第十九章 縁の札
五件目の依頼書には、名前が並んでいた。
帰り場の帳面から、ギルドが写したものだった。十月の終わりから十一月の初めまでに、縦穴へ入って、上がってこなかった隊。その中で、三層か四層の縁に、まだ誰かが残っているらしい隊。
「縦穴の、三層と四層の縁。残っている者の札を、持ち帰ること。可能であれば、遺体も」
出張所の番の男が、読み上げた。
「四層までだ。記録係も、入れる」
新人編成の、最後の一件だった。
ミモザが、依頼書の名前の上に、指を置いていた。
一つずつ、小さく唇が動いていた。読んでいるのではなかった。祈っていた。
最後の名前まで来ると、ミモザは顔を上げた。
「……長い、ですね」
誰も、何も言わなかった。
◇
出張所の小屋の前で、自分たちも、補給の確認を受けた。
番の男が、ロウの荷の綱を、巻きごとに数えた。
「写しを」
ロウは、手帳を開いて見せた。
縁ごとの綱の長さ。二層から三層。三層から四層。
番の男は、指で行を追って、綱と見比べた。
「……あんたの手帳なら、間違いねえな」
番の男は、帳面に書きつけた。
「補給の確認、済み」
ロウは、その声を、黙って聞いていた。
小屋の脇の、樽の陰に、マルタが座っていた。
左脚を、板の上に投げ出していた。まだ、動かないらしかった。出張所の手伝いをして、食べさせてもらっている、と番の男が言っていた。
マルタは、ロウを見て、顎で縦穴のほうを指した。
「三層の縁」
それだけ言った。
「あたしが登ったとき、上から、誰かが覗いてた。灯りを、持って。……あたしが何も持ってないの見て、引っこんだ」
ロウは、頷いた。
「気をつけな。下手な字の人」
◇
三層の縁は、壁から張り出した岩棚だった。
幅は、八歩ほど。縁から壁まで、四歩。壁の真ん中より右に、横穴が一つ、黒く口を開けていた。
杭が、縁に沿って、何十本も打ってあった。
ほとんどは、切り株のように、綱を巻いていなかった。
下へ垂れている綱は、一本だけだった。
ロウは、杭を見て回った。
三本の杭に、綱の切れ端が巻きついていた。結び目から先が、刃物で切られていた。
切り口に、指を当てた。
白かった。
まだ、毛羽が立っていた。
「……新しいです」
ロウは言った。
「昨日か、今日です」
ダインが、杭を見た。
「綱泥棒ですか」
「たぶん」
ロウは、そう言った。
グレタが、横穴の口まで歩いて、中を覗いた。
「灯りの届くとこには、誰もいねえ」
ロウは、荷の底から、細い綱を一巻き出した。
縁から少し下がった、岩の割れ目を探した。手が入るほどの、深い割れ目があった。そこに、杭を一本、音を立てないように、手で揺すりながら押しこんだ。
それから、自分たちの本綱を縁の杭に結んで垂らし、縁の少し下で、細い綱を本綱に結んだ。荷運びの結び方で。上から見ても、縁の下の割れ目は見えない。
「……何、してるの」とノーラが言った。
「上で切られても、ここで止まります」
ノーラは、しばらくロウの手もとを見ていた。
「……用心深いね」
「荷運びなので」
◇
四層の縁は、三層の真下から、縦穴を四分の一ほど回りこんだところに、細く張り出していた。三層の縁の右の端から、綱で十五尋ほど下だった。灯りを下に向けても、縁は見えなかった。
降りたところに、綱が積もっていた。
三本。
とぐろを巻いて、縁の上に落ちていた。端の一つ一つが、白かった。毛羽が立っていた。
ロウは、一本の端を拾い上げた。
上の杭に巻きついていた切れ端と、同じ切り口だった。
遺体は、三つあった。
二つは、壁際に並んで座っていた。古かった。肉はもう、ほとんど残っていなかった。札は、首にかかったままだった。
ミモザが、二人の前に膝をついた。札を外す前に、祈った。それから、両手で、そっと外した。
三つ目は、縁から吊るされていた。
綱が、腋の下を回って、胸の前で結ばれていた。体は、縦穴の闇の上に、ぶら下がっていた。
裸だった。
靴も、なかった。
ロウは、縁に腹ばいになって、灯りを近づけた。
男の右の脛が、おかしな方へ曲がっていた。高いところから落ちた者の、脚だった。
手首に、縛られた跡があった。爪が、全部、剥がれていた。喉に、細い刃の跡が一本。
札は、なかった。
縁の端の岩に、何かを引きずった跡が、闇のほうへ続いていた。
大穴潜りではなかった。
大穴潜りは、裸に剥がない。札を持っていかない。手首を縛らない。
ミモザが、口を両手で覆った。
グレタが、低く言った。
「……戦場の後ろには、こういうのが、いつもいた」
グレタは、男の顔を見ていた。
「死んだのから剥ぐのは、まだいい。こいつは、生きてるうちに剥いでる」
グレタは、それ以上、言わなかった。
ロウは、手の中の綱の端を見た。
「……綱泥棒では、ありませんでした」
返事は、なかった。
ダインが、剣の柄に手をかけたまま、上の闇を見ていた。
帰るには、三層の縁を通るしかなかった。
ダインとグレタで、吊るされた男を引き上げた。
荷を包んでいた布を、男にかけた。
ダインは、男の手首の縛り跡から、目を離さなかった。
◇
ロウは、縁の端に立った。
四層の縁の、その下。
五層の闇が、口を開けていた。
綱が一本、下へ垂れていた。まだ下にいる隊の綱だった。灯りの届かないところまで、続いていた。
五層。六層。七層。
背中の荷に、綱が二巻き、入っていた。
縁ごとの長さは、手帳に書いてあった。二十尋まで、全部。
二日あれば、着く。
骨の山の上に、剣が一振り、落ちているはずだった。割れ目の口に、鋼の背中が座っているはずだった。三枚の札が、拾われずに、まだ、どこかにあるはずだった。
トビの。セラの。リーネの。
足が、縁の外へ、半分出ていた。
いつ出したのか、分からなかった。
爪先の下に、何もなかった。冷たい風が、靴の裏を撫でていた。
肩を、一つ、叩かれた。
止まれ。
ミモザだった。
ミモザは、何も言わなかった。ロウの肩に手を置いたまま、ロウと同じ闇を見ていた。
祈祷書を、胸に抱えていた。
ロウは、足を、縁の内側へ戻した。
ミモザの手は、ロウが戻るまで、離れなかった。
◇
ロウは、自分たちの本綱に体重をかけて、そっと、張りだけを確かめた。
上で、掛かっていた。切られていなかった。
ノーラとダインは、引き上げた男の遺体を背負子に縛って、四層の縁に残った。あとで、上から綱で引き上げる。
灯りは、覆いをかけて、ロウの腰に吊るした。
グレタが、先に登った。それから、ロウ。最後に、ミモザ。
三人が、同じ本綱の、上と、真ん中と、下にいた。
三層の縁まで、あと二尋だった。
ちり、と。
頭の上で、小さく鳴った。
自分たちの綱だった。降りたときには、鳴らなかった。
上で、灯りが動いた。
縁から、顔が一つ、覗いた。
灯りを、顔の横に掲げていた。灯りが、一瞬だけ、下を照らした。
ロウは、その顔を知っていた。
帰り場で、ミモザの柄杓を笑った男だった。
「……三人か」
男は、笑った。
「荷は、一つ。……しけてやがるな」
「上げたら、面倒だ」と、奥で、低い声が言った。「切れ」
刃が、綱に当たる音がした。
ぶつり。
体が、落ちた。
胃が、喉まで上がった。
下で、ミモザの悲鳴が聞こえた。
「――っ!」
グレタの怒鳴り声。
ロウは、綱を握ったまま、落ちた。
がくん、と。
腕が、肩から抜けそうになった。
止まった。
縁の下の割れ目の杭が、細い綱で、本綱をつかまえていた。
三人は、さっきより一尋低い所で、闇の上に揺れていた。張り出した縁の、陰だった。上の灯りは、ここまで届かなかった。
ミモザの体が、ロウのすぐ下で、揺れていた。
腰に回した綱が、胸の下まで、ずり上がって食いこんでいた。息が、詰まっていた。
「……っ、は……っ」
喉の奥で、短い息が、鳴っていた。
大きすぎる法衣が、綱に引かれて、まくれ上がっていた。汗で濡れた肌着の腹が、ロウの脛に触れた。熱かった。
ミモザの指が、本綱から、滑りかけていた。
ロウは、本綱を右の脚に巻きつけて、体を止めた。両手が空いた。ミモザの腰の綱を掴んで、引き上げた。荷から短い綱を出して、ミモザの腰の綱と、自分の腰の綱を、荷運びの結び方で一つにくくった。
ミモザの体が、ロウの体に、ぴたりと押しつけられた。顔が、ロウの首もとに埋まった。柔らかいものの重さが、ロウの胸にかかっていた。
速い鼓動が、直に響いた。どちらの鼓動なのか、分からなかった。
「記録係、さん……」
「動かないで。息を、細く」
ミモザの息が、少しずつ、細くなった。
上で、灯りが揺れていた。
「落ちたか」
「音がしねえ」
「底まで、遠いからな」
笑い声がした。
ロウは、上のグレタの足首を、手を伸ばして一つ叩いた。
止まれ。
グレタの足が、止まった。
それから、三つ。
行け。
グレタが、本綱を離して、縁の下の細い綱に手を移した。
大きな体が、音もなく、細い綱を登りはじめた。帰り場の夜、骨一つ踏まずに十歩を歩いた足だった。
割れ目の杭の上の、岩の出っぱりに、指が掛かった。
そのとき、少し離れた闇で、また、ちり、と鳴った。
もう一本の、垂れていた綱だった。
四層の縁に残ったノーラとダインが、その綱を登ってきているのだと、ロウは思った。
縁の上で、灯りが、そちらへ動いた。
「……おい。もう一本、鳴ってるぞ」
さっきの男が、縁から身を乗り出した。灯りが、男の顔と肩を、照らしていた。
風を切る音がした。
男の肩に、投げナイフが立った。
男が、悲鳴を上げて、のけぞった。灯りが、縁の上で転がった。
次のナイフは、岩に当たって、跳ねた。
縁の上で、誰かが叫んでいた。
グレタが、縁を越えた。
「てめえら」
唸るような声だった。グレタの声とは思えなかった。
「生きてるやつから、剥ぐんじゃねえよ」
縁の上で、何かがぶつかる音。骨の砕ける音。男の悲鳴。
ひとつの影が、縁の左のほうから、闇へ落ちていった。
刃が、一度だけ、上の灯りを返した。綱を切った男だろう、とロウは思った。
悲鳴が、下へ、長く尾を引いていった。
ロウは、数えていた。数えるつもりはなかった。
七つで、消えた。
ミモザが、ロウの首もとで、小さく言った。
「……主よ」
祈っていた。落ちていった男のために。
ミモザの体が、固くなった。
ロウは、ミモザの背中を、強く抱えた。
ノーラが、縁を越えた。すぐ後から、ダインが、腕だけで体を引き上げた。
縁の上で、剣が鳴った。
「動くな」
ダインの声だった。いつもの、丁寧な声ではなかった。
「……動いたら、斬ります」
◇
ロウは、ミモザを抱えたまま、縁に這い上がった。
縁の上に、男が二人いた。
一人は、ノーラのナイフを肩に立てて、岩の上で呻いていた。帰り場で笑った男だった。
もう一人は、壁際に膝をついていた。四十を越えた男だった。顎の下に、ダインの剣先があった。
男は、剣先を見ていなかった。
剣を握る、ダインの手を見ていた。
それから、ゆっくり、顔を見上げた。
「……坊ちゃん?」
低い声だった。「切れ」と言った声だった。
ダインの剣先が、下がった。
一度だけだった。指一本ほど。
男の口の端が、少し動いた。
「右の肩が、まだ、上がってますね。……教えたでしょう。構えたら、肩を落とせって」
ダインは、答えなかった。
剣先が、もとの高さに戻った。
「グレタさん。縄を」
ダインは、グレタから縄を受け取ると、剣を岩に置いて、自分の手で、男の手首を縛った。一度も、男の顔を見なかった。
ノーラは、壁際の男の顔を見ていた。
何も、言わなかった。
ロウは、ミモザを岩の上に下ろした。
綱をほどくと、ミモザは、そのまま座りこんだ。
法衣の裾を、震える手で、引き下ろした。
顔が、真っ赤だった。
それから、急に、ぼろぼろと泣きだした。
「こ、怖かった、です……」
「はい」
「落ちる、と思いました。……落ちたとき、主よ、って、言おうと、したのに、息が、なくて」
「はい」
「記録係さんの、綱が、なかったら」
ミモザは、それ以上、言えなかった。
グレタが、ミモザの頭を、大きな手で、乱暴に撫でた。
ノーラが、縁の杭のところへ行った。
ロウたちの、切られた本綱の、杭に残った切れ端に、紐が巻きついていた。骨と、錆びた鈴。
ノーラは、それをほどいて、手のひらに載せた。
ちり、と鳴った。
「……お屋敷の裏木戸にも、同じのが吊ってあった」
ノーラは、誰の顔も見ずに言った。
ダインは、何も言わなかった。
◇
横穴の奥に、剥ぎ取り屋たちの荷があった。
鎧が三つ。剣が四振り。籠手。帯。札が、六枚。
札の一枚に、四層で吊るされていた男の名前があった。
ロウは、その札を、自分の手のひらに載せた。
ミモザが、それを見て、両手で受け取った。祈った。
荷の一番下に、木の札が、束になって入っていた。
焼き印が押してあった。
野営地の、出張所の裏の、白い天幕。その入口の板と、同じ印だった。
買い取りの、引換えの札だった。
ダインが、それを拾い上げた。
長いこと、見ていた。
焼き印を、親指でなぞっていた。
「……ダイン」
ノーラが、言った。
二人きりのときの呼び方ではなかった。それでも、声は、それに近かった。
ダインは、答えなかった。
札の束を、懐に入れた。
それから、壁際に縛った男の前に、膝をついた。
「これは、どこで換えましたか」
丁寧な声だった。商家の声だった。
男は、ダインの顔を見て、少し笑った。
「坊ちゃんが、それを訊きますか」
「どこで、ですか」
「白い天幕ですよ。出どころなんざ、誰も訊かねえ」
男は、そこで、言葉を一つ置いた。
「……旦那は、なんでも買う」
言ってから、男は、口を閉じた。
ダインは、膝をついたまま、動かなかった。
◇
ロウは、縁の端へ行った。
まだ下にいる隊の、一本の綱が、垂れていた。
杭の根もとに、同じ紐が巻きついていた。骨と、錆びた鈴。
ロウは、膝をついて、それをほどいた。
鳴らないように、手のひらで包んだ。
綱を、一度だけ、見下ろした。
その隊は、何も知らないまま、いつか、この綱を登ってくる。
◇
野営地に戻ったのは、日が落ちてからだった。
縛った二人を、出張所に引き渡した。札を六枚と、四層の縁の二つの札。引き上げた遺体を、一つ。
番の男が、帳面に書いた。
「……五件目、済み」
ダインは、出張所の前に立ったまま、裏手の白い天幕のほうを見ていた。
灯りが、ともっていた。
中で、帳面を抱えた若い男が、何かを数えていた。
ダインが、歩きだした。
白い天幕のほうへ。
ノーラが、一歩、後を追いかけた。
それから、止まった。
ダインの背中を、見ていた。
投げナイフの柄に、指が触れて、離れた。
ロウは、出張所の灯りの下に、立っていた。
外套の内側で、トビの帽子が、胸に当たっていた。
ダインの背中が、白い天幕の入口の灯りの中に、入っていった。




