第三十五話 山南脱走
――山南が脱走した。
その事実が判明したことで、隊内は大騒ぎになっていた。
林太郎はその中で、静かに目を伏せていた。
(どうしても、あなたは脱走してしまうのだな……)
「ほ、本当なんですか……山南先生が脱走とは……」
平助が悲痛な声を上げた。
「何かの間違いではないか!?」
永倉も信じられないという様子で立ち上がった。
「……間違いはない。山南さんの荷物が全てなくなっている」
「そんな、どうして……だって、脱走は……」
土方から告げられた事実に、総司が顔を歪めた。その先の言葉は声に出なかった。
「脱走したら……たしか、切腹ですよね」
その中で、いっとう落ち着いた声を出したのは芳次郎だった。
「芳次郎!」
隣にいた河合が、たしなめるような声を出した。
「だって、事実でしょう。僕も新撰組の一員ですから、局中法度のことくらい知っていますよ」
芳次郎が何の躊躇いもなくそう言ってのけるのを見て、林太郎は思わず頭を抱えた。
(少しは空気を読めないのかこいつは……)
「しかし、近藤さん!山南さんだぜ!?試衛館の頃からの仲間じゃねえか!」
原田が近藤に詰め寄った。近藤は目を伏せたまま、腕を組んで黙り込んでいた。
「……芳次郎の言う通り、脱走は局中法度に反する。法度に背いた者は腹を切る。例外はない」
「近藤先生……」
近藤がはっきりとそう言い切ったのを聞いて、井上は掠れたような声を出した。
局長の近藤にそう告げられては、もう他の者も言い返す言葉はなかった。
「クソ!なんでこんなことになった!」
土方が拳を上げ、机を大きく揺らした。
「山南さんは、何か悩んでいたのだろうか……。俺は何も気づけなかった……」
「近藤さん、たとえそうだとしても脱走はねえだろ!あの人だって法度に背いた意味は重々承知のはずだ。何のつもりなんだ……!」
肩を落とす近藤を見ていられないというように、土方は顔を壁に向けた。
「おい、お前なんでそんな冷静なんだよ」
ふと、土方が林太郎に視線を向けた。
この場にいるのは、近藤、土方、そして林太郎だけだった。
「いや、別に……」
土方に疑惑の目を向けられ、林太郎は思わず言い淀んだ。
――言えない。前の人生でも、山南は脱走していたなどと。
「何か知ってんじゃねえだろうな」
土方は林太郎に詰め寄った。
「……知らん」
そう言いながらも、林太郎は思わず顔を逸らしてしまった。
「隠してんなら言えよ!!」
「おい、トシやめろ!」
声が大きくなった土方を見て、近藤が止めに入った。
「しかし近藤さん」
「林太郎、頼む。何か知ってるなら話してくれ」
近藤が林太郎に視線を移し、林太郎は静かに目を伏せて口を開いた。
「わからん。腕を骨折して復帰に苦労していたのは知っている。あとは伊東先生とは話が弾んでいたようだが、本当にそれだけだ」
――本当に、わからなかった。江戸の新徴組にいた頃とは違い、今度は山南の近くにいるはずだった。それでも、彼が脱走という大きな決断をした理由が、思いつかない。
「やっぱり伊東かよ……」
「そういう言い方をするな。まだわからんだろう」
唇を噛んだ土方を、近藤が宥めるような声を出した。
「それで、追手はどうする」
「……」
土方が尋ねると、近藤は腕を組んで考え込んだ。
「俺とトシは行けん。それで、信頼があって剣の腕も立つ者でなければならない」
「それなら一人しかいねえ」
土方はそう言うと、立ち上がった。
「ああ。林太郎、やはりお前に頼みたい」
(山南先生は何を考えているんだ……)
林太郎は落ち着かない表情を隠しきれずに、それでも馬を走らせていた。
林太郎は追手の役を引き受けたのだった。
――できれば、山南先生は逃がしたい。しかし、そんなことが果たしてできるだろうか。彼も、相当の覚悟で行動に出たはずだ。
林太郎は屯所を出発し、大津へと馬を走らせていた。山南の目的地である江戸は、大津から中山道と東海道の二つの道に別れる。
(道が別れる前に、山南先生をどうにか連れ戻せ、と言われたが……本当に大津にいるのだろうか)
しかし、林太郎の懸念は数刻後にあっさりと打ち砕かれることになる。
「やあ、林太郎。早かったですね」
大津へ着く前の道で、山南はいつもと変わらぬ様子で林太郎に話しかけてきた。
「……」
林太郎は思わず目を見開いた。少しでも逃げる素振りがあれば、見逃してやれた。しかし、山南の方から声をかけてくるとは――
「いったいどういうつもりなんです」
林太郎は山南に咎めるような視線を向けた。
「新撰組から脱走したらどうなるか、あなたも十分わかっているはずだ」
「ええ。脱走は法度に反する。そして、法度に反した者は腹を切る。
つまり、私は君に見つかってしまった今、腹を切ることが決まった訳だ」
特に表情を変えることもなく、淡々とそう話す山南を見て、林太郎は拳を握り締めた。
「ふざけるな!近藤先生が、トシが、皆がどんな思いでいたと思ってる!」
林太郎は山南の両肩を強く掴み、その瞳に強い視線を浴びせた。
「法度はあるが、誰もあなたに死んでほしいなどと思ってない。先生、あなたもわかってるはずだ。皆の思いを蔑ろに」
「それは、本当に申し訳ないと思っています。
……ですが、もう疲れたのです」
林太郎の言葉を遮って、山南は独り言のように静かに呟いた。
「腕を骨折してから、以前のように刀を振ることができなくなりました。だから、戦以外のことで新撰組にできることはないかと考えた」
山南の視線は林太郎から空へと移った。山南の瞳には、大空を自由に羽ばたく鳥の姿が映っていた。
「しかし、その矢先に彼が現れた」
「……伊東先生ですか」
山南は静かに頷く。
「彼は本当に素晴らしい人だ。初対面の時に少し疑ってしまったのが申し訳ないと思うくらいに」
山南の瞳はまっすぐだった。とてもじゃないが、切腹が決まった者の顔には見えない。
「新撰組に、私の居場所はもうない」
山南は空から視線を外し、林太郎の顔を見た。迷いのない表情だった。
「しかし、あなたは逃げるつもりはなかった」
「……」
林太郎がそう言い切ると、山南はわずかに表情を崩した。
――辻褄が合わない。本当に逃げるつもりなら、わざわざ自分から声をかけたりしない。
「……君の言うことは半分当たっているが、半分は間違っている。たしかに、私は新撰組から逃げるつもりはなかった」
「どういうことですか」
「……」
「話してください。あなたは皆の思いを踏み躙ったんですよ」
何かを隠している。そう思った林太郎は強い口調で山南を問い詰めた。
山南は黙ったままだったが、やがて観念したように口を開いた。
「伊東先生は、本当に素晴らしいお人だった。しかし、私は彼と親しくなりすぎた」
「それの何が悪いと言うんですか」
「……実は……」
山南は伊東との会話について林太郎に話し始めた。こんなことがあったと言う。




