第十三章 届け先(二)
魔術学院の門は、石造りの、大きな門だった。中庭から、揃った詠唱の声が聞こえていた。
セラが、受験料の銀貨を握りしめて、入らずに引き返した門だった。
「何か、用か」
門番が言った。
ロウは、外套の内側から、手帳を出した。ロウの手帳と同じ、安い紙を紐で綴じただけの手帳だった。表紙の角が、汗と煤で黒ずんでいた。
「ここの学生だった人の手帳です。途中でやめた、セラさんという人の。届けてほしいと、頼まれました」
「やめた者の私物なら、学院は受け取らん。家族に届けろ」
「私物じゃありません」
自分の声が、思ったより硬かった。
「灰石の迷宮の、深層の記録です。七層まで、降りました」
門番の手が、止まった。
「……本人は」
ロウは、答えなかった。
門番は、門の脇の小さな扉を開けて、中の誰かに何か言った。
◇
鐘一つ分ほど待たされて、中庭に面した二階の部屋に通された。壁一面の棚に、紙の束と、瓶詰めと、乾いた草が詰まっていた。
机の向こうに、白髪の混じった、痩せた男が座っていた。指が細く、長かった。紺の衣の襟を、首の上まで留めていた。
セラと同じ留め方だ、とロウは思った。
「実技の主任をしている、ヴァルトだ」
乾いた声だった。男は、手元の名簿に目を落とした。
「……セラ。理論の答案は、毎回、誰より長かった。実技は、三回受けて、三回とも、一音目が出なかった」
名簿を閉じた。
「三回とも、私は正面に座っていた」
「死んだのか」
「……はい。灰石の、七層で」
ヴァルトは、中庭の詠唱のほうへ目をやった。それから、「手帳を」と言った。
◇
ヴァルトは、手帳を開いた。一頁目で、手が止まった。
「読んだことは」
「……ありません」
帰ってくるあいだも、帰ってからも、外套の内側に入れたまま、一度も開けなかった。
「読みなさい。君の名前が出てくる」
ヴァルトは立ち上がって、窓際の椅子を一脚、机のこちら側まで引いてきた。ロウの隣に座り、手帳を二人のあいだに置いた。同じ頁が、二人の前に、同じ向きで開いていた。
> この手帳について。
> 紙は、ロウさんにもらったもの。綴じ方も、ロウさんの真似。ロウさんは何でも書く。荷の数、塩の数、誰が何回水を飲んだか。最初は、荷運びの習慣だと思った。違った。あれは観察だ(理論上は――この話は長くなるので、別の頁に書く。書かないかもしれない)。
> だから、わたしも書く。
> ロウさんは、数を数える。
> わたしは、理由を数える。
ロウは、最後の二行を、二度、読んだ。
宿の食堂で、その紙はどこで買うんですかと訊かれて、余っていた束を半分、渡しただけだった。それだけのことを、セラは、一頁目に書いていた。
◇
隣から、ヴァルトの細い指が伸びて、頁をめくった。
> 詠唱の記録。
> (失敗も成功も、全部書く。失敗だけ書くと、失敗の理由しか見えなくなる。)
>
> 一から三。学院、実技試験。教官三名、正面。一音目、出ず。失敗。(三回目は、何も覚えていない。記録として不完全。)
> 四から十五。下宿の部屋。一人。同じ術式。すべて成功。
>
> 仮説一。喉ではなく、条件。部屋と試験場で違うのは、観察者の有無だけ。
> 検証の方法。観察者がいて、しかも、声を出さなければならない場所に、自分を置く。
> 学院の中には、そういう場所はない。
> 学院の外には、ある。
その下に、一行だけ、急いで書いたような斜めの字があった。
> 冒険者登録。四月。お母さんには、研究資金のため、と書く。半分は本当。
「退学の届けにも、そう書いてあった。半分だとは、知らなかった」
◇
頁をめくるたびに、ロウの知っている場所が出てきた。
> 十七。北の森、ゴブリンの巣。失敗。胸の上に乗られ、襟巻きを取られた。
> 十八。同。直後。成功。観察者:ロウさん。
> 仮説一、棄却。では、何が違った?
> (わたしは仰向けで、ロウさんがわたしを見ていた。条件を全部書き出す。肌着。床の冷たさ。ロウさんの荷が、ゴブリンの頭を――)
その先の三行ほどは、線で消してあった。ロウは、読まなかった。
あの日、ロウは、それを見ていた。見ていたことが、ここに書いてあった。
> 十九から二十六。大穴潜り、峠、依頼六件目から十件目。すべて成功。
> (成功が続くと、記録が短くなる。これは良くない傾向。次から直す。)
次から直す、の後に、記録はなかった。
> 仮説二。見られる恐怖と、殺される恐怖とでは、息の通り道への効き方が違う。
> (それなら、試験場に魔物を放せば、わたしは合格する。教官三名も死ぬかもしれない。倫理的に問題がある。)
隣で、ヴァルトの喉の奥が、短く鳴った。同じ行を読んでいたらしかった。笑ったのかもしれなかった。
> 仮説三。
その後ろは、何度も書いては消してあった。そこだけ紙が毛羽立っていた。
一番下に、消されていない一行があった。
> 仮説三。誰かのために出す声は、途切れない。
> (論文には書けない。検証の方法がない。)
ヴァルトは、長いこと、黙っていた。細い指が、一から三の行をなぞって、四から十五の行に移った。下宿の部屋。一人。すべて成功。
「……一人のときは、通っていたのか」
ロウに向けた言葉ではないようだった。
◇
頁の後ろ半分は、迷宮だった。爪の溝の幅。各層の温度と湿り気。最後の頁だけ、字が少し大きかった。
> わたしたちが、最初の記録者になる。
> (理論上は。)
裏表紙の内側に、折りたたんだ紙が二枚、挟まっていた。
一枚は、大きな、不揃いな字の手紙だった。
> セラへ。
> 研究はじゅんちょうですか。お父さんが、東の畑を売ったことは、気にしなくていいと言っています。お前が学院の先生になったら、村で一番の自まんです。体に気をつけて。のどを冷やさないように。
> 母より。
もう一枚は、セラの字の、書きかけの返事だった。
> お母さんへ。
> 研究は順調です。学院で
「学院で」の上に、線が引いてあった。
> 研究は順調です。今は、灰石の迷宮の深層の記録をとっています。学院の誰も知らない記録です。持ち帰れば、論文になります。
> 今度こそ、本当に。
昨日、ロウは、孤児院の院長に、トビが言い終えなかった言葉を、言い終えたことにして伝えた。セラも、嘘を書いていた。そして、それを本当にしようとして、七層まで降りた。
◇
「論文には、ならない」
ヴァルトが、言った。
「論文は、書いた者が審問の場で問いに答えて、はじめて論文になる。死んだ者は、答えられない。私が曲げられる決まりではない」
「だが」
ヴァルトは、手帳の後ろ半分を、指で叩いた。
「灰石の深層の頁は、学院の魔物誌で、五十年近く白紙のままだ。降りて帰る者がほとんどいない。帰った者も、道を書き残さない」
細い指が、止まった。
「これを、魔物誌に写す。記録者、セラ、と添えて。灰石の深層の頁を開く者は、皆、その名前を読む」
――わたしたちが、最初の記録者になる。
「……お願いが、あります」
声が、出た。
「お母さんに、手紙を、書いてもらえませんか。学院から」
ヴァルトが、ロウを見た。
「嘘は、書かない」
「嘘じゃ、ありません」
ロウは、出されなかった返事の、最後の一行を指さした。
「記録者として、名前が載るんですよね。学院の、記録に」
ヴァルトは、長いこと、その一行を見ていた。それから、机の引き出しから、新しい紙を一枚出した。
「学院の便で送る。母上の村は」
ロウは、手紙の裏を見た。東の街道の先の、ロッホという村だった。ロウの知らない村だった。
「手帳は、写し終えたら、手紙と一緒に送る。学院が持つのは、写しでいい。本人の字は、本人の家にあるべきだ」
ロウは、頷いた。
◇
帰りぎわ、扉の前で、ヴァルトがロウを呼び止めた。
「君は、聞いたのか。最後に。あの子の詠唱を」
「……はい」
「途切れたか」
空洞の反対側から、細く、まっすぐに届いた声。天井が、白く燃えた。
「途切れませんでした」
ロウは、言った。
「最後まで。遠くまで、通る声でした」
ヴァルトは、窓の外の中庭を見た。
「一度、聞いてみたかった」
◇
門を出たとき、日は傾きかけていた。
ロウは、門の脇の石段に腰を下ろして、自分の手帳を開いた。昨日書いた頁だった。
――トビさん。孤児院。届けた。
――セラさん。学院。明日。
「明日」の上に、線を引いた。その横に、書いた。
――届けた。
手帳を閉じた。
門の向こうで、中庭の詠唱が、一つずつ止んでいった。練習の終わりらしかった。
最後に、一人分の声が残った。
一音目で、その声が切れた。
間があった。息を一つ、吸って吐くくらいの、間だった。
声が、もう一度始まった。今度は、一音目が出た。細い声だった。二音目で揺れて、三音目で持ち直して、最後まで続いた。
ロウは、立ち上がった。荷を背負うときの癖で、肩を一度、揺すった。
肩紐は、なかった。軽い肩のまま、ロウは、宿のほうへ歩き出した。




