第十四章 記録係(一)
学院へ行った翌日の夕方、宿の食堂に、ミレラがいた。
いつもの卓の、端の席だった。ガルドが、いつも杯の水を見ていた席だった。
薬師の前掛けではなく、黒い、喪の外套を着ていた。いつもは丁寧に結い上げている黒髪を、下ろしていた。肩から胸元へ、まっすぐに落ちていた。
ロウが入ってくると、ミレラは顔を上げた。
「聞いたわ」
ミレラは言った。
「ギルドの掲示板で。四つ、並んでた」
ロウは、ミレラの向かいに座った。
宿の主人が、黙って杯を二つ置いた。水だった。
「荷運びさん」
「はい」
「あの人、最後に、何か言った?」
ロウは、杯を見た。
「……運べ、と」
ミレラは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。声を立てずに、肩だけで。笑いながら、目の端から、一筋、落ちた。
「最後まで、人に荷物を押しつけるのね。あの人」
ミレラは、指で目の端を拭った。唇の端の、薬草の緑が、少しだけ滲んだ。
「ちゃんと帰ってきなさいって、言ったのに」
ロウは、何も言わなかった。
ミレラは、杯の水を一口だけ飲んだ。
「今朝から、解毒薬が売れるの」
ロウは、顔を上げた。
「若い子たちが、五つ、六つって買っていくのよ。七層に降りるんですって。縦穴なら、六層まで一日だって、酒場で聞いたって」
ミレラは、杯を卓に置いた。小さな、硬い音がした。
「降りないでって言ったら、笑われたわ。薬屋が、薬を売らないでどうするんだって」
ロウを見た。
「あの人には、ただで、五つ持っていったのにね」
ミレラは、立ち上がった。外套の襟を、首元まで留めた。
それから、ロウの肩に、手を置いた。深層へ発つ前の夜、ガルドの肩に置いたのと、同じ手つきだった。
「あなたは、ちゃんと帰ってきたのね」
ミレラは、食堂を出ていった。
扉が閉まる直前に、一度だけ振り返った。
あの夜は、誰を見たのか分からなかった。
今度は、分かった。
ガルドが座っていた、端の席だった。
◇
ひと月は、長かった。
依頼は受けられなかった。深層には入れなかった。等級は、Dのまま動かなかった。
査問から十日ほどして、ギルドの掲示板に、大きな紙が一枚、貼られた。
――灰石の迷宮、七層到達の記録。調査隊の報告より。
ロウの手帳から写した字だった。縦穴の降り方。各層の様子。七層の空洞。空洞の中央に、金の紋の鎧の骸。大穴潜り、少なくとも六匹。調査隊五名のうち、帰還一名。
縦穴を使えば、六層まで一日だった。その日から、酒場では、七層の話しかしなくなった。
「駆け出しが、運が悪かっただけだ」
誰かが、そう言うのを、ロウは何度も聞いた。
ときどき、知らない冒険者が、ロウの卓に来た。
三日目の夜に来たのは、弓を背負った女を連れた、若い男だった。向かいに座るなり、自分の手帳を開いた。掲示板の紙と同じ字が、頁いっぱいに並んでいた。
「ハインツ。青い秤の頭だ。秤屋の倅でね」
首から下げた札は、Aだった。連れの女の札も、Aだった。
ハインツは、ロウの答えを、一つずつ書き取った。綱の長さ。左の壁沿いに十五歩。二十歩で窪み。あと十歩で、割れ目。割れ目の口の、留め金の数。外す順。
「背中の板が、岩に擦れて、鳴ります。二人で持ち上げて、ゆっくり引いてください」
ロウがそう言うと、ハインツは、その言葉も書いた。書き終えると、手帳を閉じて、その上に手のひらを置いた。手の甲に、古い擦れ跡が白く残っていた。
「……降りないほうが、いいです」
立ち上がりかけたハインツは、振り向いて、ロウの顔をまっすぐに見た。
「全部、確かめてから行く」
卓に、銀貨が一枚、残った。
ロウは、手を伸ばさなかった。手帳を開いて、書いた。
――ハインツさん。青い秤。ガルドさんを、どかす方法を、訊かれた。
途中で、ペンが止まった。
◇
昼は、荷運びの頃の親方のところで、短い荷を運んだ。三日に一度は、東区の孤児院へ行った。女の子は、赤い羽根を、行くたびに違うところに挿していた。ある日は帽子に、その次に行った日は三つ編みの先に。
親方のところには、去年の春から来ている、ヨナスという子がいた。十六で、背丈だけはもうロウを越していた。
「ロウさん。それ、もう一回」
ロウが杭に綱を巻くたびに、ヨナスは横から覗き込んだ。
一巻きして、くぐらせて、引く。端を引くと、綱は、するりと杭から外れた。
ヨナスは、三度目で覚えた。四度目は、目をつぶって巻いた。
「七層の縦穴も、これで降りたんでしょう」
「……杭には、これを、二重に」
「やっぱり」
ヨナスは、巻いた綱を、何度も引いて笑った。
夜は、名前を数えた。最後の一つの前で、もう止まらなかった。止まらなくなったことが、ときどき、怖かった。
掲示板の右側の、名前の紙が増えていくのを、ロウは横目に見るだけで、読まなかった。
◇
ひと月と少しが過ぎた朝、ロウはギルドの受付の前に立っていた。
イルマは、帳面から目を上げた。
「おはようございます、ロウさん。お待ちしていました」
イルマは、帳面の横から、薄い紙の束を出した。四枚。それぞれに、名前と等級と、これまでの依頼の記録が書いてあった。
「同行していただく編成です」
ロウは、一枚目と二枚目を見た。
――ダイン。D。剣士。
――ノーラ。D。弓・投げナイフ。斥候。
どちらの紙にも、同じ依頼の記録が並んでいた。九件。どれも二人だけで受けたものだった。北街道の野犬の群れ。灰石の一層。西の丘陵の、崩れかけた坑道。
二人で受けるには、どれも重い依頼だった。
どれも、十割だった。
「お二人は、ご自分たちで組まれていました」
イルマが言った。
「先月、仲間の斡旋を申し込まれました。斡旋を受けた時点で、新人編成になります。最初の五件は、解散できません」
ロウは、三枚目と四枚目を見た。
――ミモザ。E。神官見習い。依頼記録、なし。
――グレタ。E。両手剣。依頼記録、なし。備考:国境の傭兵団、解散により登録。
「ミモザさんは、神殿の奉仕で来られた方です。迷宮は、初めてです」
イルマの声は、いつもと同じだった。
「グレタさんは、戦場の経験は十分にお持ちです。迷宮は、初めてです」
ロウは、四枚を揃えた。
九件、十割の二人と、何も知らない二人。
「……どうして、この四人なんですか」
訊いてから、訊くべきことではなかったかもしれない、と思った。
イルマは、ペンを置いた。
「編成の平均等級で、割り振っております」
決まりの文句だった。
それから、イルマは、帳面を閉じた。
「記録係の業務について、確認いたします」
イルマは、指を一本ずつ折った。
「同行し、記録をつけ、私に報告すること。荷を持つこと。依頼の判断は、編成の頭が行います。記録係の方は、指揮を取りません。頭は、編成の皆さんで決めて、編成票でお届けください。お決まりにならなければ、依頼記録の多い方を、こちらで頭といたします」
四本目の指を折った。
「お気づきのことは、すべて、記録に」
「……はい」
「報告は、私が読みます。一行残らず」
イルマは、帳面を開き直した。それきり、顔を上げなかった。
「卓は、奥の窓際です。皆さん、もうお揃いです」
◇
奥の窓際の卓に、四人が座っていた。
最初に目に入ったのは、鎧だった。
窓からの光を受けて、鋼の胸当てが、白く光っていた。磨き上げた、傷ひとつない鋼。その胸当ての上に、明るい栗色の髪の、若い男の顔があった。
男は、ロウを見ると、すぐに立ち上がった。
「記録係の方ですね。ダインです。よろしくお願いします」
手を差し出した。商家の手代のような、よく通る丁寧な声だった。
ロウは、その手を握った。剣を握る者の、硬い手だった。
「ロウです」
「存じてます」
ダインは、笑った。感じのいい笑い方だった。
「灰石の、七層の。一人で、帰ってこられた方ですよね」
卓の空気が、わずかに固くなった。
ダインの目は、ロウの首に下がった革紐を見ていた。二枚の札。CとA。
「記録をつけてくださるんですよね。助かります。僕ら、帳面をつけるのは苦手なので」
ダインは、笑ったまま言った。笑っている口と、目が、少しだけ違う形をしていた。




