第十六章 蜂追い(一)
依頼書の書き添えは、一行だけだった。
――熊と思われる。
グレタが、それを読んで笑った。
「熊なら、任せな。山で、一頭、仕留めたことがある」
「剣で?」とノーラが言った。
「剣でな。腹が減ってたんだ。熊も、あたしも」
◇
蜂飼いの村は、尾根を一つ越えた谷にあった。
朝に街を出て、着いたのは昼過ぎだった。
斜面に、巣箱が二十ほど並んでいた。丸太をくり抜いて、板で蓋をした箱だった。
「空になるんだ」
蜂飼いの年寄りは、ゼップと名乗った。
ゼップは、箱の蓋を開けた。
中は、静かだった。
蜜蜂が、一匹もいなかった。
巣板だけが、空のまま並んでいた。
「三日で、五つだ。夜のうちにやられる。熊だろう」
ダインが、頷いた。
「熊なら、箱を倒すでしょうね」
倒れた箱は、一つもなかった。
ロウは、箱の前にしゃがんだ。
入口の板の下に、蜜蜂が積もっていた。
小さな山になっていた。
一匹、指でつまんだ。
頭が、なかった。
隣のも。その隣のも。
頭のない蜜蜂が、数えきれないほどあった。
手帳の、ずっと前の頁に、書いたことがあった。
荷運び四年目の秋。峠の道。蜜の壺を背負っていた男の、黒い髪に、蜂が集まった。男は走った。走って、峠の下の沢の手前で、倒れた。
その晩、手帳に書いた。
――蜂。親指ほど。黒に来る。走る者を追う。水に潜れば、追ってこない。
最後の一行は、あとで猟師に聞いて、足した。
「熊じゃ、ありません」
声は、普通に出た。
四人が、振り向いた。
「蜂です。大きいのが、蜜蜂の、首を落としています」
誰も、すぐには何も言わなかった。
ゼップが、「……大雀蜂か」と言った。
ダインは、ロウの指の先の蜜蜂を見た。
それから、ロウの顔を見た。
「……そうですか」
倉の帰り道と、同じ言葉だった。
でも、ダインは、そこで依頼書を畳んだ。
「じゃあ、蜂で。ゼップさん、蜂のことを、教えてください」
◇
ゼップの小屋では、炉に鍋がかかっていた。
古い巣板を煮て、蝋を取っているのだという。
鍋の縁で、蜜が温まって、少し焦げていた。
甘い匂いが、小屋じゅうにこもっていた。
ミモザが、鼻を鳴らした。
「神殿の、匂いです」
「蝋燭の。……毎朝、この匂いの中で、お祈りしていました」
ゼップが、笑った。
「神殿の蝋燭は、半分、うちのだ」
ミモザは、祈祷書を抱き直して、鍋に向かって小さく頭を下げた。
「鍋に祈ってどうすんだよ」とグレタが言った。
「お、お世話に、なっていたので」
ゼップの話は、短かった。
「大雀蜂は、地面の下に巣を作る」
「一匹が蜜蜂の箱を見つけると、仲間を呼ぶ。あとは、一晩で空だ」
「巣を潰さなきゃ、来年も来る」
「巣は、どこに」とダインが訊いた。
「分からん。だから、追う」
ロウは、言った。
「黒いものに、来ます。走る者を、追います」
ノーラが、自分の黒い胴着を見下ろした。
「追うのに、走るなって?」
ゼップが、「巣の近くでなきゃ、構わん」と言った。
ゼップは、鶏の肉を小指の先ほどに丸めて、白い綿を細く結びつけた。
竿の先に載せて、空になった箱の前に差し出した。
しばらく待った。
一匹、来た。
親指ほどあった。黄色と黒の、太い胴。
顎が、肉を挟む音がした。
蜂は、綿のついた団子を抱えて、浮いた。
「追え」
白い綿が、木々のあいだを、ゆっくり登っていった。
五人で、走った。
綿は、思ったより速かった。
グレタは、藪を体ごと押し分けて、枝を顔で受けた。
ミモザは、法衣の裾を踏んで、二度転んだ。祈祷書は、二度とも胸に抱えたままだった。
ダインは、すぐに見失った。
「どっちです!」
「右!」とノーラが言った。
「右って、どの」
「あたしの右!」
一度目は、栗の木の上で見失って、村まで戻った。
ゼップは、黙って次の団子を丸めていた。
二度目は、沢のところで見失った。
ロウは、荷を背負ったまま、ずっと最後を走っていた。
三度目の団子を竿に載せながら、ノーラが言った。
「あたしが、先に行く。あんたら、遅い」
◇
沢沿いの斜面を、白い綿が登っていった。
ノーラが、その下を走った。
上を見ていた。綿だけを見て、岩を跳んでいった。
ダインが十歩遅れて、グレタが続いた。
ミモザは、祈祷書を抱えて、遅れていた。
ロウは、最後だった。
道は、小さな滝の脇の岩を登って、沢を離れ、開けた斜面へ出ていた。
ほかの三人は、もう滝の上にいた。
ロウは、まだ滝の脇の岩にいた。すぐ前を、ミモザが法衣の裾を濡らして登っていた。
滝の音が、耳を塞いでいた。
倒れた木が一本、根を上にして、日を浴びていた。
ノーラは、そこへ向かって登っていた。
ロウは、岩の上から、その斜面を見上げていた。
光の中に、何かが、回っていた。
地面すれすれを。
一匹ではなかった。
五つ、六つ。根のまわりの土の上を、低く。
上を飛ぶ綿の蜂とは、飛び方が違った。
番だ、と思った。
巣の口の。
「ノーラさん!」
喉は、閉じなかった。
「止まって! 地面です! 根の下!」
大きな声だった。自分でも、そう思った。
ノーラは、四十歩先にいた。
あいだに、滝の音があった。
ノーラが、足を止めた。
振り向いた。
「なに!?」
叫んだ。
倒れた木の根の、すぐ前で。
届いたのは、声だけだった。
番の蜂が、浮いた。
かち、かち、と顎の鳴る音が、ここまで聞こえた気がした。
根の下の土から、黒い煙のようなものが、湧いた。
煙ではなかった。
ノーラが、頭を払った。
短い黒い髪に、蜂がたかっていた。
「っ、あ……!」
払った手にも。
ノーラは、走った。
こっちへ。斜面を、下へ。
群れが、ついてきた。
「走らないで! 伏せて!」
それも、届かなかった。
羽音が、滝の音より大きかった。
ダインが、ノーラに向かって駆け上がった。
剣の柄に手をかけて、抜かなかった。抜いても、斬れるものがなかった。
ダインの首に、一匹。
「く……っ」
ダインが、脱いだ上着で、ノーラの頭を払った。
蜂は、上着ごと、ダインに移った。
グレタは、両手剣を背中に負ったまま、立ち止まっていた。
「こいつは、斬れねえな」
黒に来る。走る者を追う。
ノーラの髪は、黒い。胴着も、黒い革だ。
走れば、追われる。払えば、寄ってくる。伏せても、黒い頭は、そこにある。
滝の下の淵は、ロウのいる岩から、十歩下だった。
ノーラは、まだ三十歩上にいた。
白いものが、ロウの前で、斜面を駆け上がった。
ミモザだった。
法衣の裾をつかんで、斜面を登っていた。
蜂の中を。
蜂は、ミモザに止まらなかった。
白い法衣の肩をかすめて、通り過ぎていった。
祈祷書が、足もとに落ちた。
ミモザは、ノーラにぶつかるように抱きついた。
大きすぎる袖を広げて、ノーラの頭を、胸ごと抱え込んだ。
白い布が、黒い髪を隠した。
「か、隠せば……っ、黒いのは、隠せば……!」
声が、震えていた。
ロウは、走った。
声が届くところまで。
「淵へ! 頭まで、水に!」
ダインの腕をつかんで、引いた。
グレタが、白い布にくるまれたノーラを、肩に担ぎ上げた。ミモザは、袖をノーラの頭に押さえたまま、横を走った。
淵は、腰ほどの深さだった。
冷たかった。
五人で、沈んだ。
水の上で、羽音が回っていた。
息が続かなくなって、顔を出した。
一匹が、ダインの額をかすめた。
また、沈んだ。
三度、それを繰り返した。
四度目に顔を出したとき、羽音は、斜面の上へ戻っていくところだった。
◇
ノーラは、七か所、刺されていた。
首に三つ。頬に一つ。瞼に一つ。手の甲に二つ。
左の目が、腫れて塞がっていた。
ダインは、首と手首に三つ。
グレタは、腕に一つ。
「蚊だな」と言った。腕は、倍に膨れていた。
ロウは、手の甲に一つ。
ミモザは、どこも刺されていなかった。
ロウの荷は、水を吸って重くなっていた。手帳は、油紙に包んで、荷の口のすぐ下に入れてあった。頁の端が、少し濡れただけだった。
祈祷書は、斜面の途中に落ちていた。ミモザが、震えながら拾いに戻った。
ミモザは、震える手で、ノーラの首に聖油を塗りこんだ。
主の御名を、三つ。
途切れなかった。
刺し跡が、塞がった。
腫れは、引かなかった。
ミモザは、二度目を祈った。頬と、瞼。
塞がった。腫れは、そのままだった。
「……毒が、もう、回っています」
ミモザが、唇を噛んだ。
「主の力は、傷を、閉じます。でも、入ってしまったものは……」
ダインが、首を押さえたまま言った。
「僕は、いいです。三回目は、取っておいてください」
ノーラは、濡れた肌着のまま、膝を抱えて歯を鳴らしていた。
腫れていない右の目で、ロウを見た。
「……なんて、言ったの。あのとき」
「止まって。地面です。根の下、と」
ノーラは、しばらく黙っていた。
「止まったじゃん」
「止まったところが、巣の口でした」
ノーラが、笑った。
腫れた顔で笑うのは、痛そうだった。
「最悪」




