第十五章 天井(三)
その夜、扉が叩かれた。
ミモザが立っていた。片手に蝋燭を一本。右の腕は、だらりと下がっていた。薄い寝間の法衣で、ほどいた金色の髪から、石鹸の匂いがした。
「す、すみません。お願いが、あって。……記録して、いただけませんか。痺れの跡が、どこまで来ているか」
ロウは、ミモザを見た。
「神殿では、毒の痺れは、朝と晩に、どこまで来ているか確かめるんです。広がっていたら、すぐ神殿へ。見習いは、自分の傷を自分で癒せないので、自分で見るしかなくて。……でも、背中は、自分では見えなくて」
廊下の向こうから、グレタのいびきが聞こえていた。
「ノーラさんには、その、頼みにくくて。記録係さんは、書くのが、お仕事なので」
ロウは、扉を広く開けた。
ミモザは、蝋燭を卓に置くと、卓のそばの、背もたれのない丸椅子に腰かけて、ロウに背中を向けた。左の手で、寝間の法衣の襟をほどいた。肩から、背中の半ばまで、布を落とした。落ちた布を、胸の前で、左の腕で抱えるようにして押さえた。抱えた腕の外へ、背中越しにも分かるほど、白い丸みの縁がはみ出していた。昼間、糸に押さえつけられていたものだった。
細い背中だった。肩甲骨が、蝋燭の明かりで、浅く影を作っていた。背骨の溝が、腰のほうへ、まっすぐに下りていた。
右の肩のつけ根に、赤い点が二つ並んでいた。その周りが、腫れていた。赤みは、肩甲骨の下まで、広がっていた。
ロウは、見た。見るために、呼ばれていた。
蝋燭の明かりが、背中の上で揺れていた。自分の息が、少し速くなっているのが分かった。昼間、油で濡れた手のひらの下にあった肌だった。その温かさを、手が、まだ覚えていた。両腕で抱え込んだ腿の重さも。
ロウは、卓の上のペンを取った。
ペンの尻を、噛み跡のすぐ横に当てた。
「ここは」
「……分かりません」
肩甲骨の、真ん中。
「……分かりません。遠くで、何か、触っているような」
指一本分ずつ、下へずらした。肩甲骨の下の端から指三本上のところで、ミモザの背中が、ぴくりと動いた。
「ぁ、ん……っ」
鼻に抜けるような声が、漏れた。ミモザは、左の手で、口を押さえかけて、胸の布がずり落ちかけて、慌てて抱え直した。耳の先まで、赤かった。
「い、今のところから、分かります」
ロウは、ペン先にインクをつけて、そこに、小さな点を一つ打った。
「ひゃ。つ、冷たいです」
「明日の朝、この点より下か、上か、見られるように」
背骨の脇にも、打った。
それから、右の脇腹。ペンの尻が、抱えた腕のすぐ下の、柔らかい肌の上を、脇の下から、ゆっくりと下りていった。
「……は、ぁ……」
ミモザの息が、震えていた。痛がる声では、なかった。
「そこ、から……分かります」
ロウの手も、少しだけ震えていた。インクが、点ではなく、小さな線になりかけた。ロウは、息を止めて、点を打った。
点が、三つになった。
「……まだ、あるんです」
ミモザが、小さな声で言った。
「脇の下から、前のほうも。噛まれたところから、回ってきている気がするんです。さっき、自分で触ってみたんです。でも、自分の指なのか、ほかの何かなのか、分からなくて」
ロウは、ペンを卓に置いた。手が、宙で止まった。
「神殿では、前も、記録します。心の臓のほうへ、来ていたら、すぐに神殿へ行かなければいけないので」
声が、途中で細くなった。
「……お願い、します」
ミモザの左の手が、胸の布を押さえたまま、肘から先だけで、ロウの手首を探した。見つけて、指をかけた。冷たい指だった。その指が、ロウの手を、脇の下から、前のほうへ引いた。
前は、ペンの尻では分からない。指で、確かめるしかない。そう思った。そう思うことにした。
右の鎖骨の下に、指先を置いた。
「ここは」
「……遠い、です」
指一本分、下へ。
「……遠い、です」
指の下で、肌が、柔らかくなっていった。なだらかに、ふくらみはじめていた。ロウの指は、そこで止まりかけた。
「もう少し、下も」
ミモザの指は、ロウの手首を離さなかった。
ふくらみの斜面に、指を置いた。押した。指の腹が、沈んだ。
「そこ、は……」
ミモザの背中が、反った。
「ぁ……っ。そこから、です。そこから、分かります」
布を抱えた腕が、ゆるんでいた。押さえきれなくなった布が、蝋燭の明かりの中で、ずり落ちかけていた。ミモザは、もう、それを抱え直さなかった。
指の下で、鼓動が打っていた。ミモザのものか、自分のものか、ロウには分からなかった。
「……点を、打ちます。こちらを、向いてください」
ミモザは、椅子の上で、そろそろとこちらを向いた。
顔は、上げなかった。耳の先から、首筋まで、赤かった。左の腕で、布を、胸の下のほうだけ押さえていた。
ロウは、ペンを取った。インクをつけた。左の指で、さっきの場所を、探し直した。そこに、ペン先を当てた。白い肌の、なだらかな斜面の上だった。
ミモザの息が、止まった。
小さな点が、一つ、ついた。
「……冷たい、です」
「はい」
どちらも、動かなかった。蝋燭の芯が、小さく鳴った。
ロウの指は、まだ、点のそばの肌の上にあった。ミモザの指は、まだ、ロウの手首にかかっていた。
その指が、ゆっくりと、離れた。
ロウは、手を引いた。
ミモザは、布を引き上げて、襟を合わせた。指が震えて、紐が、なかなか結べなかった。
点が、四つになった。
――ミモザさん。痺れ。右の肩の噛み跡から。肩甲骨の下の端から指三本上、背骨の脇、右の脇腹。右の鎖骨の下、ふくらみの上。インクの点、四つ。朝、比べる。
ミモザが、手帳を覗き込んだ。自分の背中のことが、ロウの字で並んでいるのを、長いこと見ていた。頬が、まだ赤かった。
「わたし、言われていたら、上ばかり見ていたと思います。皆さんの見るほうを、見るので」
ミモザは、手帳の上の、自分の背中のことを、もう一度見た。
「でも、蜘蛛が落ちてきてから、下で、持っていてくれたのは、記録係さんでした。……あの声が、いちばん先でした」
「次は」
ロウは、言った。
「来る前に、言います。上、とだけでもなく。何がいるか、を言います。……梁の上に、何かいる。糸で、足音を聞いている。糸の下を、歩かないでください。そう、言います」
ミモザは、少し黙って、それから笑った。
「長いですね」
「……はい」
「でも、それなら、わたし、ダインさんの背中ばかり、見ていませんでした」
ミモザは、左の手で蝋燭を取り上げて、扉のところで深く頭を下げた。襟の紐は、今度は、固く結んであった。
「……おやすみなさい」
足音が、廊下の奥へ、ゆっくりと遠ざかっていった。最後の二歩だけ、少し、もつれていた。
手のひらを、見た。インクの染みが、指に一つ、ついていた。
しばらく、洗わなかった。
◇
翌朝、宿の食堂で、ミモザはロウの隣に座った。
パンをちぎりながら、ロウにだけ聞こえる声で言った。
「点より、少し上まで、分かるようになった気がします。四つとも。腕も、指が、少し」
「……はい」
向かいで、グレタが、大きな欠伸を途中で止めた。
「点って、なんだよ」
ミモザの手が、止まった。ダインが、黙って麦粥の匙を口に運んだ。ノーラが、杯の縁越しに、ロウを見ていた。
「き、記録の、お話です」
ミモザは、膝の上の祈祷書の角を、指で押さえた。
「背中の、記録です。記録係さんに、つけていただきました」
グレタが、ロウを見た。ミモザを見た。もう一度、ロウを見た。
それから、食堂じゅうに聞こえる声で、笑った。
ロウは、パンをちぎった。
口は、開いたのだ。声が、出なかっただけだ。
次は、出す。




