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第三十話 松平容保



「永倉」


「林太郎か。入れ」


その夜、林太郎は一人で永倉のもとを訪ねていた。

永倉は狭い部屋で、ひとり壁に向かって正座していた。


「……」


二人の間に重苦しい沈黙が流れる。林太郎も黙ってその場に正座すると、永倉の背中を見つめた。


「山崎の件だが、俺と山南先生で半分ずつ渡すことにした。あの場では、トシがまた何か言い出すと思って黙っていた」


長い沈黙の末に、先に口を開いたのは林太郎だった。


「……そうか」


永倉はまだ壁を向いたままだ。林太郎はその背中に向かって再び口を開いた。


「池田屋のことも、黙っていて悪かった。その……」


「俺はお前に謝ってほしい訳じゃない」


永倉は独り言のようにそう呟くと、ようやく林太郎の前に座り直した。


「お前に適切な処罰を下すべきなのは、近藤さんだ」


迷いのない声だった。障子の向こうで、夜風の吹き抜ける音がした。


「それよりも、まだお前は何か隠しているな」


「……そんなことは、」


「芹沢先生を殺したのは、お前だな」


永倉の口からそんな言葉が出るとは思わなかったのか。林太郎は思わず、息を呑んでしまった。――まずい、顔に出た。


「……そうか。野口を逃がしたのも、お前か」


「いや……」


林太郎は否定しようとして、言葉に詰まった。

隠し通せたと思っていた。芹沢暗殺について話をしていた時も、永倉は一度もその場には呼ばれていなかった。


――この男は。わかっていて、知らぬ振りをしていたのか。


「……俺が腹を切って全て丸くおさまるなら、いくらでもそうするさ」


林太郎はついに観念していた。もう、今更何も言い逃れはできなかった。


「違う!」


永倉は林太郎の言葉に目を見開くと、林太郎の両肩を強く掴んだ。


「近藤さんだけではない。……俺も、お前を信じたいんだ」


永倉は何かを訴えるかのように、強い視線を林太郎に向けていた。


「……永倉、」


「しかし、林太郎。

……京に来てから、お前は変わった」


永倉は林太郎の肩から静かに手を離すと、立ち上がり障子を開け放った。夜風が部屋に入り込み、月光に照らされた庭が二人の目に映った。


「お前は今や新撰組になくてはならない存在だ。芹沢先生を粛清し、最後に残った野口も穏便に排除した。池田屋でも一番の戦果を上げた」


永倉は開け放たれた障子の横に立つと、夜空に浮かぶ月を見つめた。


「土方さんもお前がいて、助かっていることだろう」


「……」


林太郎は黙って、目の前に立つ永倉の背中を見た。永倉はとても腕の立つ剣豪である。しかし、頼りになるはずのその背中は、今は幾分か小さく見えていた。


「だが、俺は――昔のお前の方が、好きだった」


永倉は月から視線を外すと、林太郎の方を振り返った。その瞳はどこか寂しそうにも見えて、林太郎は唇を小さく噛んだ。


「……ここは、もう試衛館ではない。新撰組だ」


「ああ、そうだな。しかし、俺たちの始まりもまた試衛館だっただろう」


林太郎は黙り込んだ。――たしかに、その通りだった。あの道場を飛び出して京へ向かった時から、全てが始まっていた。


「俺は腹を決めた。新撰組をこのままにはしておけない」


そう言って部屋を後にする永倉を、林太郎は止めることができなかった。


――永倉。お前は新撰組ではなく、江戸へ行った方がよかったのではないか。


林太郎の心の声は口に出ることはなかった。








永倉は、原田や島田、齋藤と共に、会津藩主・松平容保へ新撰組の現状を訴える建白書を提出した。


それを読んだ容保は、「双方から直接話を聞くべきだ」と判断し、永倉たちには知らせぬまま、近藤も極秘に金戒光明寺へ呼び寄せていた。


「すみません、近藤先生。元はと言えば、俺のせいでこんなことになって」


「いや、林太郎のせいじゃない。これは局長である俺の責任だ」


近藤はそう言うと、静かに背筋を伸ばした。

本来、この場へ呼ばれたのは近藤一人だけのはずだった。しかし建白書の中で幾度となく林太郎の名が挙がっていたため、容保の意向で林太郎も同席することになった。


金戒光明寺の一室。

二人は会津藩士に案内され、松平容保が姿を現すのを静かに待っていた。


その時、廊下から足音が聞こえる。

近藤と林太郎は無言で目を合わせると、静かに頭を下げてその到着を待った。


「面を上げよ」


その声に、近藤と林太郎は顔を上げる。


(この方が……)


二人の目の前には、色白で端正な顔立ちの男が優しげな表情で立っていた。

何度か面識のある近藤とは違い、林太郎にとってはこれが容保との初対面である。


――会庄同盟。後に結ばれる会津藩と庄内藩のこの同盟が、奥羽越列藩同盟の始まりとなる。そして、やがて東北戦争の火種となることを、林太郎は知っていた。

奥羽越列藩同盟では裏切りも多く、最後まで徹底抗戦を貫いたのは庄内藩と、会津藩だけであった。


「建白書のことは聞いているな。近藤と……そなたが、沖田か」


「はっ。新撰組副長助勤、沖田林太郎にございます」


容保の視線が林太郎に移り、林太郎は再び頭を下げた。


「池田屋では随分な働きをしたと聞いた。ご苦労であった」


「身に余るお言葉にございます」


林太郎は、はっきり言って緊張していた。

比べるのは失礼だとは思いつつも、林太郎にとって「藩主」と言えば、どうしても庄内藩主の酒井忠篤のことが浮かんでしまう。彼はまだ十代半ばの子供だったが、目の前にいる容保はすっかり大人で、威厳も違う。


「もう少しで永倉たちもここに来るだろう。そなたらは隣室で待機しているといい。私が然るべき時に呼ぶ」


「はっ。この度は殿にご面倒をお掛けし、誠に申し訳ございませぬ……」


近藤が恐縮するように頭を下げるのを見て、林太郎も合わせて頭を下げた。


「些末なことだ。新撰組にここで瓦解されては、私も困るのだ」


容保は眉を下げて笑ってみせた。





しばらく近藤と林太郎が息を潜めて隣室で待機していると、永倉たちがやって来た。

永倉について来たのは原田、斎藤、島田、尾関、葛山であり、建白書に名を連ねたのはこの六人であるようだった。


「建白書は読んだ。そなたが永倉か」


「はっ。この度は恐れ多くも……」


永倉が話し始めたのを聞いて、隣室の近藤と林太郎は静かに目を合わせた。


つまるところ、永倉の要求はこうだった。

――局長・近藤勇は、禁門の変を終えてから、試衛館以来の情を優先するようになり、隊の規律を損ねている。このままでは新撰組はまとまらない。是非とも、会津公からも諭していただけないか、と。


「そなたらの要求もよくわかった。

……そういえば、今日は他にも客人がいるのだ。通してよいか」


容保は最後まで一言も挟まず、永倉らの話を聞き届けた後、静かにそう告げた。


「はっ、客人ですか……?」


永倉は突然の話題に思わず首を傾げた。


「入ってよいぞ」


襖が開かれると、そこには近藤と林太郎がいる。永倉たちは思わず息を呑んだ。


「なぜ、ここに……」


「私が呼んだのだ。……支度を頼む」


「はっ」


容保の傍に控えていた会津藩士が、その言葉一つで部屋を出て行った。


「私は新撰組に大いに期待している。これからも京の街を守ってもらいたいのだ。

今日は腹を割って話せ」


どこからともなくやって来た家臣たちが、永倉たちの前に酒を運んできた。


「ええっ、急に何!?ここで飲んじゃっていいの!?」


原田が場に似合わぬ明るい声を出した。


「原田さん、殿の前ですよ!」


島田がすかさず、窘めるようにそう言った。


「……」


永倉は黙り込んだまま、静かに近藤の目を見た。


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