第十五章 天井(二)
床の上に、座らされていました。
背中に、誰かの胸がありました。記録係さんの胸でした。わたしの腿を抱えていた腕が、いつのまにか、わたしの体を、後ろから支えていました。
右の肩から、背中へ、腕へ。自分の体ではないようでした。
胸に、白いものが、ぐるぐると巻きついていました。法衣の上から、何重にも。その糸が、法衣を、肌に押しつけていました。いつもゆったりと余っているはずの布が、胸の形のまま、ぴったりと張りついていました。祈祷書で隠していたところが、全部、光の中にありました。
裾は、腿の上まで、めくれ上がっていました。
見られている、と思いました。
皆さんに。光の中で。
手を、動かそうとしました。せめて、裾を引き下ろそうと。右の手は、動きませんでした。左の手が、少しだけ、床の上で曲がって、それきりでした。
「ノーラさん、油を。それと、前を、お願いします」
記録係さんの声が、わたしの頭の、すぐ後ろでしました。
「蜘蛛の糸は、油で、くっつかなくなります。荷についた松脂を落とすときと、同じです」
ノーラさんが、わたしの前に膝をつきました。角灯の油を、自分の手のひらに注いで、わたしの胸の糸に、塗り込みました。
法衣の上から、油が、染みてきました。冷たくて、ぬるぬるしていて、それが、布を通って、肌まで届きました。ノーラさんの手のひらが、糸の上を、何度も往復しました。胸の上を。ふくらみの下を。脇のほうへ。締めつけられていたところを、一筋ずつ、たどるように。
油を吸った法衣が、肌に、ぴたりと張りつきました。白い布でした。濡れて、透けていくのが、自分でも分かりました。
「……あんた、隠してたんだ」
ノーラさんは、小さな声で言いました。からかう声では、ありませんでした。
ダインさんが、目を逸らすのが見えました。グレタさんは、逸らしませんでした。腕を組んで、ただ、見ていました。
糸が、胸の上で、ぬるりとほどけていきました。一筋ほどけるたびに、そこだけ、肌が引っぱられて、離れました。締めつけられていたところに、空気が入ってきました。胸が、法衣の中で、重たく、元の形に戻りました。戻るときに、揺れました。
「ぁ……っ」
声が、出ていました。
背中に当たっている記録係さんの胸で、息が、一度だけ止まりました。
背中の糸は、記録係さんが剥がしてくれることになりました。
背中から、記録係さんの胸が離れました。左の肩を、片手で支えられました。ノーラさんが、記録係さんの手のひらにも、油を注ぎました。
「肩の布を、少し、下ろします。……すみません」
法衣の襟が、右の肩から、背中のほうへ、ずらされました。噛まれたところに、空気が触れました。それから、油で濡れた手のひらが、触れました。
布越しでは、ありませんでした。
感覚の遠くなった肌の上で、それでも、手のひらの熱だけは、分かりました。大きな手でした。肩甲骨の上を、ゆっくりと、背骨のほうへ。べたべたした糸が、指の下で、ほどけて、剥がれていきました。
「ん、ぅ……」
歯を、食いしばりました。食いしばった歯の間から、それでも、声が漏れました。祈りの言葉の、どれにも似ていない声でした。
主よ。いま、このかたの手が。
手が、噛まれたところの周りを、そっとなぞりました。
「ここを、噛まれています」
「ひ、ぁ……っ」
触れられたのは、分かりませんでした。なのに、奥のほうで、ずきりと痛みました。体が、勝手に跳ねました。跳ねた体を、記録係さんの腕が、後ろから受け止めました。
最後の糸が、背中から剥がれました。
◇
歯が、かちかちと鳴っていました。止めようとしても、止まりませんでした。
その前に、グレタさんが、自分の上着を脱いでいました。厚い羊毛の、色の抜けた藍でした。左の肩に、何かを縫いつけていた跡が、四角く残っていました。
グレタさんは、それを、わたしの肩から掛けて、前を合わせました。裾が、膝の下まで届きました。
「汗臭えけど、我慢しな。冬の野営で、三年着た。あったけえぞ」
羊毛が、肌に触れました。ちくちくして、あたたかくて、知らない人の匂いがしました。
隠れた、と思いました。
そう思ってから、やっと、顔が熱くなりました。
さっきまで、わたしの胸も、背中も、光の中にありました。皆さんの前に。記録係さんの、手の下に。わたしの腿は、記録係さんの腕の中にありました。
怖さは、いつも遅れてきます。恥ずかしさも、同じでした。
「グ、レタ……さん……あ、ありが……と……」
首を、少しだけ、後ろに回しました。
記録係さんは、床に膝をついたまま、油で光る自分の手のひらを見ていました。わたしのほうを、見ないようにしているのが分かりました。
「き、ろく……がかり、さん……こえ……おおきい、ん、ですね……」
記録係さんは、何も言いませんでした。
ノーラさんが、床から、祈祷書を拾い上げてくれました。表紙の角が、粉で白くなっていました。ノーラさんは、それを、羊毛の上着の上から、わたしの胸に、そっと置きました。
祈祷書の重みが、胸の上に戻ってきました。
◇
ノーラが、梯子を掛けて、屋根裏を見た。
降りてきて、少しのあいだ、何も言わなかった。
「……巣。真ん中の梁の上。犬、二頭とも、あった。包まれて、ぶら下がってた」
グレタが、黙って梯子を登った。しばらくして、白い糸で包まれた塊を、一つずつ、肩に担いで降ろしてきた。
犬の脚が、一本ずつ、はみ出していた。
鼠は、もっと、たくさんあった。
ロウは、床の上の蜘蛛を見下ろした。脚を全部内側に丸めて、ひっくり返っていた。
「坑道で、小さいのは見た。梁蜘蛛」
ノーラが言った。
「上に巣を張って、下に糸を垂らして、糸が揺れたら、降りてくる。で、上に引っぱり上げて、巻いて、吊るす。……こんなでかいのが、街の倉に、いるとは思わなかった」
◇
帰りは、グレタがミモザを背負った。ダインは、蜘蛛の脚に払われた左の頬を、指で押さえていた。
運河沿いの道で、一度、休んだ。
ダインが、ロウを見た。
「グレタさんが、言ってました。倉の真ん中で、記録係さんが、上を見て、止まってたって」
「……はい」
「何が、見えてたんですか」
ロウは、少し黙った。
「梁から、糸が張っていました。床と、袋と、柱まで。グレタさんが袋を叩いたら、震えました」
「糸?」
「前に、灰石の浅層で、音で獲物を探す魔物を見ました。床の震えを、舌で舐めていました。……同じだと、思いました。上に何かいて、足音を聞いている、と。それに、風もないのに、粉が落ちていました」
「なんで、言わなかったんです」
責める声ではなかった。帳尻を確かめるような声だった。
「……声が、出ませんでした」
ロウは、自分の喉に、手を当てた。
「口は、開いたんです。でも、何も、出てきませんでした」
ダインは、間を置いた。
「そうですか」
ノーラが、ちっ、と小さく舌を鳴らした。
グレタが、ミモザを背負い直して、鼻を鳴らした。
「新入りの言うことなんざ、戦場でも、誰も聞かねえよ。聞かせんのは、新入りの仕事だ」
グレタは、ロウを見た。
「でもよ。あれが持ち上げられたとき、一番先に下にいたのは、あんただ。下で、止めた。綱も、油も、あんたが先だった。……あれは、できてた」
ロウは、自分の腕を見た。ミモザの重さが、まだ、腕の内側に残っていた。
ダインが、立ち上がった。
「次は、早めにお願いしますね。記録係さん」
いつもの、感じのいい笑顔だった。
◇
依頼は、十割で終わった。
イルマは、犬の首輪と、蜘蛛の脚を一本、確かめて、帳面に書きつけ、報酬を四つに分けた。それから、ロウの前に、一枚の紙を置いた。
「記録係の報告書です。今日中に、お願いいたします」
ロウは、受付の隅の卓で書いた。依頼の経過。倉の広さ。梁の位置。
最後の欄に、書いた。
――倉の真ん中の梁から、床と袋と柱へ、糸。足音で震えた。灰石の浅層の大穴潜りと同じく、震えで獲物を探すものと思った。風のない光の中で、粉が落ちていた。
――記録係は、気づいて、言えなかった。声が出なかった。
――真ん中の梁の下で、ミモザさんが上から捕まり、引き上げられた。
――梁蜘蛛。大きな犬ほど。記録係が下で支え、グレタさんが綱で柱に繋いだ。ノーラさんの投げナイフが頭に二本。頭と腹のあいだのくびれを、ダインさんが突いた。
――蜘蛛の糸は、油で剥がれた。
――ミモザさん、右の肩のつけ根を噛まれ、右の腕と背中に麻痺。
――番犬二頭、屋根裏の巣で見つかる。
二行目で、目が止まった。
ロウは、息を長く吐いた。消さなかった。
イルマは、その場で読んだ。二行目で、指が止まった。
何も言わずに、報告書を帳面の間に挟んだ。顔を上げずに、言った。
「お疲れさまでした、ロウさん」




