第二十九話 禁門の変
「もう平気なのか、林太郎」
池田屋事件から、約一ヶ月後のことだった。
新撰組は九条河原にもう三週間以上陣を張っていた。
八月十八日の政変から、池田屋と、京をことごとく追い出された長州勢が、ついに兵を上げたのである。
御所の周辺にそれぞれ陣を構える長州勢とは、依然睨み合いが続いている。
「ええ、近藤先生。一月も休めば十分です」
林太郎は、池田屋で負った傷のため、他の隊士たちより遅れての陣入りとなった。
「林太郎!間に合ったか!」
隊に合流した林太郎を見て、連れ立ってやって来たのは原田と永倉だった。
「しかし、山南先生はやはり来られなかったか。残念だったな」
林太郎が一人でここにやって来たことで、永倉は山南の不参加を察したようだった。
「あれは無理ですよ。完全に折れてましたから。骨が」
近藤と共に京の地図をじっと見ていた山崎が、顔を上げた。
「……しかも利き腕らしいな」
永倉が神妙そうな顔をした。
「ええ。ここで無理をしては二度と刀を握れなくなりますからね」
山崎はそう言うと、小さく息を吐いた。
「お前がいてくれて助かったよ。世話になったな」
林太郎は山崎の方を見ると、軽く頭を下げた。
山崎は優秀な監察方でもあったが、また医者の倅としても新撰組でおおいに役目を果たしていた。
(この男がいなければ、復帰はいつになっていたことやら)
「いえ…。大したことはしていませんよ。
それより、あなたの生命力には驚かされました……」
山崎は苦笑いを零した。もう二度も死に戻りをしている林太郎にとっては、なんだか耳が痛いような言葉だった。
「しかし丁度いいじゃねえか。総司の足止め役にもなる」
話に割って入ってきたのは土方だった。言葉通り、この場に総司はいなかった。
――総司は労咳を患っていることを近藤と土方に打ち明けた。そして、しばらく隊務は休止することになったのである。
「ああ。今頃は屯所で囲碁でも打ってるところだろう」
林太郎は空を見上げた。快晴だった。
その時だった。
どん。
どん。
と地面を割るような音が響く。大砲の音だった。
「……南だ」
土方が静かに呟いた。その場の空気が一変し、張り詰めた。
「出陣!」
近藤の一声に、隊士たちも声を上げて一斉に立ち上がった。
新撰組は伏見で挙兵した長州藩兵を迎え撃つ大垣藩兵に合流し、共に戦った。
伏見の長州藩兵はあっという間に壊滅した。
戦いを終えた新撰組は、今度は堺町御門を目指し北上した。
「長州だ!逃がすな!」
堺町御門では越前藩兵と長州藩兵が激戦を繰り広げていた。
近藤の声に、隊士たちは刀を抜き走り出した。
(……昔を思い出すな)
林太郎も小さく息を吐くと、静かに刀を構えた。
天童、新庄、秋田――そして、矢島。
戊辰戦争で幾度となく駆け抜けた戦場が脳裏をよぎる。
このような野戦こそ、林太郎が最も戦い慣れた戦場だった。
(旧式の銃だな)
林太郎は銃を構える長州藩兵にも少しも物怖じせず、その弾が銃口を飛び出す前にさらりと斬り伏せた。
「うっ……!」
パン!
明後日の方向へ飛んだ弾丸の乾いた音だけがその場に響いた。
「……」
そうして長州藩兵を一人倒しても、林太郎は立ち止まらない。
今度は水の流れのように敵の刃をかわしたかと思うと、迷いなく喉元へ刃を走らせた。
一人、また一人と長州藩兵が倒れていく。
(玄蕃様と戦った日々が、こんなところで役に立つなんてな)
林太郎は酒井玄蕃の天使のような微笑みが目に浮かび、心の中で思わず苦笑した。
池田屋とは違う。林太郎は、意識せずとも自然に身体が動いていた。
「トシ、俺は目が悪くなったのかな」
「ああ!?こんな時に何だよ近藤さん!」
「林太郎が、総司に見えてきた……」
堺町御門でまたもや長州藩兵を壊滅させた新撰組だったが、休む暇もなく今度は天王山に攻め入った。
しかし、林太郎たちがそこで刀を抜くことはなかった。
真木和泉ら長州藩兵十数名は、自らの敗北を悟ると、なんと小屋に火を放ち自刃したのである。
「敵ながら見事な最期だ」
土方が燃え盛る炎を見つめながら呟いた。
「……ああ」
近藤は複雑な表情をしながらも、静かに頷いた。その瞳には赤々と揺らめく炎が映っていた。
「……こんなにもらったのか」
林太郎は思わず感嘆の息をもらした。
禁門の変の後、近藤は会津藩藩主である松平容保に呼び出されていた。
そして、恩賞として報奨金を持って帰ってきたのだった。
「ああ!殿が新撰組の働きを認めてくださったんだ」
近藤は嬉しそうに頷いた。
「こんな大金、どうするんだよ!」
そう言いながら目を輝かせるのは原田だった。
「近藤さんと話して、これは隊士たちにそれぞれ分け与えることにした」
「本当ですか土方さん!今隊士は何人いたっけ、一人何両になるのかな……」
「いや」
総司が指折り数え始めたのを、土方は遮った。
「これは池田屋の褒美だ。だから働きに応じて額はそれぞれ変える」
「と言いますと?」
集められていた新撰組幹部たちの表情がやや変わった。尋ねたのは山南だった。
「まず、事件に関与した隊士に十両。それから、池田屋に到着した順に額を分ける」
「じゃあ、一番に着いた兄さんと山南さんはたくさんもらえるってことだ。よかったね兄さん!」
総司は明るい表情で林太郎に顔を向けた。
どうやら、そういうことらしい。土方は肯定するように総司に頷いてみせた。
「みんなも、それでいいな」
「待て」
黙って話を聞いていた永倉がついに声を上げた。
「俺はまだ納得していない」
「永倉。いったい何がだ」
土方と永倉の視線が絡み合い、静かに火花を散らした。
「林太郎が指示を守らなかったことだ」
永倉はハッキリとそう言い切った。林太郎はそれを聞いて、静かに目を伏せた。
「たしかに林太郎は結果として池田屋を突き止めた。
しかし、無断で進路を変えたことも事実だ」
永倉の言うことも正論だった。その場に重い空気が流れる。林太郎は何かを言おうと口を開きかけたが、先に声を上げたのは土方だった。
「それは山南さんから説明があったろ。怪しい者がいたから追いかけたと」
「そんな嘘が通用すると思うか!」
永倉は大声を出すと、いよいよ立ち上がった。
「近藤さん、これでいいのか」
永倉は近藤に歩み寄っていった。
「永倉、」
「林太郎は試衛館の最古参だ。あなたにとって信頼できる人物なのはわかる。
しかし、その私情を隊に持ち込むのはどうだろうか」
「いや、そんなつも」
「私情?ハッ、笑わせるな」
近藤が否定しようとするのを気にもせず、土方は鼻で笑った。
「新撰組は結果が全てだ。林太郎が池田屋を突き止め、最初に戦った。それだけだ」
「……」
永倉は口を開かなかったが、その鋭い視線は確かに土方を捉えていた。
「……ちょっと、待ってください。先程の話だと…屯所に残った者たちは、報酬はなしということですか」
唐突に声を上げたのは監察方の島田魁という男だった。
「ああ。そうなるな」
「……では、山崎さんも?」
「当たり前だ」
至極当然のようにそう言ってのける土方を見て、島田の唇が震えた。
「どうしてですか!林太郎さんや山南さんを休まず看病したのは山崎さんですよ!
山崎さんがいなければ、二人は今頃どうなっていたことか…!」
島田が悲鳴のような声を上げ、林太郎と山南は思わず顔を逸らした。――その通りだ。
「たしかに山崎は隊のために尽くしてくれた。
しかし、それとこれとは別だ」
「どうしてですか、山崎さんはあんなに…!」
島田はなかなか引き下がらない。同じ監察方として、近くでその働きを見てきたからであろうか。
「ここで山崎だけに報酬を渡すとしたら――
それこそ、私情だ」
土方の強い口調に、島田はついに口を噤んだ。
「そうか。よくわかった」
島田と土方の会話を見ていた永倉はそれだけ言うと、一人で部屋を出て行った。




