第十四章 記録係(二)
「座ったら」
ダインの隣の女が言った。
黒髪を短く切り揃えた、痩せた女だった。革の胴着の袖を肩から切り落としていて、むき出しの腕は細いのに、弦を引く筋だけが浮いていた。腰に、投げナイフが六本。鞘に収まったまま、指で一本ずつ弾いていた。
「ノーラ。斥候。あんたのことは、知ってる。酒場で、いやってほど聞いた」
ノーラは、ロウを上から下まで見た。品定めをする目だった。
「記録係って、要するに見張りでしょ。ギルドの」
「……記録を、つけるだけです」
「同じことよ」
ノーラは、ナイフを弾く指を止めた。それから、ダインのほうを見ずに言った。
「あたしたちは、二人で十分やれてた。人手が足りないから頼んだだけ。見張りまで頼んだ覚えはない」
「ノーラ」
ダインが、笑いながら言った。
「失礼だよ」
「失礼なのは、ギルドのほう」
ノーラは、椅子の背にもたれた。袖のない胴着の脇から、肌着の白が覗いた。本人は、気にしていないようだった。気にしていないふりを、しているのかもしれなかった。
◇
「あ、あの!」
卓の反対側で、小さな声がした。
白い法衣の娘が、立ち上がっていた。
小柄だった。立ち上がっても、座ったままの四人目の肩くらいまでしかなかった。胸に、娘の上半身が半分隠れるほど大きな、革装の祈祷書を抱えていた。明るい金色の髪を、神殿の見習いの決まりなのか、きっちりと編み込んでいた。法衣は、小さな体に比べて二回りは大きく、袖も胸元も、ゆったりと余っていた。
「ミモザです! 神殿の、見習いです。癒しの術が、使えます。三回までなら。四回目は、倒れます。た、たぶん」
一息に言って、息が切れていた。
「あ、あの、癒しの祈りは、出だしが長いんです。主の御名を、三つ、続けて呼ぶので。息が、いっぱい要ります」
言いながら、また息が切れていた。
「迷宮は、初めてです。ご迷惑をおかけすると思います。で、でも、頑張ります!」
深く、頭を下げた。祈祷書が卓の角にぶつかって、ごん、と鈍い音がした。
ミモザは、顔を上げた。額を押さえていた。耳まで赤かった。
ロウは、少しだけ、口の端が動くのを感じた。何日ぶりかの感覚だった。
「……ロウです。荷物を、持ちます」
「はい! あの、記録係さんって、何でも書くんですか?」
「……はい」
「わたしのことも?」
「……はい」
「わ、わあ」
ミモザは、祈祷書をぎゅっと抱え直した。
「じゃあ、ちゃんとしないと」
◇
最後の一人は、窓際の椅子に、片膝を立てて座っていた。
大きな女だった。
立ち上がれば、ダインより頭ひとつは高いだろう、とロウは思った。赤みがかった金髪を、乱暴に後ろで束ねていた。日に焼けた首筋から、鎖骨の上まで、古い刀傷が一本走っていた。両手剣は、鞘ごと壁に立てかけてあった。鞘の長さは、ミモザの背丈ほどあった。
女は、麦酒の杯を片手に、ロウを見て、にっと笑った。前歯の一本が、金だった。
「グレタだ。両手剣」
杯を掲げた。
「あんたが、一人で帰ってきた男か」
「……はい」
グレタは、杯を卓に置いた。それから、ロウの顔を、真正面から見た。
「上等じゃねえか」
ロウは、瞬きをした。
「戦場じゃな、生き残ったのは腕のうちだ。運も腕。逃げ足も腕。死んだ奴の分まで帰ってきたんなら、あんたは仕事をしたんだよ」
ダインの笑顔が、一瞬、止まった。
ノーラが、ナイフを一本、鞘から抜いて、また収めた。
グレタは、気にした様子もなく、杯をあおった。喉が、大きく動いた。胸元の紐を、ほとんど結んでいなかった。麦酒の滴が、喉から鎖骨の傷を伝って、胸の谷間へ落ちていった。
「で、何すんだ。最初の仕事は」
「その前に」
ダインが、思い出したように言った。
「宿は、ギルドに勧められて、記録係さんと同じところにしました。皆さん、もう荷物を移してあります」
ロウは、受付のほうを見た。
イルマは、帳面から顔を上げていなかった。
◇
頭は、ダインになった。誰も、ほかの名前を出さなかった。依頼記録が九件あるのは、ダインとノーラだけで、ノーラは「あたしは嫌」と一言で済ませた。
依頼書は、ダインが受付から持ってきた。
卓の真ん中に置いた。
――東区、運河沿いの穀物倉。夜ごとの物音の調べと、その原因の駆除。番犬二頭、行方知れず。新人編成向け。
「倉の番?」
ノーラが、鼻で笑った。
「二人のときは、灰石の一層だってやったのに。なんで今さら、犬探し」
「新人編成の最初は、新人向けの依頼から。規定らしいよ」
ダインが言った。
「まあ、いいじゃないか。肩慣らしだ。ミモザさんとグレタさんに、隊で動くのに慣れてもらう」
「犬なんざ、腹が減りゃ帰ってくるだろ」
グレタが笑った。
「戦場の犬は、三日で戻ってきたぞ。肉の匂いのするほうにな」
「わんちゃん、無事だといいですね」
ミモザが、祈祷書を抱えたまま言った。
「野良犬の群れか、大鼠でしょう」
ダインが言った。
「どっちでも、僕らは北街道で、もっと面倒なのを相手にしてきた」
ロウは、依頼書の、小さな字の書き添えを読んでいた。
――番犬は、二頭とも、鳴かずに消えた。倉の者は、夜に誰も声を聞いていない。
鳴かずに。
犬は、地べたを来るものには、すぐに吠える。吠える前に消えたのなら、犬の気づかないところから来たのだ。上から。
春の下水で、天井から落ちてきたものは、リーネの頭を一息で包んだ。
ロウは、口を開きかけた。
――吠えずに、消えています。
――上から、来るのかもしれません。
――倉の中を、全部見るまで、気を抜かないでください。
言いかけた言葉が、喉の奥で、三つ、並んだ。
ダインは、もうノーラのほうを向いて、北街道の野犬の話をしていた。ノーラが笑った。グレタが杯をあおった。誰も、ロウを見ていなかった。
――荷運びは黙って荷を運べ。
何年も前の、雨の翌日の声だった。もう聞こえないはずの声が、まだ、喉の奥に残っていた。
ロウは、口を閉じた。
手帳を開いた。
――ダインさん。野良犬か大鼠、と言った。
◇
卓を立つとき、ロウはダインに言った。
「荷の支度を、します。市場で、綱を、二巻き買ってきます」
「綱?」
ダインが、振り向いた。
「倉の掃除ですよ。登るところも、降りるところもない」
ロウは、少し迷った。
綱を買うのは、判断ではない。荷の話だ。
「倉には、麦の袋が積んであります。崩れたら、縛って止められます。人が倒れたら、引いて運べます」
「袋の山は、倉の人足が見ますよ。僕らは、物音の元を片づけに行くんです」
ダインは、笑った。
「要らないと思いますよ。荷が重くなるだけだ」
それから、ロウの顔を見て、もう一度、笑った。
「心配性ですね、記録係さん」
口は笑っていた。目は、笑っていなかった。
ダインは、そう言って、背を向けた。ノーラが、その横に並んだ。並んで歩く二人の肩が、ときどき触れた。どちらも、避けなかった。
ロウは、その背中を見ていた。
それから、市場へ行って、綱を二巻き買った。
荷の、一番上に入れた。いちばん先に要るものは、口のすぐ下に入れる。荷運びの頃からの、決まりだった。
◇
その夜、宿の部屋で、ロウは手帳を開いた。
――ダインさん。D。剣士。鋼の胸当て。二人で九件、十割。
――ノーラさん。D。斥候。ダインさんの隣を歩く。
――ミモザさん。E。癒し、三回まで。四回目は倒れる(たぶん)。
――グレタさん。E。両手剣。戦場。「上等じゃねえか」。
――綱、二巻き。要らない、と言われた。買った。
書きながら、ロウは、自分の字を見ていた。
古い頁の字と、同じだった。何も変わっていなかった。
変わったのは、隣の頁をめくれば、もう誰もいないということだけだった。
扉が、小さく叩かれた。
開けると、ミモザが立っていた。
法衣の上に、毛織の肩掛けを羽織っていた。編み込んだ髪を、寝るためにほどいていた。ほどいた金色の髪が、肩掛けの上で、緩く波打っていた。手に、蝋燭を一本だけ持っていた。
「す、すみません。夜分に」
「……いえ」
「宿の、ご主人に、聞いたんです。記録係さんは、夜、名前を数えるって」
ロウは、黙っていた。
「誰の名前か、訊いてもいいですか」
ロウは、少し考えた。
「……一緒に、潜った人たちの、です」
ミモザは、蝋燭を両手で持ち直した。小さな炎が、ミモザの顔を、下から照らしていた。
「その方たちのために、祈ってもいいですか」
ロウは、ミモザを見た。
「見習いの祈りなので、主に届くかどうか、分かりませんけど。でも、届かないと決まったわけでもないので」
ロウは、扉を、少しだけ広く開けた。
ミモザは、部屋に入らなかった。扉の外で、廊下の床に膝をついた。祈祷書は、部屋に置いてきたらしかった。何も持たない両手を、胸の前で組んだ。組む前に、肩掛けの合わせ目を、一度、きつく引き寄せていた。
「お名前を」
ロウは、数えた。
「トビさん」
ミモザが、小さく繰り返した。トビさん。
「セラさん」
セラさん。
「ガルドさん」
ガルドさん。
「ハンスさん。ジルさん。ニコさん。ベルトさん。……ガルドさんの、前の仲間です。会ったことは、ありません」
ハンスさん。ジルさん。ニコさん。ベルトさん。ミモザは、会ったことのない名前を、会ったことのある名前と同じ声で、繰り返した。
「エドガーさん」
エドガーさん。
「……リーネさん」
リーネさん。
ミモザは、目を閉じた。唇が、ロウには聞き取れない言葉で、長いこと動いていた。
ロウは、扉の内側に立って、それを見ていた。
壁の向こうの部屋で、ガルドが、名前を数えていた夜を思い出した。あのとき、ガルドの声に、誰も重ねなかった。
ミモザが、目を開けた。
「届きました。……たぶん」
ミモザは、立ち上がった。膝の埃を払って、深く頭を下げた。肩掛けが、肩から滑り落ちかけた。薄い寝間の法衣の、白い肩が、蝋燭の明かりに一瞬だけ浮かんだ。ミモザは、慌てて肩掛けを引き上げた。顔が、また、耳まで赤くなっていた。
「お、おやすみなさい! 明日、頑張ります!」
ぱたぱたと、足音が廊下の奥へ遠ざかっていった。
ロウは、扉を閉めた。
手帳を開いて、最後の行の下に、書いた。
――ミモザさん。名前を、一緒に数えた。
少し考えて、もう一行。
――明日、天井を見ること。




