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幕間一 写し(一)

 ハインツは、掲示板の紙を、一字残らず書き写した。


 ユッテが読み上げて、ハインツが書く。書き終えた行を、ユッテがもう一度読む。字が一つ抜けていたら、その行は書き直し。


「そこまでやる?」


「一字抜けてたせいで死ぬのは、ごめんだ」


 ハインツの父親は、港の秤屋だった。隊の名の「青い秤」も、その店の看板から取った。二人きりの隊に、大げさな名前だとユッテは思っていたが、言わなかった。


 縦穴の降り方。各層の空気の冷たさと、湿り気。五層の、右の横穴の壁の、新しい爪の跡。六層の熱。七層の空洞。空洞の中央に、金の紋の鎧の骸。大穴潜り(おおあなくぐり)、少なくとも六匹。音を立てないものは、襲わない。喉の下だけが、柔らかい。


 調査隊五名のうち、帰還一名。


 最後の一行を書き終えると、ハインツはペンを止めて、ユッテを見上げた。


「一人、帰ってきてる」


「五人のうちの、一人よ」


「駆け出しの五人のうちの、一人だ」


 ハインツは手帳を閉じて、その上に手のひらを置いた。大事なものをしまうときの癖で、その手の甲には、古い弦の擦れた跡が白く残っている。剣しか知らなかったハインツに弓を教えたのは、ユッテだった。最初の冬、ハインツは弦で三度手の甲を打って、三度とも黙って血を舐(な)めていた。


「帰ってきた本人に、訊きに行く」


◇


 帰ってきた男は、酒場の奥の卓に、一人で座っていた。


 くすんだ灰色の外套(がいとう)を着た、思っていたより若い男で、卓の上には安い紙を紐で綴じただけの手帳があった。男はハインツが向かいに座るまで、その手帳から顔を上げなかった。


 ハインツが書き写した手帳を開いて一つずつ訊くと、男は一つずつ答えた。声は小さいのに、どの答えにも数が入っていた。縦穴の縁から七層の底までの綱(つな)の長さ。降りきった場所から左の壁沿いに十五歩で、斥候の帽子が落ちていた場所。二十歩で、壁の浅い窪み。そこから、あと十歩で、割れ目。


「背中を預けられる場所は、あるか」


 ハインツが訊いた。


「六匹を、いっぺんに相手にする気はない。一匹ずつ来させたい」


 男は、少し考えてから答えた。


「割れ目です。壁の根元に、斜めに開いています。膝の高さから、胸の高さまで。幅は、私の肩が、やっと入るくらいです。大穴潜りの頭は、入りません。届くのは、爪と舌だけです」


 ユッテは、自分の肩に目を落とした。自分なら入る。ハインツも、肩当てを外せば、たぶん入る。口を背にすれば、前から来るものだけを相手にすればいい。いざとなれば、中へ下がれる。


「抜けた先は、六層の、古い野営の跡の近くです」


「割れ目の口は、今、どうなってる」


 ハインツが訊くと、男の指が、手帳の上で止まった。


「……ガルドさんが、座っています」


 ハインツは、黙って続きを待った。


「割れ目の口に、背中から、座り込んでいます。鋼の胴鎧のままです。鎧の肩幅のほうが、割れ目より広いです。どかさないと、入れません」


「どかせるか」


 男は、しばらく手帳の頁を見ていた。


「留め金が、六つあります。左の肩のは、もう外れています。肩から脇腹の順に外せば、胸板が外れて、背中の板ごと前へ引き出せます」


「重いか」


「重いです。背中の板が、岩に擦れて、鳴ります。二人で持ち上げて、ゆっくり引いてください」


 ハインツは、それも書き写した。留め金の数も、外す順も、二人で持ち上げて、という言葉も。それから手帳を閉じて、手のひらを置いた。


「……降りないほうが、いいです」


 隣の卓の笑い声に、半分ほど消されてしまうような声だった。立ち上がりかけたハインツは、振り向いて、男の顔をまっすぐに見た。


「全部、確かめてから行く」


 男は、それ以上、何も言わなかった。ハインツが銀貨を一枚、卓に置いても、男はそれを見ただけで、手は伸ばさなかった。


 酒場を出るとき、ユッテは一度だけ振り返った。男はもう、自分の手帳に何かを書いていた。ペンが、途中で止まった。


◇


 九月二十八日の朝、ギルドの受付で七層への入場を申請したのは、青い秤だけだった。


 受付の女は、二枚の書類をめくった。等級の欄は、どちらもAだった。許可の印を取り上げて、押す前に、ふと手を止めた。それから、丁寧に押した。


 後ろに並んでいた冒険者の誰かが、口笛を吹いた。


「A級が二人か。今度こそ、七層は取れるな」


 あちこちで、頷く顔があった。駆け出しの五人が降りて、一人帰ってきた層だ。A級が二人なら、全部獲って帰ってくる。誰も、そう疑っていない顔だった。


 ユッテも、疑っていなかった。


◇


 縦穴の縁ごとに、古い綱が一本ずつ、張ったまま残っていた。


 荷運びの結び方だ、とハインツが言った。酒場の男の隊が、張っていったものだった。三週間近く湿った風にさらされていたはずなのに、結び目は一つも緩んでいなかった。ハインツはその古い綱の隣に、自分たちの綱を一本ずつ張って、古いほうには触らせなかった。自分で確かめていない綱には、体を預けない。


 縦穴は五層で一度底を打ち、短い横穴を抜けた先で、また下へ落ちている。その縁の岩棚で綱を張っていたとき、下から爪の音が上がってきた。


 縦穴の壁を、何かが登ってくる。重い音だった。一歩ごとに、岩棚が足の裏で震えた。


 ハインツは、カンテラを岩棚の奥の壁ぎわに置いた。隠さなかった。覆いを外して、火を大きくした。


「来い」


 普通の声だった。


 縁に、爪が掛かった。灰色の頭がせり上がってきた。ユッテの胴より大きな頭だった。巨体が岩棚へ這い上がって、扇のような耳を開き、目のない顔をハインツの声のほうへもたげた。顎が開いた。


 ハインツは、下がらなかった。半歩、横へずれた。顎が、ハインツのいた場所の岩を噛(か)んだ。


 その顎の下に、ハインツはもう入っていた。


 剣が、喉の白いところへ、柄まで沈んだ。


 ユッテの矢が、二本、続けて飛んだ。一本は耳の付け根へ。一本は、ハインツの剣の横から、喉の奥へ。


 巨体がのけぞって、吼(ほ)えた。縦穴じゅうが鳴った。ハインツは剣を捻って抜き、岩棚を蹴って下がった。のけぞった体は、そのまま縁を越えて、縦穴の闇へ落ちていった。底を打つ音が、ずいぶん遅れて上がってきた。


 ハインツは剣の血を外套の裾で拭って、鞘に戻した。それから、鞘の革に、爪で刻み目を一つ足した。大物を仕留めるたびに足してきた刻み目は、三十を超えていた。


 六層への縦穴の底に、さっきの一匹が、首を折って横たわっていた。ハインツは、その背を踏んで降りた。


◇


 六層の古い野営の跡には、朽ちた天幕の布と、錆(さ)びた鍋と、刻み目の入った折れた槍と、ひしゃげた盾があった。写しに書いていないものは、一つもなかった。それがユッテには、少し気味が悪かった。自分たちより先に誰かがここで同じものを見て、同じ順番で書きつけていったのだと思うと、背中のあたりが落ち着かなかった。


 その野営の跡で、夜を待った。


 六層は暑く、灯りは消した。


 真っ暗な中、壁際に横になったユッテの背中に、ハインツの胸があった。


 どちらから寄ったのかは覚えていない。暑いのに、離れなかった。首の後ろにかかるハインツの息は、ゆっくりと深くて、弓を引くときにユッテが教えた、四つ吸って六つで吐く息だった。


 ハインツの手が、腰に置かれた。


 置かれたまましばらく動かず、それから、上衣の裾から中へ入ってきた。汗ばんだ腹の上を、指が一本ずつ這い上がって、弓を引くたびに張る脇腹の筋をなぞり、胸の下で止まった。


 ユッテは息を止めた。止めた息が、喉の奥で鳴りそうになった。


 ハインツの親指が、胸の下の汗の溜まったところを一度だけ拭って、それから手のひらが、胸を下から包んだ。重さを確かめるような、秤の皿にそっと荷を載せるときのような手つきで、ユッテは、こんなところで、と思い、思ったことがおかしくて笑いそうになって、それも喉の奥に押し込んだ。


 声は、出さない。出したら負けだと、誰が決めたわけでもないのに、二人とも黙っていた。


 うなじに、ハインツの唇が触れた。触れただけで、音は立てなかった。ユッテは自分の手の甲を歯で噛んで、噛んだまま、背中をハインツの胸に押しつけた。背中越しに、ハインツの心臓が速くなっているのが分かった。自分の心臓も同じで、耳の奥で二つの音が、少しずれて鳴っていた。


 縦穴のずっと上で、爪が一度、岩を掻(か)いた。


 ハインツの手が止まった。二人ともしばらく上の音を聞いていて、それからハインツの手は胸を離れ、上衣の裾を元のように直した。うなじに、もう一度だけ唇が触れた。


「明日」


 耳もとで、ハインツが言った。それだけだった。


 手の甲から歯を離すと、暗闇の中でも、指でなぞれば歯の跡が分かった。

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