第十五章 天井(一)
倉へ向かう朝、ロウは、ギルドの前で足を止めた。
掲示板の右側に、名前の紙が、二枚、並んでいた。貼られてから十日あまりで、紙の端が乾いて反り返っていた。
一枚目に、ハインツ、とあった。
紙には、名前と、等級と、日付しか書いてなかった。
ロウの膝から、力が抜けた。掲示板の縁に、手をついた。
――全部、確かめてから行く。
あの男は、そう言って、ロウの答えを一つずつ書き取った。綱の長さも、歩数も、ガルドをどかす順番も。ロウが教えた道を、その通りに降りていったのだ。
胃の底から、酸っぱいものがせり上がってきた。ロウは口を押さえた。
降りないほうがいいです、と言っただけだった。止めは、しなかった。
「記録係さん。行きますよ」
前を歩いていたダインが、振り返った。
ロウは、外套の上から、手帳を押さえた。
◇
穀物倉は、運河に背を向けて建っていた。
東区の、粉屋の並ぶ通りの外れだった。石の土台の上に、黒ずんだ板壁の倉が一つ。床は、湿気を嫌って、膝の高さまで上げてある。入口の段を三つ上がると、そこが床だった。
倉の番頭が、鍵を開けながら言った。
「犬は、二頭とも、夜のうちにいなくなりました。首輪だけ、残して。鳴き声は、誰も聞いていません」
鎖の先の、壊れた首輪だけが、入口の柱の下に転がっていた。革が、内側から裂けていた。
「それから、夜になると、中で、何か擦れるような音がするんです。上のほうで。麦の袋は、減っていません。……鼠も、このところ、見なくなりました」
番頭は、鍵を、ダインの手に押しつけた。中には入ってこなかった。
ロウは、手帳を開いた。
――明日、天井を見ること。
昨日の夜、自分で書いた一行だった。
◇
中は、暗かった。
高い窓が二つ、板で打ちつけてあった。隙間から、細い光が斜めに入っていた。光の中に、麦の粉が、ゆっくりと浮いていた。
広さは、奥行きが二十歩、幅が十二歩ほど。左右の壁際に、麦の袋が人の背丈まで積んであった。真ん中は、空いていた。床の板に、麦の粉が薄く積もっていた。
見上げると、太い梁が三本、倉を横切っていた。その上に、板を渡した屋根裏があった。梁から梁へ、古い蜘蛛の巣が、灰色の布のように何枚も垂れていた。屋根裏の奥は、カンテラの光が届かなかった。
「うわ」
ミモザが、祈祷書を胸に抱え直した。
「お、お化け屋敷みたいです……」
「ただの古い巣だ。小せえ蜘蛛のな」
グレタが、垂れた巣を、手の甲で払った。灰色の布が、ぼろりと裂けて、粉と一緒に落ちた。
「床から回ります。グレタさんは右の袋、僕は左。ノーラは奥。ミモザさんは、僕の後ろに。上は、梯子で、あとで見ます」
ダインが言った。
「記録係さんは、灯りを持って、最後をお願いします。遅れないでくださいね。灯りが、二つしかないので」
感じのいい笑顔だった。商家の店先で、雇った荷運びに向ける笑顔だった。荷は運ぶ。道は、訊かれない。
「……はい」
ロウは、カンテラを提げて、最後についた。
天井を、見た。
◇
古い巣は、梁から垂れているだけだった。灰色で、粉をかぶって、たるんでいた。
その中に、一本だけ、たるんでいない糸があった。
真ん中の梁の、闇の奥から、まっすぐ下へ。麦の袋の山の角まで。髪の毛より細い糸が、ぴんと張っていた。カンテラを少し動かすと、光が、糸の上を滑った。
一本ではなかった。
二本。三本。真ん中の梁の下から、床へ、袋へ、柱へ。天幕の張り綱のように、斜めに張り渡されていた。
グレタが、袋を拳で叩いた。
糸が、震えた。
全部の糸が、一度に、小さく。
それから、梁の上の闇で、何かが、ほんのかすかに、擦れた。
斜めに入る光の筋の中を、粉が、落ちていた。
風は、なかった。
樵の小屋でも、こうして埃が落ちていた。
言わなければ。
上です。真ん中の梁に、何かいます。
口を、開いた。
声が、出なかった。
喉の奥で、何かが、ぴたりと閉じていた。息も、通らなかった。言葉の形に開いた口から、何も、出てこなかった。
前を歩くダインの背中が、振り向かなかった。遅れないでくださいね、という声が、まだ耳に残っていた。
掲示板の、一枚目の紙が、目の奥にあった。
ミモザが、ダインの後ろについて、真ん中の梁の下へ歩いていった。
糸の集まる、その下へ。
◇
肩に、何かが、落ちてきました。
重くて、硬くて、たくさんの脚がありました。首の後ろと、両肩と、背中に、いっぺんに、折れ曲がった指のようなものが、絡みつきました。
右の肩の、首のつけ根に、針を刺されたような痛みが走りました。
「ひ、ぁ……っ」
熱い、と思いました。それから、すぐに、冷たくなりました。冷たさが、肩から、背中へ、右の腕へ、じわじわと広がっていきました。
何かが、胸に巻きついていきます。細い、べたべたしたものが、脇の下をくぐって、胸の上を、ぐるぐると。法衣の上から。巻かれるたびに、胸が、押さえつけられて、締めつけられていくのが分かりました。祈祷書が、腕から落ちて、床に転がりました。
引かれました。
上へ。
踵が、浮きました。爪先が、床を探しました。それも、離れました。
足が、宙で、揺れていました。法衣の裾が、脚にまとわりついて、揺れていました。
主よ。
祈らなければ。息を、深く吸って……
胸に巻きついたものが、きつくて、息が、浅くしか入りません。
「しゅ……」
一つ目の御名で、息が尽きました。
「ん、ぁ……っ」
主の御名の、続きではありませんでした。神殿で、一度も出したことのない声でした。
わたし、上を、見ていませんでした。
何も、見ていませんでした。ダインさんの背中だけを、見ていました。
怖い、と、やっと思いました。
◇
ミモザの足が、床から離れていくのが見えた。
灰色の、脚の長い塊が、ミモザの背中に取りついていた。大きな犬ほどもあった。真ん中の梁から垂れた一本の糸を、後ろ脚で手繰って、ゆっくりと、上へ、上へ、登っていた。ミモザを抱えたまま。
ロウは、カンテラを、床に置いた。
考えては、いなかった。
三歩で、ミモザの下に着いた。宙に浮いた腿を、両腕で抱え込んだ。腰を落とした。荷を担ぐときの腰だった。背中と、脚で、受けた。
小柄な体が、ずしりと、ロウの腕に乗った。
法衣の裾が、ロウの腕に押し上げられて、めくれていた。腕の内側に、素肌の腿があった。汗で、湿っていた。腰骨が、ロウの頬に当たった。
上で、糸が、きしんだ。蜘蛛が、引いた。ミモザの腰が、ロウの頬の上を、ずり上がろうとした。ロウは、腕を締めた。腿が、腕の中で、形を変えた。ロウは、引かれなかった。
麦の大袋を三つ背負って、山道を下ったことがある。それより、軽かった。
「――上です! 真ん中の梁! ミモザさんを、引き上げています!」
声が、出た。
倉の梁に、わんと響いた。
今度は、喉の奥で、何も閉じなかった。
「グレタさん、綱を! ミモザさんの腰と、柱に! 荷の口の、すぐ下です!」
グレタが、もう、ロウの荷に手を突っ込んでいた。綱を引き出して、ミモザの腰に一巻きし、ロウの腕の上で結んだ。残りを、一番近い柱へ走らせて、巻きつけた。
「繋いだ!」
ロウは、腕を、ほどかなかった。
ダインが、袋の山に駆け上がっていた。剣を抜いていた。
上で、蜘蛛が、引くのをやめた。
降りてきた。
ミモザの背中を、頭を下に、するすると。腰の上から乗り出して、ロウの頭のほうへ。黒い牙が、カンテラの光を返した。
ノーラの腕が、振られた。
投げナイフが、蜘蛛の目の並んだ頭に、二本、続けて立った。蜘蛛が、脚を縮めた。
「くびれ!」
ノーラが叫んだ。
「頭と腹のあいだ! 細いとこ!」
蜘蛛の脚が一本、袋の山の上を払った。ダインの左の頬に、赤い筋が走った。ダインは、構えたままだった。
袋の山の上から、ダインの剣が、ミモザの背中をかすめて、横ざまに突き入った。
蜘蛛の体が、二つに折れるように、震えた。ミモザの背中から、脚が、一本ずつ、ほどけていった。ほどけた脚が、内側へ、丸まっていった。
灰色の塊が、ロウの足元に、落ちた。
ロウは、それでも、腕をほどかなかった。




