幕間一 写し(二)
七層の底は、写しの通りに広かった。
ハインツはカンテラを高く掲げた。光は、壁の端も天井も照らしきらなかった。空洞の真ん中のほうで、何かが、金色に小さく光った。
ハインツが、指で左を指した。
壁沿いを、ハインツが先に歩いた。足どりが、一歩ずつ同じ幅で揃っていた。歩数を数えているのだと、ユッテには分かった。あの男の言った数を、一つずつ、確かめていた。
十五歩で、帽子が落ちていた。二十歩で、壁が浅く窪んでいた。
何歩も行かないうちに、ユッテは匂いに気づいた。
甘い匂いだった。蜂の巣を日なたに置き忘れて、蜜が温まり、少し焦げはじめたときのような。それが湿った熱と一緒に、壁沿いをゆっくりと流れてきて、その下に、もう一つ、腐った肉の匂いが沈んでいた。
ハインツも気づいて、ユッテを振り返った。首を、小さく横に振った。知らない、という顔だった。
三十歩で、カンテラの光が、それを照らした。
鋼の胴鎧だった。
割れ目の口に、男が一人、背中を押しつけて座っていた。両足を投げ出して、首が少し横に傾いでいた。投げ出した足のあいだにはカンテラが一つ置いてあって、ガラスは煤で黒く、中の油はとうに乾いていた。
胴鎧の、板と板の継ぎ目から、灰色のものが生えていた。
茸だった。灰色の傘が、肩の継ぎ目からも、脇腹の継ぎ目からも、籠手の手首からも、いくつも覗いていて、傾いだ首の側の、胴鎧の襟の隙間からは、ひときわ大きな傘が三つ、重なって開いていた。
甘い匂いは、そこから来ていた。
ハインツは、カンテラをユッテに渡した。
「どかして、口を開ける。そこを背にする。来たら、獲る」
ユッテは頷いて、カンテラを足もとの岩に置き、弓を取った。ハインツが男の前に膝をつき、右の肩の留め金に指をかけた。金具が、かちりと鳴った。二人とも、気にしなかった。
外すとき、灰色の傘が、一つ揺れた。
傘の下から細かい粉がふっと湧いて、カンテラの光の中で、金色に光った。粉は落ちずに、熱い空気に乗って、ゆっくりと上へ、ユッテの顔のほうへ昇ってきた。
ユッテは、それを吸った。きれいだ、と思った。
◇
最初の一匹は、空洞の奥の壁を降りてきた。
爪の音が、まっすぐこちらへ来る。ユッテは四つ吸って、六つで吐いて、引いた。カンテラの光の端に、灰色の頭が入った。顎が上がって、喉が白く見えた。
放した。
矢は喉に立った。巨体が身をよじったところへ、ハインツが留め金から手を離して剣を抜き、踏み込んで、喉へ入れた。吼え声が、空洞じゅうに響いた。
響いた先から、爪の音が返ってきた。一つ。二つ。もっと。
「来るぞ」
ハインツは笑っていた。
二匹目と三匹目は、左右の壁から同時に来た。
ユッテは右へ射た。ハインツは左へ跳んだ。背中が、一度、ハインツの背中に当たった。それだけで、どこにいるか分かった。
ハインツの剣が、二匹目の顎の下に入る。ユッテの次の矢が、三匹目の耳の付け根に立つ。もう一本。喉。巨体が、骨の山のほうへ転がって、崩れた。
二匹とも、のたうって、動かなくなった。
息が、上がっていた。
四つ吸おうとして、三つで胸がいっぱいになった。吸ったはずの息が、肺の底まで降りてこない。吐いても、すぐに苦しい。
喉だった。喉の奥が、熱かった。
その熱が胸に降りて、腹に降りた。息を吸うたびに甘い匂いが一緒に入ってきて、熱を煽った。体じゅうが、一本の弦のように張りつめていく。
ハインツは、残りの留め金を外していた。脇腹の、一つ。二つ。三つ。四つ。指が、さっきより遅かった。外すたびに、灰色の傘が揺れて、金色の粉が昇った。ハインツは、肩で息をしていた。
胸板が外れて、床に落ちた。がらん、と鳴った。
二人で、ガルドの両脇に手を差し込んだ。浮かせて、前へ。背中の板が岩を擦って、ぎ、と鳴った。割れ目の口に、闇が、腕一本ぶん開いた。
壁の上で、また爪の音がした。
ユッテは弓を取り直した。引いた。
腕が、上がりきらなかった。
弦が、頬まで来なかった。こんなことは、弓を覚えてから一度もなかった。指が震えていた。震えているのは、怖いからではなかった。熱いからだった。
放した。矢は、壁の岩に当たって折れた。
ハインツが、前へ出た。四匹目の顎をかわして、剣を入れた。一度では、通らなかった。二度。三度目で、巨体が沈んだ。
ハインツは、膝に手をついた。汗が、顎から落ちていた。
空洞が、静かになった。
◇
割れ目の口のそばに、二人は背中を合わせて座りこんだ。
背中が熱かった。ハインツの背中も、熱かった。汗で濡れた上衣が張りついて、離れなかった。ハインツの息が、背中越しに伝わってきた。四つ吸って六つで吐く息ではなかった。速くて、浅くて、乱れていた。自分の息も、同じだった。
胸の先が、肌着に擦れるたびに疼いた。腿の内側が、汗で張りついていた。
おかしい、とユッテは思った。疲れているだけなら、こうはならない。
ハインツが、体ごと振り向いた。ユッテも、振り向いていた。
カンテラの光の中で、その目が、とろりと濡れていた。
顔が近づいてくるのが分かった。
なにしてるの、こんなときに!
ユッテはそう思った。思ったのに、顎が上がっていた。
唇が、唇にぶつかった。歯が当たった。ハインツの手がユッテの頭の後ろを抱え、もう片方の腕が腰を抱えて、ユッテの体を、割れ目の脇の壁に押しつけた。背中に岩が当たった。胸の前のほうが、ずっと熱かった。
離れて。ここは七層よ。
頭のどこかでは、はっきりそう言っていた。弓を取れ、と。壁の上を見ろ、と。その声が、甘い匂いの中で、一つずつ遠くなっていった。
ハインツの舌が、ユッテの唇の内側をゆっくりとなぞった。ユッテは、拒めなかった。拒む力が、熱に溶けていった。自分の手が、ハインツの胴鎧の留め金を握りしめていた。引き寄せていたのは、自分のほうだった。
喉の奥から、鼻にかかった甘い音がこぼれた。自分の声だとは、思えなかった。
やめて、と言おうとした。言おうとした口が、また塞がれた。
口を塞がれているから、鼻で吸うしかなかった。甘い匂いが、鼻の奥までどっと入ってきた。ハインツも吸っている。ユッテの口を塞いでいるせいで、ユッテより深く。
壁の上で、爪の音がしていた。
ずっと、していたのかもしれない。
◇
頬に、生温い風が当たった。
上から、何か大きなものが降りてくる分だけの風だった。
ハインツの唇が離れた。
ハインツの目が、ユッテの肩の向こうの、上を見た。目の濡れが、一瞬で引いていた。
ハインツはユッテの肩を掴んで、割れ目の口へ突き飛ばした。
ユッテの肩が、ガルドの体にぶつかった。
灰色の頭が、上から落ちてきた。
舌がハインツの胴を巻き、その体が床から離れた。ハインツは、剣を抜いた。引き上げられながら、真上へ突き上げた。剣が、どこか柔らかいところに入ったのが、下からでも分かった。熱いものが、ユッテの顔に、ぱたぱたと降ってきた。
「ユッテ」
宿の寝床で、朝、ユッテを起こすときの声と、同じ声だった。
舌は、ほどけなかった。ハインツは剣を突き上げたまま、真上の闇へ、引き上げられていった。
闇の上で、一度だけ、ハインツの叫び声がした。それが、途中で潰れた。
それきり、声は降ってこなかった。
ユッテは、上を見ていた。
何が起きたのか、分からなかった。甘い匂いが頭の中にまで入りこんで、考えが一つにまとまらなかった。
「ハインツ?」
声が出た。宿の寝床で、朝、寝ぼけて呼ぶときの声だった。
「……どこ、行くの」
ユッテは、ふらりと立ち上がった。壁の出っぱりに指を掛けた。登れば、追いつける気がした。指が滑って、膝から崩れた。もう一度、指を掛けた。爪が割れた。痛くなかった。
頭の上で、爪が岩を掻いた。
考えるより先に、手が動いていた。ユッテは、自分の手で自分の口を塞いでいた。弓を覚えたころから、体に叩きこんできたことだった。
塞いだ手のひらの中で、息が熱かった。その熱が、ほんの少しだけ引いた。
顔に降ってきた、熱いもの。剣を突き上げたまま上がっていった腕。途中で潰れた叫び声。
涙が、指のあいだから溢れた。止まらなかった。喉の奥で、笑うような、しゃくり上げるような音が鳴った。自分が笑っているのか泣いているのか、ユッテには分からなかった。




