルマは、蜂の死骸と巣の殻を確かめて、帳面に書いた。
それから、ロウの報告書をその場で読んだ。
報告書には、こう書いた。「記録係は、斜面の上の巣の番に気づき、言った。ノーラさんまで四十歩。滝の音で、届かなかった。」
イルマが、顔を上げた。
「四十歩、ですか」
「はい」
イルマは、自分の帳面を開いて、何か一行、書き足した。
何を書いたのかは、見えなかった。
◇
酒場が、うるさかった。
奥の卓のまわりに、人の輪ができていた。
真ん中で、髭の男が、杯を掲げていた。Bの札が、胸で揺れていた。
「飲め! 今夜は、俺の奢りだ!」
卓の上に、剣が一振り、抜き身で置かれていた。
柄頭に、小さな秤が彫ってあった。
「青い秤の頭の剣だ。鍛冶屋通りの爺さんに見せたら、間違いねえってよ」
「七層の、縦穴の下だ。二十歩も行かねえ所に、転がってた」
「A級の剣だぞ。金貨が、何枚になると思う」
輪が、沸いた。
ロウは、入口で止まっていた。
秤の彫り。
掲示板の、一枚目の紙。
「奥は、行かなかったのか」と、誰かが訊いた。
男は、首を振った。
「奥は、甘え匂いがした。蜂蜜を、焦がしたみてえな」
「ありゃ、やめとけって匂いだ。縦穴の真下だけで、これだ。真下だけでな」
輪の中の何人かが、顔を見合わせた。
ロウの鼻の奥に、ゼップの小屋の匂いが戻ってきた。
炉の鍋。温まって、少し焦げた蜜。
ミモザが、神殿の匂いだと言った匂い。
男が、ロウに気づいた。
「おい。あんた、写しの」
輪が、こっちを向いた。
「写しの通りに降りたら、写しの通りにあった。綱の長さも、降り方も、全部な。あんたのおかげだ」
男は、杯を、ロウに突き出した。
ロウは、受け取らなかった。
男は、気にしなかった。杯を、自分で干した。
「次は、もっと奥まで行く。荷運びも雇ってな」
輪が、また沸いた。
隅の卓に、身なりのいい若い男がいた。膝に帳面を置いて、剣のほうを見ていた。
帰ってきた晩、この酒場で、ロウに頭を下げた男だった。
ノーラが、その男を見ていた。
片方の目だけで。笑っていなかった。
ロウは、輪の外にいた。
縦穴の下から、左の壁沿いに、十五歩。帽子。
二十歩。窪み。
三十歩。割れ目。
その口に、座っている人がいる。
剣は、二十歩も行かない所に、落ちていた。
あと、十歩だった。
ロウは、その十歩を、頭の中で歩いていた。
何度も。




